山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

山陽道と山陰道

2009-11-11 04:51:12 | くるま旅くらしの話

タイトルですが、律令制に基づく旧国名を正確に記憶している人は、今では殆どいないのではないかと思います。今、道州制というのが検討されているようですが、旧国名の中では、「道」というのは政治のシステムとしてではなく、国のくくりを謂わば道州制的に呼んでいたようです。詳しいことはわかりません。現在どこかで検討されている道州制が、どのような形で出現するのかわかりませんが、因みにその昔呼ばれていた「道」について記しますと、次のようになります。

先ず国の中心に①畿内があり、北の方から言えば、②北海道③陸奥道④北陸道⑤東山道⑥東海道⑦山陰道⑧山陽道⑨南海道⑩西海道の計10エリアに日本国を分けて、その各「道」の中にそれぞれ「国」と呼ばれるエリアが配置されていたわけです。これは律令制によるものということですが、時代の流れとともに、曖昧な形で呼称のみが残っているというのが現在の状況なのだと思います。

さて、旅をしていますと、現在の市町村合併や今まで何度も繰り返されてきた治世の横暴等の難を潜り抜けて、残っている地名に出くわすことが時々あります。地名というのは、やっぱりそこの歴史を背負っているというものが、一番納得が行き、落ち着きと親近感を感ずるように思います。その地の呼称を、歴史を無視して当代のご都合主義で決めたり、利便性を重視するあまり緯度と経度で表示するような表現の仕方は、歴史を払拭してしまうような感じがして、私としては賛同できません。

今回は大きく構えて、山陽道と山陰道をイメージしてのふらり旅と呼んでみたのですが、さてその捉え方は正しかったのでしょうか。結論から言えば、とんだ見当違いだったと言えそうです。山陽道も山陰道もあまりに広くて、点の移動をしたに過ぎなかったように思います。わずか2週間足らずで、この広いエリアを線で結べるような旅をすることは、到底不可能なのだと改めて思い知らされたのでした。弁明的に言えば、もともと下見のつもりで出かけたのですから、それは初めから分かっていたということなのですが、それにしても実際の日本国というのは、想像以上に広いことを実感します。律令時代においても72カ国もあったのですから、その国を一つひとつ訪ねるのも容易ではないというのが分かります。

何故その昔の地名や政治の仕組みなどに関心を抱くのかといえば、旅先で訪れる現地には、その昔からの歴史がどこかに息づいているのを感じさせられ、それがどうしてなのかを知りたくなってしまうからなのです。観光の旅であっても、ただその地の景色の美しさや奇抜さなどに感動するだけでは勿体ないような気がして、そこに至るまでの道すがらの土地柄の中に何かを気づいたときは、その理由(わけ)を訪ねてみたいというのがこの頃の旅の仕方となってきており、そうすると必ずその地の歴史についての知識や情報というようなものが必要になってくるのです。

それらを知るための時間は、旅の現地の中には無いことが多く、従ってそれは旅から戻ってからということになります。今、私がこうやって律令制の下の「国」の配置やそれをまとめるための「道」の設定などについて調べるのも、旅の楽しみの一つなのです。かつての学校の歴史の授業の中での律令制についての学びは、国を治めるためのその昔の基本的な仕組みであった、という極めて概括的なことしか記憶していないのですが、旅をしていますと、例えば山陽道とか山陰道というのは元々何なのだ?と疑問を持つ様になるのです。そして、そのわけを知ろうとしてあれこれ調べ出すと、たちまち律令制というような大昔の国家の組織規定にぶつかってしまうのです。歴史を知る本当の楽しさは、このような切り口により多く潜んでいるような気がして、この頃はこれも又旅の後楽の一つとなっています。

ちょっと脱線して、広島県東部の少し山に入った所に御調町というのがあります。現在は尾道市に合併していますが、最初にここを訪れたときには、この地名をどう読むのかが分からず、「ごちょう」とか「おしらべ」とか何とも変な感じの読み方しか出来ず、それが正しくは「みつぎ」であるというのを知って驚かされたことがあります。しかし何故「御調」なのかを知らなければなりません。こんなに難しい読み方をするからには、何か歴史上のいわれや出来事があったに違いないと思えるからです。

その結果知ったのは、その昔の税制の「租・庸・調」の「調」からこの地の呼び名が来ているということでした。「調」というのは、大化の改新に制定された古代の税法の中で、現物納租税の一つで、これを「みつぎ」と読んでいたわけです。この地ではその御調を「水」で治めていたということが資料に書かれていました。古来より税として納めるほどに、きれいで美味い水がこの地では有名だったのでしょう。そのような歴史の経緯を知ると、御調という呼び方に何の難しさも感じなくなります。

さて、その山陽道と山陰道ですが、これを比較するのはナンセンスです。例えば山陽道は明るく暖かく、山陰道は暗く寒いなどと比べてわかったような顔をするのは、紙の上で地理や歴史を眺めている輩の話であり、それは真実とは全く無縁の見当違いの感覚です。改めて感ずるのは、いずれの地においても何一つ比較できるようなものはないということです。それぞれに個性があり、それ故にその土地がそこに存在しているのです。

しかし人間というのはいい加減な存在なものですから、斯く言う私自身もその時々の旅の環境の在り様によって、その土地が好きになったり、反対に二度と来ないぞなどと勝手な所感を持つのです。そのような所感から言えば、私は山陽道というのは、(特にその昔の畿内に近いエリアほど)旅がしにくく、何だか来訪を拒まれている感じがしてなりません。その昔の播磨の国などは、くるま旅の余地はほとんど無いように感じます。倉敷なんぞも都市化のど真ん中に来訪先があるため、播磨の国よりもっと酷い状況になっている感がします。これに対して山陰道の方は、ずっと大らかでした。拒否の姿勢などどこにもなく、さりとて大歓迎ということでもありませんが、極々普通にくるま旅の者を迎えてくれたのでした。

さて、ずらずら今回の旅の仕方というか、視点のようなことを書いてきましたが、明日からは、その旅の中で拾った出来事、発見・気づきなどについてしばらく書いてみたいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする