山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

山陽・山陰の道ふらり旅を終えて

2009-11-07 04:42:55 | くるま旅くらしの話

2週間の旅が終った。短い旅だった。今回は元々秋に安達巌の遺作展を開催するという夫人のお話を伺い、どうしてもそれを見に行くと決めていたので、その機会に少し脚を伸ばして、今まで殆ど素通りばかりしていた山陽側の道を辿り、広島辺りから世界遺産の石見銀山を訪ねた後、ついでに日本海側も回って帰ってくるという大雑把なコースを描いての出発だった。

高速道の休日特別割引を利用しての目論見だったが、都心を抜けるには特別割引料金以上が掛かって、何だか理不尽さを感じたのはいつものことであった。それでも東名阪道の亀山ICを出るときの「千円」という表示には、ちょっぴり感動(?)したのだった。この特別割引は、とにかく高速道路の利用行程の間に休日を挟めば条件をクリアーできると言うことなので、高速道内のSAPAに仮眠しながら行けば、茨城県の我が家から九州の鹿児島まで2~3日かけて行っても、料金は、コースを上手く選択すれば千円で済むということなのである。景気高揚対策とはいえ、何だか今まで騙されていたような感じが少しばかりしてしまうのは、どういうことなのであろうか。

安達巌の遺作展は、大成功だった。夫人からのご報告によれば、1週間で6千人を超える来訪者があったと言う。用意された千部の画集も3日目には完売となり、追加印刷の分も7割以上が予約で埋まったと言うから凄い。これほどの反響を得るとは思っていなかったと言うのが夫人の所感でもあった。私がお邪魔した10月24日も、大変な盛況で近鉄デパートの6Fのお客の大半は、画廊に安達巌の絵を見に来訪された人たちという感じがあった。

ここまでの成功を得られたのは、関係者の皆様のご尽力があってのことではあるけど、先ずは夫人の獅子奮迅の活躍によることが大きい。そして安達巌という画家が残した力作と彼の両手を失ったという障害を乗り越えての、万難を撃破して行った画家としての生き様が、多くの人たちの心を捉えたのだと思う。知人の一人として、彼がもっと命を長らえていて、この場に笑顔を見せてくれて居たらなあ、と思わずにはいられなかった。彼の絵は、これからも多くの人たちに生きる勇気と元気を与え続けるに違いない。今は感動することの少ない世の中でもある。これから先も、彼の生き様を世に知って頂くこのような機会が再来することを願わずにはいられなかった。

遺作展の後先には、関西エリアに在住のお二人の旅の知人宅をお邪魔し、お世話になった。大阪堺市在住のTさんには、宿泊まで面倒を見て頂き感謝感激である。夜遅くまでの歓談は、旅の延長のような感じで、話の種は尽きなかった。又翌日訪ねた神戸在住のMさんご夫妻にも、過分な歓待を頂戴し、嬉しくも恐縮の気分だった。さんは喜寿をお迎えになられているが、その若さと生気溢れる言動には、くるま旅くらしの先達というよりも人生そのものの生き方を教えて頂く大先輩として敬服せずにはいられない。お話を伺っていて、学ぶものが真に多いのである。Mさんは科学(特に電気関係)の理論家であり、実践者でもある。その知識や情報網はご自宅のアマチュア無線システムを通じて世界に広がっている。しかし現在Mさんは、その知識や情報をビジネスではなく、残された人生の楽しみのために存分に活用されているのだった。庭先に設えられた手製の移動式竃で、アウトドアの楽しみの定番のバーベキューをご馳走になりながら、世の中にはこのような自由人の方もおられるのだなと、改めて知り合いとなれた喜びと嬉しさを実感したのだった。奥様の料理の腕も手際良さも、ご主人の行動派としての動きを見事に支えておられ、素晴らしいご夫妻だなと尊敬の念を一層高めたのだった。

この頃の世の中は、他人の家を訪ねるという行為が少なくなっているように思う。訪ねるというよりも、あまり来て欲しくないという気持ちの方が大きくなっているのかも知れない。お互いの家を訪ね合うというのは、さほどに敬遠されなければならない行為なのだろうか。このことについては、私は普段から疑問に思っている。私たちに興味を持ったり気に入ったと思った人には、遠慮なく我が家を訪ねて頂きたいし、私どももお邪魔させて頂きたいと思っている。お互いにオープンであって、初めてその人を知ることが出来るし、その人との違いも知ることが出来るのだと思う。うっかりオープンにするなどしたら、後でどんな災難が降りかかってくるのか心配だ、というような発想もあるのかもしれないが、私としては人間同士が信じ合う方に賭けたい。この頃は旅先で住所の入っていない名刺を頂戴することが多くなったが、世の中が乱れており個人情報を悪用されないための防御手段との考えがその根底にあるのだと思う。しかし、私としてはこれも又名刺を渡した相手の方を信用する方に賭けたい。

さて、その後がふらり旅となったが、概して山陽側は兵庫県まではくるま旅の範疇を超えた人口密集度の高いエリアであり、これはどうしても訪ねたい時には、車ではなく脚でなければならないなと感じたのだった。くるま旅は寝床を背負った旅なので、その寝床を置く場所が無いと成り立たないのである。そして多くの場合、都市部には寝床の置き場所が少ないか或いは無いのである。旅車は図体が大きいので、普通の駐車場や立体駐車場ではダメなのだ。今回はそれを一番実感したのが倉敷だった。30分ほど美観地区の周りを駐車場を求めて探し回ったのだが、結局止められる場所を見つけられなかった。運が悪かったのかも知れないけど、少なくとも事前に調べて行った公共の駐車場は全部ダメだった。バス専用の駐車場があったけど、旅車は拒否されたのだった。トボけてコンビニやスーパーの駐車場に置いておくという手もあるけど、それはあまり好かない。もう車で倉敷に旅することは二度としないことにしようと思った次第である。

私は山陽よりも山陰側の方が温かいのではないかと思っている。温泉が多いなどということではなく、そこに住んでいる人たちの心が醸し出すものが温かいのではないかということである。本当はそのように大雑把に場所を括って話をするのは適切ではないことは承知しているけど、石見銀山から日本海の温泉津に出て、何故かそのような感慨を深くしたのだった。それはとくに石見銀山を見たショックから来ているのかもしれない。

石見銀山は人間の悲しみが一杯詰まっている箇所である。短い時間で生命(いのち)を昇華させ、この世と決別させられた人びとの悲しみが、600余もあった小さな間歩(まぶ)と呼ばれる坑道の中に詰まり漂っている感じがした。その悲しみを癒すものが、温泉津にはあった。それが温かさの正体ではなかったか。そんな風に思ったのだった。

旅の終わり近くになって、天気は急激に変化し、日本海側は雪が降るかも知れないとの予報に驚き、一挙に信州の山の中に逃げ込んだのだが、一夜を明かした安曇野の道の駅:ほりがねの里の朝は、すぐ近くの紅黄葉の山が、雪を被って凍えて日の出を迎えていた。11月というのは、明確に夏とは決別する季節なのだなということを実感した。だらだら続いていた暑さは、その後はもう全く無くなって、湯たんぽを持参しなかったことを悔いる夜を迎えたのだった。

短い期間だったけど、あれこれ旅の思い出は多い。今回は新たな人との出会いは少なかったけど、初めて訪ねる地も多く、それなりの発見と感動を味わったのだった。それらのことについては、この後機会を見つけて綴ってみたい。

明日から少し休んで、旅の整理をしてからブログを再開することにします。(馬骨)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする