山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

青木昆陽を讃える

2008-03-16 01:35:07 | くるま旅くらしの話

このところ千葉へ通うことが多い。家内の実家が幕張(花見川区幕張町)にあり、そこへ行くことが多いのだが、近くに青木昆陽を祀った昆陽神社というのがある。青木昆陽などといっても、今の時代では殆どの人が知らないと思う。今は、昔を尊敬するよりも見下げるという見方をしている人の方が圧倒的に多いから、その昔の偉人のことなどあまり関心がないのかもしれない。

     

   昆陽神社。最近新しく建て替えられた。今は、この下を道路が通っている。

青木昆陽といえば、江戸時代の中期(8代将軍吉宗の時代)に大岡越前に抜擢され幕府の書物方を勤める傍ら、吉宗に上書した「蕃藷考」が認められ、吉宗の命を受けて関東地方にサツマイモの栽培を普及させた人であり、全国にも大きな影響を及ぼした。〔このことについては、異説・異論があるけど、自分としては昆陽の業績を信ずる立場である〕

   

   青木昆陽甘藷試作地の説明板。千葉市教育委員会が掲出したもの。

吉宗という人は小松菜(もともと江戸川下流域の小松川で育てられていた野菜を試食したことから小松菜と名付けられたとか)の栽培普及にも力を入れた人で、TVで庶民に混ざってチャンバラ三昧のエエ格好ばかりしているような存在ではなかったのである。

青木昆陽は、現代で言えば、この地においては、サツマイモ栽培の神様といった存在だったと思う。昆陽の前にもサツマイモの栽培を手がけた人はいたというけど、組織だって普及させ、多くの人民を飢餓から救ったというのは、この人が一番だったということなのであろう。飢饉への備えとして、例えば水戸の黄門様もスベリヒユなどを食することを推奨したりしているが、救荒(きゅうこう)作物(=飢饉の際に助けとなる農作物のこと)としては、その栄養価、カロリーなどを比較すれば、到底サツマイモの比ではない。スベリヒユは今でも畑にのさばる邪魔者だけど、これを食べるにはさほど勇気は要らないとしても、食べ続けるのには如何に飢えていたとしても相当の根気がいるように思う。黄門様は食べて見せたというけど、食べ続けて見せることは到底出来ないのではないか。

江戸時代は、否、昭和の戦後が終わるまでは、命をつなぐ食というのは、大衆にとってはずっと何とかしなければならない最大の課題だった。ずっと貧しい時代だったのである。つい最近まで、慣習として節季の交際には食べ物がついて回っているのが多いことがそれらを示していると思う。子供の頃、同じ農村の者同士なのに正月になると伸()し餅を持ってお互いの家を年始に回るのを、どうしてそのような無駄なことをし合うのかと不思議に思ったりしたのだが、江戸時代以来連綿と続いている食というものに対する農民の思い入れがそのような行事というか慣習を生み出してきたのだと、この頃思うようになった。

そのような貧しい時代の中では、米以外のハイカロリーの栄養価の高い作物の出現は、いずれの藩においてもそれこそ喉(のど)から手が出るほど渇望(かつぼう)されていたに違いない。何しろ鎖国などといって国を閉じてしまっているのだから、外国の、より優れた作物などが入ってくるのは超困難だったに違いない。その中でのサツマイモの出現は、まさに神様・仏様だったのではないか。

話がずれてしまったが、その青木昆陽がサツマイモ栽培の試作をして、初めて成功した場所がこの幕張なのである。幕張(その当時は下総馬加村)の他に小石川養生園、上総豊海(九十九里町)でも試作が行われたのだが、失敗とのことだった。この幕張での試作成功を基に普及が始まったわけである。往時の農民の喜びは如何ばかりだったかと思う。このサツマイモ栽培成功の普及が、天明の大飢饉においても(栽培域においては)餓死者を出さなかったというから、大変な功績だと思う。奇跡の食料だったということだ。

実は自分もサツマイモに救われている。戦後間もない頃、戦災のため住んでいた日立市を追われ、我が家族は離散状態で疎開していたのだが、ようやく現在の常陸大宮市に開拓団の入植地を見つけて、一家揃って掘っ立て小屋での暮らしが始まった。当時の食べ物といえば、米や麦さえも滅多にお目にかかれず、長いことサツマイモやジャガイモに少しばかりの米が絡んだご飯が主食のような状態だった。小学校が終わる1953年頃まで、似たり寄ったりの食生活が続いたのだった。だから、自分の身体の基盤はサツマイモで出来ているのではないかと思っている。その基(もと)を辿(たど)れば、昆陽先生のおかげなのだと感謝せずにはいられない。

ところで、今サツマイモが好きか?と問われれば、大好き!などとは到底言えない。嫌いではないけど、滅多に食べないというところか。命の恩人(ならぬ食物)なのに、その恩を忘れてしまっている。日本の長い歴史の中で、現代は異常なほどの飽食の時代である。これが何時まで続くのか判らないけど、もはや食の有難さを通り越してしまっていることは明らかだ。自分自身もサツマイモの恩を忘れた結果、今はその天罰を喰らって糖尿君が我が体内に住み着いてしまっている。

改めて今日(3/14)昆陽神社の傍を通りかかり、その昔の出来事を思って、我が身の反省をしたのだった。青木昆陽はこの地では神と祀られているけど、昆陽神社がどのようなものかを知る人は少ないだろうし、ましてやサツマイモなどといったら、バカにする人が多いのではないか。江戸魚河岸の魚屋の息子に生まれた男が、浪人として伊藤東涯に儒学を学び、やがて時の江戸町奉行に見込まれて幕府の役人となり、さらにはその上書が時の最高権力者に認められて、サツマイモが人を救う力に惚れ込むという信念を実現させ、これを世に広める働きをしたという物語は、もう少し陽の目を見てもいいのではないかと思った。今日はちょっとした寄り道の旅をした思いだった。

    

    神社の反対側に建てられている試作地顕彰の碑。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする