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yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

Be Gentleman

2025-08-15 06:25:59 | 文化
アメリカから日本に渡ってきたクラーク博士は札幌農学校で教鞭をとり始めました。当時の生徒たちは武家の子弟でしたが、武士が農業に携わることに対して鬱屈した感情もあったのでしょう。飲酒や喧嘩をする腕白な生徒達でした。学校では細かい校則を作って子供をしつけるような対策をとったということです。しかし、生徒の腕白振りは収まることがありませんでした。クラーク先生は意を決して生徒達に向かい、大切にアメリカから持参したワインを叩き割って、「私はワインを断つことにした。君達も飲酒を止めよ」と言いました。そして、校則を書いた文書を破り捨てた上で、「今後、校則は廃止する。君達に、ただ一言、Be Gentleman」と諭しました。この後、腕白な生徒は真摯な気持ちで勉学に向かうことになったということです。
さて、やはりアメリカに留学をした、元・会津藩士、山川健次郎は、九州の財閥、安川敬一郎と共に明治専門学校 (九州工業大学の前身)を開きました。健次郎は明治42年の入学式で、九州を中心に全国から集まった俊英である新入生を前にして訓辞しました。「本校は単に技術者を養成するのみの学校にあらず、技術に熟達せるジェントルマンを養成する学校である」と生徒達に切々と訴えました。また、次のような徳目も掲げました。
一 忠孝を励むべし
一 言責を重んずべし
一 廉恥を修むべし
一 勇気を練るべし
一 礼儀を乱すべからず
一 服従を忘るべからず
一 節倹をつとむべし
一 摂生を怠るべからず

まさに會津武士道の徳目を見るようです。若い頃、會津日新館で学び、白虎隊士でもあった健次郎の面目躍如たるところです。健次郎は後に東京大学総長になり、白虎隊総長とも言われました。
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MC

2025-08-12 10:43:59 | 文化
近頃、MCという言葉をよく聞きます。不肖、私は最近になってようやくその意味を知りました。2005年頃から使われているそうです。放送や音楽の分野で、従来の「司会」あるいは「進行役」という呼称に変わり、MC(master of ceremonyの略)という言葉が用いられるようになりました。テレビの報道や、情報番組の場合はキャスターと呼ばれる人が番組の主役であり、スーツを着用していることが多いようです。教育番組の場合には、お姉さん、お兄さん、先生と呼ばれます。バラエティ番組の司会もMCと呼ばれるそうです。
TBSの長寿クイズ番組「世界不思議発見」の草野仁アナウンサーもその一人でしょう。

昔、パック旅行に添乗員と言う人が随行していたこととがありましたが、最近では、この役割の人をツアー・コンダクターと言うのと、MCという呼称に変わったことと、どこか類似しているように思われます。

余談ながら、上記のMCとは関係ありませんが、スコットランドとアイルランド系の人にMc の付く苗字が沢山あります。

McArthur
McCoy
McDonald
McKinley
McIntosh など。

北欧系の人の苗字にソンやセンが付くのと似ています。いずれも誰々の息子という意味であったと思います。
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イスラエル スギハラ通り

2025-08-09 06:30:49 | 文化
イスラエル北部のネタニヤ地方で、去る6月7日に、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から救うためにユダヤ人に「命のビザ」を発給した日本人外交官、杉原千畝(1900~1986)の名を冠した「スギハラ通り」の命名式がありました。没後30年を記念する事業で、四男でベルギー在住の伸生(のぶお)さん(67)も出席。「とても誇りに思う。若者たちの将来の道につながればいい」と語りました。伸生さんは杉原のビザで命を救われた人とも面会。旧ソ連経由で福井県敦賀港に船で逃れたニナ・アドモニさん(83)は、「杉原がいなかったら今の私は無い。感謝の気持ちでいっぱいです」と話しました。
杉原は大戦中にリトアニア・カウナスの領事代理を務め、2139通の日本通過ビザを発給。家族ら約6千人の命を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれました。ネタニヤ地方には、杉原が発給したビザで命を助けられた人や子孫らが多く住むとされています。伸生さんは、「父は『有名になりたくない』と言っていた。子供の教育に役立てばいいが、下手に英雄扱いはしてほしくない」と述べています。なお、日本の研究者やイスラエルと縁の深い関係者らと共に、史実を研究するNPOを年内に立ち上げる予定だそうです。






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お国自慢

2025-08-06 06:25:27 | 文化
お国自慢は、興醒めかも知れませんが、私が住む千葉県、自慢できる物があまり無い県です。古くは、上総国、下総国で上総は親王統治領ですから上総守は居ませんでした。また下総も大国でした。現在でも「ふさ」と言います。
大河無し、高山・火山無し、季候はいたってマイルドです。酷暑、酷寒は少なく、台風も多くは来ないし、雷や大雨、大雪などの自然災害が少ない。場所によっては津波、地震があり、将来、千葉東方沖などを震源とする大地震の発生が最も懸念されます。首都にも近く、日本列島の中でももっとも住みやすい場所ではないかと思っております。海産物や農産物など物産にも恵まれ、古来味噌・醤油の醸造も盛んです。

佐倉には日本歴史民族博物館、佐原の町並み、伊能忠敬記念館、お成り街道など歴史遺産や博物館も少しあります。成田空港や羽田空港へのアクセスがいいのも少しだけ自慢できます。
東京ディズニー・ランドや幕張メッセも千葉県にあります。

千葉県出身の格別の有名人を直ぐには思い浮かびませんが、沢山いるのでしょう。
最近では野田佳彦元総理、長島茂雄選手、俳優の高橋英樹氏などが有名人。古くは、伊能忠敬、堀田正俊(佐倉藩主)佐藤泰然(順天堂を創立)、関根金次郎(十三世将棋名人)鈴木貫太郎(終戦時の首相)など。









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お国言葉 半藤一利

2025-08-03 06:45:32 | 文化
「春雨だ濡れて行こう」の季節、時候の挨拶のお国言葉を半藤一利氏が紹介しています。氏と若干縁のある越後なら、行き交う人に「春らの、あったかくなったのう」という挨拶になります。越後生まれの不肖は、少しも違和感なく理解できます。

これが鹿児島だと「春でごわす、ぬくうなりもした」となり、北九州「春やね-、ぬくうなったね」。大分「ばされえぬくうなったのあや」。松山「春ぞなもし」。京都にくると「ほんまにええ陽気どすなあ」。長野「春でやすない、ぬくとくなったねも」。そして宇都宮「春だんべ一」。仙台「春だっちゃね一」。秋田は「あったげなったべな」となるのだそうな。ただし、みな一時代前の言葉である。いまは日本全国どこへいっても同じテレビ的標準語で、味気ないことおびただしい。ところで、わたくし(半藤氏)は生まれも育ちも東京は向島。いわゆる隅田川の向こう側、場末の下町ッ子である。「クソッ、やっと春になりゃがったな」ぐらいの乱暴きわまる東京言葉で老骨になるまでやってきた。わが故郷はどう考えても言語的にはほめられない環境というしかなかった。

落語の枕ではあるまいし、「クソッ、やっと春になりゃがったな」は乱暴ですね。

 半藤一利「歴史探偵忘れ残りの記」文春文庫

  



 
   




     

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invention とinnovation

2025-07-31 06:19:00 | 文化
近頃よく聞く外来語に、inventionとinnovationがあります。類似した場面で使われるので、意味も似ているのではないかと思っていました。
英和辞典によれば、次のようにあります。
invention:  発明、創意
innovation: 革新、刷新
innovationのほうが、より能動的なニュアンスが強いように思われます。
P.F.ドラッカーによれば、innovationは最終製品と共に完成する点で、単なる発明とは一線を画する、とのことです。ドラッカーはinnovationを可能にする機会として7つの変化を挙げています。具体的には企業・産業の内部的要因として次の項目を挙げています。
1. 予期せぬ事
2. 不調和、ギャップ
3. ニーズ
4. 産業構造変化

また、企業・産業の外部的要因として
5. 人口構造の変化
6. 認識の変化
7. 新しい知識

超高齢・人口減少社会を迎えている日本は恒常的にinnovationを生み出す環境が整った社会と言えるでしょう。innovationを実現するためには、意識的に努力することと、学ぶことが必要であり、高等教育の質が問われると、濱口道成名古屋大学総長は言っています。
そのための試みとして、名古屋大学では、リーディング大学院を設置して、そこでオールラウンド型の人材育成を目指しているということです。

  濱口 道成 「電気学会誌」 2013 Vol.133 No.3
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「首長」を「くびちょう」と読むのは誤り

2025-07-28 06:18:00 | 文化
「首長」は「主宰する者、部族や集団の長、行政機関の長官、地方自治体の長など」という意味で、「しゅちょう」と読みます。一方、「くびちょう」という語は「広辞苑」にはありません。つまり「くびちょう」という言葉は日本語には無い言葉です。
最近、テレビなどで、地方自治体の長のことを「くびちょう」と呼んでいる人々がいますが、このように発言する人々の見識を疑います。
本来、漢字は「音」のみで読むのが普通です。「くび」という訓読みと「ちょう」という音読みを続けるのは、いわゆる「湯桶(ゆとう)読み」という変則的な読み方になります。

「首帳(くびちょう)」は、戦国時代に「戦場で討ち取った敵の首と、それを討ち取った者の氏名を記した帳簿」のことです。言葉で「くびちょう」と言われると「首帳」を連想するので、余計に違和感があります。
 また「くびちょう」と聞くと、辞めて欲しい県知事という風にも連想してしまいます。

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JOAK

2025-07-19 06:11:50 | 文化
ご承知の通り、JOAKはNHK東京放送局のコールサインです。コールサインとは無線局に与えられる識別符号であり、世界で唯一の符号です。大正14年3月に東京放送局が開局するにあたって第二文字と第四文字のOとKは発音しやすい文字という理由で決まったということです。
同年6月に開局した大阪放送局はJOBK、7月に開局した名古屋放送局はJOCKです。
かつてアマチュア無線局を運用していた私もJAφA**というコールサインを持っています。
JOAKは商業放送局ですから送信出力は300kWもありますが、アマチュア無線局の出力は10W
~1kWという僅かな値です。

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「雪山讃歌」とゴ-ルド・ラッシュ

2025-07-16 06:33:32 | 文化
「雪山讃歌」と「ゴ-ルド・ラッシュ」の両語は一見、無関係に思えますが、開拓者精神(フロンティア・スピリット)とメロディ-というキ-ワ-ドで大いにつながっています。

「雪山讃歌」は南極越冬隊長を勤めた西堀栄三郎氏(1903~1989)が作詞しました。西堀氏は京都帝国大学で、桑原武夫や今西錦司らと共に山岳部に属していましたが、1926年、群馬県嬬恋村の鹿沢温泉でテント合宿中に、舞う雪を見て「雪山讃歌」の詞を作りました。

       雪よ岩よわれらが宿り
俺たちゃ町には住めないからに
俺たちゃ町には住めないからに

テントの中でも月見はできる
雨が降ったらぬれればいいさ
雨が降ったらぬれればいいさ

シールはずしてパイプの煙
輝く尾根に春風そよぐ
輝く尾根に春風そよぐ

荒れて狂うは吹雪か雪崩
俺たちゃそんなもの恐れはせぬぞ
俺たちゃそんなもの恐れはせぬぞ

朝日に輝く新雪ふんで
今日も行こうよあの峰こえて
今日も行こうよあの峰こえて

さよならお山よごきげんよろしゅう
また来る時にも笑っておくれ
また来る時にも笑っておくれ

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「実在」の認識

2025-07-13 06:51:12 | 文化
物理学や哲学の分野でしばしば論じられてきた問題の中に、次のようなものがあります。
「人間はさまざまな測定機器や、数式を含めた理論を作りあげ、生身では知覚できないような物質の構造や宇宙の歴史などについて理解を深めてきたが、結局のところ、実在(真の
外界)に到達できるのか、実在を真に理解できるのか。」動物行動学の視点から言えば「無理である。」と小林朋道教授(人間文化研究機構長)は言っています。科学・技術が長足の進歩を遂げた今日において、物理学と哲学の分野の大命題である実在の認識が「不可能」と断定されていることに驚きを禁じえません。
小林教授は、その理由を次のように説明しています。

人間という動物は、他の動物とは比較にならないほど、事物・事象の因果関係について、それらを取り巻く広い範囲の要素を取り込み、階層性が高い因果関係を追求することができる動物である。だからこそ、他の惑星に行って戻ってくるような機械も作ることができた。ただし、それはあくまで人間の脳が知覚できる情報の範囲の中で達成できたことである。たとえば、オオカミは、彼らの脳が備えている能力を駆使して、先回りや挟み撃ち等の方法を生み出し、狩りの仕方を上達させていく(人間が自分たちの脳の能力を駆使して機器類をより高度化するのと同じことである)。しかし、そこには限界がある。たとえば、彼らの脳には、(狩りに)道具を使うという発想はけっして生まれない。思いもよらない。それはオオカミが、生きて子を残し、地球上で生存し続ける上で必要ないからだ。同様に、オオカミにとって外界に冥王星が存在することなど思いもよらない。その原因は、オオカミの脳の神経構造にある。そして、同じことは人間についても言えるのである。我々の脳に備わっている神経構造には、けっして思い描くことさえできない実在が数限りなく存在すると考えることは、極めて合理的なことである。
 オオカミを例に挙げて、人間の脳の限界(クセ)を指摘した、優れた考察だと思います。

小林朋道「動物行動学から見た、ヒトの脳のクセについて」学士會会報 2012―Ⅳ
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