山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

石見銀山間歩の恐怖

2009-11-17 05:16:19 | くるま旅くらしの話

私が何時から高所・閉所恐怖症を自覚するようになったのか良く覚えていないのですが、子供の頃ではなく、大人になってかなり時間が経ってからのことのように思います。渋滞に巻き込まれた車の中で、かなりの時間殆ど動かない状態が続いている時、知らず冷や汗のようなものが全身から流れ出てきて、何だか知らないけど居たたまれない気分になったのでした。それは自分の意思でコントロールが不可能な出来事だったのです。このまま車に閉じ込められて動けなくなってしまうという恐怖なのでした。現実にはそのようなことはありえず、我慢していれば事態は改善されるのは良く解かっているのですが、それなのに冷や汗が出てくるのです。

子供の頃は、結構冒険派で、洞穴の探検などには興味があって、狭い箇所でも平気で潜り込んだりしていたのですが、現在ではとてもそのようなことは出来ません。臆病になったのではなく、勇気がなくなったのでもなく、身体がそれを受付けない症状を呈すのです。それは閉所恐怖症という、ある種の病なのではないかと自覚をするようになったのでした。これに合わせて高い場所も苦手になりました。特に足が地についていない状況での高所が苦手です。飛行機や橋などがその典型です。しかしこちらの方は、閉所の恐怖から比べれば遙かに小さいように思います。

このようなどうでも良い様なことを冒頭に書きましたのは、今回の旅で石見銀山を訪ねて、改めて閉所作業の恐ろしさを実感したからなのです。

石見銀山は日本の持つ世界遺産の中では最も新しく登録されたもので、2007年6月となっており、これは知床などよりも2年も後のことなのでした。世界遺産というのは、4つの領域(①文化遺産②自然遺産③複合遺産④危機遺産)があり、日本には現在①の文化遺産が11箇所、②の自然遺産が3箇所の計14箇所があり、③と④は無いという状況です。この中では石見銀山は(正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」)文化遺産ということになります。このほかにも世界遺産の登録を待つ暫定リストに12件、更にその暫定リスト入りを目指すものが3件あり、これらが全て登録されれば日本には29件の登録された世界遺産があるということになります。

ちょっと脱線しますが、馬骨的には世界遺産などというのは顕微鏡の世界の出来事に過ぎないと思っています。あと千年も経たないうちに、地球そのものが宇宙遺産となってしまいそうだし、もうすでにそうなっているのではないかという気がするのです。登録の如何を問わず、かけがえないものとしての存在をその要件とするなら、地球そのものがそれに当てはまるといえるのではないかと思うのです。暴論なのは承知していますが、日本国も、アメリカや中国という国そのものが、皆世界遺産の一つのように思うのです。現在登録の是非を云々しているものは、即世界遺産として登録を承認すべきです。何故なら地球そのものが既に宇宙遺産なのですから。

さて、元に戻って今回訪ねた石見銀山遺跡とその文化的景観のことを書きたいと思います。その最大のものは、「間歩の恐怖」ということです。間歩(まぶ)というのは、鉱石を採掘するための坑道のことをいうのだと、行ってみて初めて知ったことばでした。最初はどう読むかも解からず「かんぽ」とか「まほ」とかと読んでいました。当初鉱山というのは、今まで見て知っている知識からは、石炭や銅の採掘などのように、大きな穴を掘って掘り進めるものと想像していました。そしてその坑道は地下に向かって延々何キロも掘り進められているというようなイメージがあったのです。

ところが、ここへ来て初めて判ったのは、石見銀山での採掘は、手掘りの真に狭くて細い坑道なのでした。間歩と呼ばれるその坑道の入口は、600余もあるといわれ、現在未だ確認されていないものもあるということですから、驚くべきことです。その坑道の状況を見学できるように、龍源寺間歩というのを公開していますが、これは観光用に拡大して造られたものであり、実際の坑道とは違うものでした。

   

龍源寺間歩の入口の様子。柵が邪魔して見にくいが、中央右手に入口がある。間歩の中に入れるのはここだけのようだ。

本物の坑道はその観光用に造られた坑道の内部で、横に掘られている真に狭いもので、電気の照明に青白く、真っ黒の闇に向かって埋まっているように見えました。

   

間歩の中の本物の横への坑道。この坑道は四角というよりも楕円形に掘られていた。狭い。

もし今自分が立っている坑道の大きさがなかったら、一体自分はどうなってしまうのだろうという恐怖が一瞬身体を過()ぎりました。観光用の坑道には立派な照明が点いていますが、その昔には電気などあったわけではなく、恐らくロウソクだって高価なものだったのですから、使われていたのはもっと質の悪い何か魚などの油に灯心を点した程度のものだったに違いありません。明るさよりも暗さの方が遙かに勝る世界の中で、ノミやタガネを打ち込んで鉱石を砕いて採り出していた姿を想像すると、恐ろしさを通り越した地獄の世界がそこにあったように想ったのでした。実際に作業をしている人たちは、恐らく恐怖などというものは感じなかったのだと思いますが、暗闇の世界で明日に向かっての希望の灯を点すことは出来なかったのではないかと想うのです。人たちと書きましたが、恐らく掘っているのは同じ場所に複数ではなく、たった一人で掘り進んでいたのではないか、そのような掘り方が殆どではなかったかと想像します。狭いのです。二人の人間が行き交うには無理があるほどの狭さなのです。

暗い思いを膨らませながら坑道から出て来た時には、石見銀山という往時の、世界に冠たる銀鉱山の正体を知ったような気がして、間歩に入る前とは相当に違った心境となっていました。

その龍源寺間歩を出た直ぐ下に、匂い袋を作って売っている店があるのですが、そこの店主の方の説明で、店の近くの岩壁を見ると、そこにも間歩があってしかも上段と下段の二箇所の入り口なのです。下段の方が少し広く、上段の方が狭い感じでした。

   

二段の間歩の入口。恐らく縦に長い鉱脈があったのだと思う。下の方が大きく、上の方はうっかりすると間歩であることを見落としてしまいそうな感じだった。

その方の話では、間歩の平均的な大きさは、縦が4尺横が2尺だということです。これは大人が常に背をかがめて歩く高さであり、すれ違うのがやっとという幅でありましょう。薄暗いというよりも真っ暗といって良い石を穿った穴の道の壁なのです。それを鉱脈に沿って300m以上も掘り進んだというのですから、信じられない!の一言です。明るい空間の中では決して想像できない恐怖の世界だと思います。

石見銀山といえば、江戸時代ならずとも直ぐに出てくるのは「ネズミ捕り」という言葉です。現代の交通違反の取締りなどではありません。真正正銘のネズミ退治のための毒薬です。この殺鼠剤の方は津和野(津和野も石見の国でした)にあった鉱山で銅と一緒に産出した砒素を含む砒石というものが使われたもので、銀山とは直接関係無いようですが、銀鉱石に全く毒がなかったといえば、それは疑問です。仮に無かったとしても、暗闇の中で石を砕き続けていれば、その粉塵を吸い込んで肺は侵され、まともな健康を保持することは不可能だったと思います。殆どの人が30代前後で命を落としたというのが店の方の話でした。

龍源寺間歩に入る前までにも、幾つかの間歩の入口を見ているのですが、それらは戦争時に掘られた防空壕や横穴の入口のような感じで、大して気にも留めずに、こんなものかなどと軽薄な気持ちで見ていたのですが、中を覗き、話を聞くともはやそのような観光気分にはなれませんでした。石見銀山というのは、銀鉱脈の走っている仙山という岩石の山を、人間という生き物が600余の小さな穴を穿って、蠢きながら掘り進んでいた場所なのです。しかもその生き物は、石を削るのと同じように、奈落の底で自らの生命をも削りながら掘り進んだのでした。

鉱脈が尽きたことは幸いだった様に思います。もしここに無尽蔵の銀が残っていたとしたら、燃え尽きる命の数は更に増えたに違いありません。遺跡というのは、常にそのような人間の生命の歴史を織り込んで作られたものなのだなということを改めて実感したのでした。

それにしても、自分はいいタイミングでこの世に生まれ、生きているなと思ったのでした。もし彼の時代に生まれ、間歩の中で働く境遇にあったとしたら、恐らく自分の場合は発狂してしまうだろうなと思いました。そして実際にそのような人は多かったのではないかとも思いました。しかし、その時代は恐らく発狂など許すような世界ではなかったのだと思います。そのような世界に思いを馳せるとき、今の自分の恵まれた時代と境遇に感謝すると同時に、生命を燃え尽きさせられた人たちの冥福を祈らなければならないと思ったのでした。石見銀山遺跡は、今回の旅の中で最もショッキングな訪問先でした。

