山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

古希肩の正体

2008-05-13 07:08:16 | 宵宵妄話

つまらない仮説なのですが、先ずはお聞きあれ。

3月上旬頃のジャガイモの植え付けのための畑の耕起の頃から、何だか右の肩や腕がだるくなり、それがなかなか抜けないのを、おかしいな?と思いつつ、ま、その内治るだろうとそのままにして来たのだったが、4月に入ってから愈々その鈍い痛みは増し、次第に腕の筋肉が引っ張られるような感じが強くなって来たのだった。

世に四十肩だとか五十肩だとかの話を聞くことは多い。しかし自分にとっては、今まで肩が凝るなどということは殆ど体験したこともなく、せいぜい寝違いで首を捻(ひね)って、ア痛タタ、というくらいのことで、大した時間も掛けずに原状復帰していたのだった。それ故、自分にはそのような肩の故障などは関係ないのだと思っていたのだが、さてさて、ここへ来てどうやら自分も生身の人間というか、ごく普通の人間なのだということを思い知らされているのである。

何とかしなければと、最初は冷湿布の貼り薬を何枚か、痛みを覚える箇所に貼ってみたのだけど、逆に痛みが増すような気がした。それで逆に温湿布に切り替えてみた。というのも、風呂に入っている時は、痛みが和らぎ楽になるからである。しかし、温湿布の方も大した効果はなく、気休めのような感じだった。

何年か前に五十肩とやらを経験している家内が、やや嬉しげに「あと、9ヶ月は掛かるわよ」などというのを、何をバカなと、内心蹴飛ばしつつも若干反省しながら、これはとにかく耐えることしかあるまいと思った。今までの経験者の話を思い起こすと、どうやら何をやっても時間が過ぎなければ痛みは取れず、肩の動きも元に戻らないということのようである。さすれば、ジタバタしても始まるまいと思ったのである。

本来ならば、急ぎ専門医の所に出向くべきなのかも知れないが、最近はあまりそのような所に行きたくないという気持ちが強くなっていて、足が向かないのである。高額の保険料を支払わされているのだから、行って相談を受けたり、薬を貰ったりすべきなのだろうけど、行けば又銭を払わなければならないし、余計なことを言われれば元気をなくしかねないので、嫌なのである。最近の医者は、丁寧に患者の心の具合を読んで、元気づけるのではなく、やたらにわけのわからない検査をして、患者を不安にさせる人が多い。患者が多すぎて、マニュアルどおりに処理しなければ、やっていられないということなのであろうか。

医者も医者だけど、医者をそのようにさせているのは、患者なのだ。ちょっとでも具合が悪いと、自分で治そうともせずに直ぐに医者に出向いて甘えるという依存心が強い人がかなりいるように思う。日本の医療制度の根幹をダメにしているのは、そのような似非(えせ)患者ではないかと思っている。医者はそのようなインチキ患者には、お前の今の症状など、自分で治せ!といえばよいのである。本当に医療の手助けの必要な人を診るという、けじめを持つ医者こそが本物だと思えてならない。

ちょっと脱線したけど、我が身のこの症状をとりあえず「古希肩」と呼ぶことにした。正式の古希までにはあと3年の時間があるけど、四捨五入すれば古希のレベルには間違いない。古来(こらい)(まれ)なる肩の症状というのは、何だか変な感じがするが、もしかしたら、世の中には、古希どころではなく、喜寿や米寿にして初めて肩の機能に変調を来したという人がいるのかもしれない。世の中は広い。

ところで、この古希肩という、肩というのか腕というのか、この鈍い痛みは一体何なのだろうかと考えてみた。というのもこの2週間の旅の間中、ずーっと否応無しのアイタタに見舞われており、自分なりにその正体を見極めてやろうと思ったのである。いたずらに痛めつけられているだけでは、腹の虫が治まらない。(このような性もないことを考えるのが、自分の愚かなところである)

先ず思ったのは、はっきりしているのは、身体(肉体)の老化ということだ。より具体的には、肩と腕を支える筋肉が、新陳代謝の範囲を超えて劣化したということであろう。つまりは、肩や腕を動かすだけの力が足りなくなったということなのかも知れない。確かにこの頃は、運動といえばひたすら歩くだけで、上半身を使ったり鍛えたりしたことは殆どない。使わない筋肉は退化するというから、少しずつ退化してきた筋肉の力が、骨などを支える限界を超えたのであろう。

老化というのは生き物の自然現象である。永遠に死なないというのであれば、地球は破滅する。過去の如何なる権力者が永遠の生を求めても、それを実現した者は皆無である。それは老化を止められないという証でもある。生・病・老・死は、お釈迦様の基本命題であり、人間の避けて通れないテーマである。古希近くなって、我が身も確実に老化のレベルに至ったのであろう。

ところで、この痛みは何なのか。旅の間中なかなか眠れないので、対峙(たいじ)する痛みの原因をあれこれと思い巡らしたのである。その結果結論としたのは、こいつは筋肉の劣化に伴って、大規模な神経の配置換え、いわば配線の変更とでも言うのであろうか、或いは組織の変更といっても良い、それをやっているのではないかということだった。一本の神経が切れたり壊れたりした程度ならば、さしたる痛みも感じないのだろうが、大規模にそれを入れ替えたりしているのであれば、この鈍い痛みも理解できるような気がするのである。

このように考えると、我が身のこの痛さが納得できるのである。このような理屈を考えようと考えまいと、古希肩の実態は何も変わらないのだが、我慢する理由にはなると思った次第である。

最後に、具体的な対処方法、すなわち痛みに耐える方法としては、可能な限り横になることと坐禅を最優先することにした。そのために。古くなった座布を替えようと永平寺で新しいのを求めてきたのだった。痛みに耐えるのは、どんな時でも心身統一(しんじんとういつ)しかない。何とかこの痛みを克服して、変わらぬくるま旅の楽しみを味わってゆきたいものだ。

コメント
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