年の瀬も押し迫った昨日、大掃除で古新聞を片付けている時、たまたまパラパラとめくっていると、今年の11月に亡くなったフランスの文化人類学者・レビストロース氏の追悼記事が目に入りました。社会学者・橋爪大三郎氏のよる追悼記事で、レビストロース氏の業績を、「(植民地の)現地の人々がどんなに素朴に見えたとしても、人間として西欧社会に匹敵する価値や意味を生きているのだ、という事実を学問的に証明することに一生をささげた。こうして人類学は西欧中心主義を脱却し、人類の普遍の文化を分析する学問に生まれ変わった」(2009年11月5日付け・朝日新聞夕刊)、と評価しています。
その昔、政治学者・丸山眞男氏は、次のようなことを述べています。「人類は遠い所にあるのでなく、隣にすわっている人が同時に人類なのだ。そういうふうに同時に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍になるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。」(岩波書店刊・丸山眞男集 第16巻 「普遍の意識欠く日本の思想」より)
両先達は分野こそ違え、その考え方は重なっていると思います。要するに、私たちひとりひとりは個別的であるとともに、普遍たりうるということであり、普遍たりうるためには意識的でなくてはならないということです。とりあえず、わが身に照らしてみれば、せこい物差しで一喜一憂したりせず、大きな物差しでものを計ることを心がけよ、ということでしょう。そして、大きな物差しを使えるようになるには、もっともっとずっとずっと勉強していくことが不可欠です。晦日の夕暮れ、新聞を手にそんなことを思いながら、また掃除に取り掛かりました。
その昔、政治学者・丸山眞男氏は、次のようなことを述べています。「人類は遠い所にあるのでなく、隣にすわっている人が同時に人類なのだ。そういうふうに同時に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍になるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。」(岩波書店刊・丸山眞男集 第16巻 「普遍の意識欠く日本の思想」より)
両先達は分野こそ違え、その考え方は重なっていると思います。要するに、私たちひとりひとりは個別的であるとともに、普遍たりうるということであり、普遍たりうるためには意識的でなくてはならないということです。とりあえず、わが身に照らしてみれば、せこい物差しで一喜一憂したりせず、大きな物差しでものを計ることを心がけよ、ということでしょう。そして、大きな物差しを使えるようになるには、もっともっとずっとずっと勉強していくことが不可欠です。晦日の夕暮れ、新聞を手にそんなことを思いながら、また掃除に取り掛かりました。
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