yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

阿南惟幾(あなみこれちか)

2009-06-27 05:39:12 | 歴史
   

 昨今、明らかに過ちを冒してもそれを認識しようともせず、謝罪もせず、責任も取らない人が多く見受けられます。嘗て日本人には、このようなことは少なかったのではないでしょうか。<o:p></o:p>

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阿南惟幾陸軍大将は終戦の前夜に割腹自決をして責任をとりました。<o:p></o:p>

「一死以ツテ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」という書があります。これより以前に側近に語った言葉です。<o:p></o:p>

大君の深き恵みに浴みし身は言ひ遺すべき片言もなし<o:p></o:p>

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外務大臣 東郷茂徳は阿南を真に国を思う誠忠の人であったと言っています。阿南惟幾大将(1887-1945)は大分県出身、陸軍大学での成績は中程度でしたが中立的な立場を堅持し、また終始誠実な勤務ぶりが陸軍内で認められ、陸軍大将、大臣にまで昇りつめて終戦を迎えました。生前、昭和天皇は「あなん」と呼び信頼を寄せられていました。<o:p></o:p>

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もう一人、立派な陸軍大将 今村均(1886-1968)がいました。仙台市の出身で<o:p></o:p>

ラバウル戦線で7万の将兵を統率しました。玉砕をすることもなく、飢えさせることもなく、無駄に将兵を死地に向かわせることもありませんでした。将兵は今村大将の下におれば安心と言っていました。こうして終戦を迎えました。この後、この部隊は収容所で捕虜生活に入りましたが、今村大将の部下の将兵は収容所でも規律正しい模範的行動を取りました。今村大将は赦免されて日本に帰還してからは自宅の狭い一室を出ることなく、生涯謹慎生活を送りました。これが戦争の指揮官としての責任の取り方であるという信念によるものでした。<o:p></o:p>

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さわやかに生き、潔く身を処した戦争の指揮官に対して敬意を新たにすると共に、こうした美しい生き方が今ではあまりに遠くなったことが寂しく思われます。<o:p></o:p>

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お礼

2009-06-26 06:31:56 | 近況
   

いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。<o:p></o:p>

お蔭さまで、昨日、アクセス数が5万に到達いたしました。<o:p></o:p>

平成18年の3月に書き始めてから約3年余になりました。<o:p></o:p>

この間に50,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。<o:p></o:p>

引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々に

コメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。<o:p></o:p>

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隠岐島

2009-06-24 06:51:34 | 歴史
   

隠岐島は島根県の北にある小さい島で、現在隠岐郡 隠岐島町の名がついており、人口約1万6千人が住む島々の総称です。産業は隠岐牛の牧畜と観光で、日本ではここだけに黒曜石が採れるということです。島根県側から見て、手前の西ノ島と中ノ島と知夫里島(ちぶりじま)をまとめて島前(どうぜん)、奧の方にある隠岐の島を島後(どうご)と呼んでいます。平安時代に隠岐道とか「道前」「道後」とも言われた名残で、「どうぜん」「どうご」というように、「ど」と濁って発音します。日本史に度々登場しますが、貴人の流刑の地として有名です。<o:p></o:p>

最初の流人は柿本躬都良(みつら)です。躬都良は柿本人麻呂の子供で、父を凌ぐ神童と言われ、歌人で学者でしたが、686年に大津皇子の謀反の騒ぎの余波を受けて隠岐に配流されました。2年後にわずか23歳で他界しました。<o:p></o:p>

二番目は参議・小野篁(おののたかむら)です。小野篁は嵯峨天皇の時代に副遣唐使に任じられましたが、勅命に逆らうようなことがあったために、天皇の勘気に触れて、838年に配流の身になりました。しかし2年後には赦免されています。なお篁は小野小町の祖父にあたり、百人一首にも小野篁の歌があります。<o:p></o:p>

  あまのはら八十島かけてこぎ出でぬとひとにはつげよあまの釣り舟<o:p></o:p>

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三番目は後鳥羽上皇です。後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子で歌人としても優れ、藤原定家に「新古今和歌集」の選集を命じたりしています。承久3年(1221年)、上皇は北條義時追討の院宣を発して近畿の兵を集めました。これが「承久の変」です。しかし上皇軍は幕府の大軍に敗れ、わずか1ケ月の後に、上皇は出家させられ隠岐島に流されました。臣下の源氏の、またその家来の北条氏に敗れて配流されたことはさぞ、憤懣やるかたないことだったでしょう。上皇は敗れてもなお意気軒昂たるところがあり、隠岐に渡る舟路で、あまりにも海が荒れたために海神を怒って次の有名な歌を詠みました。<o:p></o:p>

  われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け<o:p></o:p>

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また、勝田の池で鳴く蛙がうるさくてよく眠れないということで上皇が詠まれた歌もあります。<o:p></o:p>

蛙(かはず)鳴く勝田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音<o:p></o:p>

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この歌が詠まれた後、蛙が鳴くのをやめたという伝説があります。<o:p></o:p>

次の歌は上皇が隠岐にあられた時、昔詠んだ歌を思い出したもので、「百人一首」に採られています。<o:p></o:p>

 ひとも惜しひとも恨めし味気なくよを思ふゆゑにものおもふみは<o:p></o:p>

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なお上皇は隠岐で「遠島百首」を遺されましたが、配流19年目に60歳で崩御されました。<o:p></o:p>

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四番目は後醍醐天皇です。後鳥羽上皇配流の約100年後(1332年)に後醍醐<o:p></o:p>

天皇は政争に敗れて隠岐に流されましたが、この天皇はすぐに隠岐を脱出して因幡に渡り、ついに「建武の中興」を成功させました。<o:p></o:p>

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隠岐島は西海に浮かぶ小さな島ですが、日本史に於いて貴人・要人と深く関りのあった島でした。<o:p></o:p>

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コメント (2)
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レアメタルとレアアース

2009-06-21 06:09:06 | 科学
   

レアメタルは希少金属、レアアースは希土類元素で、どちらも地球上には希少ですが、産業、特にハイテク分野には無くてならない重要物質です。<o:p></o:p>

レアメタルはタングステン(W)、タンタル(Ta)、モリブデン(Mo)、チタン(Ti)、ニッケル(Ni)、プラチナ(Pt)、パラジウム(Pd)、クロム(Cr)、ニオブ(Nb)、コバルト(Co)、リチウム(Li)、インジウム(In)などです。<o:p></o:p>

 クロムとニオブは車体の鋼板に用いられ、プラチナとパラジウムは排<o:p></o:p>

ガス浄化装置、リチウム、ニッケルは電池に、インジウムは液晶パネルに用いられています。<o:p></o:p>

 一方、希土類元素(rare earth elements、レアアース)は元素番号57の<o:p></o:p>

ランタン(La)から元素番号71のルテチウム(Lu)までの17元素、ランタノイドとスカンジウム(Sc)、イットリウム(Y)のことです。身近な用途では<o:p></o:p>

 医療用品(レントゲンフィルム)、永久磁石、ガラスの研磨剤、発色剤、超小型レンズ、蛍光灯、磁気ディスク、人口宝石、水素吸蔵合金、セラミック包丁、発火合金、光ファイバー、レーザーなど、多方面に使用されています。<o:p></o:p>

 これらのレアメタル、レアアースの主な産出国が中国、ロシア、南ア連邦、オーストラリア(西オーストラリア州)などに限られており、日本は主要な消費国です。希少で有用な物質であるため、算出国は戦略物資として厳重に管理しているようです。従って、将来の安定確保に困難が懸念されます。<o:p></o:p>

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電気自動車

2009-06-18 06:42:56 | 文化
    

ガソリン・エンジンではなくて、電気とモーターで動く自動車が電気自動車(EV)です。ハイブリッド自動車は電気とガソリンを両方使います。ガソリンを全く使わない電気自動車はCO2の排出がゼロですから究極のエコカーと言えます。<o:p></o:p>

電気自動車はエンジン自動車と比べて、エンジンとトランスミッション(車輪に動力を伝える機構)が無いので部品点数が圧倒的に少なく、車体設計の自由度が高く様々なデザインが可能です。しかし大容量のバッテリーを積む必要があるのがほとんど唯一の欠点です。一方、大バッテリーを個々の家庭で持つことから多くのメリットが期待されます。太陽電池や風力発電で得られた電気、夜間電力を利用した電気をこのバッテリーに蓄電することもできます。将来の画期的な送配電システムであるスーパー・グリッド(アメリカではスマート・グリッド)を構築する場合にバッテリーは重要要素です。<o:p></o:p>

