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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

06年 北陸・中四国晩秋の旅(第16日)その1

2008-11-29 03:07:45 | くるま旅くらしの話

第16日 <11月28日()

道の駅:内子フレッシュパークからり→高昌寺(内子町)→内子町並み散策→道の駅:小田の郷せせらぎ(内子町)→(R380R33経由)→道の駅:みかわ(愛媛県久万高原町)→(R33R190経由)→道の駅:土佐和紙工芸村(高知県いの町)→(R190R33経由)→高知市内つたや書店→(R32)→道の駅:大杉(高知県大豊町)→(R32R192)→道の駅:貞光ゆうゆう館(徳島県つるぎ町)(泊)244km

内子の道の駅は活気があるので有名だ。全国でもこの種の施設経営では、成功事例の5本の指に入るのではないか。少なくとも自分達が廻った多くの道の駅の中では、それを実感できる所である。とにかく未だ暗いうちから軽トラが続々やってきて、野菜や様々な手づくりの加工品などを売り場に並べてゆく。明るくなる頃までにはすっかり準備が整って、売り場は新鮮な品物で溢れんばかりとなるのだ。そしてそれをお目当ての人たちが早々と買物に出かけてくるのである。日中は他所からも大勢の人たちが買物にやってくるという盛況だ。

  

左:早朝の市場の様子。暗いうちから生産者の思いをこめた様々な農産物が並ぶ。右:愛宕柿。巨大な柿が7個も入ってたったの300円。安い!

さっそく行って見ると、巨大なあたご柿が驚くほど安い値段で売られているのが気を引いた。渋柿を手に入れて干し柿を作りたいというのが我々の毎年の願いなのだが、関東では渋柿は殆ど手に入らない。それなのにここには無造作に並べられているのである。旅の途中でなければ、100個ぐらいは買い求めてゆきたいのだが、残念ながら今買っても、家に着くまでに時間がかかりすぎて、柿はダメになってしまう。これは諦めて手作りの、固めで大型の豆腐と野菜などをゲットした。とにかく早朝から車の出入りが激しいので、いつまでもここにのんびり構えているわけにはゆかない。朝食の後、内子の町並みの見学のために直ぐに出発する。

町役場の駐車場に車を入れようと思ったが、駐車区画のスペースが狭いので諦めて高昌寺というお寺の駐車場へ行ってSUN号をとめる。お寺に参詣した後、古い町並みの残る道を歩く。内子といえば、ここ出身のノーベル賞作家、大江健三郎氏が有名だが、拓はこの人の作品は難しすぎて読む気がしない。ノーベル賞受賞後の記念講演記録の「あいまいな日本と私」というのを読んだが、何だか日本のことを馬鹿にしているような気がして、途中で読むのをやめた。ま、そのことと内子町とは無関係な話である。

内子に何故古い町並みが残っているのかは知らないけど、その昔ここは和紙や木蝋の生産地として栄えていたとか。またこんぴら参詣や四国巡礼の宿場町としても要路にあったらしい。そのようなことが案内板に書かれていた。500mほどの古い町並みをゆっくり歩いて散策した。

   

内子の町並みの景観。大正・昭和の初期といった雰囲気と面影が残っている。タイムスリップした感じだ。

ここにある内子座という芝居小屋が有名である。内子座は、大正天皇即位の大典を記念して1,916(大正5年)に建てられたものだという。今日は芝居の興行は行なわれていなかったが、300円也を払って、中に入って古い建物の中を隈なく覗いてみた。

  

左は内子座の入口の景観。右は館内の観客席廊下の隅にある往時からの広告板。自転車屋さんの宣伝用のものらしい。

二階の観客席の壁板には、大正時代か昭和の初め頃なのか、幾つかの昔の広告板がそのまま掲げられていた。舞台にも上がってみたが、役者というのはこのような狭い空間で、身体を使っての様々な表現にチャレンジするものなのだなと思った。舞台下の奈落にも下りてゆき、あちこちと覗いて廻ったが、回り舞台なのか、せり舞台なのか、木製の仕掛けが工夫されて造られていた。このような建物だけではなく、芝居の上演を見なければ内子座の本当の姿は分からないのだろうけど、それほど芝居を見たいという願望はないので、これだけ覗き回れば拓としては十二分満足だった。

内子座を見た後は、再び来た道を戻ることにした。邦子どのは途中から別行動なのでどこにいるのか分からない。ぶらぶら歩いて、魚屋の前で中を覗いていると邦子どのがやってきた。見たことが無い「まる寿司」というのが店頭に並べられており、それが気になって覗いていたのである。

   

店に並べられた丸寿司。アジとサバの2種類あって、いずれもシャリの代わりにオカラが使われている。

邦子どのも興味を覚えたらしく、とにかくそれを買うことにした。店のオバサンの話では内子の名物だとか。後で食べてみたら、何とこの寿司は、米ではなくおからを握ったものに鯖や鯵を巻いて作られていた。なかなかの珍味だった。邦子どのは、ガイド誌で知ったというジャンボ稲荷という奴をどこかで仕入れて来ていた。11時少し前に車に戻り、一息入れて高知方面に向かって出発。

今日は移動日を予定している。明日の夕方には、さぬき市にある道の駅「津田の松原」に行くつもりなので、今日は高知市街を通り抜け、その先のどこか適当な道の駅にでも泊ろうと考えている。先ずは、R380経由で高知に向うメイン国道のR33に入るべく出発。R380は山の中を走っているので、これまた途中からが心配だ。しかし高知に向かうには、この道を選択せざるを得ない。(続く)

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第16日)その2

2008-11-29 03:07:01 | くるま旅くらしの話

出発して30分ほど走ると、道の駅「小田の郷せせらぎ」というのがあった。昼飯には少し早い時間だったが、お茶を沸かしてお昼にすることにした。先ほどのまる寿司、それにジャンボ稲荷を食したが、どちらもGood !! だった。素朴な味わいは今の時代では貴重感を増している。   

今日の昼食メニュー。朝、市場で買った木綿豆腐とジャンボいなり寿司。豆腐の冷奴は拓の大好物で、これがあればご飯はいらない。

昼食休憩の後は、本格的な山道に入る。やはり予想していたとおり、かなり厳しい細道となったが、どうにか無事にR33に入ることが出来た。R33は、その数字から行ってもメイン国道を表しており、どんな山道でも離合困難などという箇所はある筈がない。久万町(現在は久万高原町)から先の道路は、どのような山の中でも心配は無用であろう。少し行って道の駅「みかわ」というのにちょっと寄ってみたが、ここには印象に残るようなものは、何も無かった。

その後は、「松山街道」と呼ばれるR33のかなり厳しい山道を、仁淀川支流の面河(おもご)川に沿って、幾つかのダムを見ながらひたすら走る。1時間半ほど走って、伊野町(現在はいの町)にある道の駅「土佐和紙工芸村」に寄って見ようと、左折してR194に入る。土佐和紙のことは良く知らないが、昔四国に住んでいた時に邦子どのが土佐面と呼ばれる和紙で作ったお面(おかめとひょっとこ一対)を買ったのが、今でも残っており、30年以上の時間が経って、今はなかなか渋い作品になっている。あれは、この辺りで作られたのだろうか?邦子どのには、この道の駅はかなり関心があるらしい。山の中だけど、仁淀川の広い流域を感じさせる場所にその道の駅はあって、和紙に関わる資料館や入浴施設なども設けられていた。拓がトイレに行っている間に、邦子どのはあっという間に何処かへ消えてしまった。入浴施設があるというので、それを覗きに行ってみたが、複雑な通路で入口がなかなか判らなかった。こりゃあ余程風呂に飢えている時でないと入る気にはなれないな、などと思いながら外に出た。目ぼしいものは何も無いので、早く出発しようとしたが、邦子どのがなかなか戻って来ないのでイライラした。

それから20分ほど経ってようやく戻ってきた。少し離れた場所で、織物教室のようなものが開かれていたらしく、そこに掴(つかま)ったらしい。彼女はどういうわけなのかこの頃は織物に取り付かれているので、文句を言うのは控えることにした。今度来た時は、ここに2、3日泊って織物の勉強をしたいようなことを言っていた。その時には、拓は向いの仁淀川に降りて行って、川釣りでもすることにしよう。道の駅に小1時間ほど滞在してしまい、時刻は15時半を過ぎていた。暗くならない内に高知の市街をパスしようと思う。

