yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

お田 真田幸村の娘

2016-07-29 05:28:25 | 歴史
関白三好秀次が、秀吉に疎まれ自害した後、一族は処刑されましたが、その頃、真田幸村は、秀次の娘、「たか」を救い出し、かねて話があった大谷刑部の娘を正室にするとともに、たかを側室にすることを太閤殿下に願い承諾を得ました。幸村の義侠心により、たかは処刑を免れ、一命をとりとめました。「たか」が、幸村との間にもうけた子供が、幸村の五女・お田と三男・幸信でした。後に、お田は、出羽、亀田藩(現在、由利本庄市)の当主、岩城宜隆に嫁ぎました。田は母、隆清院と弟、真田幸信をも亀田藩にひきとりました。真田幸村は大阪の陣で戦死し、幸村家は滅亡しました。しかし、幸村の娘、お田のおかげで、三男幸信は事実上、真田幸村家の再興を成し遂げました。姉のお田とそろって市内の妙慶寺に眠っています。
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猗器の誡(いきのいましめ)

2016-07-26 05:32:09 | 文学
猗器は水の容器で、空の状態では傾き、適量ならまっすぐに、満杯になると転倒する。それを孔子が人間の高慢な心に例えて弟子たちを諭した、という故事があります。中村不折にも、これを題材にした絵があるそうです。
また、「猗」の字に関連した言葉として、「陶朱 猗頓の富」があります。淘朱は越の名臣、范蠡(はんれい)の後の名です。越王、勾践(こうせん)に会稽の恥」を雪(すす)がせ、越をして天下に覇をとなえさせた後、越を去って斉に移り、巨万の蓄えました。猗頓(いとん)も魯国の大富豪でした。なお、猗は、「き」と読むこともできるようです。
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一億総白痴化

2016-07-23 04:52:20 | 文化
昭和32年(1957)に評論家の大宅壮一は、時代の風潮を「一億総白痴化」と嘆きました。当時、始まっていたテレビ放送に、日本国民は夢中になっていましたが、大宅氏はテレビというメディアは低俗なものであり、こればかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう、「一億総白痴化する」と警鐘を鳴らしました。
さて、作家の柳田邦男氏は最近のネット依存の風潮を「第二次一億総白痴化」と評しています。多くの情報がネットで検索すると簡単に得られますから、自ら考え、自ら調べ、資料の端々に潜む重要な事を見落としてしまう。結果、想像力や感性が低下する。スマホやゲームや不要不急の通信に貴重な時間を浪費するネット社会に捕らわれている、こうした風潮を批判しています。不肖の日々にも思い当たることが多々あります。
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会津藩士 高遠以来

2016-07-20 05:14:48 | 歴史
会津藩の初代藩主 保科正之公は、二代将軍徳川秀忠公の庶子であり、信濃高遠藩の藩主でもありましたが、出羽山形に移封の後、1843年に会津に入部しました。正之公は、三代将軍家光公薨去の後は、四代将軍家綱公の補弼役、事実上の副将軍として幕政に参与し、天下の安定のために献身しました。正之公がこのような生涯を送った結果、初めから高遠藩保科家に仕えて正之公とともに、山形、会津へと従った最古参の家臣とその子孫たちは、誇りをこめてみずからの家系を「高遠以来」と称しました。その中でも上士であった井深、簗瀬、田中、西郷、内原、梶原、北原、小原、三宅の九家は家老職に昇り得る名門でした。幕末に活躍した秋月悌次郎、胤永(かずひさ)も「高遠以来」の一つ丸山家の出身でした。シンガーソングライターの矢野顕子氏の母堂、鈴木淳さんも丸山家の子孫で青森市に住み、医師の夫人ながら延命のための医療を拒んで逝去しました。サムライのように壮絶な最期といわれ、会葬者に次の言葉を残しています。

  この度 寿命によりお別れする事となりました。幸い家族・友人・趣味に恵まれ楽しく
過ごさせていただき感謝申し上げます。この先は宇宙の塵となり自然の大循環に組み込まれ やがて他の生命誕生に参加することでしょう。

