yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

難読漢字

2011-02-26 07:20:41 | 文化
先日の新聞に、下記が読めますか、というクイズがありました。漢字は小学校で習う簡単な文字ばかりでした。
天牛
水雲
角力
時化
心太
外方
時宜
容体
声高
強面
末子
末成
「すもう」「しけ」「ところてん」「じぎ」など、一目でわかったのもありましたが、調べて初めてわかったのもありました。正解は上から
かみきりむし
もずく
すもう
しけ
ところてん
そっぽ
じぎ
ようだい
こわだか
こわもて
すえっこ
うらなり
また、次のようなクイズも提出されていました。
各問題で□に共通する漢字を考えるものです。(答は末尾)
第一問 □情、□化、□車
第二問 □利、□場、□金

読めない漢字がいろいろあるのに愕然としました。「日本語の読み書き」は難しいというのは本当です。ですから日本で働きたい外国人が日本語での資格試験に合格するのが困難なのも当然です。
また、植物名の「満天星(どうだんつつじ)」、地名の「廿五里(ついへいじ)」、その他、「右見左見(とみこうみ)」など難しい読み方のものは沢山あります。

さてクイズの答ですが、たぶん下記だと思います
    第一問の答   風       風情(ふぜい)を思いつきにくい
    第二問の答   砂       砂利(じゃり)を思いつきにくい
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日本の短詩

2011-02-24 06:16:09 | 文学
日本の短詩といえば、短歌・俳句が代表的なものですが、明治時代に正岡子規がこれらに新風を吹き込み、近代短歌・近代俳句の基を築いたと言われています。それ以前の江戸時代には滑稽文学がはやり、狂歌、川柳も多く作られました。ご承知の通り、短歌は「五・七・五・七・七」、俳句は「五・七・五」です。色街などで歌われた艶っぽい短詩が都々逸(どどいつ)で、「七・七・七・五」の句型です。
たとえば、
三千世界の鴉(からす)を殺しぬしと添ひ寝がしてみたい
高杉晋作
高杉は長州藩を率いる幕末の烈士でしたが、三味線をひいて都々逸を歌う風流人でもあり
ました。しかし、若くして病気で他界しました。もし、長命であったなら、明治新政府で重きを成したことでしょう。
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2011-02-21 06:27:21 | 文化
師」とは「人を教えみちびく」・「人の手本となる人」・「先生」と「漢和辞典」にあります。人生においては多くの師に出会い、多くの教えに導かれます。それは学校のみならず、趣味やスポーツ・文化(音楽・美術・文芸)など様々な分野にもおられ、数えきれないほどです。さて「師」という言葉ですが、このほうが、「先生」や「師匠」というより、何となく重みが感じられます。吉川英治氏は小説「宮本武蔵」の中で武蔵に、「我以外皆我師」と言わせています。つまり「学ぶ心を忘れたら、己の未熟を正す機会が失われてしまう」ことを戒めています。
もともと「師」という字の成り立ちは、軍が戦に出るときに祭肉をささげる姿とか、人の住むところいる長老とか諸説があります。また古くは中国の周の時代において、「師」は「軍隊の編成単位」を指しました。日本で「師団」という言葉が使われてきたのもそれに由来します。つまり「師」とは元々「兵士」とか「軍隊」という意味です。諸葛孔明の名文「出師(すいし)の表」は出陣に当って書いた書(志を述べた文)です。227年に書かれた出師の表は、次のような文です。

臣亮言う(もう)す、先帝の創業未だ半ばならずして、中道にして崩殂(そ)す、今天下三分すれども、益州は疲弊す、此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり
                  以下略
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広瀬武夫 二枚の写真

2011-02-19 06:39:31 | 歴史
海軍大尉、広瀬武夫の祖母は智満子(ちまこ)といい、広瀬にとってはかけがえのない大事な人でした。武夫が八歳の時に死に分かれた母登久子が残した子供達を、祖母の智満子はひき受けて、長男勝比古(後に海軍軍人)も弟の武夫も一人前の人物に育てあげました。智満子は1817年生まれですから、当時六十才といえば楽隠居になれるのに、やもめの息子のために貧乏士族一家の家計を女手一つできりもりしました。彼女は身体も丈夫で、最後まで目も見え耳も聞こえ、薬をのんだことがないといわれるほど、無病息災の人でした。それだけにまた子供達の訓育は厳格でした。広瀬は口ぐせのように「われを生むは父母、われを育むは祖母」と言っておりました。その様なわけで、広瀬の人間形成には祖母の実践する教えが大きな役割をしめていました。普段はおとなしいが、一度決心するとどこまでもやり通す人柄などは、この祖母の血を受けついだもののようです。
1896年5月、広瀬は七等大尉でしたが遠洋航海から長崎に帰港したとき、祖母の八十の賀を祝う電報を打った上で自分の写真二枚を撮って送りました。その一枚はふんどし一つの裸の写真。「お祖母さまのおかげでこんなに丈夫な若者になれました。この自分の姿を見て、これまでの苦労を忘れ喜んで下さるのはお祖母さまお一人だけです。」という意味の下記の文を写真の台紙の裏に書きつけました。
「吾ヲ生ムハ父母、吾ヲ育ムハ祖母。祖母八十ノ賀、特ニ赤条々、五尺六寸ノ一男児ヲ写出シテ膝下ノ一笑ニ供ス 明治廿九年五月  頑孫 武夫 満二十八年」
もう一枚の写真は従七位勲六等の位階勲等をもつ海軍大尉の正装に威儀を正したものでした。この二枚をあわせて送ったのが祖母の祝宴にかけつけられぬ広瀬のせめてもの心遣いでした。広瀬は次のように言っています。
「前の写真を見て喜ぶに違いないのも祖母。後の写真を見てほほえむに違いないのも祖母。赤の他人からみれば大の男が裸の写真を送るなどは気違い沙汰とみられるかもしれない。士官の正装で得意になっている写真を送るなどは、立身出世に凝り固まった俗物のすることとみられるかもしれない。しかし、この二枚を一緒に見ていただけるので、お祖母さまだけにはおれの感謝の真心は通ずるにちがいない。そう思ってお送りしましたが、はたしておれの思うとおりに大変お喜びでした。」
その祖母は広瀬がロシア・ペテルブルグに留学中に他界しました。広瀬は十日十夜泣き明かし、眼は赤くはれ、涙もかれました。そしてととう眼病にまでなったということです。この状態を見かねて先輩の八代六郎中佐が忠告しました。「広瀬、もう泣くな、君には陛下と日本がある。もし不治の眼病にでもなるならば、それこそ地下のお祖母さんがお喜びなさらんぞ。」広瀬は「はい、そうです。そうです」と素直に答え平常に戻ったということです。
この好漢、広瀬武夫は後に日露戦争において旅順港閉塞作戦で戦死し、「軍神」として敬われました。

         島田謹二 「ロシヤにおける広瀬武夫 上」 朝日選書
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鈴木章教授語録

2011-02-16 06:07:59 | 文化
化学という学問は物理学や数学とならんで自然科学のなかで重要な一分野となっており、人間の生活に密接な関りをもっていて、身近で実生活上とても役に立つ学問です。物を作る産業界にあっても、化学は材料技術の基礎となる学問として重要です。私が以前、勤めていた会社でも材料関係の技術は肝要な分野で、多くの研究者と技術者がいました。ところで化学研究の中心である化学会をみますと、「日本化学会」は1878年(明治11年)に創立され、現在45,000人の会員がいます。「イギリス化学会(The Chemical Society)」は1841年の創立で会員数42,000人、「ドイツ化学会」は1867年の創立で37,500人の会員がいます。どれも創立が古く、多くの会員を擁する巨大学会です。

以下は昨年ノーベル化学賞を受賞された北海道大学の鈴木章(あきら)教授の語録です。
「化学は最近、学生の人気が低迷していると聞きますがどう思われますか」という質問に対して教授は、「化学はキツイ、キタナイ、クサイ、いわゆる3Kなどと言われるけれど、面白かったらそんなこと感じない。興味を持たせること、若い人に面白いと思ってもらうことが大事。重化学工業の時代はもう来ないかもしれない。でも、農薬も液晶材料なども化学のおかげ。資源のない日本が生きるには、付加価値の高いものを作り出す技術が不可欠。企業にも日本の研究にもっと目を向けてもらいたいね」とお答えになっています。

「今の科学には希望や理想が無いという人もいますが」という質問に対しては、「希望や理想は他人からもらうものではない。自分から将来を考えて、作り出すもの。一方で、若い人たちが自分で希望や理想を持てるようにサポートするのは私たち年配者の務め。(中略)幸運をつかむチャンスはだれにでもある。どの職業でも同じでしょう。その機会をいかせるかどうかは、日頃の努力と謙虚さ、注意深さだと思います。どんな研究でもうまくいかないことはある。でも、僕は学生たちと飲んで愉快な気分になって仕切り直した。真面目にやっていれば、いつかは必ずうまくいく。手を抜いてはだめですが、少々、楽観的でもいいのだと思います。」このように鈴木教授は述べておられます。
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升田幸三語録

2011-02-14 06:12:10 | 将棋
将棋の升田元名人は強烈な個性の持ち主で、将棋界において異彩を放っていました。
作家の団鬼六氏はアマでは強豪でしたが、ある時、升田名人に「飛車落ち」を指してもらい完敗しました。対局のあと「升田先生、私はどのあたりで形勢を損じたのでしょうか」と聞きました。
升田名人は答えました。「駒を並べた直後である。君には飛車があるが、私には無い、その時点では君の必勝であった。」そこで団氏が重ねて尋ねました。
「どこら辺に敗因があったでしょうか。」升田名人は
「きみが駒を動かしたのが敗因である。」
アマの強豪、団氏もさすがに二の句がつげなかったそうです。
 この升田さん、傍若無人な印象が世に伝わっていますが、大変、繊細な一面もあったようです。夜間、家で駒を並べて将棋の研究をする際に駒音で家人が迷惑するのを気遣い、布製の将棋盤を使って、駒音を立てない配慮をされていたそうです。
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鼻濁音

2011-02-10 05:57:06 | 文化
日本語の発音の中に鼻濁音があります。「がぎぐげご」を、「んが、んぎ、んぐ、んげ、んご」と、鼻にかかったように発音するのが鼻濁音です。「が、ぎ、ぐ、げ、ご」が単語の冒頭にくる場合は普通の濁音でいいのです。たとえば「蛾、学問」などの「が」は、気にすることなく発音すればいいわけです。ところが「雨合羽」や「佐賀町」の場合は鼻濁音で発音しなければいけないようです。「銀行」の「ぎ」は普通の濁音ですが「代議士」の「ぎ」は鼻濁音でないといけないのです。「衆議院議員」ですと最初の「ぎ」は鼻濁音で、二番目の「ぎ」は濁音なのです。ちなみに近畿より東の地方の人達は自然に鼻濁音ができるそうです。ただし、群馬、埼玉、新潟の人は鼻濁音の発音があまりできず、九州、中国、四国地方の方言も鼻濁音の発音をしないそうです。私のような新潟出身の者は、普段、鼻濁音の発音をしないし、鼻濁音をしっかり聞き分けられないせいか、鼻濁音が存在していることさえ忘れています。一方、東京の人は鼻濁音に敏感で、無意識に正しく発音していると言われます。一般的には、鼻濁音を使った発音のほうがきれいであるとされており、NHKのアナウンサーなどは鼻濁音の発音をきちんとするように徹底的に教育されているそうです。
 こうした鼻濁音と、それを発音する地域との関係が、推理小説の謎解きの大きな鍵になっている優れた作品があります。鮎川哲也の『黒い白鳥』ですが、この推理小説の中には「警察の追求をかわすために殺された男の生前の会話の発音を聞いたある声優が、その男の出身地が東京であることを確信した」ということが書かれてあります。これが事件展開の重要な背景になっているのですが、警察官もなかなかそのことには気付かないというものです。 
さて、鼻濁音に敏感な東京人(横浜人も含む)の言葉にもおかしいと思うものがあります。「ひ」と「し」の発音が混同されることがあり、特に「ひ」から「し」になる傾向が強いことです。
潮干がり→「ひおしがり」。羊→「しつじ」となり、「執事」の意味になってしまいます。熾烈→「ひれつ」が「卑劣」になりますし、日比谷→「しびや」になると「渋谷」とも聞こえます。洒落にもならないほど可笑しいです。発音に自信のない田舎者の私は、東京人の弱点を見つけてニンマリしています。
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連合艦隊解散の辞

2011-02-07 06:06:57 | 文学
1903年に日露の海戦に備えて編成された連合艦隊は、東郷平八郎を司令長官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝しました。戦争終結の後、連合艦隊は戦時編成を解き1905年12月21日に旗艦「朝日」で解散式が行われました。有名な「解散の辞」は秋山真之参謀により起草されたと言われています。そこで艦隊の艦船の大勢の司令官、艦長を前に東郷は、「告別の辞」と低い声で始め、「連合艦隊解散の辞」を読みました。この文は明治を代表する名文といわれています。

二十閲月の征戦已に往時と過ぎ、我が聯合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散する事となれり 然れども我等海軍軍人の責務は、決して之が為に軽減せるものにあらず 此の戦役の収果を永遠に全くし、尚益々国運の隆昌を扶持せんには、時の平戦を問はず、先づ外衝に立つべき海軍が常に其の武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す 而して武力なるものは艦船兵器などのみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり 百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざる可からず 近く我が海軍の勝利を得たる所以も、至尊の霊徳に頼る所多しと雖も、抑亦平素の錬磨其の因を成し果を戦役に結びたるものにして、若し既往を以て将来を推すときは、征戦息むと雖も安して休憩す可らざるものあるを覚ゆ
惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理無し 事有れば武力を発揮し、事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽くさんのみ 過去の一年有半彼の風濤と戦ひ、寒暑に抗し屡頑敵と対して生死の間に出入せしこと、固より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして、之に参加し、幾多啓発するを得たる武人の幸福、比するに物無し
豈之を征戦の労苦とするに足らんや 苟も武人にして治平に偸安(とうあん)せんか、兵備の外観毅然たるも、宛も沙上の楼閣の如く暴風一過忽ち崩倒するに至らん 洵に戒むべきなり

昔者神功皇后三韓を征服し給ひし以来韓国は四百余年間我が統理の下にありしも、一たび海軍の廃頽するや、忽ち之を失ひ、又近世に入り徳川幕府治平に狃れて兵備を懈れば、挙国米艦数隻の應對に苦しみ、露艦亦千島樺太を覬覦(きゆ)するも之と抗争すること能はざるに至れり 翻て之を西史に見るに、十九世紀の初めに当り、ナイル及トラファルガー等に勝ちたる英国海軍は、祖国を泰山の安きに置きたるのみならず、爾来後進相襲て能く其の武力を保有し、世運の進歩に後れざりしかば、今に至る迄永く国利を擁護し、国権を伸張するを得たり 蓋し此の如き古今東西の殷鑑は為政の然らしむるものありしと雖も、主として武人が治に居て乱を忘れざると否とに基ける自然の結果たらざるは無し 我等戦後の軍人は、深く此等の実例に鑑み、既有の錬磨に加ふるに戦役の実験を以てし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に後れざるを期せざる可らず 若し夫れ常に聖愉を奉體(ほうたい)して、孜々(しゝ)奮励し実力の満を持して放つべき時節を待たば、庶幾(こいねがは)くば以て永遠に護国の大任を全うすることを得ん 神明は唯平素の鍛錬に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より、直に之を褫(うば)ふ 古人曰く勝て兜の緒を締めよと
              明治三十八年十二月二廿一日
                     連合艦隊指令長官 東郷平八郎

 この訓辞は、たちまち各国語に翻訳され、世界中に紹介されました。中でもアメリカ合衆国の大統領セオドア・ルーズベルトは一読して大いに感動し、直ちに筆を執ってアメリカの陸海軍に書簡をしたため、これを隷下の陸海軍軍人に教示するように促しました。その中に
「余は以上の訓示を合衆国の一員たる者、ならびに、もし不幸にして戦いが生じた時、祖国の名誉を護るために身を捧げんとする人たちに推薦する。」と書いたとのことです。

