山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

くるま旅は楽しい(講演記録:その3)

2008-05-20 01:37:13 | くるま旅くらしの話

 4.何故くるま旅くらしなのか?

では、何故くるま旅くらしなのかということですが、今お話しましたように、リタイア後の人生を心豊かに活き活きとして全うするという願いの実現に、くるま旅くらしが大いに力となってくれるということなのですが、このことをもう少し細かい切り口などから見てみたいと思います。

皆様はリタイア後の人生をどのようにお考えでしょうか?否応なしに迎えなければならない老人というものになった時、世の中人のために最も貢献できることは何だとお考えでしょうか。

私は次のように考えています。それは、死ぬというその時が来るまで、心も体も健康でいて、PPK(ピンピンコロリ)とあの世に旅立つことではないか、と。ボランティア活動などで、世の中人のために実際に役立つことも大変立派だと思いますが、そのような特別のことをしなくても、元気でPPKの人生を送ることができれば、それだけで世の中人のために、特に後世の若い世代の人たちのために貢献できるのだと断言できます。

現在、後期高齢者医療制度というのが話題となっていますが、老人の前期・後期などという区分けに関係なく、わが国の老人医療の問題は、国家財政を揺るがしています。殆ど生産活動に寄与しない(出来ない)、人口のかなりの部分を構成する高齢者が、医療費を膨らまし続けるという現象は、国の未来を危うくすると考えてもおかしくはないと言えます。そのような高齢者の影響を受けて、医療機関も医師も看護士も不足し、救急車も不足しています。

だからといって、生産活動に寄与しない老人は医療を遠慮すべきであるなどという、お粗末な損得の話をするつもりも考えも全くありません。PPKを心がけ、それを実現する人が多ければ多いほど、現在の医療制度に絡む問題点は改善されるのです。心も体も健康でPPKを実現できる老人は、それだけで世の中人のために多大な貢献をするのだとは思いませんか?

私は現在の医療制度の基本発想は間違っているのではないかと思っています。人間は皆老人になったら病院へ行き、何らかの治療を受けるものと決め付けている感がします。勿論若者と比べれば、そのような向きとなるのは致し方ないことでありましょう。しかし人間というのは、誰もが死ぬまで健康志向であって、病院などに依存しない生活を望んでいる存在なのだと思います。このことを、もっともっと重視した発想に基づく、高齢者向けの施策の展開が大切ではないかと思うのです。そして、それを実現、支援するためにコストをかけるのが人間を大切にする本来の姿であるように思うのです。

ハッキリ言って、生ける屍(しかばね)のような老人をつくりあげ、その生命維持のために多大の医療コストを振り向けるというのは、本当に人間を大事にした施策だとは思えません。これには老人側にも大いなる責任があると思いますが、そのような個人の問題よりも、現役リタイア後の人たちに対する社会教育の不足がこのような現象を招来しているように思えてなりません。

リタイア後の人生をどう生きるかは個人の自由であり、国家の干渉する余地はないと考えれば、致し方がないというのが現状なのでしょうが、個人が自分の生き方を決めるための判断材料はもっともっと国家から提供されても良いのではないでしょうか。現在は、多少余裕のある企業などが定年間際になって、ちょっぴりリタイア後の暮らしに関してのガイドをしているくらいであり、世の中の多くの企業には、そのような余裕はないのが現状でありましょう。だとするなら、国が公共機関を通して、リタイア後の生き方そのものを支援するというプラス思考のガイドに、もっともっと力を入れるべきではないかと思うのです。生きる力を失った老人たちの医療にお金を掛けるよりも、生きる力を失わないPPK指向の老人を増やす施策の方が、国家にとっては遙かに重要だと思われるのです。少し論理の飛躍となるかも知れませんが、私はくるま旅くらしの支援(環境整備)は、この重要施策の一環に加えられるべきものではないかと思っています。

また、PPKの生き方の実現は、世の中人のためだけではなく、何よりも自分自身にとって意義のあることだと思います。健康で心豊かに生きられるということは、何よりもありがたいことであって、嬉しいことでもあります。心と体に不安を抱きながら、何時お迎えが来るかと怯(おび)えながらの毎日や、或いはそのようなことも考えることも出来ない認知症の世界に入り込んでしまって、過去も未来もわからず、人間ということすら忘れて、ただ現在を生きているだけというような人生は、実に空恐ろしく思われます。PPKで自分が自分らしく心豊かに生きるのであれば、老いたとは雖(いえど)も、人生は充実したものとなるに違いありません。そして身近な家族や友人たちにも、大した迷惑をかけることもなく往生ができるのです。

少し脱線が長くなりましたが、私はこのPPKを実現するために、くるま旅くらしが大いに貢献できるのではないかと信じて疑いません。ここで「くるま旅くらし」といっておりますのは、長期間のくるま旅をイメージして敢えて使っていることばですが、「くるま旅」と言い換えても一向に差支えありません。

そのくるま旅が、なぜPPKにつながるのかといえば、元気に生きるために不可欠な刺激を、くるま旅くらしの実践の中から得ることができるからです。刺激といいますのは、出会いと発見に基づく感動を意味します。旅に出れば、そこには出会いが溢れています。新たな気づきが幾つも用意されています。それが人間を、自分を元気にしてくれるのです。松尾芭蕉の辞世の句は、「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」でありますが、俳聖の思いがみごとに籠められていると思います。旅に病みながらも蕉翁の生き様はPPKの世界だったように思うのです。

残された人生を心豊かにPPKで行くために、くるま旅くらしの秘めた力は、無限であるように思います。

ところで、このPPKの実現のために欠かせないことが幾つかあります。念を押すだけの話なのですが、その中で最も大切なPPK実現の前提条件は、健康であるということです。くるま旅くらしに出かければ、必ず元気が出るのは間違いないことですが、それだけで健康の全てが満たされると考えるのは、早計です。

PPKを実現するためには、何よりも健康でなければなりません。メタボをそのままにしていたのでは、マカロニ症候群に突入するばかりで、決してPPKとは行かないのです。マカロニ症候群をご存知ですか?それは恰(あたか)もマカロニのごとくのたくさんの管を口や静脈に入れて、命の延長を図るという病の処置の姿を言っているのです。安定したくるま旅くらしの実現のためには、不断の健康管理が不可欠です。そして健康管理というのは、頭の中で考えていたり、薬を飲んだりして行うものではありません。用意周到な継続実践だと思います。

コメント
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