吉祥山永平寺は、わが国における第一等の禅修業道場と理解している。今回の旅で、久しぶりに永平寺を訪ねたのだったが、今日はそのことについて少し書いてみたい。
若かりし頃、禅に大いなる関心を持ったことがある。一体に宗教というものへの捉(とら)われは敬遠するタイプなのだが、禅というのは何だか宗教とは無関係のもののように思われたのである。そしてそれは、今でも変わっていない。禅というのは、本当は坐禅という悟りに至る方法論だけではなく、もっと幅広い考え方をたくさん含んでいるに違いないのだが、私は禅=坐禅と考えている。曹洞宗の信者の方とは異なる、いい加減な禅の信奉者なのである。
今から40年ほど前、NM法という発想法の開発者である中山正和先生が、工学禅というのを提唱されており、自分もその研究会に何度か参加したことがある。中山先生は、HBCモデル(=Human Brain Computer model)という、人間の脳と同じ機能を持つコンピューターの開発を進めるための理論として、人間が生まれてから成長して大人になり一生を終えるまでに、脳がどのような発達をするのかをモデル化した仮説を提唱されたのだった。そしてこの理論を用いて、禅の発想を取り入れたのが工学禅なのである。何やらややこしい話となったが、簡単に言えば、禅というものを現代の工学理論で覗いて見ようというような取り組みだったと理解している。
禅といえば曹洞宗の開祖、道元禅師を措くことはできない。当時難解といわれる道元の思想を記した「正法眼蔵」などを、HBCモデルを使って解釈される中山先生の話を拝聴したことがある。HBCモデルは、今でも私のものの考え方の中で大いに役立っていると思っている。
そのようなことから、私も坐禅を始めるようになった。中山先生が素晴らしいのは、HBCモデルのような極めて工学的な発想の仮説を、単なる理論展開に止めるだけではなく、実際に身体で実践して確認してみようというチャレンジがあるということである。当時鎌倉在住の田里亦無(たさとやくむ)という禅の実践家のご指導の下に、実際に坐禅を組んだのが、私の坐禅の始まりである。
坐禅というのは、禅の目指す悟りの境地を得るための方法論の実践であり、坐ることによって悟りの境地の「身心脱落(しんじんだつらく)」を目指すものである。勿論ただ坐るだけではなく、その他にも様々な修業があるのだろうけど、坐禅を第一と考えるのである。坐禅の実際は、調心調息といわれるように、呼吸に注目して心の平静を維持・確保することにある。吸う息よりも吐く息の時間を長く取って、これを静かに繰り返し続けるのであるが、呼吸になれてきたら、次第に1呼吸の時間を長くするようにしてゆく。私の場合は、1分間に2呼吸くらいであるけど、修業を積むと、1分間に1呼吸以下という人もいる。
呼吸というのは坐禅によらずヨガや気功などにおいてもたいへん重要な役割を果たしているが、それは自律神経をコントロールできる唯一の方法だからではないかと思っている。心臓の動きや胃腸の動きを自分の意思でコントロールすることはできないが、呼吸だけはそれが可能なのである。ここに注目した先人の知恵というのは凄いものだなと思う。
ま、そのようにしてかなり坐禅に入れ込んだ(?)のだったが、なかなか身心脱落というわけには行かなかった。そして気づいたのは、坐禅が心と身体の健康法にたいへん有効なものだということだった。毎朝、借家の小さなベランダで1時間ほど坐った。真冬なのにパンツ一つの裸なのだが、寒さを感じたことはなかった。100呼吸を数えると止めることにしていた。家内も子どもたちも、このような愚かなことをしている夫や父親の姿をつゆ知らず、眠りの世界にいる時間帯の行為だった。私の意固地で妙に天の摂理に合っている生き方(?)は、この坐禅との出会い以降に強められたものだと思っている。
さてさて、かなり長く脱線してしまったが、永平寺訪問は今回で4度目くらいではないかと思う。鎌倉時代のその頃、世の中がどのようなものであったか知る由もないけど、この地が恰(あたか)も前人未到の如き山奥であったことは間違いない。今は自動車専用道路が作られ、ゴマ豆腐や蕎麦などが名物の、観光地化しているけど、往時のこの山奥の地の大伽藍は、心身の修業を求める者にとって、一大の荘厳さを覚えさせたに違いない。初めて永平寺を訪れた時は、そのような格別の感慨を抱いたのを覚えている。
福井というのは思っている以上に京都の都から近いロケーションにある。何度も訪ねているうちに、関東で育った感覚のズレが少しずつ修正されて、最近はようやくまともに歴史の足跡を確認できるようになったような気がする。その福井の永平寺は、八百年の歴史を昔の精神そのままに山奥深く鎮座していた。
ここに来ると、坐禅の真髄が自然と伝わってくるような気がする。坐ってみたくなるのである。このところしばらく坐ることを忘れていた。それがここに来ると、大切なことは為し続けなければならないことを思い起こさせてくれるのである。拝観者用の案内コースを時々脱線しながら辿りつつ、昔に変わらぬ深山幽谷の佇(たたず)まいに浸りながら、禅というものの考え方を改めて想った。死ぬるまでの間に、一度ここへ来て時間をかけて坐ってみたいなと思った。いろいろ入り組んで、かなりインチキな形で我が身に取り付いている、禅というものに対する考え方を整理することが必要だなと思った。とりあえず、帰り際に新しい座布を購入した。その日が来るまで坐ることを心がけたいと思っている。
永平寺境内の静かな佇まい。ここへ来ると、春の淡い日差しの中に、新緑さえもが鎮まって、穏やかに山の空気を包んでいる感じがした。