山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

鉄の町吉田

2009-11-20 08:03:07 | くるま旅くらしの話

製鉄の町といえば、我が国では九州の八幡を挙げるのが普通だと思います。しかし、江戸時代の例えば1,700年代だったら、さて皆さんはどこが日本の製鉄の町なのかを挙げることが出来るでしょうか。正確に答えられる人は少ないと思います。偉そうに斯く言う私も、今回の山陽・山陰の道をふらりと訪ねる旅をしなかったら、答えるのは見当もつかなかった場所なのでした。

   

吉田川(右手)に沿って集落が点在する現在の吉田地区の風景

江戸時代の製鉄の町といえば、それは島根県吉田村なのでした。吉田村は何回かの合併の結果、現在は雲南市となっています。雲南市なんて、そのような市が日本にあるなどというのを知ったのも、今回の旅をしたからなのでした。中国の雲南省というのはよく耳にする名称ですが、日本にも同じような町があったとは驚きです。この発見は、これからの旅をする上で一つの楽しみとなりそうです。基本的に平成の大合併には不満を抱いていることには変わりが無い(何故なら今まで耳にしていた土地が相当に忘れられてゆくからです)のですが、バカバカしくても面白そうな名称の市や町が生まれているので、揶揄(やゆ)する材料としては悪くないなと思うようになってきたからです。

江戸時代の鉄の生産は、現在の島根県を中心に行なわれており、その中心地が吉田村だったとのこと。島根藩の筆頭工人の田部(たなべ)家が管理した鉄の生産は、最盛期には全国の鉄の生産の7割近くを占めていたといいます。このような知識は、仕事として鉄の生産・販売などに係わらなかった自分のような人間には、ここへ来ない限りは全く知らない世界なのでした。旅は、やっぱり人生を豊かにしてくれるものだと思います。

さて、その吉田村ですが、吉田川に沿って展開する小さな集落の右手にある駐車場に車を留めて、それから川の上流に向かって左側にある集落の中を散策したのですが、これはちょっぴり驚きでした。人影の見えない昔の面影を残す町並みが、小さな坂道に沿って両側に続いていました。

   

現在はひっそりとして人影もない、その昔の町のメイン通りの様子

昔の賑わいを思わせるものは殆どなく、ただひっそりとしているだけです。その中で一つだけ目立つのは、巨大な白壁土蔵の棟でした。

   

現在でも矍鑠たる白壁土蔵の棟。大正時代まで製鉄が行われていたというから、今でもこれらの土蔵は現役なのかも知れない。

資料館などには入らなかったので、詳しいことは判りませんが、この建物はその昔の田部家が管理した鉄の製品の何かか、或いはお金(?)などのような、重要物を管理するためのものだったようです。何しろ現在の製鉄とは全く違って、当時は「踏鞴(たたら)」という人力の送風機を用いて火を熾して製鉄を行なっていたのですから、その面影を町並みに見出すことはできないのでした。

そのたたらによる製鉄を行なっていた跡へ行くつもりでしたが、道が狭くて車が入らないため、今回は残念ながらどのような現場だったかを想像するのも出来ませんでした。また、原料となっていた砂鉄はどこから採掘したのか、運んできたのかなどはさっぱりわからず、その辺の景色といえば、町並みを除いては全くの山村に過ぎず、150年前まで日本に冠たる鉄の生産地だったなどという気配は全く感ぜられないのです。

   

現在でも現役として残っている茅葺屋根の家があった。のどかな山里の雰囲気で、製鉄の気配などどこにもない。

第2次産業というのは、その原料や材料が無くなってしまったり或いは別の革命的な方法での生産が可能となると、斯くももの凄いスピードで消え去ってゆくものなのだということを、そしてそれと一緒に人びとの暮らしも町も急変してゆくものなのだというのを実感したのでした。現在の中東その他の石油の生産も、その原料が枯渇したり、他の供給エネルギーが発明・発見されれば、今隆盛の国々のその跡には、新たなアラビアンナイトのような伝説が生まれて、世界の歴史は大きな転換期を迎えるのだと思います。少しオーバーですが、時間を計る軸を変えてみるなら恐らくそう言うことになるのではないでしょうか。

吉田村の製鉄は室町時代から始まったようですが、江戸の御世の人たちから見れば、現在の村の静けさは到底想像もつかなかった未来ではないかと思います。歴史というものは、過去は解ったつもりになれても、未来については見当のつかないものなのでありましょう。現在の日本だって、後千年後に人が生き残っているのかどうか、現在の環境悪化のスピードから推して考えてみると、そのような恐ろしいことを想像します。しかし救世主の出現の可能性もあるわけですから、本当のところは誰にも解らないのだと思います。歴史上の活躍や役割を終えた町や村を訪ねると、いつもそのような感慨に捉われます。

町の中を歩いていると、幾つかの彫刻というか、鉄で作った作品が見受けられました。いずれも内藤伸という方の作品で、後で知ったのですが、この方はこの吉田村の出身で高村光雲に師事した、日本の彫刻界の最高峰を極められた人なのでした。その作品の中に出雲の阿国像というのがあり、そういえばあの歌舞伎の元祖は出雲の出身だったと改めて気づいたのでした。説明板の中に有吉佐和子の作品「出雲阿国」に触れた一節が紹介されており、阿国さんがここを訪れたときの印象が述べられていました。それは山国の中に突然現れた幾つもの白壁土蔵の建物を見た驚きのセリフについてでしたが、私の印象もまさに同じものだったことに驚きました。勿論阿国さんの驚きの方が本物だったと思います。内藤先生の阿国像は、決して美人ではなく逞しさを感じさせるものでした。歴史に登場する女性というのは、美人ではなく逞しいというのが私の考え方(?)であり、内藤先生の阿国像はさすがだなと思いました。我が家にも阿国ならぬ御邦がいますが、こちらは逞しくても歴史には登場しないことでしょう。

   

内藤伸作出雲阿国像。何の踊りを踊っているのか解らないけど、細身の身体に芯の強さというのか逞しさを感じた。お顔の方はよく見れば美人だったのかも。何ごとでも打ち込んでいる女性は美しい。

いきなり思いつきで訪ねるというのは、やっぱり正確に歴史を理解するには無理があり、今回の吉田村の訪問も下見にも至らなかったというのが大きな反省です。しかし、一度現地を訪れておれば、旅から戻ってから、あそこはどういう場所だったのだろうかと多少は調べてみたりしますので、次の機会にはもっと知る内容がグレードアップすると思います。これもまた旅の楽しみの一つだと思っています。

雲南市には貸しがある気分でいます。妙な話ですが、吉田村に行くことになったのも、元はといえば市の観光協会かどこかが発行したリーフレットの中に神話コースというのがあり、神話の国出雲のその現地に何があるのかを訪ねてみようと思って出かけたのですが、案内図と地図とが一致せず、結局どこへも行けなかったからなのです。(実は最初の2箇所だけなのですが、腹を立ててその後へゆくのを止めたのでした)

吉田村は裏切りませんでしたが、旅先での道案内資料の作成元が観光協会でも市であっても、単なる興味本位的ないい加減な案内図ではなく、確実にそこに到達できるレベルのものを作っておいて欲しいなと思います。現地にも行かないような人に案内図を作らせてはダメだと思います。案内図というのは、未だ一度もそこへ行ったことのない人が迷い無く確実に到達できるということが大切なのであって、細かいことは自分の責任で調べろというのでは、詰めがなっていないということではないでしょうか?最後に再び偉そうな物言いをしてしまいました。おかげさまで吉田村の歴史を発見できたというのに。失礼しました。

コメント
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