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道の駅:アリストぬまくまの朝

2009-11-16 04:04:27 | くるま旅くらしの話

くるま旅くらしの宿泊環境といえば、そのための専用の場所があるわけではなく、これからも生きている間にそのような環境が整備されることを期待するのは無理だと思っていますが、只今のところは何といっても一番利用させて頂いているのが「道の駅」と呼ばれる場所です。道の駅は全国に幾つあるのか正確には知りませんが、毎年少しずつ増えて900箇所に近づいていると思います。これはくるま旅をする者にとっては大へんありがたいことです。

日本という国は、不思議なことに世界でも有数の車社会を形成していながら、その車を使って旅をするなどという暮らしには殆ど関心がなく、車といえば仕事に使うか短期のレジャーのための移動・運搬手段としてしか考えておらず、従ってそれを使う環境も一時的な駐車施設を設けるくらいの発想しか無いように思います。

車を使っての旅は、本当はかなり良質なものが期待できるはずなのですが、定年後を迎えた方たちの多くは、車を所有していてもそれを使っての旅までには思いが届かず、届いても実践される人は少なくて、旅といえば時々ツアーなどの慌しい旅に出かけられるというスタイルが殆どのように思われます。そのことを批判する気持ちなど毛頭ありませんが、車を使えばもっともっと自由で質の良い楽しみ方のできる旅が実現できるのにと、ちょっぴり気の毒というか残念だなという気持ちがあります。

これは鶏が先か、卵が先かという議論と同じことになるかもしれませんが、私的にはくるま旅の環境が整備されれば定年後に旅を楽しむ人はもっともっと増えると思いますし、くるま旅が大きな力となって定年後の人生の過し方の質が向上し、例えば病院通いの老人はかなり減るのではないかと思っています。旅の中には、人を元気にする要素がたくさん詰まっているからです。ところが現実は殆ど全くといっていいほど、そのような環境整備などには関心が向かっていません。くるま旅の効能を実感している者にとっては、真に嘆かわしいことだと思っています。

ま、この話をし出すととんだ長い主張となりますので、それは止めますが、現在の国内のくるま旅の宿泊環境の中で唯一といって良いほど頼りにしているのが道の駅ということになります。このほかにも高速道のSAやPAなどがありますが、これらは高速道に入らなければならず(高速道が無料化されれば道の駅と同じとなると思いますが)、今のところは何といっても道の駅が一番だと思います。

その道の駅というのは、国交省が旗を振って、車を使う者のための休憩・仮眠など安全・健康の確保や地域交流による活性化拠点などの目的で造られた施設で、全国展開がされている施策です。この目的・対象の中には、勿論くるま旅などは含まれてはおらず、トラックや一般の乗用車と同様の扱いで、くるま旅をする人はそれにあやかっているというわけです。ですから道の駅での長期滞在などは基本的にルール違反となるのは明瞭です。そのようなことはつゆ知らずオーニングや椅子などを持ち出している人がいますが、これは批難されても仕方のない避けるべき行為です。道の駅はあくまでも仮眠までが許される場所なのです。仮眠というのは居座って時間を使うのではなく、一時的に眠りを確保するということなのですから。従って、同じ場所に何日泊まっても差支えはないけど、居続けてはダメということになります。

何だか又同じような話になりかけ出したようです。つまり、私の言いたいのは、道の駅の利用には条件と限界があり、自ずから自制が求められるということです。私どもの場合は、道の駅の利用に当たっては、絶対に居続けの姿やスタイルをとらないことにしています。それを見せたら世のひんしゅくを買うのは明らかだからです。同じ場所に泊まるとしても、日中駐車し続けることは極力避けるようにします。とにかく目立つ存在ですから、そのような気配りは不可欠だと思っています。

そのような条件、考えの下で道の駅を利用させて頂いているのですが、道の駅には楽しみも多いのです。それは目的の一つである地域活性化のための施設として位置づけられていることもあり、殆どの道の駅には地元の産業振興のための様々な工夫が用意されているからです。一番多いのが何といってもそのエリアでとれる農産物や海産物、それにみやげ物などの販売所だと思います。これには様々なスタイルというか運営方法というのか、やり方の違いがあるようで、上手くいっている所と、そうでない所との差はかなり大きいものがあると感じています。単に販売されている品物だけではなく、それをどのような仕組みで運営しているのかという視点で見ていますと、道の駅というのは結構興味深いのです。私の場合は、それも又楽しみの一つに付け加えています。交流をうたいながらも何の施策も講じていない道の駅や10時開店などというデパートのような発想で商売をしている田舎の道の駅があるかと思えば、新鮮な野菜や地産の工夫された食べ物や加工品などを求めて、朝からマイクロバスで買い物客がやってくる道の駅、早朝6時の霧の中で声がすると思ったら何ともう開店していて、地元のご老人たちが買い物に来ているといった道の駅など等、その運営の実態は様々です。

今回の山陽・山陰を下見的に廻った旅の中で、一夜をお世話になった福山市沼隈エリアのある道の駅:アリストぬまくまの朝の様子を紹介したいと思います。アリストというのは何のことか良く判らなかったのですが、ホームページを見ましたらこれは造語で、駅の位置づけをAssennble(集)、Rest(憩)、Image(創)、Study(学)、Talk(話)、Oasis(場所)の6つの要素で決めたものを、つないでARISTOとしたものをカタカナにしたものとの様でした。なかなかの工夫だと思いました。そしてその各要素は実現されていると思いました。どこかにアリストの説明があれば良いのになと思いましたが、私の方が見落としたのかも知れません。

   

道の駅:アリストぬまくまの自由市場開店前の様子。静かだった朝に気合と活気が漲り出す。

この道の駅は私どもの気に入りの場所の一つです。近くに来た時は、少し無理をしてでも泊まるようにしています。寄るだけではダメなのです。何故かといえば、私どもにとってのこの道の駅の楽しみは朝にあるからです。というのは、道の駅では地元で獲れた新鮮な魚介類が販売されているからなのです。地元の漁師の方たちが獲って来られたいわゆる地物の魚介類が、飾りのない素朴な形で販売されているのです。スーパーなどとは違うのです。これが嬉しいのです。私どもの一番の目当ては瀬戸内海のワタリガニなのですが、それだけではなくその時節の獲物が、ごく当たり前に並べられています。今回はシャコ、ゲタ(=舌平目)、コウイカ、アナゴ、コノシロ、エビ、アサリなどが無造作に並べられて、格安の値段で売られていました。

    

魚介類売り場には、魚の獲れた場所や魚の入荷の状況などの説明が為されている。心配りが嬉しい。

   

昨日までは海の中にいたと思われる様々な魚介類が買い易い値段で手ごろなパックに入れて売られている。見るだけでも楽しい。

開店は朝の8時半でしたが、7時ごろには商品の搬入が始まり、ひっきりなしに軽自動車がやってきます。8時ごろには待ちかねた人たちが入口付近を偵察に覗き出します。そして10分くらい前になるともう店の中に入ってゆくのです。私どももワクワクしながらその後に続くのでした。

   

野菜売り場の様子。昨日の午後遅く覗いた時には、殆どの商品が空になっていた。回転は早いようである。

魚介類だけではなく、野菜や切花などの農産物も豊富に並べられています。こちらの方はどこの道の駅でも一般化されて販売されていますが、海の幸の方は扱っている道の駅は少ないようです。それは扱う商品の性格・鮮度の問題があるからなのかもしれません。海の近くにあっても干物しか力を入れていないような店が多いのですが、ここはその壁を破ってチャレンジされているようで、買う側もそれに応えているということを実感します。午後に寄ったのでは、海産物はもう手に入らないのです。ですから泊まって朝を迎えないと楽しみは成就しないわけです。

全国に数ある道の駅の中で、今のところ海産物に関してはここが一番だと思っています。未だ訪ねていない道の駅もたくさんありますから、もっと嬉しい場所があるのかもしれませんが、その発見はこれからの大いなる楽しみです。

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閑谷(しずたに)学校を訪ねる

2009-11-15 00:02:02 | くるま旅くらしの話

山県や中国地方在住・出身の方なら、閑谷学校といえば知らない人はいないのだと思いますが、関東に生まれ育った者には、足利学校は知っていても閑谷学校という名は、耳にする機会がありませんでした。私がその名を知ったのも青春時代などではなく、仕事の中で日本の人材育成に関わる歴史資料を調べたりしていた50歳代の頃で、岡山の方にそのような学校があったらしいという程度の認識でした。遠いので関心を抱いたとしても、そこを見学するのは無理だと思ったのです。殆ど何も知らないというのが現状だったのでした。

今回の旅では、地図を見ていて、備前市伊部の近くにその閑谷学校があるのを知り、是非訪ねてみようと思ったのでした。焼き物の里の伊部と同じ備前市にあり、20分もあれば行ける距離にあります。備前焼の里の探訪を終えた後、国道2号線を少し姫路方向に走って左折し、県道を少し走るとその入口に着きました。かなりの山の中です。

車を駐車場に留め、少し歩くと、狭かった谷が急に開けてそこにもう一つの駐車場があり、その奥に学校の建物などが見えました。立派な建物です。

   

閑谷学校正門。正面上部に「閑谷学校」の掲額がある。現在は使用されていない。

近づくと講堂らしき建物を中心に幾つかの建物を立派な石垣が取り囲んでいました。その石垣は巨石を組んで造られており、表面が丸く加工されていて、一般的な組み石の石垣と比べて重量感・安定感があり、いかにも学び舎に相応しい感じのするものでした。敷地校内の至る所に植えられた樹木たちが、未だ紅黄葉の本番には早いのか、ほんの少し色づいて谷を彩っていました。

最高の学びの環境がそこにありました。まさに閑静そのもので、閑谷学校とは良くぞ名づけたものだと、その命名の素晴らしさに感動しました。これは現地に行って見なければ、決してわからないことだと思います。校内に入ったのは家内だけでした。私は少し外周りを歩きたかったので、それを優先させたのですが、外から見る講堂などの様子は、実に落ち着いた風格に満ちていて、往時の学ぶ人たちの様子が自ずから思い浮かぶ感じがしました。磨きぬかれた板の上に端座して師の話に聴き入る若者たちの真剣な眼差しが幾つも想い描かれます。まさにここは学校だったのだと確信したのでした。

   

講堂(国宝)の外観。何という造りなのかはわからないけど、実に見事な建物である。

   

講堂の内部の様子。ピカピカに磨き上げられ、端座すれば師の語る孔子の言葉が、自ずから耳に沁みこんで聞こえる雰囲気がある。

石垣に沿って左の方に歩いてゆくと、洋館風の建物があり、どうやらそれは最近まで使われていた学校の校舎のように見えました。その少し手前に碑があり、「信勤倹 学びの跡」という表題のもとに誌が書かれており、裏を見ると「創学三百三十年を機に、かつてこの地から閑谷健児の飛翔していたことを記しとどめ、訪ねる人に建学の精神を想い懐旧自省のひとときのあらんことを期して、この碑を建てる 平成12年10月14日 岡山県立和気閑谷高等学校同窓会一同」とあり、その脇に「寛文十年 閑谷学校創学から昭和四十年岡山県立和気閑谷高等学校」までの学校の扱いの歴史が刻まれていました。これは大変なものだなと思いました。三百三十年も現役の学校としての役割を果たし続けた所が、この地の他にあるのでしょうか。

   

創学三百三十年を記念しての石碑。表にはここに学んだ人たちの学びの精神とその心意気を示す詩が刻まれている

   

碑の後ろ側には、その主旨と学校の変遷の呼称が刻まれていた。

閑谷学校は、岡山藩の藩主池田光政公の考えの下に整備されたということですが、この方の目指した仁政というものは本物だったと思ったのでした。儒学の思想の実現を目指した領主は数多くおられるようで、例えば我が水戸藩の光圀公なども有名ですが、本当に民政に力を発揮したのかどうかには疑問があります。人を育てるということに関して、支配階級の武士だけではなく、庶民を含めて広く世の中の人材を集めてという発想は、往時の社会ではなかなか持てるものではなく、優れた人物だったのだと尊敬の念を抱きました。

又後で調べて凄いなと思ったのは、往時は幕府の絶対権力による藩替えなどという出来事が日常茶飯的に行なわれていたわけですが、このような事態に備えるために学校に対する領地を与え、藩の財政とは別会計で管理をさせたという施策には、驚きました。学校の存続を実に大切に考えていたことが解かります。藩の為政者が代わっても学校は存続できる仕組みを作ったわけです。これは本物の仁政です。

そのあと、この学校の創設に尽力を惜しまなかった津田永忠という人の屋敷跡の方へ行って見ました。学校の右奥の方400mほどの所にあって、近くには黄葉亭とかいう小さな庵風の建物が残っていましたが、屋敷跡にはそれを示す石碑があるだけで、ただの草の原となっていました。黄葉亭というのは学校の教授であった武元君立という人が建てたものであり、多くの文人墨客が訪れたようですが、私としてはそのような建物よりも、津田永忠の屋敷跡にその人の学校に対する思い入れの深さを感じて、しばし佇(たたず)んだのでした。彼の人は今でもここに魂を留めて、学びの人々を見ているのではないかと想った次第です。

   

黄葉亭の佇まい。この学校の教授の一人であった武元君立が建てたもので、命名は頼山陽によるとか。

   

学校の建設運営に尽力した津田永忠の屋敷跡の景観。草茫々という状況だったが、馬骨的にはこの景色が語るものを聴いたのが、一番多かったように思う。

1時間ほど歩き回って、校内から出てきた相棒と一緒になって学校を後にしたのですが、改めて学ぶということの大切さを思ったのでした。閑谷学校は往時の日本一の学びの殿堂ではなかったかと思います。講堂は国宝となっていますが、それは建物の立派さよりも、そこで多くの人材を育てようとした志の立派さに価値があるように思ったのでした。

大正時代に儒学の祖孔子に縁のある楷の木が植えられ、それが今はここの名物となっているようですが、訪ねたその時は未だ紅葉には少し早い様子でしたが、今頃はさぞかし鮮やかさを加えて、学び舎を染めていることかと思います。次に訪ねる時には、校内に入ってじっくりと歴史の中身を賞味したいと思っています。

   

校内に植えられた2本の楷の樹。この樹は、大正時代に白川博士という方が、大陸の孔子廟にある楷の樹から採種されたものを持ち帰って育てられ、国内の儒学に縁のある場所に植えられた中の一つであるとか。樹齢100年には少し届かないけど、大樹である。2本植えられたのはここだけらしい。楷の木はウルシ科の植物で、紅葉が美しい。ここではシーズンになるとライトアップされるらしい。(後で知ったことだけど) 

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備前焼の里を訪ねる

2009-11-14 07:41:39 | くるま旅くらしの話

今回の旅の楽しみの一つに備前焼の里を訪ねるというのを加えていました。名前は良く聞く焼き物ですが、それが備前のどの辺りで焼かれているのかを知ったのは、つい先日NHKの「街道てくてく旅」という番組で、山陽道の伊部宿が紹介されていたのを見たからでした。伊部を「いんべ」と読むのを知ったのもその時なのです。つまりは備前焼というものに対してはまったく知識がないということの証明のようなものです。後で調べたら、備前焼は江戸時代では伊部焼とも呼ばれていたということですから、全く無邪気なものです。

日本各地にはそれぞれの土地の土を使った固有の焼き物の里がたくさんあります。茨城県でも笠間焼は有名です。笠間焼きよりも栃木県の益子焼の方が有名かも知れません。でも益子町と笠間市は仏頂山や雨巻山というような4~500mほどの高さの山を挟んで隣接しており、元々は笠間焼の方が古くて笠間で修業した人が益子に帰って江戸末期に焼き始めたということですから、親戚のようなものなのでしょう。益子焼が有名になったのは、何と言っても人間国宝の浜田庄司の功績によるものでしょう。しかしその師匠といえば板谷波山であり、この方は茨城県出身ですから、我が故郷には陶芸に縁の或る土地や人材が多いのだということを気づかされます。

少し余計なことを書きましたが、書いている私自身は全くの無粋な人間で、焼き物の価値などさっぱり判らず、ただ酒を美味く飲める盃や徳利やぐい飲みが手に入れば良いと思っているだけなのです。今回も何か手ごろな値段で、形と手触りの良い盃が見つかればいいなと思っての訪問でした。この頃はぐい飲みを卒業して、陶磁器や漆器の盃が欲しいと思っているのです。なかなか心ときめくようなものは見つからず、ときめいても超高価では手が出せず、器よりもそれに注ぐものの方にお金を回すべきだと考えてしまうのです。これ又余計なことでした。

さて、初めて訪れた伊部の町は、これはもう疑いも無く陶磁器の町でした。小じんまりとしていて、丁度備前焼のあのキュッとしまった赤銅色の感じのする町並みでした。駅の横に美術工芸館というのがあり、そこで予備知識を得てから歩こうと考えていたのですが、その日は生憎と休みでした。ぶっつけ本番の探訪です。駅前を通る国道2号線の横断歩道を渡ると、北に向かって50mほどの広いまっ直ぐな道があり、突き当たるT字路の交差点の左右に少し細い道が町並みをつくって伸びています。それらの道の両側の殆ど全てが備前焼の店であり、そのうちの幾つかは窯を持っていて、製造販売を兼ねているといった様子でした。店先に並べられている焼き物は勿論全てが備前焼で、一体どれがどのように良いのかなどと比べるのは、審美眼の無い自分には全く見当もつかないほどの多さなのでした。

どこへ行く宛もなく、案内図を貰っても何がどうなのかさっぱり判りません。とにかく行けば何かがあるだろうという、いつもの開き直りの散策でした。先ずはT字路を右に曲がったのですが、その突き当たり近くにある店の前に、「只今窯開き中、見学どうぞ」という貼紙があるのに気がつきました。野次馬精神旺盛の家内が、早速中へ入って行きました。店には誰もいないようなので、大声で訪うと、窯出しの作業中だったらしい若い男性が顔を出して、中へどうぞと案内してくれました。   

店の奥に設えられた小型の登り窯。右手の方が燃焼室となっている。

いやあ、それら後はその青年に丁寧な説明を受け、かなり勉強になりました。そこには2段ほどの登り窯が設えてあり、まさに只今そこから焼きあがった作品を取り出している最中なのでした。実際に触ってみることはしなかったのですが、何だか未だ温かみが残っている感じでした。取り出された様々な作品には備前焼独特の光沢が輝いていて、どれも皆傑作のように見えました。   

窯出し中の窯の中の様子。出来上がった様々な作品が並べられて、まさに出番を待っている感じだった。

製品が出来あがるまでの工程などについて、家内は熱心に訊いていたようでしたが、私の方は作品の中に欲しいと思っているタイプの盃はないかと、ただそれを探すことに集中していたのでした。途中から我々以外のお客さんも入ってこられて、狭い作業場はかなりの混雑となりました。竃の焼成には松の木の薪が使われているようで、今頃は集めるのが大変だろうなと思いました。

話は少し横に逸れますが、その昔私の実家では葉タバコの栽培をしていました。葉タバコは専売公社の委託を受けて栽培するのですが、生育したタバコの葉を乾燥させるのには、幾つかの方法があって、大別すれば太陽の光に当てて乾かすのと、もう一つは乾燥室に入れて薪を燃やして温度管理をしながら乾燥させるものとの二つになるのです。我が家ではその後者の乾燥室での乾燥を行なっていました。土壁の特別の乾燥棟をつくり、摘んできた葉タバコを縄に挟んで吊るし、それで一杯になった室を3日間ほど、乾燥状況に合わせて温度管理をしながら、昼夜兼行で薪を燃やし続けるのです。この間はもちろん不眠不休となるため、一人で全工程を担当するのは困難です。父母の外に我々子どもたちも手伝わされたのでした。

その時の様子と、この窯での焼成のあり方はとても似ているなと思いました。勿論葉タバコなどとは違って、土や石を高温で焼くのですからご苦労は一層のことだと思います。もし途中で火の温度管理をなおざりにしたりすれば、中の製品が全部ダメになってしまう可能性だってあるわけです。折角丹精を籠めてつくった作品がダメになったなどしたら、その損失は失敗だけでは済まされなくなるのでありましょう。疲労と眠気と戦いながら、一方で出来上がりへの期待を籠めての竃の作業の大変さを思ったのでした。そのような苦労のことなどさっぱり解からない家内は、全くノーテンの様子で、私も一度その火を燃やす仕事の手伝いをして見たいなどと言っていました。

竃から出来上がった作品を取り出す作業は、大変だけど一番嬉しく楽しい工程なのだろうなと思いながら、若い工人たちの話や仕事ぶりなどを覗いたのでした。匠といわれる工人を求める世界では、どこの分野でも後継者不足に悩んでいると聞きますが、この陶芸の世界ではどうなのでしょうか。この窯での若者には質問はしなかったのですが、好きで仕事をされているのが良く判り、少なくともこの店は大丈夫だなと思ったのでした。

最初からいきなり良い経験をさせてもらうことが出来、ラッキーでした。その後はとにかく道の両脇には皆同じような製品を並べた店ばかりなので、少し違った所へ行こうと店の脇の生活道路と思える細い道を入って行くことにしました。人一人が離合するのに顔を鉢合わせしそうな狭い道です。私は妙にそのような道が好きで、ヨーロッパの町を訪ねた時にも、そのような所に迷い込んで、方向を失いかけたことがあります。日本ならば言葉が通ずるので、安心・安全です。このような道を歩いていると、焼き物に関わる人たちの、暮らしの対話や会話が伝わってくるような気がするのです。道の脇には小さな畑があって、大根や白菜などの野菜が育っていました。

少し歩くと、天保窯跡というのにぶつかりました。これは備前市の指定文化財だそうで、現存する江戸時代からの窯はこれだけなのだと説明に書かれていました。かなりの大きさの登り窯で、先ほどの若者の所の数倍以上の大きさですが、この窯は文字通り江戸時代の終わりに近い天保年間に新しく造られたもので、それまでの窯はもっと大規模なものだったということでした。窯のことは良く判りませんが、規模が大きければ大きいほど焼くための経費も時間も多く掛かるということらしく、その軽減を狙っての築窯だったということらしいです。   

天保窯の様子。この窯は江戸時代の後期の天保年間に築かれ、昭和15年まで使われていたとか。100年以上の歴史を偲ばせる貫禄があった。

備前焼は遠く平安時代頃に始まり、鎌倉期にいわゆる古備前と呼ばれる盛隆期があり、その後時代を乗り越えて今日まで続いているとのことですが、その長い歴史の中では、様々な変動、変遷が内包されていたのでありましょう。天保窯もその歴史の一つの証なのだと思いました。

天保窯の横の店で備前焼の焼玉のようなものを数個買いました。水やご飯の中に入れて使うと、何やらの力で美味しくなるのだということです。1個百円で美味しい水やご飯が食べられるのなら、こんな結構なことはないと買い求めたのですが、その後の使用結果では店のおばちゃんの言うとおり、確かに美味いように思いました。我が家のご飯の中やポットの中には、今はそれが常備されています。

再び細い道を歩いてゆくと、天津神社という所に出ました。ここは確か先日のNHKの放映で、紹介されていた場所だと思います。今日は誰もいなくて、境内の中は静まり返っていました。天津神社を二人占めです。   

天津神社の鳥居付近の様子。両側に備前焼で作られた狛犬一対が構えている。

   

狛犬の一つ。実に見事な出来栄えである。石像と違ってリアルな躍動感があり、邪心者には今にも飛び掛りそうだ。

境内の至る所に備前焼の置物があります。狛犬も牛の像も皆備前焼です。石段の途中の壁には陶板がはめ込まれており、門も門の屋根瓦も皆備前焼です。さすがだなあと思いました。しかし、気がつけば、ここまで観光客が一人もやってこないというのはどういうことなのだろうかと、少し疑問に思いました。一見の価値のあるスポットだと思います。

その後は元の大通りに戻って、両側の店を覗きながら駅前に戻り、駅の構内にある産業会館というのを覗いて今回の探訪を終ることにしたのでした。この産業会館の2階には備前焼の展示即売所があり、そこを今日の仕上げのつもりで覗いていましたら、ちょっと心を引かれる盃があったのです。盃と言うべきか、ぐい飲みに近いというべきか。ぐい飲みというのは茶碗を持つのと同じ持ち方で飲むものであり、盃と言うのは縁を掴んで持って飲むのをいうのだと、自分で勝手に思っていますので、その形から言えばこれは私には盃なのです。少し迷った結果、それを買うことにしました。千五百円でした。あと3万円加えると、お宝となる感じの青備前などの盃が幾つか並んでいましたが、仕舞っておくのではなく、使うものなのだからと、結局は手ごろ感は急落したのでした。しかし、気に入っています。今回の備前焼探訪の一巻は、これで終わりとなったのでした。これからも機会を作って、何回かは訪ねたいなと思っています。

   

大枚(?)をはたいて手に入れた盃? 気に入っている。大事にしたい。

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日生の五味の市

2009-11-13 02:23:49 | くるま旅くらしの話

相生から国道250号線を赤穂市に向かって走り、市街を通過すると日生(ひなせ)の町に入ります。日生町は平成の大合併で備前市となりました。今頃の旅では、新しい市や町の名が障害となって、その土地が持つ古来からのイメージが消し去られてしまうのを感ずることが多のですが、日生がその中に入るのかどうかは今のところ判りません。

日生を「ひなせ」と読める人が、地元近郊以外に住む人でどれくらいいるのか判りませんが、私の場合は読めたのでした。何故なのか自分でも不思議に思っていましたら、車を走らせているうちに小豆島行きのフェリー乗り場があるのに気づき、なるほど、これで日生のことを知っていたのかと思い出したのでした。30数年前初めての転勤で高松に5年間ほど在住したことがあります。その時に小豆島に行く機会があり、小豆島から発着しているフェリーを調べている時に、山陽側からは日生という所からも小豆島に行けるのだと知ったのでした。その後一度も日生の航路を利用したことも無く、日生の地を訪れるのも初めてのことなのですが、昔のことを思い出し、妙に親近感を感じたのでした。

日生の町は海と島に囲まれています。国道を走っているときは、四方の山が島なのか半島なのか判らない感じです。海があまりにも穏やかなので、湖なのではないかと勘違いしてしまいそうです。畑地のような平地は殆ど無く、紅葉間近な樹木をたくさん蓄えた小高い山が、海の傍まで迫ってきている箇所が多いようです。島自体も山陽側の本土と同じ状況ですから、橋が架けられれば島であるというような感覚はなくなってしまいそうです。でも今のところはどの島にも橋は架かっていないようでした。

走っている内に何度か「日生五味の市」という看板が目に入りました。市といえば、何か定期的に海産物でも販売する場所があるのかなと思ったのですが、どうやらそうではなく常設の施設らしいと判りました。瀬戸内の海産物には掘り出し物が多いということを、5年間の高松での暮らしで知っていますので、これはどうしても寄らなければならないと考えたのでした。旅の楽しみの一つは、何と言っても「食」に関することです。特に私は海の幸への憧れが強いのです。肉よりは魚に興味関心があるのです。

ということで、道案内板に従ってそこへ行ってみることにしました。海沿いの細い道を500mほど入って行くと、船溜りの傍にかなり広い駐車場があり、その向うに市場らしい建物と何か会館のようなものが建っていました。車を駐車場に留め、早速市場の中を覗いてみました。あるある、いろんな魚が売られていました。しかし今日はこれから備前の焼き物の里を見に行くつもりなので、生の魚を買うわけにはゆきません。それでもワタリガニがあったら1~2匹せしめたいなと思っていたのですが、生きている奴はなく、茹でたのが売っていました。我が家では生きているのを買って来て茹でるのをモットーとしているので、敬遠するしかありません。これは相棒の主義なのです。

買わなくても、魚のあれこれを見ているだけで楽しいのですが、本当のところは何か一つぐらいは手に入れたいのです。一回りが終る頃の場所に、揚げたての魚の唐揚げを売っている店がありました。少し体格の良い若い女性が、それを作って販売しているようです。唐揚げは2種類あって、一つはママカリ、もう一つは名前の判らないものでした。ままかりはイワシによく似た小魚ですが、これは瀬戸内海では有名で、飯(まま)を借りに行かなければならないほど美味い、というところから名付けられた魚だといわれています。実際に高松の港などで何匹も釣ったことがありますが、ま、イワシと同じくらいの美味さだったと思います。もう一つの判らない方を訊いて見ますと、シズということでした。ママカリは細身ですが、この魚はアジを平べったくしたような形をしています。どちらを買うか迷ったのですが、シズの方を選びました。どちらもたった3百円ですから、一つずつ買っても差支えは無いのですが、我々の旅の考えでは、グルメに嵌(はま)るのは危険だと考えているものですから、1品に止めるのが常道なのです。

そのシズの唐揚げを買って、意気揚々と車に戻ったのですが、お昼には少し早いけど、わざわざ冷たくなるのを待って食べることもあるまいと、早速口に入れることにしたのでした。いヤア、これが美味いこと、実に美味いのです。骨の抵抗は殆ど無く、いつも小骨を確実に喉付近に引っ掛ける相棒ですら、事件を起こさずに賞味できたのでありました。最近、これほど美味い魚の唐揚げを食べたことはありません。300円で4匹もあるのです。いヤア、美味かったなあ。感動の時間でした。

   

シズ(=エボ鯛)の唐揚げ。4匹で3百円という超廉価である。いヤア、今年最高の唐揚げの味でした。一杯やれなかったのが残念でした。

相棒は近くの店で「かきおこ」というのを食べたがっていましたが、相生の所にあったものと比べて少し値段が高いのが気になって実行には移さなかったようでした。私の方はそのようなものがあるのには全く気づかず、「かきおこ」というのは一体何なのだろうと思ったのですが、どうやらそれは牡蠣入りのお好み焼きのことらしいのでした。

その後で改めて気をつけてみていると、日生の町の中には「かきおこ」の看板を掲げた店がいくつもあり、この辺りの名物となっていたようでした。相棒の食べ物に対する感性は、なかなかなものだなと思いました。家に帰ったら、牡蠣を買って来て自分で作るのだと気合を入れて話していましたが、今のところその意気込みはどこかに潜めてしまっているようです。

家に戻ってから「シズ」という魚を調べましたら、なんと「エボ鯛」のことではありませんか。美味い筈です。エボダイの干物といえば、これは王様といっていいのではないかと思います。それの唐揚げなのですから、美味くないわけが無いのです。ママカリを選ばずにエボダイを選んだのは大正解だったのでした。

旅先でのしょうもないない話ですが、このような日常の積み上げの中に旅の楽しさがあるようにも思っています。今度日生を訪ねる時には、必ず五味の市に行き、もう一度シズの唐揚げを買い、更に少し気張ってママカリも賞味したいなと考えています。そして、相棒には何としても「かきおこ」を味わって貰いたいと思っています。

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ど根性大根

2009-11-12 03:08:15 | くるま旅くらしの話

神戸在住のくるま旅の大先輩のMさん宅を辞して、一番近くの道の駅:あいおい白龍(ぺーロン)城(相生市)を目指した時は、既に16時を過ぎていました。神戸から先、山陽道を走るのは初めてのことでした。勿論相生という所を訪ねるのも初めてのことです。今までは、姫路あたりまでは一般道を行くのはとても無理と考えており、いつも高速道を通っていたのですが、今回は高速道を使わずに行ってみようと考えたわけです。

しかしこれは大失敗でした。土地勘の全く無い初めての道は、先の状況が全く読めず、何だか変だなと気づいたときには明石市郊外でのとんでもない渋滞に巻き込まれてしまっていました。何しろ持参した地図が12年も前に発行された代物で、新しいバイパスや高速道など一切載っていないのです。何とかなるだろうと高を括っていたのですが、100mを進むのに20分も掛かる状況となると、心穏やかではなくなり出します。国道2号線はメインの国道ですから、まさかこれほどの渋滞を惹き起こしているとは想像もしませんでした。確かバイパスが出来ているとお聞きしており、そこへすんなりと入れるものと思っていたのが、どこかで入口を見落としたか間違えてしまったようでした。

この上は、とにかく姫路方面へ行ける高速道を何とか見つけ、それに乗らないと相生に着くのが深夜になってしまうと思い、焦ったのでした。ノロノロをしばらく続けていると高速道の案内板があったので、とにかくその方向へ行くことにしました。その入口はとんでもない山の上にあって、しかもその付近には新しい住宅街が開けていたのには驚かされました。都市開発は、山陽道においても播磨の国では、もうここまで来てしまっているのかと、改めて人口集中現象のおぞましさというか、恐ろしさを実感したのでした。

そのような失敗があって、少し到着が遅れましたが、相生の道の駅には19時少し過ぎには、無事錨を下ろすことができたのでした。もう辺りは真っ暗で、何があるのか良く判らず、直ぐ傍が海であること、駅の構内には妙に派手な中国風の門や建物が建っているのが印象的でした。とにかく久しぶりに夜間に車を運転して疲れましたので、早めに食事を済ませ、その夜は眠りに就いたのでした。

前置きが長くなりましたが、翌朝は夜来の雨が降り止まず、少し遅い起床となったのですが、8時過ぎになってようやく空が機嫌を直し始めたので、構内付近を散策したのですが、その中に「ど根性大根」と書かれているのが目に付き気になりました。構内にはど根性大根の記念写真を撮る表示板が設けられ、ど根性大根の大ちゃんとあいちゃんのペアで撮影できるようになっています。      

駅構内にあるど根性大根の記念撮影板。左が大ちゃん、右があいちゃん。

又売店の中にこの道の駅が販売元になっている「ど根性」という地酒が売られていました。1本千円という安さに釣られて、それを一本買い求めたのでした。 

銘酒、「ど根性」。一升瓶一本がたったの千円である。少し甘口なのが残念だった。

しかし、ど根性大根というのが何なのかさっぱり分かりません。恐らくこの土地の人たちには常識となっていることなのでしょうが、初めての来訪者には何で大根にど根性なのかさっぱり見当がつきませんでした。

何か大根のことらしいというのは判りますので、地元の農産物の売り場を覗いたのですが、そこにはど根性を感じられるような大根など見当たらず、海岸地や島地で育てられたあまり伸び伸び感の感ぜられない大根が数本並べられているだけでした。店の人に訊けば判るのでしょうが、どこを探してもど根性大根の説明がないのが気に入らないので、訊くのは止め、あとで家に帰ってから調べようと思ったのでした。

旅から戻ってしばらくの間は、もうそのようなことはすっかり忘れ果てていて、空き瓶となった銘酒「ど根性」を見ていて、そういえば何でど根性なのだと思い起こしたのでした。銘酒と書かれたこの酒は、少々甘口で飲み終えるのに手間取った嫌いがありましたが、まあ、値段のことを考えるとリーズナブルというべきでしょう。ど根性大根のことを、早速ネットで検索してみました。果たして載っているのか多少ダメもとの思いがありましたが、なんとこれがちゃんと載っているのです。それ(=フリー百科辞典ウイキデペア)には次のように書かれていました。

2005年末、兵庫県相生市の歩道脇に生えた大根が「大ちゃん(だいちゃん)」と名付けられマスコミに取り上げられた。その後、ど根性ナス、ど根性ミカンなど、各地で相次いでど根性野菜が報道された。

