山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

08年 四国八十八ヶ所巡りの旅 (第10日)

2009-01-15 00:38:14 | くるま旅くらしの話

第10日 <10月11日()    

道の駅:小松オアシス→第60番:横峰寺→新居浜市郊外・コインランドリー→道の駅:マイントピア別子(愛媛県新居浜市)(泊)  <54km

昨夜降った雨が未だ降り残っている感じだったが、どうやら今日は天気は少しは回復するらしい。そんな感じのする朝だった。広い駐車場には自分たちの他にも数台の泊まりの車があったようで、キャンピングカーも2台ほど見受けられた。

さて、今日は愛媛県最大の難所の第60番横峰寺に詣でる予定である。相当の山奥にあるので、車での難行は必至である。以前はどうだったか良く覚えていないのだが、確か山岳パトロールのジープか何かに乗せてもらって行ったように記憶している。前回は自転車を途中に置いての参詣だったけど、今回はそうは行かない。もしこの車で無理な場合は、専用の乗り合いバスか何かを利用するしかない。とにかく行けるところまで行ってみることにして出発する。

拠点となる上野原という所に行ってみると、案内図では大駐車場があるように書いてあったが、実際はほんの少し道路が膨らんだ程度の広場で、どうもこの案内図は作者の主観的なイメージで書かれているようで信用できないなと思った。傍にマイクロバスの発着所があり、一般の人はここから専用のマイクロバスに乗って参詣するようである。事務所の人にこの車で大丈夫かと訊いて見たら、マイクロバスが行くのだから大丈夫だという。途中に料金所があり、1,800円を払わなければならない。とにかく行くしかない。

それから先の山道は、景色の良い所も多かったけど、離合の難しい場所も多くて、スリルというか、肝を冷やしての運転の連続だった。道路は森林組合が管理しているようで、元々は林道のようである。どうにか舗装もされており、この料金はやむを得ないなと思った。最終駐車場に車を停めてから15分ほど歩いた所にお寺があった。深山幽谷の感じのする場所である。未だ9時前でお寺の周辺は薄く霧が覆っていた。般若心経を誦して参詣を終える。何はともあれ、無事に参詣できて良かった。

   

横峰寺の景観。正面が本堂で左手に大師堂がある。深山の中に伽藍が点在している。

帰り道は、思ったほど離合に困ることも無く、1ヶ所だけ数mのバックを余儀なくされた所があったけど、どうにかクリアして山を降りることが出来た。この後は、愛媛県最後のお寺の三角寺である。そこへ行く前に、溜まった洗濯物を洗うことにして、西条市外に行けばコインランドリーがあるだろうと向う。ところがR11沿いにはコインランドリーはあまり無いらしく、なかなか見つからない。とうとう西条では見つからず、新居浜市の中心街に入る手前で、ようやく1軒見つける。ヤレヤレである。

車を駐車場に入れ、ここから先は邦子どのの世界。洗濯物を運んだ後は、車の中でデジカメ写真のパソコンへの取り入れや旅の記録などを整理する。それも終わって、特に何もすることが無いので、街中の散策に出向く。新居浜市の外れの方なので、特に目立ったものは何も無く、40分ほど付近をうろついて車に戻る。財布を忘れていってしまい、買い物も出来なかった。2時間ほどかかって洗濯終了。

さて、どうするか。難所の参詣をこなしたので、何だかホッとしてしまい、もう今日はお寺巡りを止めて休養日としようか、とそのような気持ちとなってしまった。とにかくもう昼時なので、何かないかと近くにあったスーパーに入ったのだが、そこで生きたワタリガニが売られているのを発見。興奮する。守谷では絶対ないことだからである。これはお大師様が用意されていた休養日に間違いないと二人で確認しあって、ワタリガニ2匹をゲット。ビールも買って、近くにある道の駅:マイントピア別子に向う。今日はここに泊まってゆっくりすることに決める。

この道の駅に来たのは初めてだった。別子といえば、銅山のあった所で、住友グループの本拠地ともいえる場所であった。道の駅はその銅山の採鉱本部のあった場所に造られていた。四方を山に囲まれ、温泉もあって、ゆっくり休むには絶好の場所だなと思った。早速カニを蒸かす。これは邦子どのの役割。カニの蒸かし方は、母親譲りで、これは安心してよい。彼女の母は、千葉の海で獲れるワタリガニをお八つにして育ったような人なのだ。その人の指導よろしき()を得ているらしいので、口を挟む必要はないのである。

   

豪華なカニ料理。といってもただ茹でただけ。写真を取る前に食べ急いで甲羅を外してしまった。

豪勢な、といっても豪勢なのはカニだけなのだけど、ビアパーティの後は、一眠りすることにして寝床の中に。飲んだら寝るというのが、最近の暮らしの基本パターンになってしまっている。邦子どのは温泉のある建物の方に出かけて行ったようである。2時間ほど眠って、近くが騒がしい感じなので目が醒めたのだが、何だろうと思っていると、車のドアを開けて邦子どのが誰かを連れて来たようだ。どうやら車の中を見せて欲しいという人を連れてきたらしい。起き出すのも面倒なので、寝床に潜ったまま、どうぞ、というと、恐縮そうに中年前の世代と思しき男性が顔を出した。寝床の中からでは失礼なのはわかっているけど、車のバンクベッドを使っている様子も参考になるだろうと、ありのままを見て貰うことにした。旅車に関心のある方らしく、なかなか内部を見る機会がないので、参考になったようだった。後で聞いたら、針金細工をされている人で、面白い作品があったので、何点か買いながら旅の話をしている内に、車の中を見てもらうことになったらしい。我々にとっては、良くあることで、見たい方にはそのまま見て頂くことにしている。

一騒動が終わって、本来ならば温泉に行くところなのだが、ここの温泉は一人800円とかなり高額である。今日は豪勢なビアパーティを行なった後なので、緊縮財政に努めることにして、温泉は止めにする。TVは映らないのが解っているので、最初から設定もしていない。何となく時間を過ごして、夜になって再び寝床の中へ。

◇「舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是故空中。無色。無受相行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。」

「舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢(あか)つかず、淨(きよ)からず、増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至(ないし)意識界もなし。無明もなく、亦(ま)た無明の尽くることもなし。乃至老も死もなく、亦た老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、亦た得もなし。」

これらは「受想行識亦復如是」に続く何節かである。舎利子というのは、お釈迦様の高弟の一人だという。この舎利子に向って観自在菩薩が話している中身は、「色即是空、空即是識、受想行識亦復如是」の具体的な事例をいくつか述べているのだと思う。色の様々な現象は、それを生み出している根源が空なのだという説明である。

事例として、我々が生きている間に係わる、様々な喜怒哀楽現象を取り上げているのだが、結論的に言えば、それらを生起させているのは本質である空なのだということであろう。この事例のほかにどのようなものを取り上げたとしても、同じような表現となるに違いない。否定的、逆説的な言い回しとなっているけど、それは、単に空を強調するためだけではなく、色のもたらす様々な不安や悩みを弱める表現であるようにも思う。

この事例を読んでいると、何故か心に安らぎを覚えるのである。どんな悩みや悲しみや嬉しいことであっても、それを一喜一憂してやり過ごせば良いのだというメッセージにも聞こえるのである。人間の、自分の本質が空という実在の中にあるといことに深く気づいた時、人は安楽の世界に入って行けるのではないか。そのように思えてならない。全くの自由自在の世界がそこにはあるように思えるのである。

しかし、これは一種の観念であって、現実の自分には、とてもとてもそのような空の認識があるわけではない。それで良いのではないかと思っている。この世からおさらばさせられる寸前に、空の意味をしっかりと摑(つか)まえることが出来るように、これからの人生を油断なく歩んでゆきたいと思っている。

 

※ 昨日は再び旅の虫が疼いて、これを鎮めるために近場の温泉に行ってきました。埼玉県の秩父地方に近い小川町という所にある「花和楽(かわら)の湯」というのと、それから茨城県の南西部に近い、これも埼玉県の鷲宮(わしのみや)町にある「百観音温泉」という所でした。いずれも本物の温泉で、意外と身近な所に湯が湧き出でているものだなと思いました。温泉行の話は、いずれ機会を作って紹介などさせて頂こうと思っています。

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