山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

天変地異災害と国家

2008-05-17 06:05:55 | 宵宵妄話

ちょっと大げさかなとためらいながらも、最近世界の各地で起こっている天変地異の大災害のことを思い、個の人間の無力さ、悲しさ、人間社会というものの愚かさを感じつつ、このようなタイトルをつけた次第である。

このところ環境破壊とか、地球温暖化だとか、人間の営みの負の部分のもたらす不気味な現象についての議論が、世界規模で沸き立っている感じがするが、そのような議論などを蹴飛ばすかのように、ミャンマーではサイクロンによる大水害に見舞われ、つい先日は隣国の中国四川省では大地震が発生するという、恐るべき天災地異事件が発生している。

環境破壊や温暖化の議論は、今のところ、その災害の悲惨さを目()の中(あた)りにするものが殆どないので、不気味感はあっても実態としての怖さからは少し離れていることができるのだけれど、台風・洪水や大地震という奴には、待ったなしの恐怖を覚えずにはいられない。被災にあった多くの方々に心からお見舞い申し上げると共にお亡くなりになった方には、心からそのご冥福を祈りたい。人種や国などは問題ではなく、人間として哀悼の意を思わずにはいられない。

今回の中国四川省の大地震やミャンマーのサイクロンによる大災害のニュースが報じられる度に、人間の国家と国民個人との関係のあり方について、改めて人間社会というものに対する愚かさ、虚しさを覚えずにいられなかった。地球は一つ、人類は皆兄弟という発想があるが、国家体制というものは、それを否定し、踏みにじるようである。ミャンマーは国際救助支援を断り、例え死者が増えようともあくまでも自力での復興を目指しているが、これなどその被害者の数から言えば、軍事政権が、自国の国民を死なせている数は、どこか他国との戦争の犠牲者などの比ではないほど膨大な数に登るのではなかろうか。国家という組織の、他を寄せ付けない狂った自殺行為の感すらする。

中国は災害後4日も経って、ようやくわが国の国際緊急援助隊を受け入れることを決めたが、何故直ちに受け入れなかったのかには疑念を抱かざるを得ない。数十年前、中国では唐山大地震があったと聞くが、この時は救援の話はおろか、地震被害の報道など一切、我々は知らなかった。外国のメディアが、数行の報道記事で地震があったことを知らせた程度ではなかったか。後々に出版された本で、唐山大地震で10万人以上が死んだということを知り、その悲惨さに思いを馳せると同時に、この時も国家体制の身勝手さを空恐ろしく思ったのだった。そのときから比べれば、中国はほんの少しだけど、グローバル化の渦の中を動き出しているようにも思える。

また、天災地変と国家体制の関係では、北朝鮮などは台風や気候不順で人民が被っている悲惨な災害状況を、国家の取引に用いている感すらある。国を治めるものの責任がどこにあるのも見えてこない。21世紀に存在する国家とも思えない感じすらする。

しかし、厳しく反省すれば、現在のそのような国のことばかりは言えない歴史が、わが国にもあったのではないか。人間社会の国をめぐる治世の状況は、文明の進歩とともに、大きくその姿を変えてきているから、歴史という観点からの安易な比較は当てはまらないのかも知れないけど、江戸時代250年を超える鎖国の歴史は、他国の支援など寄せ付けず、又国内においても自治権の異なる300近い小国家に分かれて、夫々の覇権を主張していたのだから、国を守るという理由で、或いは権力者の見栄や都合でそこに住む人々を省みなかった時代が長くあったのである。

国家というのは何なのであろうか。単なる個人の集合体ではないことは明らかだ。幸せを願う100人の人の集まりなら100人による平和国家を形成することができるかも知れないが、幸せを願う1億の人の集まりでは、幸せという純粋な願いは1億人の様々な欲望の中にもみくちゃにされて息絶え絶えとなり、その代わりにすべての個々人の欲望を超えて、全体をコントロールする強力な権力を持った組織が出現する。そして何事も起こらなければ、人々はその権力に安全と安心を託すのである。しかし、天災地変のような大事件が発生すると、その権力はその支配下にある一人ひとりを守るよりも己の権力を守る方を優先させるものらしい。どうやら、人間社会の治世の構図というのは、歴史を超えてそのような形になっているようだ。これが人間社会というものであり、それは組織の本能のようなものと思われる。

今回のサイクロンや大地震の被害報道を見ていて、その悲惨さに息を呑みながら、大自然の巨大な所作の中では、如何にこの世(=地球)を支配しているかのごとき人類ではあっても、大量発生のバッタのような存在に過ぎないのではないかと思ったのであった。人間社会の愚かさは、その組織を構成する一個人の深い悲しさと結びついていることを、今回の大地震やサイクロン災害の中に改めて思ったのであった。

明日から数回に分けて、先の旅の中で、HMCCの合同大会で話をさせて頂いた、「くるま旅は楽しい」というテーマでの話の内容を掲載するつもりでいます。実際の話とは少し異なり、話せなかったことや話したいことを付け加えさせて頂きました。引き続きご一読頂ければ嬉しく思います。

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