花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

‘on demand’化と自分探し

2006-09-17 22:44:55 | Weblog
 9/15付け朝日新聞夕刊の連載小説「悪人」(吉田修一)に次のような文章があった。ドライブをしている男女の男の方が、助手席に座る女性について心の中で語る言葉である。「本当の自分は・・・、本当の自分は・・・、というのが口癖で、三年も働けば、思い描いていた本当の自分が、実は本当の自分なんかじゃなかったことにやっと気がつく。(中略)、いつしか仲良しグループを作っては、誰かの悪口。自分では気づいていないが、仲間だけで身を寄せ合って、気に入らない誰かの悪口を言っているその姿は、中学、高校、短大と、ずっと過ごしてきた自分の姿とまるで同じ。」 今とは違う自分が本当の自分と思い続けても、結局、いつになっても自分の中身は薄っぺらいままで何も変わっていない、となかなか手厳しい言葉だ。小説の話は一先ず離れて、今とは違う本当の自分を追い求める、所謂「自分探し」について考えてみたい。先日のブログで、欲求をお手軽に満たしてくれる‘on demand’化に慣れきってしまうと、内なる要求の実現を図るよりも、だんだん、自分の好みに合ったものを見つけることが自己実現であると思うようになる、と述べた。「自分探し」は、この‘on demand’化と関係があるように思う。‘on demand’化では、欲求の実現に向かうプロセスよりも、手っ取り早くもたらされる結果が重視される。(と言うよりも、結果のみに執着する傾向が、‘on demand’化の推進力である) おそらく、自分が何者かを知るのに大切なことは、‘on demand’化で困難になった自分との対話であろう。自分の望む目的のために試行錯誤しながら、ある時は自分の力量を図りつつ、またある時は自分に足りない部分を補う努力をしつつ、そして時には目標の再設定を自分に言い聞かせたり、そんな自己との対話を通じて、ひとは己の姿を見極めていくのであろう。ところが、プロセスを軽視する‘on demand’化のもとでは、自己との対話はとりづらく、等身大の自分が見えにくくなってしまう。また、‘on demand’化した状況では、消費者が主役である。ややもすると、自分を見つめることをしないまま、夢のような明日がいつか来る、と思い込まされかねない。ひょっとすると、「自分探し」自体が、‘on demand’の受け皿となる新たな役作りのひとつなのかもしれない。小説の展開とは全く違ったところで、そんなことを考えてしまった。

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