花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

空気を読めば息苦しい

2019-03-18 21:19:42 | Weblog
 内田百閒は昭和二十年八月六日の日記で、他人の目の煩さを嘆いています。「本当の夏らしき暑さになつたから今日から夏服に著かへる。きびら色にて真白ではないが小型機の来襲にそなへて白い物は著るなと新聞などで頻りに云つてゐるので小型機は構はぬとしても行人や電車の相客の目が五月蠅いから成る可くよさうと思つたけれど外に無いのだから止むを得ない。構はずに著て歩く事にせり。当の相手の事は構はぬけれど、こちらの側の仲間の目が五月蠅いから、口が八釜敷いから、と云う気兼ねは満州事変日支事変以来の普通の感情なり。こんな事がどれ丈日本人を意気地無しにしたか解らない。」(「東京焼盡」中公文庫)
 大勢に順応することや空気を読めと強いる無言の圧力は今に始まったことではないようです。もしかすると、起源を国家総動員体制に遡るか、あるいは国家総動員体制によってより先鋭的に表れるようになったのかもしれません。敗色濃い総力戦のもたらす閉塞感が漂う世情のもと、人の目が内側を向きがちになり同調圧力を高め、それがまた閉塞感を増長させるように思えます。百閒先生が感じた意気地無しとは、五月蠅い目、八釜敷い口を持った意気地無しと、その目や口に気兼ねする意気地無しの二通りがあります。空気を読めと言う方も、言われる方も、要は双方とも右顧左眄している意気地無しに変わりはないと言えるでしょう。

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