yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

銀行業者の心得 澁澤榮一

2021-03-30 05:48:05 | 文化
澁澤秀雄著「澁澤榮一」に澁澤が日頃、肝に銘じていた「銀行業者の心得」
が書かれています。

明治五年に大蔵省の雇用した英人アラン・シャ-ドは日本の銀行業務や貨幣制度に大きな貢献をしたが、彼の著「簿記精法」の中にイングランドバンク重役ギルバ-トの示した「銀行業者の心得」という四か条があげてある。銀行業者榮一の服膺(ふくよう)した教えの一つだが、社会全般の事業に通じた鉄則だと思う。みな「銀行業者は」という言葉で始まる。

一、 丁寧にしてしかも遅滞なく事務をとることに注意すべし。
二、 政治の有様を詳細に知って、しかも政治に嘴を入れるべからず。
三、 その貸しつけたる資金の使途を知る明識あるべし。
四、 貸し付けを謝絶して、しかも相手方をして憤激せしめざる親切と雅量を 持つべし。
 
 澁澤秀雄「澁澤榮一」 実業之日本社


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「荒城の月」のモデル(再掲)

2021-03-27 06:39:15 | 文学
日本を代表する歌の一つ「荒城の月」は、明治34年(1901)に土井晩翠(1871~1952)作詩、瀧廉太郎(1879~1903)作曲により完成しました。この歌詞のモデルとなった城はどこか、多くの説があります。中でも次の5説が有力です。
1.岡城 大分県竹田市、瀧廉太郎の故郷
 2.富山城 富山県富山市、瀧廉太郎が少年期を過ごした地
 3.青葉城 宮城県仙台市、土井晩翠の故郷
 4.七尾城 石川県七尾市、上杉謙信がこの場所で、漢詩「九月十三夜」を賦しました
 5.鶴ヶ城 福島県会津若松市 土井晩翠が感銘を受けたという城です。

 「白虎隊記念館」を創立した早川喜代次(若松市)が旧知の土井晩翠夫妻を会津に招待したことがありました。(1946)戦後の荒廃とした雰囲気の残る中、何か明るい話題で暗いム-ドを一新しようと考え、晩翠夫妻を迎えて「荒城の月48周年記念音楽祭」を開催したのです。11月3日に参加者、数千名が「荒城の月」を大合唱した後、土井晩翠が次のようにスピ-チをしました。
 「今、皆さんが歌ってくださった荒城の月の基は、皆様方の鶴ヶ城です。」
 晩翠が東京音楽学校の依頼を受けて「荒城の月」を作詩したのは明治31年(1898)、28歳の時。真っ先に思い浮かべたのが、数年前に、二高の修学旅行
で会津を訪れた際に間近に目にした鶴ヶ城の美しくも悲しい荒城の姿だったのだと、語りました。もちろん、故郷の青葉城をはじめ、今まで訪れた事のある城も思い浮かべはしましたが、心を最も動かしたのは、たった一度きりの鶴ヶ城の鮮烈な印象だったのです。

栄枯盛衰の城を語る時、鶴ヶ城は、それにふさわしいと不肖も思います。

 ちなみに、岩波書店によれば、土井晩翠のふりがなは、「つちい ばんすゐ」です。




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天意 夕陽(せきよう)を重んず   澁澤榮一

2021-03-24 05:59:41 | 文学
澁澤榮一が座右の銘にした言葉です。

 天意 夕陽を重んず 人間 晩晴を貴ぶ  (写真 下)

 澁澤榮一曰く、人に重んずべきは晩年
“古人の詩にも「天意重夕陽 人間貴晩晴(天意夕陽を重んじ、人間晩晴を貴ぶ)」といふ句がある。この詩句の意味は、
一日のうちでもっとも大事なものは夕刻で、日中どんなに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨であったかのごとく感じられるように、人間も晩年が晴々した立派なもので無いと、つまらぬ人間になってしまうものだ”



   




     
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仰げば尊し

2021-03-21 06:53:45 | 文学
嘗て卒業式の定番として唱われた「仰げば尊し」は胸にしみる良い歌です。この歌の作詞・作曲は共に不詳ですが、スコットランド民謡であり、この歌を小学唱歌に入れた伊沢修二の作という説もあります。格調高い歌詞は次の通りです。
1.仰げば尊し 我が師の恩
    教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
    思えばいと疾(と)し この年月(としつき)
    今こそ別れめ いざさらば
2.互(たがい)に睦みし 日ごろの恩
   別るる後(のち)にも やよ忘るな
   身を立て名をあげ やよ励めよ
   今こそ別れめ いざさらば
3、朝夕馴(なれ)にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば
2番に「身を立て名を上げやよ励めよ」とありますが、立身出世主義を嫌った時代もあり、2番を省略して唱われたこともありました。
私は元の歌詞の方が良いと思います。身を立て名を挙げる気概を持つことは良いのではないでしょうか。
ところで伊沢修二(1851-1917)は高遠藩士の家に生まれ、藩校・進徳館の秀才でした。上京して大学南校(現、東京大学)に学び、その後、文部省に出仕しアメリカに留学しました。帰国後、1879年に東京師範学校の校長になり、音楽取調掛(現、東京芸大)として「小学唱歌集」を編纂し、日本の音楽教育に大きな足跡を残しました。「小学唱歌集」の中には「仰げば尊し」や「てふてふ てふてふ 菜の葉にとまれ」の歌詞で有名な「蝶々」もありました。なお「仰げば尊し」は旧仮名遣いでは「あふげばたふとし」となります。
明治の始めに、団琢磨、金子堅太郎、伊沢修二等、多くの留学生がアメリカにいました。留学生の一人、団琢磨 (後に三井財閥の総帥) はボストンのマサチューセッツ工科大学で鉱山学を修めていましたが、 1876年、同大学の教授アレキサンダー・グラハム・ベルが電話を発明し、その公開実験が学内で行われることになりました。 そこで、団は、近くにいる留学生仲間にも見に来ないかと誘いました。 大勢の人たちが集まると、ベルは大講堂の端から端へ電話線を張り、 実験を行いたい希望者は申し出てもらいたいと告げました。 真っ先に飛び出したのが、同じボストンのハーバード大学で学んでいた金子堅太郎 (後に枢密顧問官) と 伊沢修二 (後に東京音楽学校長) でした。

 伊沢が 「金子君聞こえるか」 と呼びかけ、金子が 「伊沢君、よく聞こえる」 と答える。 それを聞いていた伊沢は、「不思議だ、不思議だ。実に良く聞こえる」 と日本語で独り言を云う。 金子の耳にそれが聞こえる。 金子は、「伊沢、この機械は素晴らしい。日本語も聞こえるぞ」と、興奮して、素頓狂な声で云ったので、 他の日本人留学生がどっと笑った。しかし、米国人たちは何がおかしいのやら判らず、厳粛な顔をしていた。このエピソ-ドは、電話で初めて行われた会話は、日本語であったという歴史事実でした。
  「情報通信概論 「日本電話事始め」

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弘道館に梅花を賞す 徳川景山(再掲)

2021-03-18 06:19:51 | 文学
水戸藩九代藩主 徳川斉昭の七言絶句です。

弘道館賞梅花

弘道館中千樹梅
清香馥郁十分開
好文豈謂無威武
雪裡占春天下魁

弘道館ニ梅花ヲ賞ス

弘道館中千樹ノ梅
清香馥郁十分ニ開ク
好文豈ニ威武無シト謂ハンヤ
雪裡春ヲ占ム天下ノ魁

 「訳」

弘道館の中にはおよそ千株もの梅の木がある。その梅はいま満開で、清らかな香りがぷんぷんとあたりに漂っている。昔、晋の武帝が学問を好むと梅の花が開き、学問をやめると咲かなくなった故事から、梅を好文木と称するようになったというが、その一面、武の威力が梅にないといえようか。あのきびしい寒中に雪を冒して独り咲き出でて、天下の春のさきがけをなすのは、まさにこの花である。


「鑑賞」

石川忠久先生によれば、
単なる観梅の詩ではなく、烈公みずから企画設計した弘道館に、その教学の大方針の象徴として植えた梅に対する感慨である。起句・承句は実景であるが、転句では力強く文武兼備
の理想をいい、結句は叙景をかりて、現下の難局と将来の明るい希望をのべ、みずからそのさきがけたらんとする決意を暗示している。

「吟剣詩舞道漢詩集 絶句編」 日本吟剣詩舞振興会編
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国号 考

