山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

順境と逆境

2008-03-28 05:52:40 | 宵宵妄話

又またとんでもない事件が起きた。昨日のニュースで、JR岡山駅で電車を待って並んでいた先頭の人が、電車がホームに入る直前に、後ろから来た18歳の男に、突然背中を押されてホームに転落し、死去するという事件が起きた。めちゃくちゃな事件である。托卵(たくらん)で生まれた郭公(かっこう)の雛(ひな)鳥が、そこの巣の親鳥の子を突き落とすという行動よりももっと恐ろしい行動のように思う。

先日土浦荒川沖での気違い殺人者のことを、親の子育てのあり方が大きく影響しているのではないかとのコメントをしたのだが、今度の事件を見る限りでは、子育てのことだけではなさそうだなと思った。社会のあり方そのものにも大きな原因が潜在しているのかも知れない。

タイトルを「順境と逆境」と書いたが、人生は常に順境と逆境が織り交ざってつくられてゆくように思う。順境というのは、心に過大な悩みなど抱くことも無く万事が順調に進んでゆく環境を言い、逆境というのはその反対で、何事も思う通りにならないばかりか、何で自分が……、と打ちのめされ、叩き潰されるような苦しく厳しい境遇を言うのだと思う。

人が願うのは、当然のことながら順境の人生であろう。裕福な家に生まれ、理解ある両親に恵まれて育ち、学問等の才能にも恵まれ、受験の苦しみなど一度も経験したことなく有名大学を卒業し、自分の思い通りの職業に就く。そして良縁に恵まれ、優秀な子供を持って、順風満帆の人生を歩む。それが理想だと考えている人は多いことだろう。

だが、実際の人生では、そのような人物は、この世には只の一人もいないと私は思っている。順境だけの人生などあるはずが無い。皆夫々の大小さまざまな逆境に落ち込み、それを何とか乗り越えてきているのだ。それがまあまあの満足できる人生というものだろう。生まれてから、たったの一度も悩みや苦しみを味わったことが無いなどという人物は、思うに、真(まこと)につまらない人間なのではないか。

「艱難(かんなん)(なんじ)を玉にす」ということわざがあるが、人間を磨くのは決して順境ではない。逆境を乗り越えたからこそ、人間の魅力が輝くのである。大した苦労もせず、順調に東大を卒業して一流企業に就職した人物が、必ずしも社長に成れるわけでも、周囲の尊敬を集める得る人物となれるわけでもない。学歴などの如何を問わず、本物の逆境を乗り越えた人だけが人間として一流と成り得るのである。

逆境に弱いといわれる今の若者に一番欠けているものは、やっぱり耐性なのかもしれない。現役の時、企業内教育の仕事に携わっていた職場の同僚が、何時も「不満耐性」が大切なのだということを強調していたのを思い出す。その頃の自分は、耐性というイメージはどちらかといえば暗いものであり、若者というのはいろいろなことに失敗を恐れずチャレンジしてゆくべきだと考えていたので、その必要性は感じてもさほど強調するようなことでもあるまいと思っていた。ところが、今度のような事件が起こると、耐性のことを考えずにはいられなくなる。彼は先見の明というか、今の世の問題の本質を見抜いていたのであろう。

耐性というのは、我慢、辛抱して自分自身の不満を乗り越えてゆくという心の力である。つまり、逆境を逆境として受け止め、それを乗り越えてゆく姿勢を言うのだと思う。「切れる」というのは、この心の力が極端に弱いから起こる現象なのではないか。無差別の殺人によって己の不満を満たそうなどという切れ方は、もはや人間社会を識別できないほどの異常な行為であり、明らかに耐性の議論を超えた心の働きのように思う。しかし、その原点にはやはり耐性の欠如があるにちがいない。恐ろしいことである。

高校卒業と同時に殺人者となったこの男は、卒業までの間はごく普通の、というよりはむしろ優秀な成績の高校生で、本人もそれなりに学校生活に満足し、楽しんでいたという。直ぐの進学をあきらめ、就職してお金を貯めてから進学したいという人生行路の選択肢は、決して誤りではなくむしろエールを送りたいほどだ。思いが叶わぬ逆境を乗り越えようとする人生プランは、素晴らしいと評価できるではないか。それなのに家出をし、とんでもない行為に至るというのには、やはり本物の耐性が出来ていなかったからなのだと思う。描いたプランとそれを実行しようとした現実とのギャップに、戸惑い、たちまち切れてしまったのであろうか。

耐性は学校での学問・知識習得だけでは決して身につかない。逆境に身を置かざるを得ない状況は、誰でも遭遇するはずだが、その時の親を初めとする周囲の人たちの対応のあり方が重要だと思う。逆境を逆境としてガッシリと受け止める、そのような認識を持たせることが大切なのだと思う。特に親は子供の本当の苦しみを理解し、子ども自身がそれを苦しみとして受け止め、乗り越えてゆかなければならないことを知らせてやらなければならない。いい加減な慰めや、ほったらかしの無責任な対応は子供に本物の耐性を身に付けさせることには全く役立たないのだ。

今の若者に耐性不足が目立つ最大の要因は、親の子供に対する甘さと自分に対する甘さにあるのではないか。小さい時にやたらに可愛がり、大きくなるにつれ、放置若しくは過剰干渉で子供との信頼関係を破壊してゆく親が多いのではないか。子供が本当に困っている時、つまりは逆境にいる時に身命を投げ打ってでも、子供に逆境を乗り越える力を吹き込む努力をしなければ、子供は親を信頼し続けるのは難しくなるのではないか。口先だけで頑張れなどというのは、最も安易で愚かな行為だと思う。頑張っていても巧くゆかないのが逆境なのである。我慢を教えなければ、辛抱心を身につけなければ、どうやって生きてゆけばよいのか、わからなくなってしまうに違いない。

いじめの問題がいろいろなところで浮き上がってきている。今の世はいじめ横行の世のように思えるほどだが、これなども耐性という問題を置き去りにしている。いじめの問題を単にいじめる側といじめられる側の問題としてだけ取り上げていたのでは、いじめ問題の解決は永遠に不可能ではないか。なぜなら、強者(一見強者を装っている弱者を含めて)が弱者をいじめるのは、恐らく人類の有史以来の行為ではないか。その意味では、人間が集団(=社会)の中で生きる際の本能のようなものなのかもしれない。もしそうだとしたら、耐性を鍛えることで凌(しの)ぐしかないように思う。人間は逆境に耐える力を強くすることで、強者の地位・立場を逆転させることが可能な生き物なのだ。子供の頃のいじめられっ子が、大人になってその昔のいじめっ子を自在に支配しているような人間関係は無数といっていいほど存在している。耐性が強いものが最後の勝利者になれるのだと思う。

いろいろ偉そうなことを書いてきたけど、自分自身が耐性の優れた者でもなく、子供に対しても、親としてさほどに良い理解者であったとも思ってはいない。ま、それなりに、ほどほどのレベルでやってきたとは思ってはいるが。とにかく最近の理由(わけ)のわからない事件を思う時、今の世の中は、何かとてつもなく大切なものを忘れているのではないかと思うのである。耐性は子育てのあり方の一つの側面を指しているのに過ぎないのかも知れないが、昨日のニュースを見ていて思ったのは、起こった事件の表面的なことだけを見て世の中が大騒ぎをするのではなく、その真の要因に目を向け、本物の対策を講じないと、これから先この世はまさにハルマゲドンのカオスの中に突入してしまうのではないか、ということだった。

コメント
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