上記の辞の最後の二行は、平素の鍛錬を強調しており、結びの言葉として見事ではないかと思います。即ち
神明は唯平素の鍛錬に力(つと)め 戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫(うば)ふ 古人曰く勝て兜の緒を締めよと
 
 「勝って兜の緒を締めよ」という日本のことわざは
  Tighten your helmet strings in the hour of victory
と正確に英訳されていますが、helmet strings より「兜の緒」のほうが、言葉としては数段格上に感じられます。
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山本五十六(戦争と一尾の鯛)

2011-02-04 05:59:03 | 歴史
日露戦争当時、高野五十六と言った、後の山本五十六は、日本海海戦で東郷平八郎が率いる連合艦隊(旗艦三笠)の第一戦隊、六番艦、「日進」に少尉候補生として従軍していました。戦闘の初期段階において、バルチック艦隊のすさまじい砲撃を受け、第一戦隊司令官三須宗太郎中将と航海長は負傷し、松井健吉参謀は戦死、高野五十六は血みどろになったと、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にあります。この時、五十六は、左手の人差指と中指を欠損し、右大腿部に重傷を負いました。指を欠いたまま軍服の正装で立っている絵が私の母校、長岡高校の講堂に掲げられていたのを記憶しております。日露戦争に従軍した山本五十六は、後に海軍武官として次々に要職に就き、常々「百年兵を養うはただ平和を守るためである」と言っていたにもかかわらず、皮肉なことに、後に対米戦争を行うための連合艦隊司令長官となり、心ならずもアメリカと戦端を開く役目を負わされました。出陣を前にした昭和16年12月3日(真珠湾攻撃の5日前)山本は郷里、長岡で家族とともに最後の夕餉をとりました。食卓には一尾の赤い鯛がありましたが、その鯛には、とうとう誰からも箸をつけることがなかったと、五十六の長男の山本義正氏は後に手紙に書いています。
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家計の管理者

2011-02-01 07:29:13 | 文化
日本では家計の管理は妻に任せる家が多いのではないかと思いますが、欧米では、生活費を
稼ぐ夫が家計の管理をするのが一般的であるということです。徳川恒孝(つねなり)氏の本の中にこの問題に関する次のようなエピソードがありました。

私は十九、二十歳の時にイギリスに行き、三十代の初めにアメリカで暮らしたことがあります。女性が出席する集まりで、良く日本の話をしてほしいと頼まれたものです。そこでちょっとオーバーに、こんな話をしました。「私が家に帰り、入り口で靴をポンと脱ぎ捨て、上着をパッと廊下に放り、ネクタイをポトンと落とすと、女房がそれを拾って後からついてくる。そして彼女は「マイ・ディア・ハズバンド、ドリンクかディナーか、それともテイク・ア・バスか?」と尋ねる。私が「バス」というと、彼女は風呂の支度を初める」その先はもっと過激に話したのですが、「私が風呂に入ると女房も来て、背中を流す。これが日本の亭主である」というと、アメリカ女性たちは、日本の男たちは何と危険な動物かと思い、怒りをあらわにしはじめます。ところが「その代わり、私は給料を全額女房に渡し、女房から必要な金額だけを受け取る。そして、たまたまその額を超過して男のメンツが立たなくなった時に「すまん」と言って頭を下げて頼むと、女房はニッコリ笑ってお金を出すんだ。」このように話すと、再び彼女たちの目つきが変わる。「それならOK」という人たちが出てくるんです。
 アメリカの家庭では、亭主が100%財布の紐を握っています。奥さんは亭主からお小遣いをもらって家事をし、家賃から水道代まで一切合切についてな亭主が毎月チェックを切る。つまり、亭主がお金の権利を100%握っていながら、奥さんに「ハニー」とか「マイ・ディア」
とか、「レイデイ・ファースト」と言っているわけです。日本は逆に、女性が家計を管理して
男は女の掌の上で弄ばれているようなものである。そこまで説明すると、アメリカの女性たちも「それならネクタイも靴下も拾うから、財布の権利をもらうほうが嬉しい」となる勢いだということです。
日本型、嘗ては、主に夫は外で働き、妻は家を守るという形は家庭円満に役立っていたのではないかと思われます。

        徳川恒孝著 「江戸の智恵」 PHP研究所
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