yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

天文学的な数

2021-11-30 06:11:22 | 文化
大きい数のことを天文学的な数といいます。例えばどんな数を言うのでしょうか。

宇宙の年齢:150億年  150X10の8乗 年
光年:光が1年間に進む距離、9兆4600億Km, 9.5X10の12乗Km
宇宙の直径:150万光年、1.5X10の19乗Km
 将棋で想定される局面図の数:10の67乗~10の68乗 通り
   (奈良女子大学理学部の篠田正人教授が計算しました。)
数独の正解盤面の数:67垓 67X10の20乗 通り
 (東京工業大学では、すべての正解盤面に番号をつけて公表しました。)
トランプ52枚を1列にならべる時、ならべ方の組み合わせ:52の階乗、
  8.0658X10の67乗 通り

漢字では4桁毎に呼称の文字が替わります。
 一、十、百、千、万(10の4乗)、億(10の8乗)、兆(10の12乗)、京(けい)、垓(がい)、秭(じょ)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正、載、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議、無量大数(むりょうたいすう・10の68乗)

   一方、小さい数を表す漢字は10分の1ずつ文字名があります。
一、分(ぶ)(0.1)、厘(りん)(0.01)、毛(もう)(0.001)、糸(し)、忽(こつ)、微(び)、繊(せん)、沙(しゃ)、塵(じん)、挨(あい)、渺(びょう)、漠(ばく)、模糊(もこ)、逡巡(しゅんじゅん)、須臾(しゅゆ)、瞬息(しゅんそく)、弾指(だんし)、刹那(せつな)、六徳(りっとく)、虚空(こくう)、清浄(せいじょう)
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会津大学学長の言葉

2021-11-27 06:14:25 | 文化
会津大学・学長の宮崎敏明先生は雑誌に下記のような文を寄稿されていました。

私は毎年4月に、新入生全員を一堂に集め問いかける。「あなたにとって大学とは何か?何のためにここにいるのか?」と。そして「ここにいる4人に1人は4年後卒業式にいない。」とも言う。教室は静まり返る。実際、本学の4年卒業率は70%前半である。今、日本の多くの高校生は「大学に入学すること」が目的化し、その先のことを考えていない。高校も親も、そして高校生自身も、いまだに大学を偏差値で格付けし、入りたいからではなく入れる大学を選ぶ。(中略)さらに私は、学生に「各自、大学にいる意味を考え、夢あるいは目的を、できるだけ大きな紙に書き、自分の部屋の天井や壁に貼ること」という宿題を課す。自分が大学にいる意味や目的を失いそうになった時に、それを書いた時の自分を思い出せるように。(中略)先生はさらに考察を続けます。大学に必要なのは「居心地の良い居場所を」を提供することだと思う。すなわち、学生にとって大学とは、尊敬できる教員や先輩、一生の友となる仲間・企業・自治体・市民との出会いがかなう「居場所」であるべきと思うのである。それができる大学からは、偏差値や既成概念に囚われない人材が育ち、世の中に変革をもたらす技術が生まれるのだと思う。GAFAの創業者たちがそうであったように。
 
    宮崎敏明 「電気学会雑誌 Vol.141, No.11」




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古賀謹堂

2021-11-24 06:09:51 | 歴史
古賀謹堂 (1868~1884)、名は謹一郎。
名門の儒者であり洋学者です。ペリー来航後の圧倒的な攘夷の風潮の中で、敢然として開国を主張、貿易による富国強兵策を提言しました。また東京大学の前身である洋学校蕃書調所を創設し、万民に開かれた近代的経営を行いました。維新後、新政府から大学大博士として召されましたが、薩長政府に仕える事を潔しとせず、一市井人として生涯を終えました。

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青葉城恋唄 秘話

2021-11-21 06:11:53 | 文学
名歌、青葉城恋唄とその誕生の秘話を紹介します。
 歌詞は次の通りです。

広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬踊る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音ゆかしき杜の都
あの人は もういない

七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 七夕祭り
葉ずれさやけきき杜の都
あの人は もういない

青葉通り薫る葉緑 想い出は帰らず
樹かげ こぼれる灯に ぬれていた君の頬
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 通りの角
吹く風やさしき杜の都
あの人は もういない

東京の企業を脱サラした佐藤宗幸は地元の仙台に戻って1977年、NHK-FM仙台の「FMリクエストアワ-」のDJとなり、このラジオ番組のコ-ナ-で
リスナ-から寄せられ詩に曲をつけて歌を創作していました。同年6月、リスナ-だった仙台在住の星間船一氏が寄せた詩をもとに佐藤宗幸が編詩をし、5分ほどでこの曲が誕生しました。元は星間船一氏の失恋の叙情詩です。仙台の美しい風物が織り込まれた名詩ではないでしょうか。曲もいいですが。佐藤宗幸の甘い声にもしびれます。
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常在戦場

2021-11-18 06:11:17 | 歴史
「常在戦場」は長岡藩の藩是です。三河牛久保の出の牧野氏の壁書きの第一条であり、河井継之助や山本五十六、小林虎三郎の話(米百俵)に出てくる言葉です。
上杉謙信の心得とも言われています。

「常に戦場に在り」
常に戦場にいる心構えで質実に生活し、刻苦勉励の気風を持つこと。
山本五十六連合艦隊司令長官は、よく「常在戦場」と揮毫しており、各地にその書が残っています。なお高野五十六(後の山本五十六)が養子に入った山本家は、戊辰戦争で当主の山本帯刀(たてわき)が會津で戦死したため、長い間絶家になっていました。その後、元長岡藩主・牧野公の尽力で、大正五年に長岡藩第一の名家、山本家は再興されています。


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海軍五省

2021-11-15 06:10:36 | 歴史
海軍兵学校の生徒は毎晩、就寝直前に一日を省みて下記の五項目を大声で唱和したとのことです。
①至誠に悖(もと)るなかりしか
②言行に恥づるなかりしか
③気力に欠くるなかりしか
④努力に憾(うらみ)なかりしか
⑤無精に亘るなかりしか

現代の者から見ても何とすばらしい内省の言葉ではないでしょうか。
特に五省の第一番にある「至誠に悖るなかりしか」がいいと思います。

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秋月悌次郎の逸話

2021-11-12 06:32:33 | 歴史
秋月悌次郎が第五高等学校(熊本)で教授の職にあった時のことです。明治26年(1893)1月の末に宮内省の顕官である高崎正風が秋月を訪ねて来ました。高崎は30年前の文久3年(1863)8月に京都で秋月を訪ね、會薩同盟締結を提案した薩摩藩士でした。その後、御歌所の長官を経て、この時には北白河宮第六師団長の副官になって熊本にいました。秋月を訪問したその夜は、漢詩の贈答などをしながら、往事を偲んで盃を傾けました。翌朝、いつものように黒い官服で第五高等学校の教室にあらわれた秋月悌次郎は、登壇して書物を包んである紫色の風呂敷を開けましたが、講義を始めようとしませんでした。かなり時間が経ってから
「実は昨晩、文久以来の友人が30年ぶりに訪ねて来たので、終夜、酒を酌み交してしまった。そのため、今日の講義の下調べができなかった。それ故、諸君には誠にすまないが、今日の講義は勘弁してもらいたい」
と、言うと、丁寧に一礼し教室を出てしまいました。
教授室でこの話を知った同僚が、辺りに悌次郎の姿が無いことを確かめてから言いました。
「それにしても漢学者というのは融通の利かないものだ。あれほどの大学者なら『論語』など暗誦しておられるだろうに。何とか講義ができなかったものだろうか。」
すると傍で聞いていた法文の教授、末広厳太郎(すえひろいずたろう、後に東京帝大教授)が反論しました。
「いや、そうじゃない。秋月先生のように良心的であって初めて、本当の先生になり得るのだ。私は今の話を聞いていて深く反省させられた。秋月先生は偉いと思うよ。」
ただ、「休講」と宣言してもよいところなのに、さらに言えば下調べをせずとも講義することは可能なのに、律義にこう述べて学生達に陳謝する。これが秋月という人間なのだ、ということを末広厳太郎はよく知っていました。

中村彰彦「落花は枝に還らずとも 下」中央公論新社
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韋(い)の話

2021-11-09 06:17:01 | 歴史
幕末に活躍した會津藩士、秋月悌次郎は自分を西門豹になぞらえていましたが、ある日『韓非子』に「西門豹の性は急也、ゆゑに韋(い)を佩(お)びて己を緩くす」とあるのを読み、それ以後は常に「韋」を懐中か袖の袂に入れておき、激怒しそうになるとその韋を撫でて心を静める習慣をつけました。「韋」は、なめし皮の紐でやわらかく緩やかな物の象徴です。悌次郎の号「韋軒」の謂れでもありましょう。激動の時代を生きた悌次郎ですが、生涯、他人と激しく争うことがなかったと言われています。
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池上四郎と秋篠宮妃殿下 哀悼 川嶋辰彦学習院大学名誉教授

2021-11-06 06:08:27 | 文化
保科正之公は信州高遠の城主でありましたが、そこに池上一族がおり、約10家があって栄えていました。後に保科正之公が高遠3万石から出羽20万石、ついで会津23万石と再再転封するのに従って、池上家は若松に移り住みました。高遠と会津若松の両方に池上性が多いのはこうした理由によります。池上一族の当主の一人に、池上武輔(ぶすけ)がいました。武輔は会津戊辰戦争に出撃して負傷しますが、生き延びて斗南に移住し、厳しい境遇を生き抜きました。武輔の四男を池上四郎と言います。武輔は子供達に、
「お前たちは会津の日新館で安部井政治先生らに説かれたことを基礎として
勉学するのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の錬磨である。」と言い聞かせました。
池上四郎は苦労を重ねた末に大正2年に大阪市長となり、住民の福祉を第一とする政策を実施し、3期10年を勤めて、「不世出の名市長」とい言われ尊敬を集めました。写真は大阪・天王寺公園にある池上四郎の銅像です。
さて、この池上四郎の娘を紀子(いとこ)さんと言い、内閣統計局長などを歴任した川嶋孝彦氏に嫁ぎ、川嶋性に変わりました。川嶋辰彦氏はそのご令息で11月4日に他界されました。心よりご哀悼を申し上げます。辰彦氏のご令嬢は川嶋紀子(きこ)様で秋篠宮妃殿下となられ、皇孫、悠仁親王(ひさひとしんのう)殿下をご出産あそばされました。会津藩士の血縁からの親王殿下の御誕生は、会津の人にとっては、誠に慶事でありました。

中村彰彦著『会津武士道』PHP研究所

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「琵琶湖周航の歌」 秘話

2021-11-03 06:07:19 | 文学
小口太郎の五十三回忌にあたり、親戚や友人の方々が小口太郎の思い出を書き、小口家に残されている資料と合わせて一冊の草子にまとめたものです。安田氏は小口太郎と同じく三高に学んだ後輩のお一人で、東京在住の方です。
「琵琶湖周航の歌」の作詞の背景には、生地(岡谷市)の近くにある諏訪湖の風景が重なっているのではないかということで、写真を拝見すると小口氏は誠に眉目秀麗な好男子であったこと。また、東京帝国大学物理学科で研究に没頭されていた頃に、研究と徴兵の間で人知れず深く悩んでいたらしいこと。母方の縁続きの浜すゞさんという許嫁がいらっしゃったこと。「琵琶湖周航の歌」を作詞したことについては家族や親戚に話したことがなく、親族の殆どが、「NHK大津放送局のテレビ番組」でこの歌の作曲者の小口太郎が身内であると知って驚いたことなどが書かれていました。小口太郎のシャイな性格を物語っています。
  安田保雄 「小口太郎と琵琶湖周航の歌」中安善也

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