山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

初めて城下町出石を訪ねる

2009-11-19 08:02:11 | くるま旅くらしの話

若い頃から時代小説、それもいわゆる大衆小説というのが好きで、随分とたくさんの作品を読み漁りました。文学にも幾つかのジャンルがありますが、ノーベル賞の対象となるような作品にはだんだんと興味を失い、今では殆ど読む気が失われています。確かに世界的な評価を受けるからには、いろいろ考えさせられるものが書かれ、描かれているのですが、日本人の作家の場合は、感性が鋭すぎて、解かり難さが目立つようです。誰が読んだって、うん、そうだよ!と判るのが大衆小説なのです。私は大衆の一人だと思っています。大衆というのは気取れない人間で、己の地で行くしか生き方を弄(いじ)れない人間であり、要すれば単純なのです。(この説には反論・異論がたくさんあると思いますが、大衆小説といわれるものを読んで喜んでいる人間は、大衆であることに間違いありません)

大衆小説にもいろいろあって、大別すれば現代や近代を扱ったものと江戸以前の時代を扱ったものとがあるように思いますが、一般に時代小説と呼ばれているのは鎌倉以降の戦国時代から江戸幕末の頃まで、とりわけて江戸時代のものを指して呼んでいると思います。私の中では、大衆時代小説といえば、江戸時代が中心で、その代表的な作家は山手樹一郎ということになります。

山手樹一郎という方の作品には毒がありません。勧善懲悪のストーリーが多いのですが、悪人をぶっ殺すというような書き方が殆どなくて、悪人であっても最後は改心できるという、親鸞上人の教えのような考え方が徹底して描かれています。この方の時代小説の殆どはストーリーも登場人物も同じような仕組みのようで、例えば、登場人物といえば、主人公は若殿様かお姫様、脇役は善悪両サイドのお女中や御付の侍、コソ泥、女スリ、悪徳商人、裕福商人・やくざの親分・子分などであり、ストーリーも江戸と国元との道中での出来事を勧善懲悪入れ混ざって生起し、最後はめでたしめでたしで終るといった構成です。目次を見ただけで大体のことが解かってしまう感じなのですが、それでもワクワクしながら今回はどのような出来事が、どのように描かれているのかな?と読み出せばもうすっかり主人公になった気分になり、作者の意図にまんまと嵌(はま)ってしまうのです。

山手樹一郎の作品の殆どを読んでいると思いますが、その中で最も愛読したのは、「又四郎行状記」という作品です。このほかにも「桃太郎侍」など、映画やTVなどで取り上げられた作品は数多いですが、私の場合は何と言っても又四郎行状記なのです。何故なのかと知りたい方は、とにかく一度読んで頂きたいと思います。

少し横道に入りすぎたようです。今日のタイトルは出石(いずし)のことなのですから、山手樹一郎の作品のことなど無関係といえばそうでありましょう。しかし私の中では大いに関係ありなのです。というのは作品に出てくる殿様やお姫様の住んでいる城下町は、出石(或いはそれに似た城下町)をモデルにしたものが多いからです。かつての江戸時代には300余の城下町があったわけですが、現存しているのは少なく、残っているといってもその一部があるだけで、そっくり全部などという所はあるはずもありません。仙石氏が治めた五万八千石の出石藩は、最も平均的な規模の城下町だったような気がします。平和が保障されていた江戸の時代の、様々な出来事を思い浮かべる舞台としては、最適だったような気がするのです。出石の他にも秋田県の角館や福岡県の秋月などが思い浮かばれますが、いずれもちんまりとした城下町の面影が浮かび上がります。

その但馬の国出石の城下町をいつの日か訪ねてみたいと、山手樹一郎の作品に嵌って以来思い続けていました。くるま旅を始めて以降もなかなか訪ねる機会がなくて、近くを通っているのに、出石に行くにはメイン国道から逸れた少し山の中に入るため、うっかり素通りしてしまい後になってそれに気づいて、しまった!という連続なのでした。出石は但馬といっても丹波の山奥に近い所に位置しているため、その気になって行かないと見過ごしてしまうのです。

