山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

小布施再訪

2009-11-22 06:58:44 | くるま旅くらしの話

小布施という町はよく分からない町です。何故観光化されたのか、その昔はどういう所だったのかが良く分からないのです。こんな狭い、ほんの少ししか昔が残っていないような所に、何故大勢の人がやって来るのか。そして斯く言う私自身も二度目の来訪なのです。一度来て見て、どうもよく分からなかったから再訪となったのですが、今でもよく分からないというのが正直な気持ちなのです。

分からない、分からないと書くと、小布施に在住の方や小布施をよく知っている方から叱られる感じがしますが、高井鴻山や葛飾北斎などのことは勿論名前ぐらいは知っていますし、江戸時代の国内産業交易の拠点の一つとして経済面では栄えた所だったというのは分かるのですが、治世の仕組みというか、為政者は誰だったのかなどということいついては、鎌倉時代以降の内容がさっぱり分からないのです。町のホームページなどを見ても明治以降のことは少し書かれているようですが、それ以前のことについては極めてあっさりと記述されており、年間120万人もの人が訪れる町にしては説明が不足している感じがしてしまいます。ま、そのようなことに拘らず、今現在の町の様子と残されている遺産・史跡などを楽しめば良いということなのでしょうが、私の感覚では小布施というのは江戸時代の高井家を中心とする産業振興の名残りをとどめている町という印象しかありません。

ネットなどで調べた資料を見ると、彼の戦国大名の2代目覇者の秀吉の育てた福島正則の終焉の地だったということが書かれており、その後この地と福島家とがどのような関わりを持ってきたのか、よく分かりません。陣屋跡というのがありますから、そこには為政者が住んでいたのだと思いますが、それが誰なのかさっぱりわからないのです。勿論探訪不足なのだというのは承知しているのですが、私的には小布施は未だ謎の多い町なのです。ということは、もう一度訪ねる必要があるということでもあります。

小布施は真に小さな町で、茨城県で市制を採っている中で一番面積の小さな守谷市よりももっと小さくて、その半分程度のわずか19k㎡ほどしかないのです。観光客が訪れるのは、その中の長野電鉄小布施駅の東側の一角の町並みというか、昔の面影をとどめる建物の残るエリアなのです。最近は高速道の小布施ハイウエイオアシスにもICが出来たりしましたので、道の駅などの物産の販売所を訪れる観光客も多いのだと思いますが、小布施は規模は小さくても訪ねてみたいという魅力のようなものをどこかに持っている町には違いありません。

私が小布施を訪ねてみようと思ったのは、何年か前に「セーラーが町にやって来た」という、小布施の町おこしの中核となって働いた、セーラー・カミングスというアメリカからやって来た若い女性の密着ルポの本を読んだからなのでした。それまでは勿論小布施という名前くらいは知っていましたが、訪ねてみたいというレベルまで関心は育ってはおらず、何かついでがあればそういう所を通ることもあろうという程度のことでした。しかしその後、小布施の名前は結構耳にすることが多く、長野県北部の観光スポットの一つとして光が当たり出したのを感じていました。

それで昨年の春でしたか、旅の帰りに初めて立ち寄ったのですが、タイミングが悪くて、町を訪ねた時には17時近くになっており、店や施設は殆ど閉店近くで、大急ぎで観光エリアの中を歩き回っただけでした。凡その町の様子はわかりましたが、その内容といえば、駐車場と資料館、それに主な店にどのようなものがあるのか、というエリア内のレイアウトくらいで、その中身はさっぱり分からぬままに暗くなり出した町をあとにしたのでした。今回は少し時間をかけて町中を歩いてみたというわけです。

   

小布施の観光エリアの町並み。昔からの町家や蔵などを活用した、よく整備された特徴のある店が並んでいる。

このような未知の町を探訪するときには、真っ先に資料館のような所や観光案内所のようなところを訪ねて情報を貰い、町のアウトラインを頭に入れてから行動を開始するのが効率的だと思いますが、私の場合は先ずは知らぬまま(といっても自分なりには地図などの情報は確認しますが)現地を歩き回ることから始めるのがいつものやり方なのです。資料館などは、そこにあるのだということが判れば良いという考え方で、どうしても中に入ってみたいと思うようになった時に初めて中に入るということになるのです。ですから未だ、高井鴻山記念館も葛飾北斎の北斎館にも入っていません。まだその気になっていないからです。

いろいろ調べてみると、この町は高井鴻山という江戸末期の実業家の存在によって現在があるように思えます。もしこの人が居なかったら、小布施の今日の観光スポットとしての存在はなかったのではないかと思ったのでした。セーラーさんが同じようにこの地にやって来られても、町おこしは困難だったのではないかと思ったのでした。葛飾北斎がこの地にやって来たのも 、高井鴻山を訪ねてのことであり、高井鴻山という人が江戸で16年間も様々な人と交流しながら自らを磨いたという活動がなければ、現在はなかったのだと思うのです。

二度の小布施来訪の結果、今私が一番興味があるのは高井鴻山という人物です。この町の今を輝かせているのは、この人の存在以外には殆ど考えられません。一体どのような人物だったのか、調べてみたいと思っています。80歳を超えた天才画家の北斎が、新たな志を持ってはるばる江戸からこの地へやって来るほどの、高井鴻山という人物の魅力というか力というのがどのようなものだったかを知りたいと思うようになりました。これが今回の小布施探訪の最大の成果です。そして、今度訪ねる時には必ず記念館に入ってそこに残されているものをじっくりと見たいと思っています。

小布施の町並みなどにはそれほど関心はなく、出石や角館などの城下町に比べてスケールが小さく、思い出したのは徳島県のウダツで有名な脇町でした。商業都市という感じです。しかしこれから高井鴻山のことをもっとよく知れば、この町の景色が変わって見えるようになるのではないかと思っています。次回の訪問が何時になるのか分かりませんが、その日が来るのが楽しみです。

最後にセーラーさんは今どうしているのでしょうか?もうアメリカに戻っちゃったのでしょうか。あちこちの店や蔵など見て廻りましたが、それらしき女性には出会えませんでした。(まだ、野次馬根性は残っているようです)高井鴻山と葛飾北斎の次のこの町の貢献者は、彼女だといえるのかも知れません。外国人の感性の方が、日本人よりも本当の日本が何なのかを優れて捉えているということに、少なからず驚くとともに、埋没の深度を増していように思える日本人の文化認識力を少し淋しく思ったのでした。

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