山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

天変地異災害と国家

2008-05-17 06:05:55 | 宵宵妄話

ちょっと大げさかなとためらいながらも、最近世界の各地で起こっている天変地異の大災害のことを思い、個の人間の無力さ、悲しさ、人間社会というものの愚かさを感じつつ、このようなタイトルをつけた次第である。

このところ環境破壊とか、地球温暖化だとか、人間の営みの負の部分のもたらす不気味な現象についての議論が、世界規模で沸き立っている感じがするが、そのような議論などを蹴飛ばすかのように、ミャンマーではサイクロンによる大水害に見舞われ、つい先日は隣国の中国四川省では大地震が発生するという、恐るべき天災地異事件が発生している。

環境破壊や温暖化の議論は、今のところ、その災害の悲惨さを目()の中(あた)りにするものが殆どないので、不気味感はあっても実態としての怖さからは少し離れていることができるのだけれど、台風・洪水や大地震という奴には、待ったなしの恐怖を覚えずにはいられない。被災にあった多くの方々に心からお見舞い申し上げると共にお亡くなりになった方には、心からそのご冥福を祈りたい。人種や国などは問題ではなく、人間として哀悼の意を思わずにはいられない。

今回の中国四川省の大地震やミャンマーのサイクロンによる大災害のニュースが報じられる度に、人間の国家と国民個人との関係のあり方について、改めて人間社会というものに対する愚かさ、虚しさを覚えずにいられなかった。地球は一つ、人類は皆兄弟という発想があるが、国家体制というものは、それを否定し、踏みにじるようである。ミャンマーは国際救助支援を断り、例え死者が増えようともあくまでも自力での復興を目指しているが、これなどその被害者の数から言えば、軍事政権が、自国の国民を死なせている数は、どこか他国との戦争の犠牲者などの比ではないほど膨大な数に登るのではなかろうか。国家という組織の、他を寄せ付けない狂った自殺行為の感すらする。

中国は災害後4日も経って、ようやくわが国の国際緊急援助隊を受け入れることを決めたが、何故直ちに受け入れなかったのかには疑念を抱かざるを得ない。数十年前、中国では唐山大地震があったと聞くが、この時は救援の話はおろか、地震被害の報道など一切、我々は知らなかった。外国のメディアが、数行の報道記事で地震があったことを知らせた程度ではなかったか。後々に出版された本で、唐山大地震で10万人以上が死んだということを知り、その悲惨さに思いを馳せると同時に、この時も国家体制の身勝手さを空恐ろしく思ったのだった。そのときから比べれば、中国はほんの少しだけど、グローバル化の渦の中を動き出しているようにも思える。

また、天災地変と国家体制の関係では、北朝鮮などは台風や気候不順で人民が被っている悲惨な災害状況を、国家の取引に用いている感すらある。国を治めるものの責任がどこにあるのも見えてこない。21世紀に存在する国家とも思えない感じすらする。

しかし、厳しく反省すれば、現在のそのような国のことばかりは言えない歴史が、わが国にもあったのではないか。人間社会の国をめぐる治世の状況は、文明の進歩とともに、大きくその姿を変えてきているから、歴史という観点からの安易な比較は当てはまらないのかも知れないけど、江戸時代250年を超える鎖国の歴史は、他国の支援など寄せ付けず、又国内においても自治権の異なる300近い小国家に分かれて、夫々の覇権を主張していたのだから、国を守るという理由で、或いは権力者の見栄や都合でそこに住む人々を省みなかった時代が長くあったのである。

国家というのは何なのであろうか。単なる個人の集合体ではないことは明らかだ。幸せを願う100人の人の集まりなら100人による平和国家を形成することができるかも知れないが、幸せを願う1億の人の集まりでは、幸せという純粋な願いは1億人の様々な欲望の中にもみくちゃにされて息絶え絶えとなり、その代わりにすべての個々人の欲望を超えて、全体をコントロールする強力な権力を持った組織が出現する。そして何事も起こらなければ、人々はその権力に安全と安心を託すのである。しかし、天災地変のような大事件が発生すると、その権力はその支配下にある一人ひとりを守るよりも己の権力を守る方を優先させるものらしい。どうやら、人間社会の治世の構図というのは、歴史を超えてそのような形になっているようだ。これが人間社会というものであり、それは組織の本能のようなものと思われる。

今回のサイクロンや大地震の被害報道を見ていて、その悲惨さに息を呑みながら、大自然の巨大な所作の中では、如何にこの世(=地球)を支配しているかのごとき人類ではあっても、大量発生のバッタのような存在に過ぎないのではないかと思ったのであった。人間社会の愚かさは、その組織を構成する一個人の深い悲しさと結びついていることを、今回の大地震やサイクロン災害の中に改めて思ったのであった。

明日から数回に分けて、先の旅の中で、HMCCの合同大会で話をさせて頂いた、「くるま旅は楽しい」というテーマでの話の内容を掲載するつもりでいます。実際の話とは少し異なり、話せなかったことや話したいことを付け加えさせて頂きました。引き続きご一読頂ければ嬉しく思います。

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芥子を見に行く

2008-05-16 01:34:11 | くるま旅くらしの話

日ニュースを見ていたら、下妻市の小貝川の川原にある公園の花畑の芥子に、栽培してはいけないものが多数混ざっていて、当局の指摘を受けた市側が、それらを伐採・焼却処分にしたとあった。

下妻市は、我が家からは40分ほどの距離にあり、東北方面の旅に出かける際には、R294沿いにある道の駅にいつも立ち寄って、野菜などを仕入れてゆくことが多い。筑波山を眺望する田園地帯が広がっており、米の他にも梨などの果樹栽培も盛んな所である。下妻市には市街地近くに鬼怒川が流れており、小貝川は市街地から離れて、筑波山に近いエリアを流れている。

私のように茨城県北に生まれ育った者には、県南に移り住んで、まだ5年にも満たない現状では、この辺りの地形はだだっ広くてメリハリが少なく、どうもよく判らない。県北は山が多く、海も近いのだが、関東平野を独り占めにしているようなこの辺りの地形は、何処まで行っても同じように見えて、戸惑うのである。

最近「下妻物語」などという映画が作られたりして、下妻という所も少し有名になった様だけど、ヤンキー姉ちゃんが何やらしたとかのような話には興味がないので、本も映画も見たことがなく、私の中では、下妻は昔のままの田舎である。

その下妻で、栽培してはならない芥子が発見されたと聞いて、どういうことなのかと、野次馬根性を発揮して現地を見に出かけたということなのである。新聞の記事によれば、5月の24~25日開催の花フェスティバルに向けて、5ha(約1万6千500坪)の川原の敷地に500万本のポピーが植えられていたのだが、その内の1ha(約3300坪)に植えてはならないアツミゲシという芥子の花が咲いていたというから豪勢だ。知らないということは時にもの凄いことをしてのけるから、面白くも恐ろしい。

数年前まで、東京の多摩エリアの東村山市という所に住んでいたときには、同じ市内にある都立の薬用植物園という所を時々訪ねて、様々な薬用植物を見学・観察したのだったが、その中には芥子もあって、これは二重の金網で囲まれて、厳重に管理されていた。手に取ることは勿論、近くに寄ることもできず、遠くから随分と毒々しい花だなあと眺めていただけだった。今回の事件の花とは種類が違っていたのかも知れないけど、犯罪に結びつくような芥子の花が、1haも野放しで植えられていたとは驚きである。

久しぶりのいい天気だったので、家内と義母を連れて行ってみることにしたのだが、行き先も調べず当てずっぽうで行った為、その場所を探すのに少し手間取ってしまった。小貝川の土手といっても、いろいろ変化があって、花ばかりが咲いているのではないことを思い知らされた。

少し道に迷いながらも、どうにかポピー畑のあるふれあい公園を探し当てた。勿論初めての場所だったが、その規模の大きさと緑の豊かさに驚かされた。ポピー畑も広大で驚いたけど、そのほかに国蝶(というのがあるらしい)のオオムラサキという蝶がこの付近にいるらしく、それをテーマにして作られたネイチャーセンターという変わった造りの建物があった。川原の林にはクヌギやミズナラなどの大木があり、ここにオオムラサキが自生しているのであろう。園内にはパークゴルフ場なども造られており、平日ではあるけど、なかなかの賑わいだった。これは、冷やかし半分に来る所ではないなと反省した。

  

下妻市、小貝川ふれあい公園のメインスタジアムのネイチャーセンターの建物。オオムラサキという蝶をイメージしたユニークな建物である。

問題のポピー畑は、そのような騒動を一切感じさせないままに、一面の華麗な花をそよ風になびかせていた。広すぎて義母には歩くのが厳しすぎると思い、200mほどをゆっくり往復して色とりどりの花を鑑賞したのだったが、遠くの方では何やらトラックが入って、ポピーの始末をしていたようだったから、問題の花はその辺りに咲いていたのかもしれない。花を眺めているうちに、そのようなことはどうでもいいように思えてきた。野次馬なんぞよりも、美しい花を愛でた方がずーっと気持ちが満たされる。

   

ポピー畑と筑波山。ポピー畑は、この写真の右手に300mほど広がっている。まだ満開には少し早い花が多いようだった。 

此処のポピーは、今春訪ねた房総千倉のそれとは違って、枝振りが逞しい。北海道中富良野町のラベンダーの名所、ファーム富田にも広大なポピー畑があるが、そこに植えられている花種と同じように思った。ポピーの花は、同じ種類であっても、微妙に花の色が異なっており、繊細な色彩感覚を楽しむことができる。ざっとカメラに収めてみただけでも、十数種類の花ビラの色を数えることができた。

ポピーの花には、あまり重さというものを感じない。漱石の虞美人草には、重さを感じるけど、見ているこの花は小説の人のイメージとは違って、軽い。ただ愛されるためだけの花のように見える。人の心身を麻痺させるというアヘン毒を持つのは、恐らく暗い重さを感じさせる花なのではなかろうかと思った。

野次馬精神を骨抜きにされ、公園の花の景観にすっかり順化されて、帰途に着いたのだったが、良い時間だった。来る24~25日のフェスティバルが成功裏に終わることを祈念したい。

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永平寺と禅のこと

2008-05-15 05:00:20 | くるま旅くらしの話

吉祥山永平寺は、わが国における第一等の禅修業道場と理解している。今回の旅で、久しぶりに永平寺を訪ねたのだったが、今日はそのことについて少し書いてみたい。

若かりし頃、禅に大いなる関心を持ったことがある。一体に宗教というものへの捉(とら)われは敬遠するタイプなのだが、禅というのは何だか宗教とは無関係のもののように思われたのである。そしてそれは、今でも変わっていない。禅というのは、本当は坐禅という悟りに至る方法論だけではなく、もっと幅広い考え方をたくさん含んでいるに違いないのだが、私は禅=坐禅と考えている。曹洞宗の信者の方とは異なる、いい加減な禅の信奉者なのである。

今から40年ほど前、NM法という発想法の開発者である中山正和先生が、工学禅というのを提唱されており、自分もその研究会に何度か参加したことがある。中山先生は、HBCモデル(=Human Brain Computer model)という、人間の脳と同じ機能を持つコンピューターの開発を進めるための理論として、人間が生まれてから成長して大人になり一生を終えるまでに、脳がどのような発達をするのかをモデル化した仮説を提唱されたのだった。そしてこの理論を用いて、禅の発想を取り入れたのが工学禅なのである。何やらややこしい話となったが、簡単に言えば、禅というものを現代の工学理論で覗いて見ようというような取り組みだったと理解している。

禅といえば曹洞宗の開祖、道元禅師を措くことはできない。当時難解といわれる道元の思想を記した「正法眼蔵」などを、HBCモデルを使って解釈される中山先生の話を拝聴したことがある。HBCモデルは、今でも私のものの考え方の中で大いに役立っていると思っている。

そのようなことから、私も坐禅を始めるようになった。中山先生が素晴らしいのは、HBCモデルのような極めて工学的な発想の仮説を、単なる理論展開に止めるだけではなく、実際に身体で実践して確認してみようというチャレンジがあるということである。当時鎌倉在住の田里亦無(たさとやくむ)という禅の実践家のご指導の下に、実際に坐禅を組んだのが、私の坐禅の始まりである。

坐禅というのは、禅の目指す悟りの境地を得るための方法論の実践であり、坐ることによって悟りの境地の「身心脱落(しんじんだつらく)」を目指すものである。勿論ただ坐るだけではなく、その他にも様々な修業があるのだろうけど、坐禅を第一と考えるのである。坐禅の実際は、調心調息といわれるように、呼吸に注目して心の平静を維持・確保することにある。吸う息よりも吐く息の時間を長く取って、これを静かに繰り返し続けるのであるが、呼吸になれてきたら、次第に1呼吸の時間を長くするようにしてゆく。私の場合は、1分間に2呼吸くらいであるけど、修業を積むと、1分間に1呼吸以下という人もいる。

呼吸というのは坐禅によらずヨガや気功などにおいてもたいへん重要な役割を果たしているが、それは自律神経をコントロールできる唯一の方法だからではないかと思っている。心臓の動きや胃腸の動きを自分の意思でコントロールすることはできないが、呼吸だけはそれが可能なのである。ここに注目した先人の知恵というのは凄いものだなと思う。

ま、そのようにしてかなり坐禅に入れ込んだ(?)のだったが、なかなか身心脱落というわけには行かなかった。そして気づいたのは、坐禅が心と身体の健康法にたいへん有効なものだということだった。毎朝、借家の小さなベランダで1時間ほど坐った。真冬なのにパンツ一つの裸なのだが、寒さを感じたことはなかった。100呼吸を数えると止めることにしていた。家内も子どもたちも、このような愚かなことをしている夫や父親の姿をつゆ知らず、眠りの世界にいる時間帯の行為だった。私の意固地で妙に天の摂理に合っている生き方(?)は、この坐禅との出会い以降に強められたものだと思っている。

さてさて、かなり長く脱線してしまったが、永平寺訪問は今回で4度目くらいではないかと思う。鎌倉時代のその頃、世の中がどのようなものであったか知る由もないけど、この地が恰(あたか)も前人未到の如き山奥であったことは間違いない。今は自動車専用道路が作られ、ゴマ豆腐や蕎麦などが名物の、観光地化しているけど、往時のこの山奥の地の大伽藍は、心身の修業を求める者にとって、一大の荘厳さを覚えさせたに違いない。初めて永平寺を訪れた時は、そのような格別の感慨を抱いたのを覚えている。

福井というのは思っている以上に京都の都から近いロケーションにある。何度も訪ねているうちに、関東で育った感覚のズレが少しずつ修正されて、最近はようやくまともに歴史の足跡を確認できるようになったような気がする。その福井の永平寺は、八百年の歴史を昔の精神そのままに山奥深く鎮座していた。

ここに来ると、坐禅の真髄が自然と伝わってくるような気がする。坐ってみたくなるのである。このところしばらく坐ることを忘れていた。それがここに来ると、大切なことは為し続けなければならないことを思い起こさせてくれるのである。拝観者用の案内コースを時々脱線しながら辿りつつ、昔に変わらぬ深山幽谷の佇(たたず)まいに浸りながら、禅というものの考え方を改めて想った。死ぬるまでの間に、一度ここへ来て時間をかけて坐ってみたいなと思った。いろいろ入り組んで、かなりインチキな形で我が身に取り付いている、禅というものに対する考え方を整理することが必要だなと思った。とりあえず、帰り際に新しい座布を購入した。その日が来るまで坐ることを心がけたいと思っている。

     

永平寺境内の静かな佇まい。ここへ来ると、春の淡い日差しの中に、新緑さえもが鎮まって、穏やかに山の空気を包んでいる感じがした。

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悪夢の一日

2008-05-14 04:16:37 | くるま旅くらしの話

思い出しても胸糞が悪い。そのことをもう一度書くことにした。先日の2週間の旅の中で、この世のものとは思えないほどの出来事があった。初めは間抜けというか、慌て者のエラーなのだろうと笑ったのだったが、しばらく経って、同じ現象を見て笑いは凍りついたのだった。

東北は山形県置賜(おきたま)地方の桜の名木を見た後、日本海に抜け能登をさ迷ったあと、金沢市に隣接する野々市町在住の、くるま旅くらしの大先達のMさん宅にご挨拶に参上したあと、翌日福井県立恐竜博物館を見学し、若狭方面に向かって出発したのだったが、その途中に悪夢を強制されたのだった。

恐竜博物館見学の興奮冷めやらぬまま、市内を少し走ると、家内が「あら、このスタンド、ガソリンよりも軽油の価格の方が高くなっているわよ」という。嘘だろうと思ってみて見ると、確かにそのように掲示されている。「スタンドの従業員が、価格標示のインプットを間違えたんじゃないの?」と一笑に付したのだった。

その日は5月2日。4月一杯値下げになっていた価格が、5月1日から税率が元に戻るということで、旅の途中でもあり、実際どうなることかと些かの不安を抱えながら、昨日その日を迎えたのだったが、道脇の給油スタンドは1ヶ月前よりも若干値上げ幅の大きい価格を表示していて、不満はあるけどしょうがないなと諦めつつ給油をしたのだった。

ところが、1日経った今日になって、間抜けと笑ったガソリンスタンドの標示価格は、福井市郊外を走るに至って、決して間抜けなエラーでないことを思い知らされたのである。国道8号線に並ぶどのスタンドも、皆同じように軽油が一番高く、次がハイオク、そして一番低いのがレギュラーガソリンとなっているのである。このような珍現象を今まで見たことがない。珍現象というよりも何だか薄気味悪い感じがした。世の中が一挙に本物のハルマゲドン(=この世の破滅の日)に突入したかの感じがしたのだった。

  

 5月2日。鯖江市内を走る国道8号線沿いのガソリンスタンドの価格表示は、上からレギュラー127円、ハイオク139円、軽油141円。ここの軽油価格は、安い方。144円以上のところもあった。翌日に軽油以外の値上げを予告する看板があった。(走りながら撮ったので、見にくくて申し訳ありません)

ガソリンと軽油の課税の方法が異なることは知ってはいたけど、このような形でそれが現れるとは思わなかった。そもそも法律が通っても、直ぐに元に戻るのではなく、何日間か告知期間があって、値上げ実施までには余裕があるのだろうと思っていた。5月12日までに帰宅予定だったので、値上げ迄には間に合って戻れるのではないかと思っていたのだったが、これは完全に当てが外れたのだった。各種法律施行についての知識がない者の浅薄な思い込みだった。

しかし、それにしても道路特定財源に関する政治の混乱は、お粗末といわざるを得ない。政治集団の力と力が拮抗すると、大儀名分のもとに国の運営の実態など無視して、まるでゲームのように議論がなされ、法律が宙を飛んで、その結果いわゆる国民(政治家はいつも、国民の皆さん、と我々を呼んでいるが、それが誰なのかは不明だ。少なくとも私のことではないと思っている)が生活を振り回される。今までは彼らのゲームがこれほどの如実な現象を引き起こさなかったので諦めてきていたのだが、今回は諦めだけでは済まないように思った。怒りが昇華し、恨みの如きものが心に定着した感がする。この恨みをどうやって晴らすか。復讐の機会を逃してはならない、と思った。いやはや、ハードボイルドだど、という笑えない感覚である。

政治の世界だけの問題ではない。石油業界のあり方にも大いなる疑念を感じた。産油国の思惑に、為すこともなく振り回されるというのは、もしかしたら、この業界の営業の口実なのではないかと疑念を抱いた。石油を取り巻く世界のあり様を知らない者が、安易に口にする質(たち)の悪い妄想のような考えなのかも知れないが、石油の元売も末端の給油スタンド経営者も、全て最終消費者に負担を強いている。世の中の販売の仕組みがそうなっている以上、やむを得ないことは承知しているが、今回のように競争といいながら、一斉に価格を揃えて値下げや値上げをするというのは如何なものなのか。値下げのタイミングと値上げのタイミングには微妙なズレがあり、政治に振り回されて大変だと言いながらも、損をしたスタンドなど殆どなかったのではないか。どうも、そのように思えてならない。

我が旅車のSUN号はディーゼルなので軽油仕様となる。昨日野々市郊外で給油した時は、3種類の石油の中では一番安かった。それが当然のこととして、今までこの車を使ってきたのである。それが1日経った今日は逆転したのである。まさに天と地がひっくり返った感じである。昨日入れておいて良かったと思う反面、もし今日どうしても給油しなければならなかったとしたら、どうだったかとも思った。恐らくどんなに厳しい状況であっても動くのをやめ、軽油が一番下のランクになるまで待つということにするに違いない。どう考えたって、ハイオクよりも高価な軽油を入れるなんて許されないことだと思っているからである。

これは歴史に残る珍奇な事件ではないか。普段気づかなかった政治や業界のからくりを露呈した、悪魔の魔術の種明かしを、ありありと見せつけられたような感じだった。日本全国このようなことが起こっていたのかは判らなかったが、この胸糞の悪さは、その夜の安眠を侵し、体調の不具合を来させたほどのものであった。くるま旅の中では、時々見たこともないような光景に出くわすことがあるけど、こんなに酷い光景を見たのは初めてだった。悪夢だったと葬り去ることにしたい。

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古希肩の正体

2008-05-13 07:08:16 | 宵宵妄話

つまらない仮説なのですが、先ずはお聞きあれ。

3月上旬頃のジャガイモの植え付けのための畑の耕起の頃から、何だか右の肩や腕がだるくなり、それがなかなか抜けないのを、おかしいな?と思いつつ、ま、その内治るだろうとそのままにして来たのだったが、4月に入ってから愈々その鈍い痛みは増し、次第に腕の筋肉が引っ張られるような感じが強くなって来たのだった。

世に四十肩だとか五十肩だとかの話を聞くことは多い。しかし自分にとっては、今まで肩が凝るなどということは殆ど体験したこともなく、せいぜい寝違いで首を捻(ひね)って、ア痛タタ、というくらいのことで、大した時間も掛けずに原状復帰していたのだった。それ故、自分にはそのような肩の故障などは関係ないのだと思っていたのだが、さてさて、ここへ来てどうやら自分も生身の人間というか、ごく普通の人間なのだということを思い知らされているのである。

何とかしなければと、最初は冷湿布の貼り薬を何枚か、痛みを覚える箇所に貼ってみたのだけど、逆に痛みが増すような気がした。それで逆に温湿布に切り替えてみた。というのも、風呂に入っている時は、痛みが和らぎ楽になるからである。しかし、温湿布の方も大した効果はなく、気休めのような感じだった。

何年か前に五十肩とやらを経験している家内が、やや嬉しげに「あと、9ヶ月は掛かるわよ」などというのを、何をバカなと、内心蹴飛ばしつつも若干反省しながら、これはとにかく耐えることしかあるまいと思った。今までの経験者の話を思い起こすと、どうやら何をやっても時間が過ぎなければ痛みは取れず、肩の動きも元に戻らないということのようである。さすれば、ジタバタしても始まるまいと思ったのである。

本来ならば、急ぎ専門医の所に出向くべきなのかも知れないが、最近はあまりそのような所に行きたくないという気持ちが強くなっていて、足が向かないのである。高額の保険料を支払わされているのだから、行って相談を受けたり、薬を貰ったりすべきなのだろうけど、行けば又銭を払わなければならないし、余計なことを言われれば元気をなくしかねないので、嫌なのである。最近の医者は、丁寧に患者の心の具合を読んで、元気づけるのではなく、やたらにわけのわからない検査をして、患者を不安にさせる人が多い。患者が多すぎて、マニュアルどおりに処理しなければ、やっていられないということなのであろうか。

医者も医者だけど、医者をそのようにさせているのは、患者なのだ。ちょっとでも具合が悪いと、自分で治そうともせずに直ぐに医者に出向いて甘えるという依存心が強い人がかなりいるように思う。日本の医療制度の根幹をダメにしているのは、そのような似非(えせ)患者ではないかと思っている。医者はそのようなインチキ患者には、お前の今の症状など、自分で治せ!といえばよいのである。本当に医療の手助けの必要な人を診るという、けじめを持つ医者こそが本物だと思えてならない。

ちょっと脱線したけど、我が身のこの症状をとりあえず「古希肩」と呼ぶことにした。正式の古希までにはあと3年の時間があるけど、四捨五入すれば古希のレベルには間違いない。古来(こらい)(まれ)なる肩の症状というのは、何だか変な感じがするが、もしかしたら、世の中には、古希どころではなく、喜寿や米寿にして初めて肩の機能に変調を来したという人がいるのかもしれない。世の中は広い。

ところで、この古希肩という、肩というのか腕というのか、この鈍い痛みは一体何なのだろうかと考えてみた。というのもこの2週間の旅の間中、ずーっと否応無しのアイタタに見舞われており、自分なりにその正体を見極めてやろうと思ったのである。いたずらに痛めつけられているだけでは、腹の虫が治まらない。(このような性もないことを考えるのが、自分の愚かなところである)

先ず思ったのは、はっきりしているのは、身体(肉体)の老化ということだ。より具体的には、肩と腕を支える筋肉が、新陳代謝の範囲を超えて劣化したということであろう。つまりは、肩や腕を動かすだけの力が足りなくなったということなのかも知れない。確かにこの頃は、運動といえばひたすら歩くだけで、上半身を使ったり鍛えたりしたことは殆どない。使わない筋肉は退化するというから、少しずつ退化してきた筋肉の力が、骨などを支える限界を超えたのであろう。

老化というのは生き物の自然現象である。永遠に死なないというのであれば、地球は破滅する。過去の如何なる権力者が永遠の生を求めても、それを実現した者は皆無である。それは老化を止められないという証でもある。生・病・老・死は、お釈迦様の基本命題であり、人間の避けて通れないテーマである。古希近くなって、我が身も確実に老化のレベルに至ったのであろう。

ところで、この痛みは何なのか。旅の間中なかなか眠れないので、対峙(たいじ)する痛みの原因をあれこれと思い巡らしたのである。その結果結論としたのは、こいつは筋肉の劣化に伴って、大規模な神経の配置換え、いわば配線の変更とでも言うのであろうか、或いは組織の変更といっても良い、それをやっているのではないかということだった。一本の神経が切れたり壊れたりした程度ならば、さしたる痛みも感じないのだろうが、大規模にそれを入れ替えたりしているのであれば、この鈍い痛みも理解できるような気がするのである。

このように考えると、我が身のこの痛さが納得できるのである。このような理屈を考えようと考えまいと、古希肩の実態は何も変わらないのだが、我慢する理由にはなると思った次第である。

最後に、具体的な対処方法、すなわち痛みに耐える方法としては、可能な限り横になることと坐禅を最優先することにした。そのために。古くなった座布を替えようと永平寺で新しいのを求めてきたのだった。痛みに耐えるのは、どんな時でも心身統一(しんじんとういつ)しかない。何とかこの痛みを克服して、変わらぬくるま旅の楽しみを味わってゆきたいものだ。

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生長と成長

2008-05-12 05:37:18 | 宵宵妄話

一字違いの同じ発音のことばに、生長と成長がある。生長と成長を実感するのは時間の差だ。旅に出て、たった2週間の時間しか経っていないけど、それらに気づいたことについて書いてみたい。

生長というのは、全ての生きものが持つ生命の力であり、成長というのは、意思を持った生き物が育つことではないかと、勝手に理解している。辞書を引くと、どっちも同じと書いてあるけど、学問の分野によって使い方が少し違うという程度のことなのかもしれない。どうでも良いことなのかも知れないが、私としては、生長という大きなコンセプトの中に成長があると思っている。

たった2週間で大きく生き物の生長を実感できたのは、植物の世界である。帰宅した時の我が家の庭の様相はかなり変わっていた。畑にも行ってみたが、こちらの方もかなり変わっていた。植物の生長は、昨日と今日の比較ではその変化に殆ど気づくことは少ない。しかし2週間という時間は、とりわけて春のこの時期は、その生長振りは目を見張るものがある。

庭の樹木たちは、旅の間に見た山々の盛り上がる生命(いのち)の輝きにも引けを取らないほどの新緑に庭を染めていた。我が家のメインツリーであるクロガネモチは、出かけるときには冬を越えた葉を落として、たどたどしい新芽を膨らませつつあったのだが、それがもうすっかり生長して豊かな緑の葉と変わっていたし、山もみじの葉は、秋よりも春の方がこの地では美しい。咲きかけていた黄エビネももはや開花は終わりに近づいていたし、春先に移植のため庭の土を掘り起こしたりして、芽が出るのかなと心配していたミョウガたちも元気に芽を出してくれていた。同時にあまり成長して欲しくはないカタバミやミミナグサ、それにヒメジオンなどの雑草も負けずに生長していて、生き物の世界は人間の都合などとは無関係に夫々の生命(いのち)の活動を支えていた。

    

クロガネモチは葉の新旧入替が終わって、元の逞しさを取り戻しつつあった。山もみじの下の黄エビネは、我々の帰宅を待ちかねていたように花の最後を飾ってくれていた天気が悪く光不足で残念。

畑に行ってみると、同じ時期に植えたのに隣の畑のそれとは大分に芽吹きのスピードが遅くて、不揃いを心配していたジャガイモたちは、100軒以上の耕作者のいる市の貸付農園の中では、見渡すところではナンバーワンとも思える生長振りだった。葉ばかりだったラディッシュも、根の赤い膨らみを大きくしていて既に食卓OKの状態だったし、タマネギも大地にひびを入れて球根を膨らまし始めていた。

   

   すでに花が咲き始めたジャガイモ畑。我が家が市の菜園の中では最大の作付け面積となっているようだ。玉ねぎの方は冬の間に枯れてしまったものがあり、まばらだけど、大地を割っての生長には生命の力を感じる

この季節が好きである。馬齢を重ねる度に、季節の移ろいに敏感になってきているように思う。現役の頃には気づかなかった、生きものたちの微妙な変化に気づくようになるのは、もしかしたら単に暇になったからなのかも知れない。その一方で、残りの時間が少なくなった生きものとしての証なのかも知れないとも思うのである。春夏秋冬のいづれの季節にも夫々の特徴があって、関心に切れ目はないのだけど、生きているということをプラス思考で確認できることが多いのは、何といってもこの季節が第一である。あと何回この季節を迎えることが出来るのかは判らないけど、たった2週間でワクワクとした生長の実感を味わえることに感謝しながら、残りの回数をクリアーして行きたい。

もう一つの成長の方は、帰りに立ち寄った家内の妹宅で2年ぶりに会った姪夫婦の子どもたちである。4歳と2歳になった二人は、活発な子たちで、久しぶりに会ったいつもと違うジジババに対しても、大して顔見知りもせず遊んでくれた。前に会った時には生まれたばかりだった下の男の子は、さすがにサッカーの町藤枝の子らしく、紙製のボールを蹴るキック力は、かなりのものだなと驚かされた。

子どもたちの成長は目覚しい。身体も心の世界も精神知識も、想像もできないほどの成長振りだ。あっという間に自分の意思を表明するようになり、更には相手に対する要求にも遠慮がない。自分というものを確立するスピードは大変なものだなと思う。

ソニー創設者のお一人である井深大氏は、幼児教育研究者としても著名な方だったが、その著書の一つに「幼稚園では遅すぎる」という名著がある。子どもの教育というのは、母親の胎内で生命が生まれた瞬間から、始まるものなのだということをお書きになっているが、まさにその通りではないかと思う。

この二人の子どもたちを見ていて、こんなに成長が早いのは、生まれた瞬間からもう自分の意思を固め、ことばを発する時期を待ち構えていたのではないかと思うほどである。

ところで、人間の成長プロセスは、まだかなり先まで続くことを思うと、この子たちが今の元気を保持しつつ、強く逞しく成長して言って欲しいなと願わずにはいられなかった。

二つの生長・成長ということばから、我が身を振り返ってみれば、もはやそのスピードは大分に遅くなっているのは明らかだ。それは、旅の2週間のあいだ中、古希肩の疼きの加速に比例しているような感じがする。しかし、我が身のことはともかくとして、あらゆる生き物の生命の生長と成長の輝きを実感できるこの季節は、やっぱり一番好きである。

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08春旅:第14日(5/10)

2008-05-11 04:10:10 | くるま旅くらしの話

川根温泉の道の駅の二日目の夜は、夜半から予報どおりの雨となった。旅に出てからずーっと好天に恵まれ、暑さに辟易(へきえき)してきた感があったが、とうとうその贅沢も今日で終わりとなったか、という感慨である。

本当は今日、藤枝の親戚に来ている家内の母を連れて伊豆に回り、花などを見て、温泉に入って一夜を一緒に楽しもうと考えていたのだが、このような本降りの雨では、花など見る余裕もなかろうと諦め、帰宅予定を1日繰り上げ、一挙に帰宅することにした。従って、今回の旅は今日で終わりとなる。

川根温泉から藤枝までは、40分ほどで到着。至近距離である。母も元気そうで何よりである。しばらく皆と歓談の後出発。後は単なる移動だけなので、殆ど書くことはない。藤枝バイパスに出て、R1を沼津まで行って、沼津から東名に入り、首都高、常磐道を通って我が家に着いたのは、15時少し前だった。

かくて、14日間の今回の春旅は終わった。東北南部から北陸を回り、琵琶湖西岸を横切って奈良に向かい、奈良の山を超えて、お伊勢参りを果たした後は、伊勢湾岸を横切って渥美半島に至り、静岡の南部を掠め横切って、一転山奥に入ってうろつき、その後は現代文明の生んだ道を走って、我が家に辿り着いたという次第である。この間の走行距離は2,433kmだった。1日平均177kmという計算になるから、旅くらしという考え方からは程遠い、走り回りの時間だったといわざるを得ない。それでも十二分に旅の楽しさを味わえたと満足している。この間に巡り会ったたくさんの出会いに改めて感謝したい。この旅での思い出をしばし温めた後、幾つかを拾い出して書いて見たいと思っている。

旅の間に、予想以上の方々のアクセスを頂いていたのを知り、驚いています。ところが、ブログの方は携帯での投稿のため、一発勝負であり、記事の見直しをしないままに発信しているため、後になって見てみると、意味のわからない文章や文語の変換ミス、消し忘れなどが目立ち、大変申し訳なく思っています。この後も旅の報告は、このような状況が続くかと思いますが、あしからずご容赦下さい。なお、今回も旅の記録を作成するつもりでいます。出来上がりましたらホームページと併せて、おってご案内する予定です。馬骨拝

コメント (2)
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08春旅:第 13日(5/9)

2008-05-10 05:40:00 | くるま旅くらしの話
道の駅:川根温泉の朝は静かだ。尤も6時前なのだから、用のある人がいる筈もなかろう。さて、今日はパソコンに触って、少々書き物でもしょうかと考えている。
ところがお茶を飲んでいる内に、此処に終日じっとしているよりも、せっかくだから奥の方に行って見ようということになった。本川根町の千頭にある道の駅まで車で行き、そこから日本唯一のアプト式鉄道という大井川鉄道に乗って、少し先まで往復して見ようということになった。真に行き当たりばったりの、思い付きの旅ではある。
思い立ったら即実行。ゆっくり、のんびりなどは一挙にどこかにすっ飛んで、8時半のかなり早い出発となる。
大井川に沿って40分ほど走って千頭の道の駅に到着。千頭の道の駅の正式な名前は、「奥大井音戲(おとぎ)の郷」という。此処の駐車場は分かりにくい。何が分かりにくいかと言えば、有料なのか無料なのかということ。少し不親切な感じ。無料と勝手に信じて車を置く。道の駅は大井川鉄道千頭駅に隣接している。
少し休んで、さて具体的にどうするかを検討。時刻表などを見て、その結果相棒は奥大井湖上駅、自分は長島ダム駅までを往復することにする。行く先が異なるのが我ら夫婦の特長である。10時35分発。帰着は12時45分の予定である。
しばらく待って出発。千頭から奥大井の井川ダムに向かう列車は、いわゆるトロッコ電車のようなもので、その昔は中部電力の電源開発に使われていたものを、鉄道会社が借り受けて営業しているとか。3両編成の中の1両には、窓ガラスのない展望車があり、写真を撮ろうと、我々はそこに乗り込んだ。自分は長島ダム駅まで約50分の乗車。相棒はその二つ先の駅まで行って、10分ほど待って下りの列車で戻り、自分はダム駅で30分ほど待って、その同じ列車に乗る予定である。
3両にはバラバラに50人足らずの客が乗り込んでいた。多くは温泉などに向かうようで、我々と同じ世代の人たちばかりである。新緑の中を石ころの多い大井川の清流を遥か眼下に見ながらの50分は、めったに出来ない体験だった。大井川鉄道は、SLが売りだけど、その昔SLで通学していた自分には、SLはただ懐かしいだけで、乗るよりも見る方が楽しいのだが、このトロッコ風列車は新緑の景観を眺めて最高の乗り物である。何よりも、今にも車両が分解するのではないかと思うほどの軋み音が、並みの乗り物ではないことを実感させてくれる。しばらく走って、アプトいちしろ駅に。ここから次の長島ダム駅までの区間が日本唯一のアプト式鉄道で、90mの高さの勾配を、レールの真ん中にもう一本取り付けたギアに機関車のギアを噛ませながら走るのである。今まで車両を押して来たディーゼル機関車を後押しする形で専用の機関車が接続され出発。この間乗客は外に出てトイレに行ったり、写真を撮ったりして、思い思いに短い時間を楽しんでいた。我々は写真組で、機関車やアプト式の線路などを撮った。次の長島ダム駅まではあっという間に到着。ここで機関車を切り離す。
下車したのは自分一人だけ。相棒が下車しないのを心配した近くの人が、車掌さんにアピールされて、何やら笑い話となったとか。人騒がせな夫婦ではある。旅先での行動はいつも夫婦一緒がいいとは思わない。相棒がその後どのような経験をしたのかわからないけど、長島ダムの壮大な景観を一人占めにしての30分間は大満足だった。ダム湖には巨大な噴水があり壮観だった。展示館のようなものもあったが、時間がなくそこまで行けなかった。間もなくやって来た列車に乗り込む。往路よりも極端に少ない乗客で、同じ車両に乗っていたのは相棒だけ。長島ダム駅からの乗客は、今日は自分が最初で最後かも。鉄道経営の難しさが伝わってくる。往路で撮れなかった写真を撮りながら、新緑に染まった千頭駅に戻る。良い時間だった。
20分ほど後に到着するSLを撮影するのだと、ホームに残る相棒を後に、車に戻り腹を満たす。朝ご飯はお茶一杯だったので、SLよりもうどんの方が優先順位は高い。空腹が収まった頃、満足顔の相棒が戻ってきた。うどん作りは自分の仕事なので、相棒の分も用意する。このような行為は、愛情というものではなく、単なる惰性、習性である。
遅い昼食の後は、再び昨夜お世話になった川根温泉の道の駅に向かう。もう一晩お世話になるつもり。途中、新茶を買うために地元の製造販売の店に立ち寄る。今がまさに新茶作りの最盛期である。お茶は滋養の薬でもある。あとでじっくり味わいたい。それにしてもかなり高価である。高いのは100グラム三千円以上もする。大事に飲まなくてはと思った。
少し走って茶名館という名の道の駅に寄る。ここは川根エリアのお茶をテーマにした施設のある道の駅である。その中に入って、お茶についてほんの少しだけど勉強した。この辺一帯は江戸時代は天領で、幕府の財政に大きく寄与していたらしい。それ故に地元の人々は苦労が多かったようだ。天領ということばを見たり聞いたりすると、何をいい加減なことを言いやがって、と反発心を覚える。徳川宗家に対するゴマスリの塊みたいな奴が名付けたに違いない。地球はすべて天領であって、徳川幕府のものでも、アメリカ、ロシアのものでもない。(ちょっとムチャクチャな解釈かな?)お茶のことなど、忘れてしまいそう。
3時半頃川根温泉に戻る。その後は昨日とほぼ同じパターンで過ごす。よって、以下省略。とにかく予想外の一日だった。
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08春旅:第 12日(5/8)

2008-05-09 06:31:50 | くるま旅くらしの話
昨夜(5/7)は暑く寝苦しかった。渥美半島のこの辺りは、メロンの産地でもあり温暖な所なのであろう。田原の道の駅には、メロンやトマトなどがたくさん並べられていた。それでも今年は、原油高などの影響を受けて、メロンの作付け農家が減っているとか。宮崎産のメロンが並んでいたのが、印象的だった。
今日は静岡県内をうろついて、今夜は島田市から大井川をさかのぼった、お茶の名産地の川根の道の駅にお世話になる考えでいる。先ずは久しぶりに伊良湖岬まで行くことにして、少し早めに出発する。
8時少し過ぎ到着。田原はTVが良く映らなかったけど、ここは障害物もなく良く映る。NHKの朝ドラファンの相棒にはフィットした場所だ。昨日からここに来て居れば良かったのかも。但し潮騒が問題だ。夜の海の音には、相棒は高潮に襲われる夢で眠れないのだそうな。ここは鳥羽のに向かうフェリー乗り場がある所でもある。今日も好い天気で、海が輝いていた。1時間ほど休んで出発。
その後R42を浜松方面に走ったのだが、期待していたメロンや夏ミカンが、どこまで行っても売っている所が見あたらず、再度田原の道の駅へ行くことにする。メロンは相棒の希望、甘夏は自分の希望。直ぐに到着。メロンは結構な値段だが、甘夏柑はびっくりするほど安い。何とかなりの大玉が3個で100円なのだ。300円も買ってしまった。相棒はメロンの他にミニトマトなどをゲットして、まんずまんず満足。
再度浜松方面に向け出発。R42からR1に入って、直ぐに道の駅:潮見へ。相棒が名古屋エリアを離れる頃になって、味噌カツを食べたいなどというので、多分ここにはあるだろうと、少し早い昼食にするつもり。予想違わず味噌カツ定食があった。自分は大羽いわしの干物を焼いたのと浅利の味噌汁とご飯中盛り。これで十二分。相棒も味噌カツ定食に満足の様子。
その後はR1をひたすら島田方面へ走る。流れは順調だ。1時間半ほど走って、掛川の道の駅で大休止。2時間ほどの休憩中、1時間以上は昼寝。相棒が何をしていたかは、全くわからない。とにかく腕の重い不気味な痛さは、眠るのが一番だ。このところ日中はかなりの暑さが続いており、今日も昼寝にはかなり厳しい。しかし眠れなくても、横になっているだけで、だるさと鈍い痛みは和らぐ。早くどこかへ飛んでいって欲しいのに、かえって痛みが増している感じがする。
2時半過ぎ、掛川を出発して川根に向かう。R1を島田で大井川を渡ってから左折して、県道64に入る。大井川手前の国道からも行けるけど、こちらの県道の方がずーっと道が良い。途中道脇でミカンの無人販売所があり、思わず停まって覗いてしまった。かなりの数のミカンが入った一袋が100円だったので、ミカンの顔は少し古い感じだったが、買ってしまった。間もなく道の駅:川根温泉に到着。かなりの車が駐車していた。
この道の駅の温泉は源泉掛け流しである。源泉掛け流しというのは、源泉を温めたり、薄めたりしないで、そのまま使うものであり、源泉の温度と湧出量に恵まれないと実現が難しい。ここは源泉が49℃とか。かなり熱い風呂だけど露天では適当に冷まされて、いい湯になっている。一度来て、すっかりファンになってしまった。建物の直ぐ前は大井川の川原が広がり、右手の方には川に架かる大井川鉄道の鉄橋が見える。大井川鉄道は、日に何回かSLが走っているので名高い。ここは写真撮影のベストポイントの一つなのであろう、カメラを構えて待つ人を多く見かける。又川根はお茶で有名な静岡県の中でも特に優れた品質のお茶の産地でもある。大井川を挟んで山が迫り、その山裾に茶畑が広がっている。秋に来ると、朝霧が一帯を包み幻想的な風景が広がる所でもある。
今日、明日はここでゆっくり過ごそうと思っている。車を奥の方の駐車場に停め、先ずは付近の偵察に。川根温泉笹間渡(かわねおんせんささまど)という、長い名の近くの駅に行き、SLの通過時刻などを調べる。今日は30分後の16時頃に通るらしい。相棒は張り切っていた。まだ時間があるので、建物周辺を見て回る。道の駅の販売店に美味しそうな新玉ねぎがあったので、今夜オニオンスライスにして食べようと買い求める。野菜の良い物は見逃さない。うろついている内にSL通過の時刻が近づいた。カメラを手に、川原の方へ。懐かしい警笛を鳴らして機関車は近づき、一瞬の内に遠ざかって行った。安いデジカメはシャッターの切れるのが遅くて、2、3枚撮るのがやっとである。相棒のカメラは連写ができるので、さぞかし良い写真が撮れたのだろうが、密度が高すぎてブログなどには使えない。
SL騒動が終わって温泉へ。いい湯だ。1時間ほど温泉を楽しむ。明日も又入ろう。車に戻った後は、いつものパターンである。おやすみなさい。
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08春旅:第 11日(5/7)

2008-05-08 05:58:09 | くるま旅くらしの話
今日は3年ぶりくらいになるのか、お伊勢詣りの予定である。連休も終わり、駐車場が混むとは思えないけど、それでも少し早く出発することにした。
飯高の道の駅は、温泉もよく、快適な一夜を過ごすことができた。お薦めの道の駅に加えても良いなと思った。感謝しつつ6時30分に別れを告げ、伊勢へ向かう。
飯高辺りは、伊勢茶の産地で、山裾に茶畑が広がっている。ツツジの花が随所に目立つ。のどかな風景が広がっている。
伊勢神宮内宮参拝は3年ぶり。8時前に到着、広い駐車場はガラガラで、駐車には何の心配もない。先ずは正宮に参拝することにする。五十鈴川を渡り、音を立てながら、新緑の森の中を歩く。楠やスダジイなどの萌える緑が眩しい。そして静か。歩いているだけで心は癒される。五十鈴川の鰍蛙(かじかがえる)の澄んだ鳴き声が新緑の森を一層引き立てているように思った。1時間ほど歩いて、朝食に名物の伊勢うどんを食べようと、おはらい町通りに行ったのだが、まだ開店前だった。一旦車に戻り、お茶休憩とする。
30分ほど休んで再出発。今度は大丈夫。わらじやという名の店に入る。適当に入ったつもりだったけど、前回来た時と同じ店だった。人間の選択の好みというのは、変わりにくいものなのかなと改めて思った。太いとぐろ巻くうどんを黒いタレで食べるという、独特の食べ方が伊勢のうどんの名物となる由縁なのかも知れない。食べ終えた後に残ったタレにお湯を注いで飲みたいと相棒は言っていた。蕎麦ツユと同じ発想だが、案外いけるのかも。うどんを食べ終えた後は、しばらくコンビは解散とする。相棒は見たいもの、買いたいものが幾つかあり、張り切っているけど、自分の方は何もなし。
解散後は、おはらい町通りの先の古い町や、その裏通りをぶらつき廻って、おかげ横丁を通って車に戻る。歩いている途中から右腕のだるさがどうにもなくなり、こんな時は寝るのが一番。旅車はそんな我がままができるのが、ありがたい。それから11時半まで仮眠する。お伊勢さんのご利益(りやく)も、我が右腕には全く施しがない。神頼みよりも、やっぱり大事なのは我慢なのだと神様は教えてくれているのかも知れない。情けないお詣りではある。
11時半過ぎ、相棒が帰還。ご機嫌のようだ。何やらコロッケやメンチなどをゲットしてきたので、お湯を沸かしお茶を淹れて早めのお昼とする。今回のお伊勢詣りはこれで終わり。
少し休憩の後、伊勢湾岸道路の三重川越インターを目指して出発。今夜は渥美半島の根元付近にある田原の道の駅に泊まることに決めたのだが、その前に伊勢湾岸道路の刈谷ハイウェイオアシスでお土産にえびせんを買うつもり。
R23は、いい流れで四日市まではほとんど渋滞無し。四日市も思ったほどひどくはなかった。予想より30分以上早く湾岸道に入る。この道ができてからは、名古屋市市内を通ったことはない。風がなければ、実に快適な道である。名古屋市内に向かう狭い自動車専用道を走る気にはなれない。伊勢湾岸道路を走っていると、名古屋エリアの産業経済の底力のようなものを強く感ずる。我が国最強のエリアだと思う。それは、湾岸に架かる巨大な吊り橋から下を俯瞰すれば自ずと判ることである。14時30分刈谷ハイウェイオアシスに到着。
せんべいを買うのは、相棒の仕事。こちとらは、この後の田原までのコーを調べることに懸命。持参した地図が古く、伊勢湾岸道路も載っていない。コンビニで商品の地図をチラッと覗かせて貰って、大体分かった。何も買わずゴメンナサイ。相棒の方は求めていたイカ墨せんべいが無く、がっかり。真っ黒なせんべいで、見た目には食べ物とは思えないのだが、口に入れれば納得の、個性的な一品なのである。残念。
伊勢湾岸道の豊田南インターを出て、R155をしばらく走ってR23へ。この道をひたすら走れば、豊橋を過ぎて渥美半島の方へ行く道につながっている。知立バイパスというのがあって、順調な流れだった。この辺りを走るのは初めてだったが、工場や人家も多く、勢いのようなものを感じた。蒲郡、豊橋を過ぎて、目的の道の駅:田原めっくんはうすに着いたのは、17時丁度だった。
その後は、いつもと同じような時間を過ごす。旅も残り少なくなってきた。
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