2021-03-15 07:17:43 | 文化
日頃、考えたこともないのですが、国号「日本」は独立国の名称として不適切だという論考があります。東京大学名誉教授の渡辺浩氏の主張です。

   理由 第一
「この国号は、この国固有の言葉」ではない。外国語である。この国は自称に自国語を用いず、わざわざ隣国-中国-の言語でみずからを呼んでいるのである。この国号は中国文字(いわゆる「漢字」)で表記され、中国音(いわゆる)音で発音される。なお、「ニホン」は、この地の言葉の影響を受けてなまった発音であり、「ニッポン」の方が原音により近い。NHKのアナウンサ-などは、必ず「ニッポン」と発音しているようだが、それは中国の原地音に、より忠実に発音しようという立場であるわけである。

   第二 仮に、この国の言葉による名称が無いならば、外国語を利用するのもやむを得ないかもしれない。しかし、例えば、「みずほのくに」「やまと」「おほやしまくに」「あきつしま」「あしはらのなかつくに」等、洋々な土着の名称があるのである。(「ひのもと」は「「日本」を訓読みした言葉であって、土着の言葉ではない」。しかも、「かな」という(中国文字が基であるとしても)独自の文字もある。

   第三 「日本」とは日の出る方角、つまり東方にあることを自認した名称である。しかし、南北と異なり、東西は相対的である。世界のどの国も、西とも東とも中央とも言える。そして太陽はこの列島から見ても、はるか東から昇る。にもかかわらず、「東の国」と自己規定しているのは、なぜなのか。それは、無論、この列島から見てすぐ西方の大陸を世界の中心-中華-と認めたからであろう。我が国、あるいは我が王朝は、そちらから見て東の方角の周辺です、と認めたのである。それ故に、八世紀初め、「中華」の王朝(そちらは、決して「西の国」だとは自称しない)も、それを、従来の「倭」に代わる正式国号あるいは王朝名として、速やかに承認したのであろう。以上のように、形式からしても、意味内容からしても、中国を意識し、中国に依存し、見方によっては中国に媚びたような国号を、この国では現在に至るまで使用しているのである。
       論者は、この主張に論理的に反論することは多分難しだろうと自信満々です。
      また、今更、国号を変更することは現実的ではない、という意見が多い  だろうという事も認識されています。
      イギリスの正式名称は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王 国」と長いことでもあり、不肖は、古事記や日本書紀にある「とよあしはらのみずほのくに」も立派な国号候補ではないかと思います。オリンピックで自国を応援する場合には長い名称は不都合ですが。

         渡辺浩 「學士會会報No.947 2021-Ⅱ






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真に信頼できる人間

2021-03-12 05:49:31 | 文化
思わず本性が現れる心に残るエピソ-ドがあると、会田雄次氏が書いています。

 忙しい最中の会社である。課長が何かの用事で席をはずした。鬼の居ぬ間ということで、みんなスト-ブの前に集まってプロ野球か競馬かの話に夢中になっている。そこへ突如その恐ろしい課長が入ってきた。そのときの各人の対応の仕方である。
「じゃあ、明日のその会合のこと、打ち合わせた通りにやってくれよ」という風に、仕事のことを話していたようにうまく逃げる人間・・・A。.
「バレたあ」笑いながら頭をかきながら机に戻る男・・・B.。
「課長、すみませんでした」と率直にあやまりさっと仕事にとりかかる男・・・C.。
強情を張って、なおしばらく雑談を続ける人間・・・D。
「課長、課長もこんどの有馬記念、ハイセイコウだと思われますか」と課長も雑談にまきこもうとする心臓男・・・E.
バツが悪そうな顔をしてもぞもぞと仕事に戻る男・・・F.。
自分だけ雑談に加わっていなかったような顔をして、黒板をながめメモに何やら書きこんでいる男・・・G.

もし貴方が課長だったら、どのタイプの人間を一番信頼できると思い、どれを不可と思いますかというのが問いである。人々が良としたのは圧倒的に率直に謝る人間Cであった。嫌いなのはまちまちだが、主流としては二種ある。強情を張る男とうまくごま化すのとだ。ところで面白いのはこの教訓の解答である。あまり頼りにならないほうの人間はまあどうでもよい。問題は信頼できる人物の鑑別法だろう。何しろ人材が切に求められる世の中だからである。解答は殆どの人が支持した率直反省男Cをしりぞける。私もそれに同感するので、私なりの解説をつけ加え「正解」を出してみよう。Cは本当に反省したのだろうか。鬼の居ぬ間にちょっとサボることは人間性の常である。もちろん課長-使用者のほうは大いに腹を立てるだろう。織田信長は厳罰をもって臨んだ。それにしても、サボりたいのは男女を問わず勤め人のふつうの感覚である。見つかったらしまったとは感じるだろうが、心の底から悪かったと思うものではあるまい。昔の人はそういう時の感情をバツが悪いとか、きまりが悪いという適切な言葉で表現していた。その感情を表現するのに「課長、すみませんでした」というのは大げさすぎる。一見正直で良心的なように見えるが、内実は偽善者的ハッタリ店であろう。うまくごま化した男と同種の人間だともいえる。この場合は率直にみえるし、またそういう側面もあるが、他の場合はそうは行かない。自分の正当性とか働きとかを大げさに主張するだろう。損害を誇大にいいふらしたり、他人のけなし方もひどかろう。人の弱点にたくみにつけ入る性格を持っている。本当に信頼できる男は、いたずらを母親に見つけられた子供のように、ブスッとした表情、つまり半べそをかいた子供のような顔で、いいわけもごま化しもせず仕事に戻る男Fである。ここで「バツが悪そうな顔」でという適切な形容がつけられているのに、人は案外Fを信用するという洞察が持てなかったのである。それでも15~6パ-セントの人が正解を出していた。

 現在の日本ではこのFを選ぶ人は一人もいないと思われる。なぜか。戦後の日本の民主化の最大の誤りの一つに、奇怪な懺悔主義の大流行と、それと表裏一体につらなっている責任転嫁主義と、「私は正直者で被害者だとする卑劣極まる主張」の本流がある。日本の懺悔はイザヤ・ペンダサンのいういわゆる「日本人のゴメンナサイ」である。謝るということは自己の行動の非を認める行為であり、当然罪を問われたら引き受けますという引責行動でなければならない。しかし、日本人のゴメンナサイは、それならと相手が復習か処罰か何かしようとすると、謝っているのになぐる奴があるかと食ってかかることになっている。本当の謝罪にならぬ行為なのだ。戦後のゴメンナサイは、その伝統の上に、引責しなくてすむ奇妙な論理を身につけた。


 会田雄次 「日本人材論」講談社
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愛新覚羅 溥儀の書

2021-03-09 05:54:03 | 文学
中国・清朝のラストエンペラ-、宣統帝、愛新覚羅 溥儀の書(下 写真)を紹介します。書は七言絶句で起句、承句、結句で韻を踏んでいます。調べましたら、唐の詩人、銭起の「帰雁」という詩で、「唐詩選」にも採録されています。宣統帝が南方を流浪中、自分の境涯との共感を覚えて、この書を残したと推測されます。
書は、唐の三大書家、虞世南の筆と等しい端正な楷書であり、修練の跡が著しく、1931年2月上旬、皇帝の書とあります。又、朱印には「日に惟(おも)う孜孜(しし)」ともあります。先日のテレビ番組「開運何でも鑑定団」において、1000万円の価値ありと判定されました。

 
  粛湘何事等間回
  水碧沙明両岸苔
  二十五絃弾夜月
  不勝清卻飛来

「読み方」
  粛湘何事ゾ等間ニ回ル
  水碧(みどり)ニ沙(いさご)明ラカナリ 両岸ノ苔
  二十五絃 夜月二弾ズ
  清怨ニ勝(た)ヘズ 卻(かえ)ツテ飛シテ来タル

 「訳」
雁よ、天下の名勝・粛湘をなおざりにして、何故北に回るのか。
水は碧で砂は明るく、両岸の苔も見事である。月夜に二十五絃琴を弾く。
清怨の曲に我慢できず、北から雁が飛んで来る、




