山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

植物の生命力

2008-03-02 01:31:43 | くるま旅くらしの話

 もう冬は終わったようだ。今日の散歩の途中でフキノトウを見つけた。今頃は正月でもフキノトウやタラの芽などが売られているが、季節感にそぐわない。真冬にそのようなものを天ぷらなどにして喜んでいるのは、天を恐れぬ愚か者だと思う。今日の道端のフキノトウは、真正正銘の本物である。

   

        道端に見つけたフキノトウ

 一年中そこいら辺を歩いている所為か、道端の野草には特別の思いがある。特に冬の野草たちの生き様には、時に感銘を覚えることすらある。冬に花を咲かせている野草を、恍(とぼ)けた奴だなどとは決して思えない。その命を輝かせようとする必死の生き方に強い共感を覚えるのである。今流の表現でいえば、彼らから力を貰うのである。真冬に花を咲かせているぺんぺん草を嗤(わら)う資格は人間には無いと思う。

 この世(=地球上)には、生命を持つ2種類の生物が存在している。動物と植物である。動物は動き回るし、植物は動かない。しかし厳密には、動く植物もいるし、動かない動物もいる。動物なのか植物なのか判別がつかないものも居たりして、生命の進化のプロセスは謎だらけだ。そのような微妙な世界のことはよく解らないし、解ろうともしない。自分は横着者だと思っている。

 歩きながら、今私が一番関心があるのは、明確に植物であると断定できる野草たちのことである。野草たちは逞(たくま)しい。彼らは油断も隙もなく生きている。じっと厳しい冬に耐える我慢強さも人間などの比ではない。寒さが厳しすぎて葉も枯れ果てても、どっこい決して根を枯らすことはない。思うに動物のエネルギー循環の根源であると思われる心臓に相当するものは、植物においては根にあるに違いない。葉や茎などではなく、ましてや花になどあるはずもない。根が枯れなければ、生命は枯れることがないのが野草の姿なのだと思う。その証拠に、毎年開花が済むと姿を消してしまう野草たちが、翌春になれば同じ場所に芽を出し、活き活きと生長を開始するのである。根まで掘り出して眺めることは滅多にしないので、ぺんぺん草やタンポポの根がどのようになっているかは知らない。しかし、大地のエネルギーを吸い上げ、それを生命の力として蓄えるのであるから、それらは見かけによらぬ強靭(きょうじん)なものに違いないと思う。

 人間は表面的なことに心を奪われやすい生き物なので、植物たちが根で生きているということに気づかない者が多いのではないか。農家や樹木に係わる人たちは例外だ。彼らはどうすれば植物たちが喜び、元気を出すかを知っている。見過ごしている人が多いけど、それは凄(すご)い知恵なのだと思う。根が元気でない植物が表面を取り繕うことは出来ないのである。そのことを知らなければ、農業は成り立たないし、林業も造園業も成り立たないであろう。

 翻(ひるがえ)ってこのことを人間に当てはめれば、たくさんの反省点が見えてくるように思う。そのことを一々書くつもりはないけど、一つだけ言いたいのは、人間にも心臓以上の生命を維持する働きをする、根っ子に相当するものがどこかに必ずあるに違いない。己(おのれ)の根っこは何処にあるのか、それは何なのかをしっかりと掴(つか)んでいないと、人生はぺんぺん草にも敵わないものとなってしまいそうだ。

   

    冬焼けして、ロゼット状で春を待つタビラコ

 冬焼け()して、赤くなったタビラコ(=春の七草の中ではホトケノザと呼ばれている)を見つめながら、一体俺の根っ子なるものは何処に、どんな形で据わっているのだろうかと思った。しばらく歩いてゆくと、どなたかの庭先の白梅がもう満開に近い花を咲かせて香りを放っていた。

   

     満開の白梅が青空に薫り高い芳香を放つ

 

コメント
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