山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

若者の激走を観る

2010-12-27 03:30:31 | 宵宵妄話

 

年毎年年末になると楽しみにしていることの一つに全国高校駅伝があります。それが今日開催されました。鋭く冷え込む都大路を疾走する若者たちの姿を見ていると、なぜか安心感を抱くのです。普段あまり、どこで何をしているのかがはっきりしない高校生という世代に対して、確かな存在感を感ずるのです。若者は真っ直ぐに生きて欲しいというのが私の願いですが、普段目に触れる若者といえば、その反対のような姿ばかりで、些か不安を覚えるほどなのでした。都大路を走る、どの若者たちにも、直向な走りに賭ける、それぞれの真っ直ぐな思いが、身体一杯に漲っており、実に爽やかです。一人ひとりには様々な事情があって、悩みや苦しみが伴っているのだと思いますが、走っている時の姿には、そのようなものは吹き飛んで、懸命さだけが伝わってきます。

私は、自分は体育系の道を辿ってきたと思っています。中学時代からバスケットボールを中心に、相当の時間を費やして来ました。特に高校時代は、自分の身体をつくる時期だと考え、勉学よりも運動に力を入れました。おかげで生来ずっと虚弱体質と思っていた身体は、頑強とは言えぬまでにも、それなりに自信の持てるものとなりました。今現在も元気で居られるのは、そのとき以来の体力の蓄積のおかげであり、身体を動かすことに何の厭(いと)いも戸惑いもない生き方につながっているのだと思っています。

様々な運動の中で、走るというのは、歩くことに続いた最もシンプルな基本動作です。しかし歩くのとは違って、一度に多大のエネルギーを消費しますので、その疲労度もかなりのものです。特に長距離走は持続的にエネルギーを使い続けるので、その使い方も使うための心の働きもコントロールするのが難しいものだと思います。

駅伝というのは、元々日本独自のレースだそうですが、いかにも聖徳太子の国らしい(和を以って尊しと為す)発想のスポーツのように思います。ま、そんな高尚な発想ではなく、単に江戸時代に、より発達した飛脚システムの伝統が、その根源にあるのではないかと思いますが、これをスポーツとして全国的な競技にまで高めたというのは、すばらしいことのように思います。マラソンは、個人の力量を計る競技ですが、駅伝は、集団・組織といった人間の社会システムそのものを反映させたものですから、そこに様々な要素が絡み合って、結果を出すための労苦は層倍するように思います。

それらの駅伝競技の中で、全国高校駅伝は実業団などとは違った新鮮さがあり、それが何よりも大きな魅力です。最近では留学生などが増えて、ちょっぴり違和感を感ずる部分もありますが、ま、同じ若者なのですから、その能力の違いは、我が国の運動能力のレベルを知る上で、参考としなければならないものなのでありましょう。

前置きはこのくらいにして、今日のTV観戦の感想です。先ずは女子の部。岡山興譲館高が優勝しましたが、心から拍手を贈りたいと思います。上位の各校が留学生の力に頼るところ大の中で、そんなものには頼らず、全員が力を合わせて勝ち取った栄冠には、まさに駅伝に相応しい価値が備わっていると思います。特に赤松姉妹のレースにかける思いとその結果を出した力には、大いなる敬意を表したいと思います。

留学生を保有した上位チームが常連化しているのには、少し興味をそがれるところもありますが、それでも少しずつ新しい展開の予兆のようなものを感じて、来年が楽しみです。九州勢の足踏み状況には、元福岡の住人として、少しもどかしさを感じます。また関東の住人としては、入賞圏に少数が辛うじて止まっている状況に寂しさを覚えます。わが地元の茨城県代表の茨城キリスト教学園は13位と大健闘でした。

男子の部の方は、鹿児島実業高が最終区間の競技場トラック内で逆転の勝利をものにし、悲願の初優勝を勝ち取りました。これも実に見事な駅伝の醍醐味を見せてくれたレースでした。心から祝福の拍手を送りたいと思います。このチームにも市田という兄弟ランナーがいて、大活躍でした。とてもいい雰囲気のチームのように感じました。

惜しくも2連覇を逃した世羅高は、頭二つも抜け出た超人のような留学生の活躍があって、これには驚かされましたが、残念には違いないけど、まあ満足すべき結果ではなかったかと思います。途中までのレースでは、須磨学園などが注目されましたが、やはりメンバー全員のベストの発揮を結集するのが難しかったらしく、今一の感じでした。男子の九州勢の活躍はまあまあといったところでありましょう。しかし、関東勢はこりゃあもう全滅といった感じです。地元茨城県代表の水城高は30位という淋しい結果でした。各校の来年度の再来と躍進向上を期待したいと思います。

ところで、私的に高校駅伝で最も興味があるのは、最下位争いです。どこも好き好んで最下位など争うはずもないのですが、結果としてビリの方に甘んじなければならないというのは、いかにも悔しいことだと思います。順位というのは非情なもので、各都道府県の代表としては、何としてもドン尻になるのだけは避けたいというのが切実な望みだと思います。しかし、勝負である以上、どこかが必ず最下位となるものなのです。今年の最下位は、女子が和歌山県の日高高、男子が北海道の室蘭大谷高でした。今までの成績を見ると、概して日本列島の北端と南端のエリアが駅伝は苦手のようです。

北海道は走るのには広すぎるような場所が多くて、その気になれない若者が多く、沖縄は走るのは、生き方に反した行為に近いのかもしれません。TV観戦では、絶えず上位の方にスポットライトが当てられますので、下位争いの実態などは、どうしても情報不足となり、結果を見て想像するだけになってしまいます。何故最下位となったかなどを探るというのは、傷口を抉るような行為なのかも知れず、あまり深入りすべきではないのかも知れませんが、低位校の現状を見ていると、どうしてなのかが気になります。

駅伝に勝つためには優れた人材を集めることが肝要なのでしょう。そしてそれは一人ではなく、少なくとも7人以上必要なのです。それらの人材を集めることが出来た学校が、上位に食い込める条件を備えることになる、というのが常識なのだと思います。しかし、私はこのような考え方には異論を挟みたいのです。

どんなことかといいますと、勝つために必要なのは優れていなくても良い、普通の走ることの好きな少年・少女と、その子たちがもっともと走るのが好きになるように導く、優れた指導者を用意すること、これが一番大切なのだと思うのです。特に大切なのは、優れた指導者です。素材が優れていることなどはそれほど重要ではないように思えるのです。というのも、普通に健康であれば、どんな人間でも可能性を秘めているからです。しかし指導者がダメだと、優れた素材ですらも力を伸ばすどころか、酷ければ芽を摘んで萎えさせてしまいます。厳しさの中に、自分の可能性を心底気づかせ、勇気を奮い立たせることが出来る指導者が、何よりも重要です。ま、これは私の独りよがりの思い込みなのかも知れませんが、それが出来た学校が一頭地を抜く結果を出すことが出来るのが駅伝という競技のように思えます。

出場の各校ともそれぞれのエリアの代表であり、それなりの優れた指導者に恵まれているのだとは思いますが、より上位を目指すためには、素材としての生徒を求めるよりも、指導者の一段のレベルアップを図ることが何よりも大切だということに力を入れるべきと考えます。下位に低迷するチームを見ていて、そのように思いました。子どもたちが力を発揮できないのは、指導者の力量の差ではないかと。

勝手なことを言うのがTV観戦者の特権のようなものだと思っていますが、今日のレースを見ていてタスキの渡し時に、渡す相手が見当たらなくてタイムを大幅にロスするケースが、同じ中継所で3件ほど発生し、真にけしからんと腹立ちを覚えました。これは恐らく大会運営者の不手際だと思いました。最初の中継所の場合でしたら、混乱が予想されるので、多少の手違いはやむを得ないと思いますが、5→6区での出来事なのですから、呼び出しの不手際は譴責の対象に値するものだと思います。大会を運営するサイドの関係者は、もっと気を引き締めるべきです。不手際による1秒のロスが、この1年間を汗と泪で厳しい練習に耐えてやってきた選手たちにとって、どんなに大切なものであるかを、もっともっと肝に銘じるべきです。運営関係者の立て続けの不手際に、興奮するほどに腹が立ちました。

最後にもう一度腹を立たせて、今日の駅伝のコメントは終わりです。

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