 
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名人

2021-03-06 05:45:31 | 将棋
平成六年出版、米長邦雄著の「人生一手の違い」の中に、元名人、谷川浩司氏の話があります。

昭和58年6月、史上最年少の名人が誕生した。弱冠21歳の谷川浩司八段が加藤一二三名人に七番勝負を挑み、四勝二敗で見事、第41期名人位を獲得したのである。将棋界には大きなタイトルが七つあるが、名人位には他のタイトルとは別格の、特別な意味がある。この名人位を争う棋戦によって、120人いるプロ棋士の序列が決まるのだ。だからこの棋戦を順位戦と呼ぶ。名人位はこの頂点で、将棋界の最高峰、企業にたとえれば社長に当たる。名人位が他のタイトルよりも格上とされるのは、この順位戦の上に位置しているからである。つまり、高校を卒業してほどない少年が、彗星のごとく現われ、アレヨアレヨという間に二十一歳でいきなり社長の座に就いてしまったということだ。一般企業では考えられない。オ-ナ-の息子ならしようがない。しかし、新入社員がいきなり社長である。まわりの者は怒るやらあっけにとられるやら、、、。将棋界は、文字どおり実力の世界である。強ければ勝つ、勝ったものが強い。勝ちさえすれば、年齢に関係なく昇進できる。優勝劣敗、それだけが勝負の世界の尺度である。
私にも社長の座に就くチャンスは幾度となくあった。しかし、度重なるチャンスをことごとく逃して現在に至っている。A級に15年、三つのタイトルを持つ私と、二十一歳の谷川浩司との間に明らかに実力の差があるなら、それも仕方がない。そうであれば私も納得できる。
谷川新名人誕生の直後、私は、自分と谷川浩司とどちらが強いのか、両者の将棋を三百局ずつ並べてみることにした。計600局を二週間かけて並べて得たのは「自分のほうが手厚い」という結論であった。実力は五分としても、私のほうが厚み(経験の差と言うべきか)においても若干優るのではないか、というのが正直な感想だったのである。
しかし、「ならば、なぜ?」と私は、考えざるを得なかった。私は、棋士の強さは才能と努力、そして運によって決まると信じている。この場合の運とは「運がいい」とか「運が悪い」といった短期的、場当たり的なものではなく、「強運の星の下に生まれた」というような持って生まれた運の強弱のことである。谷川浩司のあの強運は、親がもたらしたものに相違ない。そう考えた私は、ぜひとも谷川新名人の両親に会ってみたくなった。谷川名人の母親はどんな表情をしているのか、父親はどんな人か、家の空気はどうか、庭先から玄関まで、家全体もよく見たいとおもった。ちょうど、神戸新聞の将棋担当記者、中平邦彦氏の周旋があって神戸の谷川家への訪問が実現できた。私は、この家の当主で名人の父親・谷川憲正(のりまさ)氏を紹介され、初めて挨拶を交わした。この高松寺の住職である。憲正氏は実によくしゃべり、よく笑う。私は頃合いをみて、「失礼ですが、あなたは今まで怒ったことはないのですか」すると憲正氏は「一度もありません」。谷川名人、そしてご両親と対談しながら私は思った。「家の空気が丸い」。この丸い空気の中で育ったからこそ、今日の名人がある。
谷川少年が小学校に入学すると、市内の将棋道場に通ったのですが、父親が自転車の荷台に乗せて送っていった。父は将棋を良く知らなかったにもかかわらず、子供が将棋を指しているのを見るのが楽しいとのこと。やはり思っていたとおりだった。谷川名人の強さは、父親の思いの強さである。

    米長邦雄 「人生一手の違い」祥伝社

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順理則裕 渋澤栄一

2021-03-03 06:05:27 | 文学
東洋紡株式会社の役員会議室に掛けられていると言われる渋澤栄一80歳の書、「順理則裕」です。(下 写真) なお「青淵(せいえん)」は、渋澤(1840~1931)の号です。
 「理に順(したが)えば則(すなわ)ち裕(ゆたか)なり」と読みます。
「道理にしたがって行えばすなわち豊かになる」渋澤の生涯の行動理念です。
 東洋紡の役員は日々この書を見て渋澤を思い浮かべ、手本にするそうです。

 渋澤は、生涯、500もの優良企業や会社を興し、日本の資本主義の父といわれました。2024年には1万円紙幣の顔になります。信念は、自分第一、自国第一、自社第一ではなく、「国民第一」でした。それを、他人の力(政治力)で実現するという方法ではなく、民間から資金を集め、民間人が行動して、皆が平等に豊かになろうというものでした。これは、青年時に渡仏して学んだ株式会社による繁栄の精神を基にしています。また、貧民や病人といった社会の弱者を救済する福祉事業にも貢献しました。(例えば東京養育院) 現代にも渇望される人物ではないでしょうか。





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