yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

ベクレルとシーベルト

2011-03-31 06:26:34 | 科学
原発問題に関連して毎日のようにベクレルとシーベルトという聞き慣れない単位を耳にします。これらは、比較的最近、統一された国際単位(SI Systeme Interenational)なので、学生時代にはあまり聞くことがありませんでした。現在は世界的に国際単位を使用することになっています。
ベクレルはフランスの科学者名で、1秒間に1個の原子核が崩壊する時に出る放射能の強さを示す単位でBqと書きます。ヨウ素131の場合は約1.7X10の10乗Bq/年です。(出典:日本原燃研究開発機構作成の資料)
シーベルトはスウェーデンの科学者名で、放射腺による人体への被爆量の大きさを示す単位で、Svと書きます。被爆量は放射線を出す原子の種類により異なります。例えばヨウ素131の場合、0.000043mSv/年です。
ヨウ素131から出る放射線に関して、ベクレルとシーベルトの関係を計算してみました。

人間が一生の間に浴びて健康への影響が無いとされる積算放射線量は、たとえば100mSvと言われています。人間の寿命が80年とすると100/80=1.25mSv/年 となります。これをベクレルに換算すると1.25/0.000043X1.7X10^10=49400Bq/年  になります。これは135Bq/日に対応しており、人間が飲んでもよい放射性ヨウ素入りの水道水の上限300Bq/リットルと近い数値であることがわかります。
 健康上、最も重要な指標は、一生における積算被爆量100ミリ・シーベルトのようです。
因みに以前は、ドイツの科学者レントゲンやフランスの科学者キュリー夫人の名前を採って
レントゲン(シーベルトの原単位)やキュリー(ベクレルの原単位)という放射線の単位がありました。
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日本の津波の歴史

2011-03-28 05:44:21 | 歴史
東北関東大地震に被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。このような時に、歴史の話は適切では無いかも知れませんが、歴史から学ぶことは極めて多いので、敢えて書かせていただきました。
わが国で起きた大津波の歴史を調べてみますと、古くは平安時代869年(貞観元年)の貞観津波です。仙台平野を水浸しにしました。(三代実録)。これに先立って841年には伊豆半島の丹那断層や長野県中部でも地震があり、864~868年には富士山が噴火、868年には兵庫県でも地震が発生しました。貞観の大津波の9年後には関東南部で地震、880年には中国地方や出雲地方で死者多数という地震がありました。887年には津波で大被害を出した南海地震が起きました。東海・東南海・南海地震のが同時に発生した可能性があったといわれています。この貞観津波の前後に起きた一連の災害と東北関東大震災が起きた現代とは似ているという見方もあります。もし、貞観津波の時代の事象が繰りかえされると、今世紀において、東南海、南海地震の発生が懸念されます。時代が下って1605年(慶長9年)の慶長大地震の時には慶長津波がありました。近いところでは1896年(明治29年)に三陸東方沖を震源とするマグニチュード8.2~8.5の巨大地震、明治三陸地震があり、10~20mの津波により約2万人の死者を出しました。その後の津波対策は、この時を基準に想定していると言われています。ついで今回2011年、東北関東大地震の津波です。1142年間に僅かに3回です。(チリ地震により日本に到達した津波被害の話はここでは除外しました。)この度、約千年に一回の津波が起きたのです。マグニチュード9.0という世界屈指の巨大地震により発生したものです。既に、TSUNAMIは世界共通の日本語になりました。津波被害が大きくなりがちな東北地方では営々として津波対策が行われてきており、高さ10mまでの津波に対応する堤防の建設などが行われました。しかし今回の津波の高さは、所により20mを越したと推測されており、残念ながら従来の経験に基づく津波対策は、あまり役に立たなかったことが証明されてしまいました。
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升田幸三語録―3

2011-03-26 06:36:35 | 将棋
将棋の勝負の世界に生きた、髭の升田先生の語録です。

升田先生の「笑えるときに笑え、いずれ泣くときがくる。」ということばを聞いて、米長(現日本将棋連盟会長)さんは次のように言いました。「同時に、負けて笑える幸せと、勝っても不幸になる人生があることを知らねばなりません。」

含蓄のある言葉ですが、米長さんの言葉の意味は完全には理解できておりません。
不肖、私も元気なうちにやれることは、できるだけやっておきたいなどと考えています。
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学んで思はざれば罔し

2011-03-23 06:04:09 | 文学
「論語」の「為政 第二」にある有名な言葉です。

子曰、學而不思則罔、思而不學則殆。

子曰ク、學ンデ思ハザレバ則チ罔(くら)シ、思フテ學バザレバ則チ殆(あやふ)シ。

本を読み、師について学び、識者の話を聞くなどいろいろ学んでも、自分の頭で考えぬかなければ物事は明確にならない。すなわち真に自分のものとはならない。また、考えても学ばなければ、独断に陥る危険性がある。

学んで記憶するだけでは不十分で、よく考えて本質を理解することが大事という意味です。
また、自分独りの考えだけで満足すると視野が狭くなり、独断的で一人よがりに陥ってしまう。学ぶことと考えることのバランスの大切さを指摘しています。
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原発正常化に尽力する人達

2011-03-20 16:40:44 | 文化
  千年に一度という東北関東大震災により、東京電力の福島原子力発電所は被災し、放射線が漏れる事態になりました。この事態を沈静化させるために、放射線の被爆の危険を冒して対策に当たっている人々、東電の関係者、自衛隊、消防隊など、使命感を持って命がけで復旧作業に従事しているすべての方々に敬意を表します。
この非常時に於て、ある東電関係者の下記の言葉は胸を打ちます。

「私も東電の関係者として対策し従事してきました。大津波警報の中、夜中の3時、足元も見えないまま、死ぬ覚悟で海の目の前での復旧作業、冷却機能を復旧しようとみんな必死でした。皆が疲労と空腹と戦い足を引きずりながら作業にあたっていました。冷却機能を復旧できなければ原発は爆発が起きてしまいます。それを防いで全号機を冷温停止させたのも東電です。
皆、自分の命を顧みずに停止作業を全うしました。
東電はすごく叩かれている。でも逃げずに命懸けで作業を続けているのも東電です。どうか非難しないで下さい。復旧作業に従事している同僚を見て東電の社員であることを誇りに思います。」

今日まで私たちは潤沢な電力の供給のもと、便利な生活を享受させて頂いてきました。それを支えている電力会社を非難するつもりは毛頭ありません。安全に作業を行い一日も早く、原発が正常状態に戻ることを祈ります。
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勝負の機微

2011-03-19 07:19:14 | 将棋
囲碁、将棋、ゴルフなどに共通する勝負の機微に関する話です。これらの勝負事において、すべて一流のS氏の弁です。勝負ごとに共通するのは、勝つことに拘(こだわ)ったり勝ちにいってはいけないそうです。特に囲碁、将棋は拮抗して進むものですから、一方的に圧勝することはないもの。つまりいかにミスを少なくするかで勝負が決まります。ゴルフもしかり。文芸や芸術作品の創作においても、うわべを飾ることにこだわらず、基本や信念に従って丁寧に真剣に取り組むことが肝要だそうです。
日本将棋連盟会長の米長邦雄元名人も同じ趣旨のことを「人間における勝負の研究」で書いています。将棋のある局面で最善手を見つけることも大切ですが、それよりももっと大切なのは悪手を指さないことです。しかし、悪手を一手指したからといって、それが致命傷に直結することは少なく、悪手を連続して指すから墓穴を掘るのだそうです。
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非常時の日本人の行動

2011-03-16 09:23:20 | 文化
  去る3月11日、日本の観測史上で最大のマグニチュード9.0という大地震に見まわれました。被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。このような大災害にもかかわらず、この際にとった日本人の行動は冷静、沈着であり、世界のマス・メディアからも大きな称賛と敬意が寄せられております。ある中国人は、「これだけの被害に直面したにもかかわらず、日本人は秩序を守り、錯乱せず、極めて冷静に振る舞っている。私は感動した。もし、中国で同じような災害が起きたら略奪などの犯罪が多発しただろう。私は被災されたすべての日本人に敬意を表する」と述べています。
また、震災の当日、首都圏において職場から帰宅難民となった大勢の人が、電車やバスを乗り継ぎ、あるいは徒歩などで自宅に向かいました。切符売り場やバスの停留所、コンビニの店先において、人々は整然とならんで順番を待ち、大きい混乱が全く無かったそうです。
こうしたところに、非常時においてさえ、日本人が礼節を守り、他人を思いやって助け合う温かい国民性を見て、誇りに思います。外国人も驚きを以って現代の日本人を見ているそうです。
我慢強く礼節を重んじる我ら日本人は、同胞を救援しながら整然と復興に向けて動き出しました。この人々のパワーにより大災害を克服する日が早く来ることを願いたいと思います。
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贈る言葉

2011-03-14 06:57:36 | 文化
この歌はご承知の通り、TBSで放映されたテレビドラマ「三年B組金八先生」の主題歌として歌われました。 作詞 武田鉄矢、 作曲 千葉和臣、 歌 海援隊
暮れなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉
悲しみこらえて ほほえむよりも

かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから
さよならだけでは
さびしすぎるから
愛するあなたへ 贈る言葉