その出石の町を、今回初めて訪ねることができました。感想を一言で述べるなら、思った通りの城下町でした。いや、思った以上の昔を偲ぶことができる町の佇まいでした。何しろ初めての訪問で、全く勝手が判らず戸惑いましたが、先ず最初に訪ねたのは、駐車場の直ぐ上に見える櫓(やぐら)らしきものが建っている城跡でした。これは大正解で、上に登って城跡に立つと城下町がそっくり展望できるのです。お城と町との関係のバランスが、昔を偲ぶのに絶妙の感じがしました。殿様と町民・庶民との関係が上手くつながっている感じがするのです。現在の城跡は江戸時代に建てられたもののようですが、その昔はもっと上方に有子山上という室町時代の但馬の国の守護だった山名氏の本拠とした城があったということですが、もし今の城跡がそこだったとすると、これはもう殿様と町民・庶民との関係は分断され、バランスの悪い不安定なものとなったに違いありません。

   

出石城跡から見た城下町の景観。小さな盆地に町並みが櫛庇している。

城跡を降りると、直ぐに城下町です。一番目立つのは堀跡のすぐ近くに建っている「辰鼓楼」という、時を知らせる建物です。恐らく、今出石と言われてすぐ思い起こすのは、この建物か或いは昭和43年に復元された櫓の姿ではないかと思います。辰鼓楼は今は時計台ですが、その昔はここで時を知らせる太鼓が打たれたのだと思います。櫓は上方に、辰鼓楼は下方の町中にと、実に目立つレイアウトです。

   

辰鼓楼。出石の町の中で最も目立つ建築物だと思う。先日TVを見ていたら、名探偵コナンにも使われていた。

いつものように、一番観光客が集まっているエリアを避けて、それからの散策は町の裏通り中心でした。この町は戦火には見舞われなかったようで、歩くとひっそりと大正時代から昭和の初めの頃に建てられたと思しき町並みが残っていました。田舎に育った私には、城下町の情景というのは子供の頃に親に連れて行ってもらった、何処かの町のおぼろな記憶に基づくイメージでしか思い浮かばないのですが、それでも直感的に町の古さに懐かしさと安堵感を覚えるのは、やっぱり古くなりかけている日本人だからなのでしょう。

   

出石の町並み。戦前の日本の町の持っていた温かさのようなものが伝わってくる。しかし静かで哀しいほどひっそりとしている。

しばらく散策を楽しみました。町の中には朽ちかけた土蔵があり、修理をするのか、それとも取り壊すのかよく判らないのですが、それがとても気になりました。どうやら古い酒蔵らしいのですが、現代の技術で可能なのであれば、残して欲しいなと思いました。元通りでなくても残しておけば、それは町の宝物になるのは間違いないのですから。このような建物を取り壊すというのは日本の心を壊すような感じがして心が痛みます。所有者や町としては負担が大きいのだと思いますが、この町にとっては大切なのは新しいものよりも古い価値を証明する存在なのではないかと思ったのでした。

   

朽ち掛け始めた土蔵があった。詳しくは判らないけど酒蔵だったようである。残存を願った。

町の中を歩いていると蕎麦屋の看板が目立ちます。出石皿蕎麦というのだそうです。皿蕎麦というのは聞いたことがありません。一度は食べておかないと、と客引きのお姐さんの一皿おまけするからというのにつられて、店の中に入りました。運ばれてきたのを見て、思わずお~おっ!という感じです。まさに皿蕎麦でした。大きなお盆に、大きな蕎麦徳利と10枚の皿に盛った蕎麦が運ばれてきました。椀が皿に替わった感じですが、わんこ蕎麦と違うのは、忙しなく食べなくても良いということです。一人前5皿というのが標準らしいのですが、足りなければ追加すれば良いわけです。私どもにおまけの1皿が後から運ばれて来ました。もうこれで充分です。

   

出石皿蕎麦2人前。ここの蕎麦は、国替えで信州からやって来た藩主がそば好きで、本場から連れてきた職人がつくったのが始まりだとか。味も上等だった。

ところで出石には出石焼きという白磁の焼き物があります。この蕎麦屋で使われているものは、皆その白磁なのでした。出石には現在50軒ほどの皿蕎麦の店があるそうですが、そのどの店でもこの白磁のお皿と徳利が使われているのでしょう。地産地消の好例のような気がしました。この白磁が気に入って、私もまた蕎麦徳利を1本手に入れたのでした。(蕎麦屋からではなく専門店でですぞ。為念)

今回の出石訪問はとりあえず皿蕎麦を食べてお仕舞いとなったのですが、次回に訪ねる時にはもっと丁寧に町中の探訪をして見たいと思っています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする