yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

「着眼大局」と升田九段

2007-10-30 09:17:28 | パズル

「着眼大局 着手小局」は将棋の故升田九段がよく色紙に書いた言葉です。これは将棋のみではなくて、人生一般にも関わる言葉ではないかと思います。<o:p></o:p>

「着眼大局 着手小局」は、まず、全体の状況、形勢をよく把握すること、その大局観に基づいて、すぐに着手可能なこと、身近な問題、基本的な部分、小さくても重要な部分から手をつけることが大切、ということではないかと思います。含蓄のある言葉だと<o:p></o:p>

思います。<o:p></o:p>

升田幸三九段は、小さい時に母の物差しに名人に香(香車)を引く棋士になる、と書いて郷里を後にして大阪、東京で将棋の腕を磨きました。そして、遂に王将戦で時の名人(木村義雄)に香を引く勝負をする権利を得るまでになりました。また大山名人にも香を引いて指す勝負をして勝利をおさめました。天才的で豪快な髭の先生で通っていますが、常に新手を生み出す努力を一生続けました。性格においてはとても繊細な神経を持っていて、将棋には慎重かつ細心でした。それでも、ミスをすると、「錯覚いけない、よく見るよろし」明るくとぼけていたということです。<o:p></o:p>

昭和57年にプロとアマの最高峰の対決という棋戦が実現しました。アマ側は小池重明で、当時、アマの中で抜きん出ていました。角落ち戦でしたので、小池に分があると周囲は見ていました。緊迫した勝負の中で、一瞬の隙を突いてこの対局を圧倒的に制したのは升田でした。対局の後、小池は升田に「勝つ秘訣は?」と聞きました。升田は「侮ってはいけないということです」と答えたそうです。実力制第4代名人升田九段の言葉には勝負師の真髄がこもっているように思います。<o:p></o:p>

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メイクテン 

2007-10-27 16:30:37 | パズル

メイクテンという数字の10を作る遊びがあります。車のナンバーなどに、4桁の数字をよく目にしますが、4つの数字を加減乗除して10にする頭の体操です。例えば、1,2,3,4<o:p></o:p>

というナンバープレートを見つけたら、<o:p></o:p>

1+2+3+4=10  という具合にすると10になります。<o:p></o:p>

では、2,2,2,2 だったらどうしたらいいでしょうか。<o:p></o:p>

    2X2X2+2=10     で解決しました。<o:p></o:p>

3,3,3,3ならば<o:p></o:p>

    (3x3)+(3÷3)=10<o:p></o:p>

 5,7,8,9ならば<o:p></o:p>

  5X((7+9)÷8)=5X2=10<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

 4,6,7,8 などはやや難問です。<o:p></o:p>

 (6X7)-(4X8)=42-32=10<o:p></o:p>

  別の解答もあります。<o:p></o:p>

  7+(4X6÷8)=7+3=10<o:p></o:p>

1,1,9,9 は超難問です。解答は末尾に書いてあります。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

車で移動中や歩行中に、他の車のナンバープレートを見て、メイクテンをしていると退屈しないです。<o:p></o:p>

どうしても解けない場合もあります。例えば 1,1,1,1の場合です。でも、ウルトラCの解もあります。<o:p></o:p>

   (1-1) ÷(1-1)=0÷0=10   数学的には誤りでは無いですが、このやり方は邪道でしょう。

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

超難問の答は (1+(1÷9)X9=9+1=10   です。 できましたか?<o:p></o:p>

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「格物致知 格致日新」と、会津日新館

2007-10-24 06:48:02 | 文化

「格物致知(かくぶつちち)」は『大学』にある言葉です。物事の本質を突き詰めて知識を深くすることを意味します。「格致日新(かくちにっしん)」は事物の道理を追求して知識を獲得し、日々新たに向上していくことを言います。會津日新館もこのような精神によって日新館と命名されて創立されました。1670年頃、會津藩祖、保科正之が藩校として設立し、文武両道、水練などを教授して會津武士の育成に大きく貢献し、會津士魂の根本となり、ここから幾多の俊秀を生み出しました。江戸時代、300諸藩の藩校の中でも最大規模であり、水泳の練習のために、日本で初の水練水馬池まで作りました。当時の施設を忠実に復元した野外歴史博物館が會津若松市郊外にあり、會津武士になる鍛錬の一日体験もできます。 <o:p></o:p>

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今日の落花は来年咲く種

2007-10-22 08:27:34 | 歴史

明治2年(1869)10月 秋月悌次郎は會津藩の責任者として尾張高須藩の獄にいました。そこで、會津に住む母と妻と姉に宛て手紙を認めました。<o:p></o:p>

その中に「遠き余所国へ永き御預けと相成り身のちぢむ計りに御座候。然るに大雨の後には快晴になり、大寒の朱(すい)は暖気にて、今日の落花は来年咲く種とやら、、、、何卒御気永く思し召され、鶴亀の御歳をかさね遊ばし候内には浦島の次郎も立帰り申すべきか計り難し」と心配しないで気長に待ってくれるよう書き送りました。尾張高須藩は主君容保が生まれた藩でもあり、獄中にあっても平穏に暮らしていたように見受けられます。<o:p></o:p>

この言葉「今日の落花は来年咲く種」は聖書ヨハネ伝第12章24節のキリストの言葉、「一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」を連想します。<o:p></o:p>

秋月悌次郎の場合は聖書のこの言葉に言及したわけではなく、将来への明るい希望を表現したものと推測されますが、獄中においても親と家族を思いやる温かい人柄を感じとることができます。<o:p></o:p>

なお中村彰彦氏に「落花は枝に還らずとも 上、下」という秋月悌次郎の生涯を記した著作があります。<o:p></o:p>

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中村半次郎

2007-10-20 07:06:48 | 歴史

中村半次郎西軍軍監は會津藩の降伏式で西軍の代表となりました。西軍の他藩からは中村で大丈夫かと、危ぶむ声がありましたが、胸をたたいて、自信の程を示し、実際にはこの大役を立派に勤めました。なにしろ半次郎は尊藩と弊藩を時々間違え、相手の藩の事を弊藩などと言っても平然としている男でした。一方、薩摩示現流の達人で人斬り半次郎と恐れられてもいました。常に影のように西郷隆盛の後に従っていて、敵とすれ違い様に一刀のもとに相手を斬って、しかも呼吸が少しも乱れなかったという達人です。<o:p></o:p>

戊辰戦争の終結となった降伏式において中村半次郎の態度が立派であったことは後世に語りつがれています。敗者を冷やかに眺める西軍の多くの藩士の中にあって、武運つたなく敗れた容保公に対し、勝者の奢りを微塵も見せず十分な敬意を払い、退出まで頭を垂れて見送ったとのことです。まことに武人が武人を遇する立派な態度でした。<o:p></o:p>

武人が武人を知る名場面を演出して、それが半次郎本人の評価をも高めました。<o:p></o:p>

薩摩武士中村半次郎にこのような立派な行為をさせたのには薩摩に於ける郷中(ごじゅう)教育が関わっています。卿中とは薩摩藩において地域ぐるみで若者を教育した制度<o:p></o:p>

です。6才から12才を稚児、20才までを二才(にせ)と呼び、年長者が相撲、軍事技術、剣術などを指導し、夜話として昔の偉人の話をして聞かせました。<o:p></o:p>

會津藩の什とよく似ています。江戸時代においても武士道の気風が強く残っていたのは會津藩と薩摩藩ですが、よく似た若者教育制度があったわけです。中村半次郎は卿中において年長者の話から忠臣蔵の大石良雄の話を耳から学んでそらんじていました。備中松山藩、水谷家が改易になった時、浅野内匠頭は収城使に任じられて松山城の受け取りに行きました。それに先立って家老の大石は松山城に乗り込み収城の手筈を整えました。お家断絶に不満を持つ水谷家の家臣は武装して一戦を交える覚悟を固めていて一触即発の緊張した状態でしたが、大石は水谷家武士団の誇りを重んじて誠意ある説得を行い、全く血を見ることなく、無事に主君が収城使の役目を果たすことができるよう尽力しました。半次郎はこのような話をそらんじていましたので、鶴ケ城の降伏式にもそれを参考にしたのではないでしょうか。<o:p></o:p>

後日、半次郎は桐野利秋と改名し西南戦争の事実上の指揮を執りますが、この降伏式で涙を飲んだ會津武士、佐川官兵衛らと白刃を交えました。皮肉な巡り合わせでした。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

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泣血氈

2007-10-17 11:49:47 | 歴史

會津戊辰戦争の終結となった降伏式は、鶴ケ城に隣接した甲賀町通の内藤介右衛門邸の庭園、現在の白露庭で慶応四年(1868年)922日(旧暦)に行われました。巳の刻(午前十時)に追手門に白旗が掲げられ、すべての砲声が止みました。降伏式は式場に薦を敷き、その上に緋毛氈が敷かれてとり行われました。藩主容保公、並びに喜徳(のぶのり)父子が着座し、西軍は中村半次郎軍監、山県小太郎軍曹が迎えました。二公は立礼して恭しく「臣容保恐謹乍」で始まる降伏謝罪の書を総督府に上呈しました。<o:p></o:p>

緋毛氈は式の後、秋月悌次郎が細かく切り分けて生き残った會津藩士に配りました。これは會津藩士が血の涙を流した泣血氈(きゅうけつせん)と呼ばれ、この日の屈辱を忘れまいとの思いを込めた決意の証でした。泣血氈は、白虎隊士が自刃した飯盛山の麓にある「白虎隊伝承史学館」に今も静かに眠っています。<o:p></o:p>

思えば、戦闘は弓馬刀槍対、城の裏山の山上から打ち出す重火器(アームトロング砲)の戦、兵器力において江戸時代対近代の差がありました。物理的な破壊力に圧倒的な格差があり、勝敗の帰趨は始めから決まっていたとも言えるでしょう。(なお、この直前の北越戦争で越後長岡藩は敗れはしましたが、執政の河井継之助は当時としては世界に冠たる火力を備えておりました。長岡藩の敗因は小藩故に兵士の数と練度不足もあったのでしょう。)會津藩には元より武力により戊辰戦争を勝ち抜くという発想が微塵もなく、また火力で武装するという経済的・時間的な余裕がありませんでした。松平容保公は藩祖保科正之公と同じく、王道のみを希求する至誠の武人でありました。<o:p></o:p>

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鶴ケ城 開城使

2007-10-13 15:52:19 | 歴史

鶴ケ城を開城することに決定した時、それを西軍に伝える使者である開城使に選ばれたのは手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)と秋月梯次郎の二人でした。二人とも京都では公用方を担当していましたので、他藩との折衝の適任者とみなされていました。降伏の使者には誰もなりたくないというのが大多数の偽らざる本音でした。なお、手代木直右衛門の実弟には旗本の佐々木家に養子に行った剣客の佐々木只三郎(たださぶろう)がいます。佐々木只三郎は見回組の中心人物で鳥羽伏見の戦の際に負傷して紀州で他界しました。坂本竜馬の襲撃団の一人とも言われています。<o:p></o:p>

さて、鶴ケ城を抜け出した二人は西軍の重囲をくぐり抜けて、ようやく米沢藩の陣営に到達することができました。<o:p></o:p>

そこで、西軍の中核であった土佐藩への仲介を頼み、明日は土佐藩に赴くことが決まったところで、米沢藩士、河村氏が、「現在、弊藩は會津藩と同盟しているが、開城使二人の今後の生死は保証出来かねること、また、城への帰還もできないことがあるかも知れない。もし、何か遺言があれば、必ず貴家に届けましょう」という好意に溢れた申し出をしました。それに対し手代木直右衛門は憤然として、言下に「私は既に一身を公に捧げている。己の身がどうなろうと、悔いはなく、私が絶命したと聞けば妻子は敵の刃に伏するでありましょう。遺言などありません」と応じました。秋月梯次郎はしばし沈思した後「今日のことは天命を待つだけです。万一私が殺されたならば、親を持つ子の情として忍びない思いです。ついては、どうぞ慈母にこの手紙と金子とを贈っていただきたい」と言って涙を流したとのことです。応対した河村氏は「手代木氏は誠に武人の鑑、秋月氏も武士として、手代木氏に劣るところは少しもありません。高名な学者である上、死に臨んでも悠然として忠孝の道を忘れない」と評したとのことです。<o:p></o:p>

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漢文素読

2007-10-10 08:50:48 | インポート

漢文を、返り点(レ)や順序符号(一、二、三、上、中、下など)を用いて読み降し文に変換する方法を日本人が編み出しました。大変偉大な発明です。このようにして中国4000年の叡智を記述した厖大な漢文を日本文としてたやすく理解することができます。意味が分かっても分からなくても暗記してしまうのがいいようです。暗記してしまうと、その時は理解できなくても、いつか、はっと意味を悟ることができるようです。これだと子供でも勉学が可能です。この漢文素読は江戸時代から盛んに行われ、我が国の多くの人々の教養の基礎になって来ました。森鴎外や夏目漱石の漢文の素養も漢文素読によって培われました。豊富な漢文からは人生の指針を沢山、学ぶことができます。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

ここで、最近、目にした 良い文をいくつか紹介します。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

礼は未然の前に禁じ、法は已然(いぜん)の後に施す。<o:p></o:p>

法の用を為す所の者は見易くして、礼の禁を為す所の者は知り難し。<o:p></o:p>

     (「史記」 太子公自序)<o:p></o:p>

(要約)礼儀は何か事が起こる前に未然に防ぐための手段であり、法律は何か事が起こった後にその処理をするための手段です。<o:p></o:p>

法の効用は分かり易いけれども、礼儀が禁じている所以はわかりにくいものです。<o:p></o:p>

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子曰く、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思ひ、不賢を見ては内に自ら省みよ。<o:p></o:p>

       「論語」里仁<o:p></o:p>

(要約)賢明な人物を目にした時は自分も同じようになりたいと願い、賢明とは言えない<o:p></o:p>

    者を目にした時は自分も同じように愚かなことをしていないか反省することが大切です。<o:p></o:p>

人の短を道(い)ふこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。<o:p></o:p>

人に施しては慎んで念(おも)ふこと勿かれ、施しを受けては忘るること勿かれ。<o:p></o:p>

       (後漢 崔えん座右銘)<o:p></o:p>

(要約)他人の短所を言ってはいけない、自分の長所を口にしてはなりません。<o:p></o:p>

    他人に何かしてあげた時はそれを早く忘れなさい。他人に何かしてもらった時は<o:p></o:p>

   それを絶対に忘れないようにしましょう。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

百術は一誠に如かず<o:p></o:p>

(要約)百の姑息な方策より、一つの誠が勝ると言う意味です。<o:p></o:p>

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一人称の言い方

2007-10-07 19:37:06 | 文化

 英語の一人称はまず「I」に決まっていますが、日本語の一人称はどう言ったらいいでしょうか。<o:p></o:p>

私の場合、外では「私」、勤務先などでは「私」か「小職」。<o:p></o:p>

職場などで、時に、「小生」を使う人がいますが、私はこの語を好みません。<o:p></o:p>

たかが、一人称ですが、使うのに時と場合があり、難しいものです。<o:p></o:p>

拙宅、拙文、拙著、拙僧(お坊さんの場合)という言い方がありますが、私は「拙者」が好きです。使うのにちょっと勇気がいりますが、プライベートな場合には問題ありません。<o:p></o:p>

将棋の原田泰夫九段は、テレビなどに出演中も、常に「原田はこう考える」という樣に使われていました。この言い方も味わいがあります。<o:p></o:p>

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一張一弛

2007-10-02 10:42:26 | 人生

一張一弛(いっちょういっし)は「礼記」に書いてある孔子の言葉です。<o:p></o:p>

子曰く「張りて弛めざるは文武も能くせざる也、一張一弛は文武の道也」<o:p></o:p>

文武は中国古代周の時代に善政の手本を敷いた文王、武王のことで、孔子は「礼記」で良い政治の要諦を述べています。<o:p></o:p>

厳しいだけではいけない、時には緩やかに治めるのが肝要と説いていますが、これは教育についても言えることです。時にリラックスすることが大切です。水戸徳川家の弘道館の教えでもあるそうです。すなわち、弘道館で学問に励み、偕楽園で心身を休めることを言います。<o:p></o:p>

弓の弦を張ったり緩めたり、琴の弦を張ったり緩めたりすることも一張一弛と言います。<o:p></o:p>

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