    雪ひとひら川面に映る灯をとりに

御献花ありがとうございました。 
       
平成十三年二月十二日          鈴木淳

      NHK ファミリーヒストリー 矢野顕子
      中村彰彦 「落花は枝に還らずとも(上)」中央公論新社

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フライホイール蓄電システム

2016-07-17 04:58:25 | 文化
フライホイール蓄電システムは、装置の内部にある大型の円盤(フライホイール)を回転させることによって電力を運動エネルギーとして貯蔵し、必要に応じて運動エネルギーを再び電力に変換するシステムです。電力貯蔵システムとして注目を集めている蓄電池と比較すると次のような特長があります。
1. 極めて急峻な充放電に対応可能
2. 充放電の繰り返しによる劣化が少ない

 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)は、世界最大級のフライホイール蓄電システムを開発し、山梨県・米倉山地区で実証試験を行っています。そこにある物は、外径2m、質量4000kgのフライホイールで超電導磁気軸受の上に非接触で浮上させ、真空容器の中で最高60000回転/分で回転させることのより、運動エネルギーを蓄えるというものです。電気出力300kW、蓄電容量100kWという設計です。このシステムの核心となる超伝導磁気軸受は、イットリウム系高温超電導線材の超電導コイルと高温超電導バルク体の間に働く強力な磁気反発力
による非接触で低損失な軸受であり、古河電気工業株等が実現しました。

 本田豊 「十聞百見」電気学会誌 2016 Vol.136 No.4

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徳国 美国 日本

2016-07-14 05:06:47 | 文学
このタイトルは中国語です。「徳国」はドイツ、「美国」はアメリカを意味します。日本語では、独国、米国、日本です。また、中国語で猪肉は、日本では豚肉のことです。我々には紛らわしいのですが、言語が異なると、こうしたことになるのでしょう。中国語では「日本」をリーベンと発音するようです。「日本人」はリーベンレンと言うそうです。ちなみに中国語でイギリスは「联合王国」というようです。
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ニーチェの言葉

2016-07-11 05:04:06 | 文学
「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」というニーチェの言葉があるそうです。19世紀末のドイツの哲学者の遺稿、「権力への意志」に、これに関連した文があります。
世界はいつもある視点から捉えられる。言いかえると、どこからどう見るかで、その見え姿も変わる。であるから、解釈から切り離れされた「事実」そのものがあるわけではない。世界は常に別様にも解釈できる。「事実」を意味する英語の「ファクト」はラテン語の「作られたもの」(ファクトゥーム)に由来する。
ニーチェの言葉ですから深遠な含蓄があるのでしょうが、私は疑問を覚えました。例えば、物理学は、多くの人が認める地球の公転のような自然現象という事実を肯定することから出発して、宇宙全体の物理現象を合理的に説明できる法則を研究する学問です。また、誰もが認識できる殺人などの犯罪は、その事実を出発点として、捜査・検挙・裁判などという経過を積み上げて社会秩序の安定を実現しています。
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ニホニウム

2016-07-08 04:53:39 | 科学
  理化学研究所の森田チームは、第113番目の元素を初めて発見しました。既にこの元素の命名権を獲得していましたが、ニホニウム(NIHONIUM)、Nhを6月8日に国際機関であるIUPACに提案しました。欧米以外からの元素の発見は初めてのことです。ニホニウムが元素の周期律表に載ることは、とても名誉はことであり、ノーベル賞受賞クラスの快挙という人もいます。森田浩介九州大教授等の実験は、原子番号30の亜鉛に、原子番号83のビスマスを高速で衝突させ、核融合のような反応を繰り返し行い、遂に、新元素の発見に到ったということです。不成功が続く日々において、113円を入れた小袋を沢山用意して、神社に行くたびに113円を供えたというエピソードもありました。「人事を尽して天命を待つ」心境であったそうです。森田教授は、教科書の周期律表の中に日本にちなんだ名前、「ニホニウム」を子供達が見ることにより、科学への関心を少しでも高めてくれることを期待していました。なお、このたび、115、117、118番目の元素もロシアやアメリカが発見しており、登録される予定です。
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銷夏の詩 袁枚

2016-07-05 05:21:10 | 文学
清の詩人 袁枚の七言絶句です。

  銷夏詩
不著衣冠近半年
水雲深處抱花眠
平生自想無官樂
第一驕人六月天

  銷夏ノ詩
衣冠ヲ著(つ)ケザルコト 半年ニ近ク
水雲深キ処 花ヲ抱ヒテ眠ル
平生自ラ想フ 無官ノ樂シミ
第一人ニ驕ル 六月ノ天

「訳」
   官服や冠をつける役人生活から身を引いてから半年近く、
水が清く雲の深いところで、花に取り囲まれて眠る自適の生活。
平生無官の楽しみを心にかけてきたが、その楽しみが実現した今日、
ことにこの炎天下の六月は人にいばってやりたいものだ。
 

「鑑賞」
  袁枚(1716~1797)は清の詩人。乾隆帝の進士に及第し、各地の知事を務め、年40
で官界から身を引き、随園という名の園を築いて悠々自適の生活を送りました。才思縦横、まれにみる天才である。 銷夏とは夏の暑さをしのぐという意味。二句と三句が眼目、自由気ままに生きた風流人の真骨頂がここにある。風流三昧、稚気満々の作とも言われます。一方、斎藤拙堂は「狂奴の故態」と切り捨てました。

   「吟剣詩舞道 漢詩集 続絶句編」 日本吟剣詩舞振興会
















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最後のオランダ人教師

2016-07-02 06:54:15 | 文化
幕府が招聘したオランダ人教師の中で、最後の一人となったのがA・F・ボードウィン(1822~1885)です。オランダのユトレヒト大学の医学部を卒業して、オランダ陸軍の軍医部に籍をおいた時に、幕府に招かれて来日しました。この間に明治維新がありました。新政府が明治の始めに、医学の教師国をオランダからドイツに乗り換えましたので、ボードウィンは日本の変節に憤慨して、「日本人は余りに虫が好過ぎる」と詰ったそうです。ボードウィンは不機嫌を託ちながら、オランダに帰るべく東京で過ごしていました。一方、新政府では、石黒忠悳(いしぐろ ただのり、1845~1941)が医学校の新設を担当していました。ある日、石黒は、オランダ語会話に堪能な司馬凌海(佐渡出身)とともに、ボードウィンをさそって上野の山を散策しました。当時の上野は彰義隊戦争の戦火で荒れはてていましたが、それでも寛永寺の建物の多くはなお存していて、さらには徳川将軍家の廟所もあり、樹林は深く、不忍池もしずまって別天地の観がありました。ボードウィンはこの景色をよろこび、とくに日本の寺院の閑寂なことについて大いにほめました。
 そこで石黒は、懐中から図面をとりだして広げ、「実は、この全山をつぶして学校と病院を
つくるべく計画をすすめています」と言い、意見を求めました。ボードウィンは驚き、「とんでもない謬見である」と全否定しました。世界の大都会で天然の庭園がない処では、総て人工を以て樹木を植えて新たにそれを設計さえするのである。然るに今此の幽遂にして、又と得がたい古い樹木のある景勝無類の地を潰し、折角の美観を形成する大木を切り倒すなどは無謀の甚しきものである。
 石黒も、もっともだと思いました。ボードウィンは入念にも、この件についてオランダ公使
に訴え、公使のほうから日本政府に説いてもらいました。日本政府も翻意し、大学の候補地を
一転して本郷台にある加賀藩邸に変えました。現在の東京大学の本郷キャンパスの由来がこれであり、ボードウィンの功績のひとつであったといっていい。

司馬遼太郎 「オランダ紀行」朝日新聞社

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