花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

はなのいのち (前編)

2006-03-07 21:35:45 | Weblog
 荒川静香の金メダルの余韻が依然として残っている。いや、まだ余韻とは言えない程の熱狂ぶりである。TVをつけても、新聞の雑誌広告を見ても「荒川静香」の名前がない日はない。もちろん、快挙だし、ブラボーだし、すげぇーことなのは間違いない。異論もないし異存もない。
 ここでは少し目線を変えて、スポットライトを浴びる人が現れた時、その扱われ方に共通の構図があることを述べたい。扱われ方は4つのフェーズに分けられる。第1フェーズは賞賛期である。荒川静香で言えば、当然金メダルをとったことに注目が集まり、彼女のトリノでのスケーティングの素晴らしさや、これまでの業績、功績が取り上げられる。話題の中心は荒川静香のフィギュアスケート、あるいはスケーター・荒川静香である。
 続く第2フェーズは、取り上げられるネタが本人の中心軸から少しずつズレていく周辺情報期である。金メダルをとった時の舞台裏であるとか、幼少の頃の話、○○秘話といった類に焦点が移っていく。また時の人ともなればいろいろな所に呼ばれるので、どこへ行っただの、何を喋っただのが逐一報じられる。プライベートなこともどんどんほじくり返されてしまう。汲めども尽きないネタの宝庫のような人はそうそう居ないので、取り上げられるネタがだんだん瑣末なことに及んでくる。このあたりから少しずつ、観客が飽き始めてくる。さらには、情報化社会の次の一面が追い討ちをかける。2/14付け朝日新聞夕刊の文化欄で、メディアの多様化の一方で情報や意識は画一化に向かっていると書いてあったが、このような画一的な報道とその受容が、ネタの瑣末化と相まって、ある時点から人々は「つまんなくなった」と思い始める。ここまでが第2フェーズである。(つづく)