R33に戻ってしばらく走ると、高知市が近くなり、路面電車が並行して走るエリアに入った。高知では未だ路面電車が走っていたのかと嬉しくなる。四国では高知だけなのだろうか。松山では気付かなかった。高松や徳島では、もう随分前から走っていない。車の走行には邪魔のように思うけど、電車から見れば車が邪魔なのは明らかだ。拓としては電車の主張を尊重する立場である。しばらく路面電車と前後しながら市街地を走り、かの有名な「はりまや橋」(といっても今はその名残りがあるだけで川など無くなっている)を過ぎて、いつの間にかR32へ。これは徳島県の池田の方へ向う国道である。

   

高知市街を走る路面電車。市民の足として何時までも走っていて欲しい。

途中つたやという本屋があったので、雑誌「キャンピングカースタイル」が入ってないかと立ち寄る。あった、あった。さっそく買って見てみると「くるま旅くらし心得帖」がニューストピックスの欄に紹介されていた。それだけでなく、先日のお台場のイベント、「くるま旅パラダイス」でのお立ち台で自著を案内した時の拓の写真まで載っているではないか。ありがたいことだと改めてお礼申し上げたい。邦子どのは、本屋の人に拓の著書の取り寄せ販売をお願いしていたが、協力して頂けるということで、これまた嬉しく思った。

外に出るともうかなり暗くなり出している。近くの南国市にも道の駅があるが、もう少し欲張ってR32を走り大豊町にある道の駅:大杉で泊ろうかと考える。真っ暗になった中を走ってその道の駅に着いてみると、以前と同じように駐車場もその他の施設、設備も宿泊には向いていないのが分かった。メイン国道沿いで車の往来が激しく、駐車場もそこいらのドライブイン以下の狭さだ。どうやらここはトイレ休憩の場所のようだ。少しは良くなっているかなと期待して来たのだが、それは空しかった。斯くなる上は、先へ行くしかない。それならば貞光町(今はつるぎ町)にある道の駅を目指すことにした。

真っ暗なので判らないが、30数年前、初めてこの道を高松から高知へ向って通った時のことを思い出す。近くに大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)という吉野川上流の渓谷があって、そこは山襞(ひだ)を深く切り込んで、蒼い清流が流れているのだが、その両側は、昔は人間が近くを通るのを拒んでいると思われるほどの切り立った崖になっており、たいへん危険な道であったらしい。それでこのような名が付いたようだ。ボケなんぞとは全く無関係の厳しい山の自然環境である。今は渓谷を下に見ながら国道が走っているが、初めてここを通った時は夜で、勿論下を流れる渓谷は全く見えなかったのだが、雨が降り出しそうな天気なのに、車のフロントガラスの上の方には、まるで星が輝いているように幾つもの光が点灯しているのが見えた。どういうことなのだろうと驚いたのだが、後で分かったのは、そのような山の中腹にも民家が点在していて、その灯が星のように見えたのだった。よくもまあこのような所に住んでいるものだなあと、東京から来たばかりの拓には、まさに想像を絶する世界だった。その後祖谷渓を訪ねる機会があり、平家の落ち武者であると聞いたが、そこはこの辺りよりも更に深い山奥なのに、人が住んでいることに又々驚かされたのであった。今日もその時と同じように天空に民家の灯が輝いているのが見えた。

大杉からは思いのほか距離があって、高校野球の一時代をつくった、かの今は亡き蔦監督率いる池田高のある池田町(現在は三好市)に出た頃は19時を過ぎていて、まるで深夜の様相であった。給油の後30分ほど走って道の駅「貞光ゆうゆう館」に到着。道路の裏側にも駐車場があったので、騒音を避けるためにも、そちらの方にSUN号を停め泊らせて貰うことにする。直ぐ近くに夜間照明の完備したテニスコートがあり、クラブ活動の高校生らしい人たちが大勢練習をしていた。もう19時半を過ぎている。いつまでやるのかなと少し心配になったが、20時になると一斉に引き上げて、急に静かになった。内子でゲットした豆腐などを食べながら、一杯やって今日の移動はこれで終り、間もなく眠りの世界へ。

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