yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

将棋の対局作法

2008-05-28 10:14:47 | 将棋

 原田康夫九段によれば、「将棋は礼に始まり礼に終わる」と、言うことです。<o:p></o:p>

名人戦などの大きいタイトル戦の場合、対局者は通常、和服を着用します。<o:p></o:p>

原田九段は、どのような対局でも常に和服で通しました。<o:p></o:p>

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対局においては、対局者は、まず将棋盤を挟んで対座し、一礼して戦いを開始します。ルールではどちらかの玉将が詰まされると勝負は終了となります。実際には、彼我の形勢が明らかになった時点で、どちらかが投了する場合が多く、玉が詰むまで指すことは少ないようです。最後まで指すと棋譜が汚(けが)れ、棋士の美学に反すると考えられています。<o:p></o:p>

従って、プロが投了した局面から別のアマチュアが指し続けたら勝敗が入れ替わることはよくあることです。<o:p></o:p>

 しかも何故投了しなければならなかったのか、良く理解できないこともあるくらいです。<o:p></o:p>

投了の意志表示は、自分の駒台に手を置き、「負けました」とか「ありません」<o:p></o:p>

と宣言し、両対局者は一礼して終了となります。<o:p></o:p>

 敗者にとっては、自らの負けを認め、それを声に出して言う誠に辛い瞬間です。将棋では自分の玉将が詰められると負けが確定するわけですが、この時ほど悔しくて切ないことはありません。逆に勝者は、長い戦いを制することができた喜びの瞬間です。皆がこの瞬間を目指して将棋を指します。<o:p></o:p>

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 日本伝統のさまざまな試合の作法においては、「勝者は驕らず、敗者は悪びれず」です。どちらも、勝敗の結果を少しも態度に表しません。外国人が見ると、態度からはどちらが勝者か判断しにくいそうです。<o:p></o:p>

 将棋は対局終了の後、その対局の経過を振り返って、再び第一手目から駒を並べ、勝因、敗因を調べ、両者の読みの内容を披瀝して、次の戦いに備えて、勉強をします。これを感想戦と言います。少なくて1時間、長ければ3~4時間にも及びます。感想戦では、勝者は控えめにして、敗者の主張に譲ってあげるのが礼儀とされています。<o:p></o:p>

 皆、相身互いで、次の戦いでは敗者となる可能性があることを、よく理解しているからでしょう。相手の気持ちを思いやる、優しい心を以て相手に接するのが日本伝統の作法です。<o:p></o:p>

 (昨今の大相撲の勝負の結末における態度とは大いに異なります。)<o:p></o:p>

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五高時代の 秋月悌次郎のエピソード(3) 中庸の道

2008-05-23 09:41:43 | 歴史

昭和10年、秋月悌次郎没後約40年に秋月先生記念いう本が刊行されています。その中に、ある教え子、小森幹枝は次のように書いています。<o:p></o:p>

「先生が五高より間道を経て帰宅せらるる途中、往々肥料等を担いで畠に通<o:p></o:p>

う農夫に出会わるることあり。其の都度先生は寒暑の挨拶を為して其の労を慰め作物の模様等を尋ねらる。其の慈悲深き先生の御態度は何とも言われぬ崇高の場面を現出し、孔夫子(孔子のこと)も亦斯くの如き態度を以て人を応待<o:p></o:p>

せられしかと思うの念が起るのである。」<o:p></o:p>

この回想によれば、秋月悌次郎は出会った村人に、時候の挨拶をし、その「労を慰め」、「作物の模様等を尋ね」たという。しかし悌次郎はそれを「慈悲」の感情によって成したわけではない。「治国平天下」を事とする武士が村人の労をねぎらい、作柄をたずねるのは、農民は田を耕せ、武士は安んじてそれを成さしめるよう国家を安泰に導け、という人それぞれの分を尽くしていただけのことである。<o:p></o:p>

人は誠心によって過不及なくおのおのの分を尽くすならば、別に名を挙げなくてもよい、それは「中庸の道」に通じてゆき天命にかなうという思想です。悌次郎は日々、それを黙々と実行しました。<o:p></o:p>

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       松本健一秋月悌次郎 老日本の面影作品社<o:p></o:p>

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誠の道

2008-05-20 11:42:01 | 歴史

   誠こそいつはり多き世の浪を乗り切る船の力なりけれ

これは、勢津子妃の父、松平恒雄が好んで揮毫していた歌だそうです。「私はこの歌の心を力として、これからの道を乗り切っていこうと思いました。」これは、」昭和3年に20歳で秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)に嫁いでいかれた松平勢津子妃の覚悟を語った言葉です。また、父、恒雄は次のように娘に言ったそうです。 「あなたは私の娘として、私の願うような女性になって嬉しく思っている。私は平凡で正しくあれと願い、何事にも、『らしく』ということを願ってきた。あなたは平凡でない道を行くことになったが、『「正しく』と『らしく』はこれからも必要です。見せかけだけやればいいという目の先だけを糊塗する精神ではだめで、自分の立場をきちんとわきまえて、例えば学生の場合は学生らしく、すべきことはちゃんとやる。あなたがこういう次第になったのも一つの運命だから、何事においても、自分のできる限りの努力を誠心誠意をもって一生つづけることが大事です。いきなり宮中に上がることになったのだから、できないことだらけだろうが、こうなった以上は全力をあげて努力すること。背伸びして自分をよく見せようとか、その場をなんとか切り抜けようというだけの精神では、絶対につづかない。誠心誠意やれるだけやって、それでもできない場合は、それでいいではないか。努力もしないでできないのではないのだから、恥じることはない。とにかく誠心第一であること。」「父の話の内容は以上のようなものでした。父は山ほどもある胸中の思いを抑えて、つとめて平静な話し方をしているのですが、私には胸に迫るものがございました。」と、勢津子妃は述べています。 會津藩祖、保科正之公以来、會津松平家に代々伝えられた誠の道です。

  秩父宮勢津子妃著 『銀のボンボニエール』主婦の友社 

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五高教授時代の 秋月悌次郎のエピソード

2008-05-17 18:15:52 | 歴史

いつも穏和な秋月悌次郎教授でしたが、大真面目で怒ったことがあります。ひとりの学生が遅刻して入室した時でした。悌次郎は大喝しました。<o:p></o:p>

「王法に曰く、遅れて至る物は斬(ざん)とある。大事な聖賢の道を聴く講席に遅刻するとは何事か。君は何藩か。」<o:p></o:p>

廃藩置県から20年近くを経て、なお、「君は何藩か」と聞くのは時代遅れといえば言えます。しかし、昌平坂学問所に長く学び、會津藩公用方として多くの他藩士と接した悌次郎は藩風が士風を作り、それが実に多様であったからこそ尋ねずにはいられなかったのでしょう。その叱り口からすると、悌次郎の倫理の講義は、単に「それぞれが身を修めよ」という人間一個の道徳修養のすすめである修身の次元の話でなく、いずれ「治国平天下」をなすべき有為の青年に「聖賢の道」を教え説くものだったのでしょう。<o:p></o:p>

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       中村彰彦落花は枝に還らずとも』中央公論社<o:p></o:p>

 

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五高教授 秋月悌次郎

2008-05-14 21:00:36 | 歴史

第五高等学校(熊本)の学生寮、習学寮は五高の50年の寮の歴史を『習学寮史』として昭和13年に刊行しています。その中で、三人の教授が選び出され「三先生」という回顧録が特別に作られています。その三先生とはラフカディオ・ハーン、夏目漱石、秋月悌次郎です。<o:p></o:p>

ハーン、漱石が選ばれたのは、相当なところですが、秋月がなぜ、それ程強い印象を学生達に残したのでしょうか。それは、秋月の生き方によるものと思われます。<o:p></o:p>

中国哲学の泰斗、宇野哲人はこう書いています。<o:p></o:p>

「当時の先生で印象深かったのは秋月韋軒先生の道徳のお話であった。先生は相当のお歳でお身体は小柄であったけれども、剛毅にして犯すべからざる威厳がおありであった。<o:p></o:p>

先生のお話は学生一同瑞邦館(嘉納治五郎が創設した柔道場)に正座して承る<o:p></o:p>

のだが、僕はいつも前方に座して傾聴した。小泉八雲(ハーン)先生には一年生の時、英会話を教わった。あんな優れた文学者ということは全く知るよしも<o:p></o:p>

無かった。夏目漱石先生は僕等一年生の担任教授であった。先生のご講義は確か、カーライルのスケッチ・ブックだったと思うが、その講義の面白かったこと、訳の言葉が本文の一字一句をも漏らさず立派な日本文となっているので、僕は英文がこれ程面白いなら専攻を英文とすべきだったと思ったほどであった。」<o:p></o:p>

今はもう世人から忘れられた秋月が生徒に与えていた印象の強さは、秋月の生き方の中に巧まずして古武士と老日本の面影を見せていたからなのではないかと思います。<o:p></o:p>

      松本健一著『秋月悌次郎 老日本の面影』作品社<o:p></o:p>

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山川健次郎の講義風景

2008-05-11 06:58:52 | 歴史

明治時代、元会津藩士でエール大学から帰朝した山川健次郎は東京帝国大学物理学科で教鞭を執っていました。<o:p></o:p>

お雇い外国人教授から日本人教授に順次、教授が交替している時代でしたが<o:p></o:p>

講義は英語で行われました。<o:p></o:p>

学生の数は少なく、数人でした。山川は学生が1人の時でも、少しも手を抜くことな「熱学」などを講義しました。大声で、あたかも軍隊を指揮するかのように激しい声だったとのことです。いつも時間には正確で、始業の鐘が鳴り終わらぬうちに姿を現し、<o:p></o:p>

終業の鐘が鳴ると同時に講義を止めました。<o:p></o:p>

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打つ鐘のあとより入る山の川 声ぞ積もりて熱となりぬる<o:p></o:p>

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百人一首の陽成院の歌<o:p></o:p>

筑波嶺(つくばね)の峯より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる<o:p></o:p>

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をもじって学生が作ったと言われています。まさにぴったりでした。<o:p></o:p>

山川健次郎は田中館愛橘、長岡半太郎らを薫陶し、後に白虎隊総長と言われました。<o:p></o:p>

                   星亮一著『山川健次郎伝』平凡社<o:p></o:p>

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振袖火事

2008-05-08 08:01:44 | 歴史

徳川家康が江戸に幕府を開き、苦心の末、江戸の街がようやく出来上がり、世界一の大都市へと発展し始めた矢先、明暦3(1657)に「振袖火事」すなわち「明暦の大火」が起こり、22晩燃え続き、江戸の街は灰燼に帰してしまいました。火元の一つは本郷の本妙寺で、曰くのある振袖を供養するために焼いたのですが、その火の粉が飛び火したのが原因と言われています。その頃、日照りが続いて木々が乾き切っていたところに折からの強風に煽られて火はあっという間に燃え広がり、関東大震災並の未曾有の大惨事になり、江戸城は天守閣までも焼失してしまいました。<o:p></o:p>

家康の孫で、当時、4代将軍家綱の後見役として政治の中枢にあった保科正之<o:p></o:p>

ほしなまさゆき)公 (會津藩祖)は天守閣再建の議論が起こると、再建には莫大な費用がかかることを考慮して、再建を見送る決断を下し、まず江戸復興計画を立案して迅速に実行しました。<o:p></o:p>

「一国一城の小城は堅固なるを以て主とす。天下の府城は万民の便利安居を以て第一とす」  會津松平家譜

「天下の首都である江戸では住民の安らかな暮らしを立てることが第一である。天守閣などは無用の長物である」<o:p></o:p>

という堂々たる主張でした。<o:p></o:p>

江戸城とそれを利用した皇居に、今日に至るまで天守閣が無いのは、正之公の確かな判断と仁政の結果です。また、正之公は江戸に飲料水が充分でないことを常々憂慮していましたので、玉川上水の開削を発案して実現させ、江戸の街に充分な水を引きました。<o:p></o:p>

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萱野国老の法要

2008-05-05 07:11:41 | 歴史

来たる5月18日に東京都港区で會津藩元国家老の萱野権兵衛の法要が會津藩ゆかりの人々で執り行われます。<o:p></o:p>

萱野権兵衛長脩(ながのぶは會津戊辰戦争の責任を一身にとり、筆頭国家老として、明治2年5月18日に上総飯野藩上屋敷保科邸(東京)でひっそりと自刃し、會津藩の滅亡を救った人物です。會津で隆盛した一刀流溝口派の達人でもありました。<o:p></o:p>

139年後の今日もその忠節が人々に深く尊敬されおり、芝白金の興禅寺には、萱野國老敬仰碑が建っています。<o:p></o:p>

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萱野国老の殉国 (再掲)

2008-05-03 06:59:35 | 歴史

昨年11月23日に掲載したものです。都合により再度掲載します。

明治新政府から明治2年の春、會津戊辰戦争の責任を取って首謀者三家老の首を差し出すよう命令がありました。西郷頼母はこの時行方不明、神保内蔵助と田中土佐は若松城下で既に自刃しておりました。席次からいうと次は萱野権兵衛が相当しました。梶原平馬、山川大蔵もこの話を聞き、覚悟を決めていたのですが、権兵衛は「拙者が切腹いたす」と言い、「梶原と山川はまだ若いから、貴殿らにこれからの會津を託したいと」述べて従容と死につきました。<o:p></o:p>

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 夢うつつ思ひも分す惜しむそよ<o:p></o:p>

 まことある名は世に残るとも<o:p></o:p>

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照姫は、この歌と「気の毒言語に絶し惜しみ候事に存じ候」と認めた手紙を送り、<o:p></o:p>

権兵衛の死を悼みました。<o:p></o:p>

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これによって、新政府内の容保極刑論は消え、9月には容保と喜徳の謹慎が解かれて斗南藩立藩への道が開かれました。<o:p></o:p>

萱野権兵衛には誠に気の毒としか他に言うことばがありませんが、彼は一死をもって會津藩と藩主を救いました。<o:p></o:p>

武士道というものは、何と厳しく切ないものかと思います。それを平然と実践した権兵衛は誠に武士の鑑でした。<o:p></o:p>

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将棋升田幸三賞

2008-05-01 06:34:12 | 将棋

将棋で新戦法の創作者を表彰する「升田幸三賞」というのが<o:p></o:p>

あります。2007年度に現れた新戦法、先手が初手7六歩(角道を空ける)に対して、<o:p></o:p>

2手目に後手が3二飛車と角の隣に飛車を振る戦法を創始した今泉健司三段に与えられました。「将棋の可能性を広げた斬新な手」と評価されたものです。<o:p></o:p>

確かに、3二飛車は従来無かった驚きの一手です。<o:p></o:p>

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特別賞に真部一男九段<o:p></o:p>

将棋界のプリンスと言われ、草柳大蔵氏の長女、文恵さんと結婚して話題になりましたが、真部九段は難病に蝕まれて、、昨年11月24日に55歳の若さで他界しました。<o:p></o:p>

真部九段の現役最後のの対局、10月30日の豊島将之四段との戦で生じた4二角という手に対して特別賞が与えられました。この4二角は実際には指されなかったので<o:p></o:p>

幻の名角と呼ばれています。真部九段は対局の後日、弟子の小林宏六段に、「4二角と打てば、優勢であっただろう。しかし、この手を指すと、相手が長考するから投了できなくなってしまう。」<o:p></o:p>

と語っていたとのことです。その戦は真部九段がわずか33手で投了しましたが、将棋<o:p></o:p>

がまともに指せる状態ではなかったのでしょう。<o:p></o:p>

11月27日に大内九段、村山五段戦が行われ、偶然、これと同じ局面になり、大内九段は4二角を打ちました。それに対して村山五段は1時間50分も長考をしました。<o:p></o:p>

結果は大内九段が終盤に間違えて逆転負けをしました。局後に真部九段の4二角の話を聞いて驚き、「勝ってやらなきゃいけなかったな」<o:p></o:p>

と語ったとのことです。江戸っ子の好漢、やさしい大内延介九段の心意気です。<o:p></o:p>

真部九段は文才にも恵まれ、「、将棋世界誌」に「将棋論考」という優れた随筆を残しました。<o:p></o:p>

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