山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅の思い出から:角館の菅江真澄終焉の碑

2008-03-26 05:09:36 | くるま旅くらしの話

 このところ暗い話題が多かったので、今日からは少し旅の思い出などを振り返ってみたい。今日はその初めとして、昨年も訪ねた角館の街中の散策から出会った、菅江真澄の碑(いしぶみ)ことなどを書いてみたい。

 以前にもどこかに書いたように記憶しているけど、秋田県に入ると所々に「菅江真澄の歩いた道」という標示板が目に付く。菅江真澄とはどのような人なのだろうと、最初は聞いたこともない名前に戸惑ったものだった。何時の時代の人なのかも判らなかった。しかし、その実を知って、我々旅に憧れる者の大先達であることを知り、一挙に親近感が増したのだった。

 菅江真澄という方は、江戸時代後期の人で、往時の三河の国渥美の郡吉田付近生まれの人という。そのような出自に関する詳細については、私はあまり興味がない。学者ではないので、大体判ればそれで充分である。要するに東北出身の人ではなく、今の愛知か静岡辺り出身の大旅行家、若しくは冒険家ということである。江戸時代というのは、現在の日本国からはなかなか解りにくい、300余藩という群小半独立国家の集合体という政治システムだったわけで、その時代に諸国を巡り歩く旅行家というのはそれほど多くいたわけではないと思う。俳聖松尾芭蕉は有名だが、そのほか諸国を巡り歩いたことで名を残した人は少ないのではないかと思う。

 菅江真澄を有名にしたのは、信州、奥羽から蝦夷(北海道道南エリア)にかけての克明な旅の記録を残したことが、単なる旅行家ではなく、後年いわば今日の文化人類学研究の魁(さきがけ)として高く評価されるようになったところにある。民俗学の父といわれる柳田國男をして、民俗学の鼻祖と言わしめている存在でもあった。200冊に及ぶというその著作は、土地の民族習慣、風土、宗教等について、文章のみならずスケッチなどの絵も加えて書かれており、それらは「菅江真澄遊覧記」として、現在東洋文庫(平凡社刊、東洋文庫、全5巻、菅江真澄著 内田武志・宮本常一編訳)の中に収められ出版されている。

  

    菅江真澄遊覧記:菅江真澄著 内田武志・宮本常一訳注 (平凡社刊 東洋文庫)

 私も早速この本を購入して読み始めたのだが、面白いけどなかなか先に進めない。単なる旅行記ではなく、まさにフィールドノートなのである。往時の地方の地誌や文化についてのバックグランドとなる知識を持たない自分には、内田・宮本先生の訳注を参照しながらのたどたどしい読み方で、3年も経つのに3巻目にようやく取り掛かるという有様である。

 この本を読んでいると、くるま旅くらしのあり方に関するたくさんのヒントを得ることが出来るような気がする。私のくるま旅くらしの原点は、アメリカの文豪スタインベックの「チャーリーとの旅 ~ アメリカを求めて」という、当時アメリカでも珍しかった、特注キャンピングカーに、チャーリーという名の愛犬を連れてのアメリカ大陸横断の紀行本なのだが、菅江真澄は勿論車などの無い時代の旅であり、より本質的な旅の面白さを示唆してくれているような気がするのである。あと3巻を読み終えるまでにどれほど時間がかかるのか見当もつかないけど、楽しみながら読んで行きたいと思っている。

 さて、その菅江真澄だけど、この方は秋田に縁が深く、現秋田市の久保田藩佐竹氏の知遇を受け、久保田城近くに在住していた。角館は久保田藩の支藩のあった所だから、当然何度も来訪されていたに違いない。しかしその痕跡などを知る由もなく、毎年角館を訪れていても少しも気づかなかった。

 昨年は、武家屋敷や檜木内川堰堤の桜見物に飽き足らず、今まで歩いたことのなかったエリアにまで足を伸ばして、地図無しに歩き回ったのだが、その中で神明社近くに「菅江真澄終焉の地」の碑があるのを見つけた。犬も歩けば棒に当たるという感じの発見だった。そうか、この地で亡くなられたのか、と旅の名人、大先達に思いを馳せたのだった。享年76歳。40年以上を、秋田を拠点にした旅くらしの人生だった。凄いなあと、改めてその偉大さに心を打たれた。

   

    「菅江真澄終焉の地」 の碑                       碑の説明板

今年は角館を訪ねる機会があるかどうか、今のとこと見通しは立っていないが、今度行った時もまた、神明社を訪ね、菅江真澄の碑に立ち寄って、大先達の旅に思いを馳せたいと思っている。

コメント
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