ど根性大根の大ちゃんは同年冬、相生市の歩道脇のアスファルトの隙間に生えているのを発見された。ワイドショーで取り上げられ、いつしか「大ちゃん」という愛称も付けられた。しかし、同年11月に何者かによって上半分を折られ、持ち去られてしまった。数日後、上部が元の生えていた場所に戻されているのが見つかり、相生市役所で子孫を残すべく「治療」が行われた。その甲斐あって大ちゃんは一時再生するかに思われたが、1月に突如状態が悪化し、翌2006年2月から宝塚市の住宅テクノサービスでクローン技術を使った採種措置を受けた。同年6月、培養苗が相生市に返還された。

いヤア、こんなことがあったのかと、遠く関東に住んでいる身としては、分かり様のない話なのでした。大根が主役になってTVのワイドショーにまで取り上げられるとは! 更には治療が行なわれ、再生が叶わずとなれば、クローン技術を使っての採種措置を受けたという。実に驚くべき滑稽な話です。(いや、このようにコメントするのは、もしかしたら断罪の対象となるのかも知れません。)

感動することの少なくなった今日では、もはや人間の行為ではなく、大根という植物にまで根性などというありえない精神現象をかぶせてニュースの対象に引っ張り出したということなのでしょう。ま、アスファルト舗装道の狭い隙間に落ちこぼれた一粒の大根の種が、本来の野生の生命の活動を営む内に、いつしかその堅固なるアスファルト舗装の壁を打ち破って見事に生長し花を咲かせるに至ったという話なのでしょう。非力な女性の包丁にさえも耐えられない大根が、コンクリートを打ち破って生長するというのは確かに信じられない不思議現象です。

しかし私から言わせてもらえば、世の中の多くの人たちは植物の持つ恐るべき力を殆ど何も知らないのだということです。アスファルトの舗装どころかコンクリートの舗装や或いは巨岩であってさえも、それを押しのけ、割って根を蔓延らせ、花を咲かせている樹木など幾らもあるのです。全国に幾つかある石割桜と呼ばれる桜の木などがその代表なのでしょうが、これが野菜類となると話が違うと考えるのは植物の力を知らない人たちの思い違いなのだと思います。植物の生命力というのは、植物の随所に秘められており、それは種類の如何を問わず神秘的に発揮されるものではないかと私は思っています。大地に根を下ろして生長を期すものには、全てその力が備わっているように思います。植物は長い時間をかけて、環境や障害物の弱点を突いて、己の生命を全うしようとする力を持っているのです。偶々その大根の姿が目を引いただけなのだと思います。

ま、このように言ってしまえば、身も蓋も無い話し方となってしまいますから、ど根性大根の大ちゃんに関してはとりあえずその騒ぎを是とすることにします。しかし、安易にそのことだけにあやかる様な商売は、そのままではニュースの広がりと同じくらいのスピードで消え去ってしまうことでしょう。その変わった大根から何を学ぶのか、その感動の源泉が何なのかをアピールしなければ、ど根性大根の話は単なる笑い話で終ってしまうことになります。

相生の道の駅のど根性大根の謎はこれで一応解明されたわけですが、現在の相生市や道の駅は、折角のど根性大根大ちゃんの思いをもう忘れかけ、その根性の大切さ、継続の力の、弛まぬ尽力の大切さを、人びとにアピールすることを忘れかけているのではないかと思ったのでした。これは大ちゃんに対する裏切り行為なのではないかと思った次第です。

   

我が家近くを散歩中に見つけた、小貝川堤防の舗装道で、アスファルトを突き抜けて生え出した茅(ちがや)の若芽。このまま放置しておれば、2年も経てばこのアスファルト舗道は茅の大群に浸蝕されてしまうに違いない。大根であっても同じ結果になるかもしれない。植物の力は予想を遙かに超えている。

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山陽道と山陰道

2009-11-11 04:51:12 | くるま旅くらしの話

タイトルですが、律令制に基づく旧国名を正確に記憶している人は、今では殆どいないのではないかと思います。今、道州制というのが検討されているようですが、旧国名の中では、「道」というのは政治のシステムとしてではなく、国のくくりを謂わば道州制的に呼んでいたようです。詳しいことはわかりません。現在どこかで検討されている道州制が、どのような形で出現するのかわかりませんが、因みにその昔呼ばれていた「道」について記しますと、次のようになります。

先ず国の中心に①畿内があり、北の方から言えば、②北海道③陸奥道④北陸道⑤東山道⑥東海道⑦山陰道⑧山陽道⑨南海道⑩西海道の計10エリアに日本国を分けて、その各「道」の中にそれぞれ「国」と呼ばれるエリアが配置されていたわけです。これは律令制によるものということですが、時代の流れとともに、曖昧な形で呼称のみが残っているというのが現在の状況なのだと思います。

さて、旅をしていますと、現在の市町村合併や今まで何度も繰り返されてきた治世の横暴等の難を潜り抜けて、残っている地名に出くわすことが時々あります。地名というのは、やっぱりそこの歴史を背負っているというものが、一番納得が行き、落ち着きと親近感を感ずるように思います。その地の呼称を、歴史を無視して当代のご都合主義で決めたり、利便性を重視するあまり緯度と経度で表示するような表現の仕方は、歴史を払拭してしまうような感じがして、私としては賛同できません。

今回は大きく構えて、山陽道と山陰道をイメージしてのふらり旅と呼んでみたのですが、さてその捉え方は正しかったのでしょうか。結論から言えば、とんだ見当違いだったと言えそうです。山陽道も山陰道もあまりに広くて、点の移動をしたに過ぎなかったように思います。わずか2週間足らずで、この広いエリアを線で結べるような旅をすることは、到底不可能なのだと改めて思い知らされたのでした。弁明的に言えば、もともと下見のつもりで出かけたのですから、それは初めから分かっていたということなのですが、それにしても実際の日本国というのは、想像以上に広いことを実感します。律令時代においても72カ国もあったのですから、その国を一つひとつ訪ねるのも容易ではないというのが分かります。

何故その昔の地名や政治の仕組みなどに関心を抱くのかといえば、旅先で訪れる現地には、その昔からの歴史がどこかに息づいているのを感じさせられ、それがどうしてなのかを知りたくなってしまうからなのです。観光の旅であっても、ただその地の景色の美しさや奇抜さなどに感動するだけでは勿体ないような気がして、そこに至るまでの道すがらの土地柄の中に何かを気づいたときは、その理由(わけ)を訪ねてみたいというのがこの頃の旅の仕方となってきており、そうすると必ずその地の歴史についての知識や情報というようなものが必要になってくるのです。

それらを知るための時間は、旅の現地の中には無いことが多く、従ってそれは旅から戻ってからということになります。今、私がこうやって律令制の下の「国」の配置やそれをまとめるための「道」の設定などについて調べるのも、旅の楽しみの一つなのです。かつての学校の歴史の授業の中での律令制についての学びは、国を治めるためのその昔の基本的な仕組みであった、という極めて概括的なことしか記憶していないのですが、旅をしていますと、例えば山陽道とか山陰道というのは元々何なのだ?と疑問を持つ様になるのです。そして、そのわけを知ろうとしてあれこれ調べ出すと、たちまち律令制というような大昔の国家の組織規定にぶつかってしまうのです。歴史を知る本当の楽しさは、このような切り口により多く潜んでいるような気がして、この頃はこれも又旅の後楽の一つとなっています。

ちょっと脱線して、広島県東部の少し山に入った所に御調町というのがあります。現在は尾道市に合併していますが、最初にここを訪れたときには、この地名をどう読むのかが分からず、「ごちょう」とか「おしらべ」とか何とも変な感じの読み方しか出来ず、それが正しくは「みつぎ」であるというのを知って驚かされたことがあります。しかし何故「御調」なのかを知らなければなりません。こんなに難しい読み方をするからには、何か歴史上のいわれや出来事があったに違いないと思えるからです。

その結果知ったのは、その昔の税制の「租・庸・調」の「調」からこの地の呼び名が来ているということでした。「調」というのは、大化の改新に制定された古代の税法の中で、現物納租税の一つで、これを「みつぎ」と読んでいたわけです。この地ではその御調を「水」で治めていたということが資料に書かれていました。古来より税として納めるほどに、きれいで美味い水がこの地では有名だったのでしょう。そのような歴史の経緯を知ると、御調という呼び方に何の難しさも感じなくなります。

さて、その山陽道と山陰道ですが、これを比較するのはナンセンスです。例えば山陽道は明るく暖かく、山陰道は暗く寒いなどと比べてわかったような顔をするのは、紙の上で地理や歴史を眺めている輩の話であり、それは真実とは全く無縁の見当違いの感覚です。改めて感ずるのは、いずれの地においても何一つ比較できるようなものはないということです。それぞれに個性があり、それ故にその土地がそこに存在しているのです。

しかし人間というのはいい加減な存在なものですから、斯く言う私自身もその時々の旅の環境の在り様によって、その土地が好きになったり、反対に二度と来ないぞなどと勝手な所感を持つのです。そのような所感から言えば、私は山陽道というのは、(特にその昔の畿内に近いエリアほど)旅がしにくく、何だか来訪を拒まれている感じがしてなりません。その昔の播磨の国などは、くるま旅の余地はほとんど無いように感じます。倉敷なんぞも都市化のど真ん中に来訪先があるため、播磨の国よりもっと酷い状況になっている感がします。これに対して山陰道の方は、ずっと大らかでした。拒否の姿勢などどこにもなく、さりとて大歓迎ということでもありませんが、極々普通にくるま旅の者を迎えてくれたのでした。

さて、ずらずら今回の旅の仕方というか、視点のようなことを書いてきましたが、明日からは、その旅の中で拾った出来事、発見・気づきなどについてしばらく書いてみたいと思っています。

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山陽・山陰の道ふらり旅を終えて

2009-11-07 04:42:55 | くるま旅くらしの話

2週間の旅が終った。短い旅だった。今回は元々秋に安達巌の遺作展を開催するという夫人のお話を伺い、どうしてもそれを見に行くと決めていたので、その機会に少し脚を伸ばして、今まで殆ど素通りばかりしていた山陽側の道を辿り、広島辺りから世界遺産の石見銀山を訪ねた後、ついでに日本海側も回って帰ってくるという大雑把なコースを描いての出発だった。

高速道の休日特別割引を利用しての目論見だったが、都心を抜けるには特別割引料金以上が掛かって、何だか理不尽さを感じたのはいつものことであった。それでも東名阪道の亀山ICを出るときの「千円」という表示には、ちょっぴり感動(?)したのだった。この特別割引は、とにかく高速道路の利用行程の間に休日を挟めば条件をクリアーできると言うことなので、高速道内のSAPAに仮眠しながら行けば、茨城県の我が家から九州の鹿児島まで2~3日かけて行っても、料金は、コースを上手く選択すれば千円で済むということなのである。景気高揚対策とはいえ、何だか今まで騙されていたような感じが少しばかりしてしまうのは、どういうことなのであろうか。

安達巌の遺作展は、大成功だった。夫人からのご報告によれば、1週間で6千人を超える来訪者があったと言う。用意された千部の画集も3日目には完売となり、追加印刷の分も7割以上が予約で埋まったと言うから凄い。これほどの反響を得るとは思っていなかったと言うのが夫人の所感でもあった。私がお邪魔した10月24日も、大変な盛況で近鉄デパートの6Fのお客の大半は、画廊に安達巌の絵を見に来訪された人たちという感じがあった。

ここまでの成功を得られたのは、関係者の皆様のご尽力があってのことではあるけど、先ずは夫人の獅子奮迅の活躍によることが大きい。そして安達巌という画家が残した力作と彼の両手を失ったという障害を乗り越えての、万難を撃破して行った画家としての生き様が、多くの人たちの心を捉えたのだと思う。知人の一人として、彼がもっと命を長らえていて、この場に笑顔を見せてくれて居たらなあ、と思わずにはいられなかった。彼の絵は、これからも多くの人たちに生きる勇気と元気を与え続けるに違いない。今は感動することの少ない世の中でもある。これから先も、彼の生き様を世に知って頂くこのような機会が再来することを願わずにはいられなかった。

遺作展の後先には、関西エリアに在住のお二人の旅の知人宅をお邪魔し、お世話になった。大阪堺市在住のTさんには、宿泊まで面倒を見て頂き感謝感激である。夜遅くまでの歓談は、旅の延長のような感じで、話の種は尽きなかった。又翌日訪ねた神戸在住のMさんご夫妻にも、過分な歓待を頂戴し、嬉しくも恐縮の気分だった。さんは喜寿をお迎えになられているが、その若さと生気溢れる言動には、くるま旅くらしの先達というよりも人生そのものの生き方を教えて頂く大先輩として敬服せずにはいられない。お話を伺っていて、学ぶものが真に多いのである。Mさんは科学(特に電気関係)の理論家であり、実践者でもある。その知識や情報網はご自宅のアマチュア無線システムを通じて世界に広がっている。しかし現在Mさんは、その知識や情報をビジネスではなく、残された人生の楽しみのために存分に活用されているのだった。庭先に設えられた手製の移動式竃で、アウトドアの楽しみの定番のバーベキューをご馳走になりながら、世の中にはこのような自由人の方もおられるのだなと、改めて知り合いとなれた喜びと嬉しさを実感したのだった。奥様の料理の腕も手際良さも、ご主人の行動派としての動きを見事に支えておられ、素晴らしいご夫妻だなと尊敬の念を一層高めたのだった。

この頃の世の中は、他人の家を訪ねるという行為が少なくなっているように思う。訪ねるというよりも、あまり来て欲しくないという気持ちの方が大きくなっているのかも知れない。お互いの家を訪ね合うというのは、さほどに敬遠されなければならない行為なのだろうか。このことについては、私は普段から疑問に思っている。私たちに興味を持ったり気に入ったと思った人には、遠慮なく我が家を訪ねて頂きたいし、私どももお邪魔させて頂きたいと思っている。お互いにオープンであって、初めてその人を知ることが出来るし、その人との違いも知ることが出来るのだと思う。うっかりオープンにするなどしたら、後でどんな災難が降りかかってくるのか心配だ、というような発想もあるのかもしれないが、私としては人間同士が信じ合う方に賭けたい。この頃は旅先で住所の入っていない名刺を頂戴することが多くなったが、世の中が乱れており個人情報を悪用されないための防御手段との考えがその根底にあるのだと思う。しかし、私としてはこれも又名刺を渡した相手の方を信用する方に賭けたい。

さて、その後がふらり旅となったが、概して山陽側は兵庫県まではくるま旅の範疇を超えた人口密集度の高いエリアであり、これはどうしても訪ねたい時には、車ではなく脚でなければならないなと感じたのだった。くるま旅は寝床を背負った旅なので、その寝床を置く場所が無いと成り立たないのである。そして多くの場合、都市部には寝床の置き場所が少ないか或いは無いのである。旅車は図体が大きいので、普通の駐車場や立体駐車場ではダメなのだ。今回はそれを一番実感したのが倉敷だった。30分ほど美観地区の周りを駐車場を求めて探し回ったのだが、結局止められる場所を見つけられなかった。運が悪かったのかも知れないけど、少なくとも事前に調べて行った公共の駐車場は全部ダメだった。バス専用の駐車場があったけど、旅車は拒否されたのだった。トボけてコンビニやスーパーの駐車場に置いておくという手もあるけど、それはあまり好かない。もう車で倉敷に旅することは二度としないことにしようと思った次第である。

私は山陽よりも山陰側の方が温かいのではないかと思っている。温泉が多いなどということではなく、そこに住んでいる人たちの心が醸し出すものが温かいのではないかということである。本当はそのように大雑把に場所を括って話をするのは適切ではないことは承知しているけど、石見銀山から日本海の温泉津に出て、何故かそのような感慨を深くしたのだった。それはとくに石見銀山を見たショックから来ているのかもしれない。

石見銀山は人間の悲しみが一杯詰まっている箇所である。短い時間で生命(いのち)を昇華させ、この世と決別させられた人びとの悲しみが、600余もあった小さな間歩(まぶ)と呼ばれる坑道の中に詰まり漂っている感じがした。その悲しみを癒すものが、温泉津にはあった。それが温かさの正体ではなかったか。そんな風に思ったのだった。

旅の終わり近くになって、天気は急激に変化し、日本海側は雪が降るかも知れないとの予報に驚き、一挙に信州の山の中に逃げ込んだのだが、一夜を明かした安曇野の道の駅:ほりがねの里の朝は、すぐ近くの紅黄葉の山が、雪を被って凍えて日の出を迎えていた。11月というのは、明確に夏とは決別する季節なのだなということを実感した。だらだら続いていた暑さは、その後はもう全く無くなって、湯たんぽを持参しなかったことを悔いる夜を迎えたのだった。

短い期間だったけど、あれこれ旅の思い出は多い。今回は新たな人との出会いは少なかったけど、初めて訪ねる地も多く、それなりの発見と感動を味わったのだった。それらのことについては、この後機会を見つけて綴ってみたい。

明日から少し休んで、旅の整理をしてからブログを再開することにします。(馬骨)

 

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山陽・山陰の道ふらり旅:第14日(最終日)

2009-11-06 02:47:54 | くるま旅くらしの話

行程:道の駅:きつれがわ→喜連川温泉:露天風呂→道の駅:きつれがわ→(R293・県道)→道の駅:はが→(県道・R294)→道の駅:しもつま→自宅

 

今回の旅も今日で終わりとなる。長い間の携帯電話からの発信からようやく解放されて、自宅のパソコンでの作業が如何に楽で恵まれているかを味わいながらこれを書いている。車の中での暮らしも悪くは無いけど、家があって、そこで作業ができるというのはありがたいことだなと改めて思った。

