山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年のできごと印象3話

2010-12-30 00:06:05 | くるま旅くらしの話

 

 今年も残りがあと2日となりました。いろいろな出来事がありましたが、私にとって今年の出来事の中で強く印象に残ったものを三つあげると、「ロウビョウ、コピアポ、バカセイジ」となるように思います。

最初のロウビョウですが、これは老病ということです。老とは説明するまでもなく、私自身のことで、本物の老の中に足を踏み入れたということです。生・病・老・死は人間が避けて通れない人生の必須場面ですが、老というのはそれを実感するのに時間が掛かるものだと思っていました。それが古希を過ぎてからは一挙に身近な感覚となったのは、一体どういうことなのでしょうか。

私が今一番老を感じているのは、勿論身体的な衰えのことであって、精神的な面では人間は誰でも不老というのを実現できると思っています。しかし、人間は精神だけでは生きてゆけるものではなく、やはりそれを養っている身体というものが必要です。老いには様々なレベルが在るのだと思いますが、私にとっては、今現在が一番落差の大きい身体的レベルの下降場面に出くわしているように感じています。

只今は、ひたすら歩くことで老いの歯止めをかけることに専心していますが、この課題をクリアーするためには、さて、歩きの他に何を追加すれば良いのか、本気で考えておかないと88-55という願望(88歳までは旅に出かけたい)の達成は覚束なくなるに違いありません。今年はそれをしみじみと実感した年でした。

次が老とくっついている病のことですが、これは自分自身のことではなく、今年は相棒の家内の体調のことでした。犬張子のような感じのする相棒なのですが、その芯は結構しっかりしているらしく、もう40年以上も一緒に暮らしていますが、大きな病に見舞われたことは一度もありませんでした。これは大変ありがたいことで、人生の相棒としては、諸々の贅沢な条件を満たしていなくても、健康は最重要の、最強の条件だと思っています。相棒が病弱で夫婦双方が苦労されている方々を何人も知っていますが、それと比べると、私は幸せ者だと思っています。

その相棒が、今年の3月に突然事故に遭ったが如くに病に取り付かれ、大手術をしたのでした。これはショックでした。幸い術後の経過は良くて、安堵の胸を撫で下ろしていますが、病というものの恐さを改めて思い知らされた感じがします。病というのは、ある意味では老というステップを、一挙に消滅させてしまうほどの恐さを持っているような気がします。家内は今も闘病中ですが、私としては、優しい言葉を振り掛けるよりも、その病を忘れてしまって欲しいと願うゆえに、普段と同じ様に接しています。優しい言葉などばかり掛けていたら、芯が萎えてしまって病に養われるようになってしまうように思うからなのです。私流に家内を大事にしてゆくしかありません。何はともあれ、病のことは油断大敵です。

2番目のコピアポというのは、南米チリ国の鉱山です。そこで起こった落盤事故とその救出に至るまでの一連のニュースは、人間の可能性の限界を示すという意味でも実にショッキングな出来事でした。私が特にこの事件を強く思うのは、閉所恐怖症という性向を持つ自分には、到底耐えられない出来事のように思うからです。一昨年石見銀山の間歩を訪ねたとき、やむを得ず坑道の中に入ってしまいましたが、灯りや案内・解説板などがなかったら、直ぐにでも引き返したいほどの、落ち着かない環境でした。地表とあまり変わらない深さの数百メートルほどの坑道でしたが、コピアポは地下700mの空間で、そこまで辿り着くには5kmもあるという暗闇の中に閉じ込められたというのですから、これはもう、とんでもないことです。想像しただけで、発狂してしまいそうです。

全世界が固唾を呑む中で、閉じ込められた33人の生存が確認され、それから懸命の救出作業が開始され、続けられました。チリ国にとっては、この事件はいつかしら国を挙げての救出劇となったようでした。そして約2ヵ月半の後、無事全員が暗闇の穴倉の待避所から救出されたのでした。これはもう国境を越えての地球という天体に住む人類全体の感動の出来事だったと思います。これに似たような出来事は世界の各地で起こっているのかもしれません。人間の生死というものは、その極限状態において、その重さが初めて実感できるように思っています。コピアポ鉱山のこの事件は、その重さを世界に知らしめた、不幸中の大幸いだったような気がします。

彼らから見れば、日本人という地球の裏側に住む我々には、その後の事件の顛末がどうなったのかは全くわかりませんが、救出に至るまでの一連の世界中の人びとの祈りを裏切るような結果になっていないことを願っています。

最後のバカセイジは、言わずもがなのバカ政治のことです。このところの政治の失態というか、混迷ぶりは真にどうも、開いた口が塞がらないという感じがします。政権担当の民主党は羊頭狗肉の化けの皮がはがれたような感じですし、批判政党の雄たるべき自民党も、また何とまあ迫力のないことやら。どの政党も政治家も、口先ばかりがやたらに目立って、不信感は募るばかりです。現在のような連中が政治を弄している間に、この国は全く沈没してしまうのではないかと思うほどです。自分が存命の間は、地球も日本国もまだ生き残っては居るでしょうけど、この国に来世紀があるのか疑問です。

私はビジネスも政治もその基本として最も大切なのは、哲学であり、それに基づく信念だと思っています。これらは不動のものでなければならないと固く信じています。当世の政治家さんたちには、これらのものがどれほど備わっているのか、大いに疑問です。大口を叩きながら、最終的には無為無策で引退に追い込まれるなどという政治家は、この業界からは足を洗うべきです。理念を掲げず、人が喜ぶようなことばかりをべらべら喋って、その実践をないがしろにしたり、先送りばかりしているような政治には、もううんざりです。

まるで世襲のように政治屋を引き継いでいる輩が目立ちますが、本当の政治に携わるに相応しい人物が一体何人いるのか。又TVの人気者に類した出身の政治屋モドキも多くいるような気がして、これ又、うんざりするばかりです。大して中身のない有名人などが場違いの政治屋となり、走狗として党のために国会での一票を投ずるなどという、マスコミ芸人類の力を借りての民主主義などというのは、実にふざけた政治システムのように思えてなりません。

しかし、まあ、何よりも批判されなければならないのは、そのような輩を、見境もなく毎度選んでいる、国民一人ひとりということでありましょう。その中に自分も入っていることを思うと、これはもう選挙には棄権をするというのが、人間的には最も正当な行為のようにさえも思えてくるのです。棄権をしても、それをすればするほど見当違いの人物が選ばれる可能性があり、今の世は民主主義などという理想からは、随分と遠い所に朽ち果ててしまっている感じがするのです。

この国で最も政治が機能したのが何時の時代なのか解りませんが、単に内政だけではなく、世界に伍してという場合は、やはり幕末から明治の時代ではないかと思うのです。この時代には身分制度が引きずる汚職の類も多かったのでしょうが、政治に係わる人物の殆どの熱い思いは、国を守り、国民を奮い立たせるという一点では、揺るぎのない一致点だったのではないかと思うのです。清濁併せ呑むというのは、潔癖症の人間には、不潔と思う以外の何ものでもないのでしょうが、人間の世界では、清貧などというのは、国全体の活力を満たすという点では真に無力であり、隠遁者の思い込みに過ぎないような気もするのです。今の世は幕末から維新の後の国づくりにかけた政治家の哲学と信念が擦り切れてしまって、何とも早や、中途半端な泥舟に乗って騒いでいる人たちの集まりのように思えて、今年なんぞは、バカセイジと言いたくなってしまうのです。

政治の世界に、鍛え上げた哲学の基に、高い理想を掲げ、信念を貫き通す人物が現出することを心底願っています。

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