  日本は個々の車部品やそれらの組み立てやバッテリーなどに高い車技術を持っていますので、電気自動車、スーパー・グリッドの分野で世界の最先端を走ることができる潜在力があります。ですから日本も長期ビジョンのもとに、官民が協力して取り組むことにより、環境問題で世界の先頭に立って環境立国となる可能性を秘めていると思われます。<o:p></o:p>

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月と文学

2009-06-12 06:20:32 | 文学
   

花鳥風月という言葉があるように、古来、月は文学の題材に<o:p></o:p>

なって来ました<o:p></o:p>

兼好法師は「徒然草」第百三十七段において「花は盛りに、月は隈無きをのみ、見るものかは」と言っており、ひとつ満月のみが賞でる月の姿では無いとしています。<o:p></o:p>

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月に関する漢詩も多くあります。<o:p></o:p>

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蛾眉山月の歌          李白<o:p></o:p>

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蛾眉山月半輪の秋<o:p></o:p>

影は平江水に入りて流る<o:p></o:p>

夜清渓を発して三峡に向かう<o:p></o:p>

君を思えども見えず洲(ゆしゅう)に下る<o:p></o:p>

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 「静夜思」 (李白)<o:p></o:p>

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前月光を看る<o:p></o:p>

疑うらくは是地上の霜かと<o:p></o:p>

頭(こうべ)を挙げて山月を望み<o:p></o:p>

頭(こうべ)を低()れて故郷を思う<o:p></o:p>

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李白には月を賦した詩が数多くあり、この風流人は長江に舟を浮かべて遊んだ時、水面に映った月を取ろうとして誤って舟から落ちて命を落としたという逸話があります。(捉月の故事)<o:p></o:p>

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「赤壁賦」(蘇軾)より抜粋<o:p></o:p>

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明月の詩を誦し窈窕の章を歌う<o:p></o:p>

しばらくして月東山の上に出で斗牛の間に徘徊す<o:p></o:p>

客曰く<o:p></o:p>

月明らかに星稀に烏鵲(うじゃく)南に飛ぶとは<o:p></o:p>

此れ曹孟徳の詩に非ずや<o:p></o:p>

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まことに壮大な文章です。<o:p></o:p>

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翻って我が国に於いては、明治元年 山本八重子が鶴ケ城開城の夜に詠んだ和歌は、落城の無念を三の丸の白壁に簪で彫りこんだ一代の絶唱です。<o:p></o:p>

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明日の夜はいつこの誰がなかむらん慣れし大城(おしろ)に残す月影<o:p></o:p>

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後に土井晩翠はこの鶴ケ城を訪れて、名詩 荒城の月の想を得ました。<o:p></o:p>

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   春高楼の花の宴 めぐる盃影さして<o:p></o:p>

   千代の松が枝わけ出でし むかしの光今いづこ<o:p></o:p>

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   秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて<o:p></o:p>

   植うるつるぎに 照りそひし むかしの光今いづこ<o:p></o:p>

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   いま荒城のよはの月 変らぬ光たがためぞ<o:p></o:p>

   垣に残るはただかづら 松に歌ふはただあらし<o:p></o:p>

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   天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿<o:p></o:p>

   写さんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月<o:p></o:p>

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邪馬台国 畿内説有力となる

2009-06-07 06:26:37 | 歴史
  

卑弥呼が統治したという邪馬台国が畿内にあったか北九州にあったかは、長い間、古代史の研究テーマになっており、論争の的になって来ました。<o:p></o:p>

最近、卑弥呼の墓と推定されていた箸墓古墳の成立年代が、卑弥呼が他界した年(248年)に近い3世紀後半とされる科学的データが提示されたことにより、邪馬台国畿内説が俄然、有力視されるようになりました。<o:p></o:p>

そもそも「日本書紀 崇神紀」によれば、卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫(やまと とひももそひめ)は第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇の叔母にあたるとされています。崇神天皇は「はつくにしらす」と言われ、実在した最初の天皇ではないかと推測されています。<o:p></o:p>

ところで中国、三国時代の史書「魏志倭人伝」には、卑弥呼の死について次のように記してあります。「卑弥呼以ツテ死ス。大イニ冢(ちょうヲ作ル。径百余歩。殉葬スル者、奴百余人。」<o:p></o:p>

冢は墓のことであり箸墓古墳の前方後円墳の円噴部の直径は約100mですから、「魏志倭人伝」<o:p></o:p>

の記述、径百余歩と符合しています。また、「三国志」には卑弥呼が家来の難升米を魏王に派遣したので魏王は「親魏倭王」という仮の金印と銅鏡100枚を授けたという記述があり、卑弥呼と中国の交流が伺えます。<o:p></o:p>

 箸墓古墳の年代について歴史民族博物館の研究グループが最近、次のようなことを発表しています。箸墓古墳の周辺から出土した土器、「布留0式土器」16点に付着している炭素に対して放射線年代測定を実施した結果、土器の製作年代が240-260年であるというものです。また樹木の年輪年代測定も併用してこの結果を補強しました。この測定結果と卑弥呼の死亡年代が一致することから<o:p></o:p>

箸墓古墳は卑弥呼の墓であり、邪馬台国畿内説は極めて有力になったとの見方<o:p></o:p>

がされるようになりました。<o:p></o:p>

なお、箸墓古墳を発掘調査することができれば、中国から渡来した銅鏡などが発見されるかも知れません。しかし、天皇家の陵墓は宮内庁の書陵部の管轄であるため、発掘が許可される可能性はまず無いと言われています。それにしても、目的が学術調査という研究事業ですから旧来の陋習を越えて調査が許可されてもいいのではないでしょうか。<o:p></o:p>

   <o:p></o:p>

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ゲームとコンピューター

2009-06-04 07:03:46 | 将棋
  

パソコンソフトが名人に勝つことは、コンピューターのプログラムを作る者にとっては夢です。近年、パソコンの機能が大変向上して来たので、パソコンが名人に勝つ日も遠くはないのではないかとと予感されます。<o:p></o:p>

現在、コンピューターの力がどの程度かと言うと、チェスでは、1997年にIBMの「チェス対局専用機」がチェスの世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破りました。(このIBMのコンピューターは1秒に2億手も先読みができます。)<o:p></o:p>

囲碁ソフトはアマ3段程度、将棋ソフト「ボナンザ」は2008年に渡辺明竜王に善戦しており、現在の最強ソフトはアマ六段程度と言われています。<o:p></o:p>

 さて、種々のゲームにおいて、任意の場面で考え得る局面数は次の通りです。<o:p></o:p>

    オセロ      10の 60乗<o:p></o:p>

    チェス      10の120乗<o:p></o:p>

    将棋       10の220乗<o:p></o:p>

    囲碁       10の360乗<o:p></o:p>

    数独の正解盤面  10の 20乗<o:p></o:p>

この数値とソフト作りの困難度はほぼ比例していると考えられます。<o:p></o:p>

しかし最近、「モンテカルロ法」という手法がこの分野に導入されたことにより、最も難しいとされる囲碁ソフトが飛躍的に強くなったと言われています。<o:p></o:p>

 こうしたソフトを作ることは人間の知的好奇心を満足させるものであり、最強の方法を模索するのは学問的な仕事でもあり、大学では情報工学において研究テーマの一つにもなっているようです。反面、生身の人と人が対戦する勝負の面白さを楽しむ機会が減ることにもつながります。時と場合を考慮して、コンピューターとの対戦を楽しむような、ゆとりのあるパソコンの利用が好ましいのではないでしょうか<o:p></o:p>

 ところで「モンテカルロ法」とは、ジョン・フォン・ノイマンにより考案された手法で、世界のカジノの本場、モナコの都市の名前が付けられています。これは乱数を使った一種の強制学習法で、行動によって得られた経験(報酬)だけを使って、次の状態価値、行動価値を推定する方法です。これには厖大な計算をする必要があり、人間が長い手数の詰将棋を直感で瞬時に解くような問題解決にはあまり向かないと言われています。ですから目標に到達する一筋の細い道を直感的に選ぶ必要がある将棋の一分野においては、コンピューターより人の方が優位に立つことができるのではないかと思われます。<o:p></o:p>

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