さて、今日はひたすらに家路を辿るだけの行程である。そのまますんなり帰るのもつまらないので、もう一回朝風呂に入ってから出発することにして、7時過ぎ昨夜の露天風呂の方に行き朝食をとって待つことにした。風呂の営業開始は8時からである。今日の天気は晴れらしいけど、空にはかなりの雲があり、雲の多い晴れと言うことらしい。しかし、寒さの方はかなり緩まって今朝のブログ作成にも大して苦労をしないで済んだのはありがたい。

食事の延長で、NHKの連続朝ドラを見てから行くこととなったのだが、8時少し前から続々と車がやって来た。地元の風呂好きの方たちが、朝風呂を楽しみにやってくるのであろう。真にうらやましい環境である。ここの温泉は源泉掛け流しなのだが、かなり熱い。泉質に加えてその熱さが効くのか、10年ほど前ばね指という変な病に取り付かれ、左手の親指で携帯電話を扱うことが出来なくなり、その治療にこの湯に何回か通ったのだが、それが直ったという経験がある。本当にそれが治癒の要因だったのかどうかは判らないけど、何度か温泉に来ているうちに症状が消えたと言うのは事実である。それ以来、ここの温泉をありがたく思っている。その湯に朝一番で通える環境は羨ましい。勿論やって来られる方の殆ど(全部と言ってよい)は我々と同世代以上の人たちである。

9時少し前に一風呂浴びに行く。数人のご老人(斯くいう吾もまたその一人ではある)が湯煙の中に身を沈めていた。中にはわざわざ一番熱い流出口にじっと浸っている人がいる。よほどの熱がりなのであろう。真っ赤になって出てきたと思ったら、水のシャワーを浴びていた。未だ若い老人の方のようである。元気だなあと思ったが、大丈夫なのかな?とも思った。ま、人それぞれに温泉の楽しみ方があるのであろう。30分ほどで充分満足して車に戻る。

昨夜は暗くなってから道の駅に戻ったので、よく見えなかったが、構内で菊花展が開催されていたようで、その話題を風呂の中で聞いたので、ちょっと寄って覗いてみることにした。行って見ると、噂に違わず見事な菊の花の数々が展示されていた。金紙を貼られた巨大な懸崖の作品が何点かあったが、その高さは2m以上もあり、1本の菊でこれだけの大きさに育て上げ、花を整えるのは大変だろうなと思った。実に見事である。大輪の花を咲かせた鉢が幾つも並んでおり、亡き父が菊づくりに凝っていたのを思い出したりした。春先から丹念に面倒を見て、秋の開花まで菊との対話をし続けていたのであろう。やがてもしかしたら、自分もそのようなことを始めるのかも知れない。ま、悪いことではなさそうである。

若干野菜なども買って、出発する。帰りのコースはいつも決まっており、その途中に道の駅:はが(芳賀町)がある。ここはこの辺一帯では一番野菜類の販売に力を入れている所であり、新鮮な野菜を格安の値段で手に入れることができる。今回も明日からの食材用として何種類かを買い入れる。

芳賀から先は、ひたすら安全運転に努めて我が家を目指す。真岡市郊外でR294に入り、この道を70kmほど行けば我が家に着く。その途中いつものように下妻の道の駅に寄る。目的は豚肉をゲットすること。下妻辺りは養豚が盛んらしい。これが地産地消なのかどうかは判らない。無い時もあるあるということだが、今日は大丈夫だったようだ。目的を達した後は、ひたすら走って13時過ぎ我が家に到着。

先月23日に出発してから14日ぶりの帰宅だった。オッドメーターによれば、全走行距離は、2,943kmだった。1日平均210kmも走ったことになり、少し予想を上回った走りとなったようである。今回の旅の反省については、明日以降に述べることにしよう。一先ず終わり。

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山陽・山陰の道ふらり旅: 第13日

2009-11-05 07:24:22 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:たくみの里→たくみの里(三国街道・須川宿)散策→(伊香保経由・榛東町)→地球屋→(前橋市他小山市経由)→喜連川温泉・露天風呂→道の駅:きつれがわ(泊)

道の駅:たくみの里は、くるま旅では日本一安眠が確保される場所だと思う。日中はたくさんの観光バスなどが来訪するが、夜になるとトラックが来ることはまず無いと思われ、静かだけど直ぐ傍に民家が幾つものあり、安心して眠ることができる。ここはその昔の三国街道の須川という宿場町があった所で、ここは国の歴史国道に指定されているとか。その宿場町をベースに様々な得意業の店が並んでいる。11時近くまで町中を散策する。
北の方向と思われる辺りには真っ白な雪を被った谷川岳などが望見できる。昨夜はとんでもない冷え込みで寒かった。地元の方の話では水道管も凍りついたという。夜間の車の中も5℃くらいにはなっていたと思う。それでも朝は良く晴れて、夜の寒さなど直ぐに忘れてしまう天気だった。
今日は相棒が現在最大の関心を寄せている裂き織りやそれに関連する古布などを扱う「地球屋」という店に寄り、その後は旅の締めくくりに喜連川の露天風呂に入り、喜連川の道の駅に泊まるつもりでいる。今回の旅は明日で終わりとなる予定である。
11時近く、たくみの里に別れを告げ、R17に出て渋川市方面に向け出発。地球屋は伊香保から東に少し下った榛東町の山中にある。沼田を過ぎ利根川沿いに少し山道を走って、間もなく渋川市に入る。途中の紅葉は、昨夜の寒さで一段と深みを加えたようだ。渋川市は伊香保温泉を含む榛名山麓の丘陵地一帯に展開する街であり、とんでもない坂が多い。伊香保温泉への長い坂を上って、今度は坂東三十三観音の一つの水沢観音寺に向かって下り、少し行って右折すると榛東町に入る。
地球屋は中高年女性(若い女性や時々変なオジさんも混じっているけど)にはかなり人気のある店で、相棒は何年か前からファンとなったようだ。駐車場は満杯に近かった。どうにか空きを見つけ車を止める。それを待つのももどかしいらしく、相棒はすっ飛んで行った。いやはや、逞しいエネルギーである。
こちとらは全くと言ってよいほど関心がないので、戻って来るまでの間に、まずお湯を沸かした後、味噌汁を作ることにした。具はジャガイモと玉ねぎにした。しばらく味噌汁を飲んでいなかったので、グーだった。
このような森の中に店を展開しても、これだけの集客力があるのは素晴らしい。客を惹きつける魅力の原点は、恐らく日本の古い文化に対する郷愁のようなものなのではないかと思う。この店に来ると日本の古き良きものに出会い、それを手に入れることができるからなのだと思った。2時間ほど待つ間に、来訪の車は引きも切らずで、駐車場の能力は限界を超えていた。暇なので、それらの様子をしばらく観察したりして時間を過ごす。半分以上が中年以上の女性ドライバーだが、彼女たちの関心は目的に集中しているのか、他の車の出入りなどは無視して、辺り構わず車を止めて、店に駆け込んでゆく人がいる。それでもトラブルにならないのは、妙にして不思議である。時々マイクロバスでの団体さんもやって来ていた。
2時半近くになって、相棒の欲求は一まず満たされたようで、出発となる。このあとは、ひたすら喜連川の露天風呂を目指して走るだけである。
伊香保方面に戻り、長い坂を駆け下りて渋川市街を抜け、R17に出て利根川に架かる橋を渡り前橋市街に向かう。間もなく前橋市街に入り、しばらく走って、左折してR50にはいる。後はこの道をどこまでも走り、栃木県の小山市に至って、R4を宇都宮市方面に向かい、宇都宮市街を抜けてから、さくら市の氏家の交差点を右折してR293を少し走れば喜連川の道の駅に着く。
このコースを、ほぼ予定通り約3時間掛けてのドライブとなった。途中小山市に近づく頃には、完全に日が暮れて辺りは暗くなり、点灯しての運転となった。夜の運転は避けたいと思いながら、このところ連日心ならずもの状態が続いている。とにかく事故などに巻き込まれないよう、慎重を期しての運転を心掛けた。18時半真っ暗に暮れた中を、喜連川の露天風呂に到着する。
喜連川には3ヵ所の(元)町営温泉があるが、我々が一番気に入っているのがここである。ここには文字通り露天風呂しか無い。余計なものが一切ない天然掛け流しの温泉である。源泉が50℃くらいあるのか、かなり熱い。もう少し温めの方が良いのだが、水など注さない方が良い。草津のように我慢できないほどの熱さではないので大丈夫。今日もかなり冷え込んで来ているので、熱めの温泉は却って好都合だった。
1時間ほど温泉を味わった後は、道の駅に行き、今夜の宿とする。夕食が終わったのは、8時半頃だった。こんなに遅い夕食は、今回の旅では初めてである。旅の最後の夜は斯くて過ぎて行った。おやすみなさい。
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