山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

殺人犯を許すな!

2008-03-24 05:51:49 | 宵宵妄話

今日は何も書くことがなさそうなので、一昨日の夜にTVで見た世界フライ級チャンピオンの内藤君のことを書こうかと思っていたのだが、夕方のニュースで、比較的ご近所の土浦市荒川沖のJR駅で、多数の方が包丁を持った狂人の男に殺傷されたというニュースを聞いて、無性に腹が立ち、この問題を取り上げることにした。

先ず最初に言いたいのは、このような世間をなめている奴は、狂っているとはいえ、即刻死刑に処すべきである。また、人を殺しておいて、警察に「私を捕まえてごらん」などとふざけた通報する奴を捕まえ損ね、多数の死傷者を出すというのは、明らかに警察のドジである。県警のコメントでは偉い人が「至極残念だ」などと他人事のように言っているが、事件のことなど分らぬまま気違いに殺された被害者サイドは、そのような生ぬるいコメントではおさまらないのではないか。この事件の前に起きている同一犯による殺人事件の捜査本部を設け、かなりの人数を割いて犯人の身柄確保を待ち構えていた体勢の中で、何の情報もなかった一般人が殺傷されるというのは、警察のドジ以外の何ものでもない。更には、張り込んでいた警察関係者までが負傷するとは、とてもプロの仕事とも思えない。やむを得なかったという理由を探すのに不足はないと思うが、この事件に関してはTVの正義派番組よりも、現実はかなりお粗末のように思えて仕方がない。偉い人は、反省などのコメントの前に、何よりもお詫びすべきである。

私の身内には、実は警察関係者が何人かいる。そのような立場からは、黙っていた方が無難なのは承知している。しかし、社会正義という観点からは、警察の今回の事件への対応のあり方は、真(まこと)に当を得ていないと非難せざるを得ない。殺人犯を普通人と同じような感覚で確保できると考えていたのだろうか。今頃の殺人犯の多くは、いわば狂人である。狂人というのはもはや人間ではないと考えるべきであり、それを前提として対処しなかったら、被害は増える一方なのではないか。今回の事件のこのような結果は、警察が狂人と普通人の判断の正確性を失ったことに起因している感がしてならない。

今の世のような、悪が軽薄な裁量で許され、その積み上げが悲劇を生むというような状況を許してはならないのではないかと思うのだ。警察の及び腰を叱りたいが、その前に人間の死に関して、殺された者よりも殺して生きている者に有利というか情けをかけるような法律のあり方を許せない。生きている殺人者を尊重し、殺された被害者を軽視するというような法の考え方は、根本的に間違っているように思えてならない。冤罪などもあり、一概には言えないことは承知してはいるけど、犯人が明らかな場合は、更生など無用のケースが多いのではないか。確かにこの世は生きている者だけで成り立っており、死者の関与する余地など無いのだとは思うが、生きている者と死者とはつながっているのであり、法がそれを軽視し、認めたがらないというのは不公平極まりない、甚だしい誤りのように思う。

犯罪に「時効」という考え方があるが、これなどは犯罪を許す手抜きのように思う。少なくとも殺人事件に関しては時効などあってはならないように思う。時効になったと自ら言いふらし、殺人者が大手を振ってそのあたりを歩き回れるなんぞというのは、どう考えたっておかしな現象である。殺人者に「元」殺人者などと言う呼称は無用だと思う。人を殺した罪は、生きている限り償い続けるべきである。殺人者も人であり、殺すにも一理あるのだから、等しく愛の手を添えるべきなどという甘ったるい発想を断じて許すべきではないと私は思っている。

最近の殺人事件は、狂人が生み出しているケースが圧倒的に多いようだ。もともと人が人を殺すなどというのは、狂人にならなければできることではない。そしてその狂人を生み出しているのは、多くの場合世の中の狂い出した部分にあるような気がする。社会病理とも言うべきことなのであろうか。現代には狂人を生み出す病理の世界が知らず拡がっているような気がする。あまりにも早すぎる文明というのか文化というのか、その進展のスピードについて行けない人間が狂いだしている感がするのだ。その結果、「誰でもいいから殺したかった!」「校庭の隅にある動物小屋の小鳥やウサギたちを思いっきり虐め殺したかった」などという心理と行動が、幾つもの事件を引き起こしている。人類としての自戒は、このような狂った行為を断じて許さないことにあるのではないか。戦争を容認するような博愛の思想は虚偽に過ぎない。

今回の土浦・荒川沖の殺傷事件が、もし狂人の狂人なるがゆえの殺人・傷害事件として、心神消耗とか心神喪失などという理由で無罪になったりしたら、まともに生きている者にとって、この世はバカバカしい限りのものに成り下がるに違いない。気違いは差別用語だが、殺人者に対しては、それほどご大層に扱うべきことばではあるまい。気違い(=精神異常者)は、人を殺しても無罪などという法を決めた奴は、厳しくその責めを問われてべきではないのか。法に則してなどと言いながら、気違いに無罪を言い渡す裁判官は、何の尊敬にも値しないように思う。その意味において、殺人者の弁護士(人)というのは、法の錯乱者が多いように思えてならない。何でも罪一等を減ずればそれが実績などという考え方は、殺人という絶対的な犯罪においては、通用させるべきではないように思える。オウム真理教の様な愚か極まりない裁判においても、長い時間と国税の浪費を貪りながら、ダラダラと審議を続けるような世の中が真っ当だなどとはとても思えないのである。

今回の土浦・荒川沖の事件も、愚かな審議を長々と続けるようなことは止めて貰いたい。殺人者は、即刻鋸引きの刑(土中に埋めた生きた犯罪者を、通行人の心ある者が竹製の鋸で一度限りその首を引くという古の処刑の仕方~これは憎しみの極致での刑の執行というよりも、鋸をひける者がさほど大勢居るとも思えず、犯罪の重さを知らしめ、再犯を防止するための負の手段のように思える)が相応しいのではないか。勿論様々な殺人者がいるのだから、皆一律には行かないとしても、狂人の殺人は躊躇(ちゅうちょ)なく断罪すべきである。狂って命を奪うという行為には、どこを探しても許せる余地などあるわけがない。

いずれにしても昨今の世の中、生命(いのち)というものを軽視する出来事が多い。己の命を軽視し、更にその上で他者の命を軽々しく奪う様な者は、如何なる人間であろうとも、如何なる理由があろうとも、絶対に許してはならないというのが、馬骨の信念である。(花粉の所為もあって興奮気味である)

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