山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第10回>

2014-11-18 07:48:26 | くるま旅くらしの話

【今日(11/18)の予定】 

  道の駅:とよはま →(R11)→ 松山市・宇和島市方面(詳細は未定)

【昨日(11月17日:月)のレポート】  天気:晴後時雨

<行程>

道の駅:たからだの里さいた →(R32・R319他)→ 丸亀港(船便往復) ⇔ 塩飽本島(重伝建笠島地区探訪) →(R11他)→ 道の駅:とよはま(香川県観音寺市)(泊)

<レポート>

 財田町は合併して三豊市となっている。この道の駅には何度かお世話になっているけど、近くの温泉に入って泊るだけで、付近の様子などは全く知らないままだった。今日は早朝に少し付近を散策することにした。鮎返しの滝というのがあるというので、それを見に行くこととした。10分ほど歩いて、坂を下り川の砂利道を少し歩くと、その滝があった。高さは15mほどか、きりっとした、なかなか美形の滝だった。今はこの川の直ぐ下がダム湖になっていて、川を上る鮎もいないようだが、その昔はここまで登って来た鮎たちがこの滝にぶつかって遡上を諦めて引き返したという。来て良かったなと思った。

       

三豊市財田町の道の駅近くにある鮎返しの滝。小型の滝だけど、なかなかの風格のある滝だった。

 その後元の道に戻って、急な坂を少しのぼると老人ホームがあり、その庭の隅に立派な石の碑があるので近づいてみたら、そこには儘誠学園発祥の地と刻まれていた。儘誠学園は尽誠学園であり、高校野球の甲子園出場などでも有名である。その創始者は大久保彦三郎という方で、幕末から明治の初期の頃にこの地に陽明学を基盤とする私塾を開いたのが始まりだという。今までまったく知らなかった、新しい発見だった。その他にも幾つか学ぶことがあり、良い散策時間だった。

    

盡誠学園発祥の碑。その昔の往時は鄙びた山地の傍らに過ぎなかったのだと思うけど、教学の精神に燃えた先達のエネルギーはここに学び舎の灯をともしたのだと思った。

 さて、今日のメインは丸亀市本島の重伝建エリアの笠島という所の探訪である。本島は文字通り瀬戸内に浮かぶ島であり、その昔は塩飽水軍の拠点の一つだった所で、江戸時代は幕府が塩飽エリアを管轄する勤番所が設けられていた所でもある。その島の一部に古い町並みが残っており、今日はそこを歩くことにしている。財田の道の駅は山の中だったが、先ずはそこを抜けだし、丸亀港に向かう。9時半ごろには着いたのだが、船に乗るのは人間だけで、車は港近くに置いて行かねばならないのに、駐車場が見当たらなくてしばらく困惑した。少し離れた場所にようやく置き場所を見出して、船乗り場へ。10時40分の乗船時刻で、帰りは本島を12時45発でと思っていたのだが、船乗り場で貰った資料を見ると、本島の港から笠島地区までは2kmもあり、往復すると少し時間が足りなくなることが判った。その後の帰りの便は17時台なのである。まあ、しかたないかなと思って諦めることにしたのだが、船便の時刻表をよく見ると14時台にもう一便があるのに気づいた。フェリーの時刻ばかり見ていたのだが、他にも客船の便があったのである。同一会社の経営なので、料金も同じということだった。これで安心して出航のフェリーに乗ることが出来た。

 本島には11時20分に着いて、そこからはちんたらと付近の景色などを楽しみながら歩いて笠島地区に向かう。30分ほどで到着する。笠島地区の町並みは、港町特有の細い路地に居宅が密集して建てられていた。船を用いての商いをする人たちの暮らしは豪勢で、どの家もしっかりした佇(たたず)まいをしていた。印象に残ったのは、板壁が焦げていたこと。焼いた板を壁に貼って防腐の機能を持たせているのであろう。町並みの保存状態はかなり高いレベルだなと思った。昔が良く残っているのである。しかし、町はひっそりと静まっており、人影は殆ど見られなかった。後で相棒からの、大阪の方からここの自家を見に来られたというご婦人の話では、今は若い人はここでは暮らしてゆけないので、殆どいないということ。そして僅かに住んでいる家には老人ばかりで、それもだんだん男性が亡くなって女性が多いとのこと。重伝建に指定されたとは言うものの、いずれの地区でもそれを維持することがこれからは大変なことなのだなと、改めて思った。   

    

       本島町重伝建笠島地区のマッチョ通りの町並み景観。

   

この町並みの建物は、皆焼いた杉の板らしき板壁で造られているのが印象的だった。

   

小栗家の景観。この家屋は屋根の葺き方がやや丸みを帯びているのが他にない特徴だとか。前のご婦人の左側はこの家の持ち主の方。右はさて?

 じっくりと町並みを散策した後は、来た道を左右ウロウロしながらのんびりと船着き場近くにある観光案内所に戻る。案内所の中にある食堂で昼食休憩。

   

乗船の待合所付近にある小さな広場にあった咸臨丸渡米150周年の顕彰碑。この咸臨丸には、かなりの数の塩飽出身の水夫が乗船して操船に携わっていたという。

 その後40分ほど待って帰りの客船の出発時刻となる。船は小型の高速船で、フェリーとは全く違った乗り心地だった。あっという間に丸亀港に到着する。本島の船に乗る頃から空が俄かに暗くなって、雨が落ちて来ていたのだが、丸亀港に着いた時は雨は止んでいた。しかし、路面は今降り止んだばかりのようにたっぷりと濡れていた。車に戻って、さて今日の宿を何処にするか。しばらく考えた後、温泉のある愛媛県西条市の道の駅:小松オアシスにしようかと思ってナビを入れたら、なんとこれから100km以上もあるという表示なので、これは行くのを取りやめ、より近い観音寺市の道の駅:とよはま(=豊浜)にすることにして出発する。16時少し前に到着。海のすぐ傍で、少し抵抗があったが、この先には他に適当な道の駅がないので、とにかく今日はここに泊ることにした。先着の岡山ナンバーのキャンカーの方に声を掛けられ、少し話をしたのだが、彼らはこれから当初考えていた小松オアシスに向かうとのこと。若い人はパワーがあっていい。自分たちはマイペースで行くことにしている。間もなく静かな夜を迎える。

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