夕暮れの風に 途切れたけれど
終りまで聞いて 贈る言葉
信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つくほうがいい
求めないで 優しさなんか
臆病者の 言いわけだから
はじめて愛した あなたのために
飾りもつけずに 贈る言葉

これから始まる 暮らしの中で
だれかがあなたを 愛するでしょう。
だけど私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない
遠ざかる影が 人混みに消えた
もうとどかない 贈る言葉
もうとどかない 贈る言葉

胸にしみ通るいい歌詞です。
これを歌った武田鉄矢さんも還暦を過ぎましたが、「人生いくつになっても勉強が大切」と言っていました。
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白石城

2011-03-11 06:05:00 | 歴史
白石城は宮城県の南部、白石市の中心部にある平山城です。この地は伊達家の重臣、片倉氏が古くから治めていましたが、1602年に仙台城の支城として片倉小十郎景綱が築城し、城主となりました。関ヶ原の戦の後、景綱、重綱父子は徳川軍の伊達政宗に従って大阪夏の陣に参戦しました。かねてより片倉氏は真田幸村の武勇を敬慕していましたので、夏の陣で幸村が戦死した時、重綱は孤児となった幸村の三女阿梅とその弟の大八を引き取り、白石に伴いました。そこで阿梅と大八は片倉家の人となりました。阿梅は良く治政を助け、夫重綱の死後、泰陽院として敬われ、城下の当信寺に弟の真田大八とともに埋葬されています。
 1615年には一国一城令が施行されましたが、伊達政宗公の権勢の故か、仙台藩のみは例外的に仙台と白石の二城が存続しました。
時代は下って幕末、明治に活躍した会津藩士、永岡敬次郎の漢詩に「白石城下ヲ過グ」があり、「會津三絶」になっています。
會津藩士、永岡敬次郎(1840―1873 字は子明、後に久茂と改名)は若くして学問に秀で、「日新館」においては才俊と言われ、江戸に出て「昌平黌」に学び、詩も能くしました。また敬次郎は学問のみではなく行動力に富んでおり、奥羽列藩同盟の締結の際には、梶原平馬の片腕として同盟の成立に奔走しました。
なお戊辰戦争の時には、仙台から兵を率いて会津に救援に向かいましたが入国できず、無念の涙を流しました。その時、白石城で賦した詩は「會津三絶」の一つとして読みつがれています。

  独木誰支大厦傾
三州兵馬乱縦横
羈臣空灑包胥涙
落日秋風白石城

独木誰か支えん大厦の傾くを
  三州兵馬乱れて縦横たり
  羈臣空しく包胥の涙を灑ぐ
  日は落ち秋風白石城

一本の木(會津藩のこと)で、誰か大家(幕府こと)の傾くのを支えることができるでしょうか。奥羽越は戦いに敗れ、乱れてしまいました。かつて中国の包胥(ほうしょ)が、自国の崩壊の危機に隣国に赴き、涙ながらに救援を乞いましたが不首尾に終わりました。つい、先頃まで奥羽列藩同盟の中心であった白石城にも秋風が吹いています。

その後、明治になってからも敬次郎は新政府への抵抗を続けました。前原一誠、奥平謙輔等と共謀し、「萩の乱」に呼応して東京で決起する約束をしましたが、警吏に偵知されるところとなりました。同志と共に千葉に向かう途次、舟着き場の思案橋において補吏と格闘となり負傷しました(思案橋事件)。その時の傷がもとで、情熱の人、敬次郎は三十八歳で獄中において他界しました。
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仰げば尊し

2011-03-08 06:03:36 | 文化
嘗て、卒業式の定番として歌われた「仰げば尊し」に関する話です。従来、この歌は明治初年に、文部省音楽取締掛、伊沢修二の作詞・作曲いわれていると、このブログに書きました。原曲についてはわかっておらず、長い間、小学校唱歌集における「最大の謎」とされて来ました。ところが最近になって、一橋大学名誉教授の桜井雅人氏が、この歌の曲の出典を突き止め、アメリカで19世紀後半に初めて世に出た Song for the Close of School「卒業の歌」の旋律が、「仰げば尊し」の原曲であることが判明しました。原歌には「師の恩」「身を立て、名をあげ」という歌詞は無いそうですが、私は日本の「仰げば尊し」の歌詞、曲、共に愛着を感じています。
 1.仰げば尊し 我が師の恩
    教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
    思えばいと疾(と)し この年月(としつき)
    今こそ別れめ いざさらば
2.互(たがい)に睦みし 日ごろの恩
   別るる後(のち)にも やよ忘るな
   身を立て名をあげ やよ励めよ
   今こそ別れめ いざさらば
3、朝夕馴(なれ)にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば
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