yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

奨励会

2013-11-30 05:39:15 | 将棋
奨励会は、将棋のプロ棋士養成期間です。去る9月7日に、26才の年令制限規定により退会を余儀なくされた青年がいました。プロ棋士(四段以上)の一歩手前の三段リーグにおいて上位2人になれないまま、26才を迎えた鈴木氏です。小学2年生で将棋を始め、15才で奨励会に入りました。11年間の奨励会生活をふりかえり、「得た物も沢山あるが、他人にはお勧めできない。厳しい世界でしたから。」と語りました。26才になって、別の人生をスタートさせることになる制度に厳しいものを感じます。スポーツや芸能など他の分野でも似たことがあるのかも知れませんが、もう少し若い時に人生設計をやり直せる、環境や制度が整っていたらと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天知る地知る我知る子知る

2013-11-27 05:53:46 | 文学
「悪事千里を走る」とか「神はお見通し」などといわれるように、悪事はとかく顕(あらわ)れ易いということです。悪事や不正は発覚するものだというたとえに「天知る地知る我知る子知る」という言葉もあります。「子」は「し」と読み、「あなた」という意味です。
これは「後漢書・楊震伝」にある故事です。後漢の学者、楊震に推されて官吏になった王密が、金十斤を賄賂として贈ろうとして「夜なので誰にも気付かれません」と言ったところ、楊震が「天知る地知る我知る子知る 何をか知る無しと謂わんや」と答えたということです。

英語では「The day has eyes the night has ears」 (昼に目あり夜に耳あり)と言います。
また、「老子」にある「天網恢恢疎にして漏らさず」ということわざもあります。天の網は抜け穴だらけ、隙間だらけのように見えるが、その実、どんな小さな悪事でも決して見逃すことはない。天罰からは決して逃れることが出来ないという意味です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こま 考

2013-11-24 07:00:04 | 文学
文書作成に日本語入力を使っていて気付いたのですが、「こま」と言ってもいろいろあるようです。「広辞苑」を見ると次のように書いてあります。
(1)狛:狛犬の略
(2)駒:馬の子、馬、乗用の馬、三味線の弦の台、将棋の駒
(3)齣:小間、一場面、一区画、講義などの時間割の一区画
(4)小間:少しの間、小さい室
(5)独楽:くるくる回る子供の玩具
(6)高麗:朝鮮の国の一つ・高句麗、高麗

最近、(2)と(3)に関して、下記のような「行き違い」がありました。
大学で講師をしている知人から、「その時間は、引っかかる駒がある」というメールを受け
取りました。私は最初、「彼の大学の構内には馬が闊歩したりしていて、通行が不自由なのか」、などと思いました。少し考えて、「講義時間が重なる」という意味かな、と思い至りました。そういえば、私も「齣」という漢字を日常的には使いませんので、駒という漢字から齣を直ちに連想できませんでした。このような難しい漢字を使わなくても、「講義時間が重なる」
と平易に表現すればよかったのではないかと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百言不如一誠 百考不如一行

2013-11-21 05:43:00 | 文化
「百の言葉より、ただ一つの誠の心が勝る。」「百の議論より、ただ一つの行動が勝る」という意味です。「百考ハ一行ニシカズ」は11月12日に小泉純一郎・元首相が、発言の中でこの言葉を引用しました。原発の将来について、傾聴に値する提言ではないかと感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日 用、今日 行く

2013-11-18 05:55:58 | 文化
当然のことですが、教養(きょう よう)と教育(きょう いく)は、シルバー世代にはとりわけ、重要な意味があります。
「今日 用(教養)と、今日 行く(教育)」。すなわち「今日、用がある。今日、行く所がある。」は生き甲斐であり、脳と体の活性維持に有効であると思われます。

「今日、用がない。今日、行くところがない。となったらもうボケるしかない」と多湖輝先生は書いています。

多湖輝 「100歳になっても脳を元気に動かす習慣術」 日本文芸社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸町奉行

2013-11-15 06:37:45 | 歴史
江戸時代、江戸の町の司法を司ったのが江戸町奉行です。南町奉行と北町奉行があり、月番で交互に担当しました。八代将軍、徳川吉宗の時代の南町奉行、大岡越前守が有名です。また、時代が下りますが、北町奉行、遠山金四郎も庶民に人気がありました。ところで江戸町奉行は町人を対象としていました。武家は大目付、寺社は寺社奉行が管轄しました。南町の方が北町より奉行の格が少し上であったようです。南町奉行は、呉服橋御門内にあり、主に、江戸の南側を担当し、北町奉行は八代洲河岸(やよすがし)内にあり、江戸の北側を担当しました。奉行の下に御家人出身の与力が南町、北町おのおのに25人いました。映画「八丁堀の七人」に出ている青山久蔵(村上弘明が出演)が与力です。与力の下に同心がいました。同心の人数は南と北を合わせて30人程度でした。与力と同心を合わせても80人ですから、百万都市、江戸を取り締まるにはあまりにも人数が少ないと思われます。余程、犯罪が少なかったのでしょう。ちなみに、現在の東京の人口は、江戸時代の約10倍の1300万人です。東京都の警察である警視庁の警察官の数は4万3千人と言われています。それを考えると江戸町奉行所の人数、80人は、驚くほど少ない数と言えるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Be Gentleman

2013-11-12 06:38:00 | 文化
アメリカから日本に渡ってきたクラーク博士は札幌農学校で教鞭をとり始めました。当時の生徒たちは武家の子弟でしたが、武士が農業に携わることに対して鬱屈した感情もあったのでしょう。飲酒や喧嘩をする腕白な生徒達でした。学校では細かい校則を作って子供をしつけるような対策をとったということです。しかし、生徒の腕白振りは収まることがありませんでした。クラーク先生は意を決して生徒達に向かい、大切にアメリカから持参したワインを叩き割って、「私はワインを断つことにした。君達も飲酒を止めよ」と言いました。そして、校則を書いた文書を破り捨てた上で、「今後、校則は廃止する。君達に、ただ一言、Be Gentleman」と諭しました。この後、腕白な生徒は真摯な気持ちで勉学に向かうことになったということです。
さて、やはりアメリカに留学をした、元・会津藩士、山川健次郎は、九州の財閥、安川敬一郎と共に明治専門学校 (九州工業大学の前身)を開きました。健次郎は明治42年の入学式で、九州を中心に全国から集まった俊英である新入生を前にして訓辞しました。「本校は単に技術者を養成するのみの学校にあらず、技術に熟達せるジェントルマンを養成する学校である」と生徒達に切々と訴えました。また、次のような徳目も掲げました。
一 忠孝を励むべし
一 言責を重んずべし
一 廉恥を修むべし
一 勇気を練るべし
一 礼儀を乱すべからず
一 服従を忘るべからず
一 節倹をつとむべし
一 摂生を怠るべからず

まさに會津武士道の徳目を見るようです。若い頃、會津日新館で学び、白虎隊士でもあった健次郎の面目躍如たるところです。健次郎は後に東京大学総長になり、白虎隊総長とも言われました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪馬台国 所在地 論争

2013-11-09 06:22:45 | 歴史
日本の歴史において「邪馬台国が日本のどこにあったか」については、多くの人の間で論争が続いています。
さて、「邪馬台国の女王は卑弥呼」とよく言われますが、この表現は厳密には誤りだそうです。卑弥呼は、倭の国の首都・邪馬台国の女王ではありますが、倭の君主というのが正しいようです。
邪馬台国の所在地については、北九州説と畿内説があります。
近年の考古学の知見は、邪馬台国畿内説の確定に向けて一手一手と駒を進めている感があります。ただ将棋と違って、「完全に詰め切ることはできないだろう」と、考えられています。なぜなら、邪馬台国は、根本的には文字資料に基づく文献史学の問題であり、物言わぬ土中の非文字資料を扱う考古学では、最終的には決着できないからです。纏向(まきむく)遺跡群の傍らに、3世紀中頃に築造された巨大前方後円墳の箸墓を、女王卑弥呼の奥津城とみる考古学者も多いのですが、墓誌銘をもたない日本列島の古墳で、被葬者の個人名が完全に判明することはありえません。つまり邪馬台国所在地論争は、勝負がつきそうに見えて永久に詰まることのない将棋の攻めと守りを繰り返すように、いつまでも続いていくでしょう。

   松木武彦 「邪馬台国所在論争は決着がつくか?」 學士會会報 No. 902
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時憩 良寛

2013-11-06 05:58:28 | 文学
良寛の漢詩、五言古詩を紹介します。

 時憩
擔薪下翠岑
翠岑路不平
時憩長松下
静聞春禽聲

時ニ憩フ

薪ヲ擔(にな)ウテ翠岑(すいしん)ヲ下ル
翠岑路ハ平カナラズ
時ニ憩フ長松ノ下
静カニ聞ク春禽(きん)ノ聲

「訳」

少し欲張って多めの薪を背に春の峰を下る。
目には美しいみどりの峰であるが、馬の背のように狭い路は、まことに凸凹している。
薪の重みも、一歩一歩、肩にかけた細い縄を通して、肩にくい込む。
もう少し、もう少しと歩みながらも、丈高く碧空にそびえる松の下にたどり着くと、やはり自然と休んでしまう。
春とはいうものの、こう体じゅう汗ばんでくると、松の木陰が好ましい。
肌に風を入れると、どこからともなく鶯の声。耳を澄ましていると、あたりの静けさがひときわ深く感ぜられる。

「翠岑」は、緑の峯、春の青々とした峯の意。「春禽」は春の鳥、越後では鶯と推定されます。枯淡素朴に見えますが、句と句の取り合わせと運びが自然で詩情をもりあげています。


吟剣詩舞振興会 「吟剣詩舞道漢詩集 絶句編」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南風 考

2013-11-03 06:37:18 | 文学
「南風」は雅語で、「はえ」と読みます。南から吹く風で、これが吹くと天候が変化する前兆といわれ、漁師は警戒を強めるそうです。南風がついた雅な言葉は、いろいろあります。

「白南風」しらはえ 梅雨があける6月末頃から吹く南風のこと   盛夏の季語
「黒南風」くろはえ 梅雨の始めの頃に吹く強い南風のこと     盛夏の季語

また「南風競わず」という語もあります。これは「春秋左氏伝(襄公十八年)」によります。
南方の歌謡の声調が北方の歌謡に負けていることから、南方の国の勢力が振るわないこと。
日本では南朝の勢力の振るわないことを言うそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする