山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

08年 四国八十八ヶ所巡りの旅(第9日)

2009-01-13 00:48:13 | くるま旅くらしの話

第9日 <10月10日()    

道の駅:風早の郷風和里→第51番:石手寺→第50番:繁多寺→第52番:太山寺→第53番:円明寺→道の駅:風早の郷風和里→第54番:延命寺→第55番:南光坊→第56番:泰山寺→第57番:栄福寺→第58番:仙遊寺→第59番:国分寺→第61番:香園寺→第62番:宝寿寺→第63番:吉祥寺→第64番:前神寺→道の駅:小松オアシス(愛媛県西条市)(泊) <148km

松山市内の交通事情は良く判らないけど、9時前後では渋滞も予想されるので、少し早めに行くことにして、7時前に出発。先に第51番札所の石手寺(いしでじ)に参詣する。道後温泉に近いお寺である。何度も来ているのだが、今日は境内に居たおばさんに教えて頂いて、お寺の直ぐ上の丘に建つお大師様の像を見ることが出来た。今まで気づかなかったのである。各寺に参詣したといっても、実際は殆ど一部しか見ていないというのが本当の姿なのかもしれない。何だか知らないけど、どんどん急ぐ雰囲気になってしまうのである。邦子どのは、平和祈願の鶴を折って奉納していた。

石手寺のあとは、第50番札所の繁多寺(はんたじ)へ。ここは少し奥まった所にあり、昨日道を間違えて参詣に至らなかったお寺でもある。今日はしっかりと見つけて参詣を済ます。このあとは、もう一度市街地を抜けて、松山港の方へ向うことになる。海側には二つのお寺があり、先ずは第52番札所の太山寺(たいさんじ)へ。ここは下の駐車場に車を置いて、少し坂道を登った所に更に石段があり、立派な仁王門がある。そこを潜るとどっしりと本堂が構えていたが、これは国宝だとか。仁王門は重文だという。このお寺も境内は巨木に囲まれて、実に清新な気分になれる癒しの場所だった。

次は坂を下って車に戻り、平地を走って直ぐに第53番札所円妙寺(えんみょうじ)に到着。こちらのお寺は街の中にあり、全体的に小じんまりとした感じだった。これで松山市内のお寺は全て参詣が終わったことになる。このあとは、今治エリアに向うことになる。その前に、もう一度道の駅:風早の郷に寄って、トイレ休憩とする。もう11時になっていた。

30分ほど走って第54番札所の延命寺(えんめいじ)に到着。以降は第55番南光坊(なんこうぼう)、第56番泰山寺(たいさんじ)、第57番栄福寺(えいふくじ)、第58番仙遊寺(せんゆうじ)と小刻みに参詣する。この中で仙遊寺は、かなりの坂道を登った山の中に在って、駐車場に辿り着くまでは大丈夫か?の不安が付きまとった。お寺は立派だった。次は、山を降りて第59番札所の伊予国分寺へ。これが三つ目の国分寺である。このお寺には山門が無く、歴史や由緒は古いのだろうが、見た目には、少し寂しさを禁じえなかった。ここで少し遅い昼食を済ます。早や14時となっていた。お寺を廻り出すと、昼食のタイミングが合わなくて、早くなったり遅くなったりで、どうも具合が悪い。

国分寺の後は、明日に難所の第60番札所横峰寺(よこみねじ)に行くことにして、その前に付近のお寺を全部廻ってしまうことにする。今夜の泊まりは、明日に備えて高速道にある小松ハイウエイオアシスにすることに決める。ここには温泉も併設されていると聞く。というわけで、以降は第61番香園寺(こうおんじ)、第62番宝寿寺(ほうじゅじ)、第63番吉祥寺(きっしょうじ)、第64番前神寺(まえがみじ)と引き続いての参詣を終える。この中で、香園寺は、コンクリート造りの建物で、今までのお寺とは少し雰囲気の違ったものだった。1階が本堂、2階に大師堂があり、同じ建物の階別というのは、何だか変な感じがした。近代化するとこのようになってしまうものなのかと、疑問を禁じえない。お大師様ならどう思われるのであろうか。

   

香園寺の本堂。鉄筋コンクリート造りで、既存のお寺のイメージはない。大師堂は2階の中にある。

ハイウエイオアシスへの道が、案内板を見落としたのか、なかなか見つからず、狭い道を走っていて、十字路を曲がる際に、飛び出していた電柱に後部をぶつけてしまい、邦子どののひんしゅくを買った。あせると碌なことは無い。ようやくオアシスに辿りついたのは、17時半だった。上の方にある温泉に入る。400円でなかなかいい湯だった。ここの駐車場に泊まっても大丈夫だろうと、風呂から上がって、夕食の後一杯やって寝ていたら、22時頃に起こされて、ここは閉めるので下の方へ行って欲しいと言われた。事前に聞いて置けばよかったと反省。そろりと100mばかりの坂を下って、殆ど車のいない駐車場に停める。もう一度眠りの仕切り直しとなる。

◇「受想行識亦復如是」について

「受想行識もまたかくのごとし。」  色即是空、空即是色のあとに付け足されている一節である。受というのは感覚のこと、想というのは表象のこと、行とは意思のこと、そして識とは知識を意味することばだと、訳に書かれていた。その詳しい考証をするつもりはない。いずれにしてもこの4つは、色の世界の現象項目であるということだろう。それゆえにこれらは皆空なのだということが出来るわけである。

我々は普段は受想行識の世界で生きている。様々なことを感覚によって感じ、イメージを膨らませ、己の意思を主張し、様々な知識を獲得して使い分けようとする。その相互作用が生きているという証なのだと思う。それらの大源(おおもと)が何なのかなどということは考えたことも無いけど、観自在菩薩は、それは空なのだという。空という存在が、我々を受想行識の世界に生かさせているのだという。そして空こそが我々の本体なのだという。本体が現象として現れたものが色なのだという。

これはすごい論理だなと思う。この空なるものが、人間という生き物に共通のみならず、全ての存在の根源であるという発想は、凄まじい感じがする。宇宙を構成しているものが空というものなのかもしれない。想いは、頭の中を駆け巡って、止まることをしない。

コメント
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