未唯への手紙
未唯への手紙
地理 歴史 ★アラブの起源と拡大★
『現代アラブを知るための56章』より
アラビア半島は、不思議なところである。およそ2500万年前、アフリカ東部からョルダン渓谷(死海)にかけてアフリカ大地溝帯が生じた。この地球の大きな裂け目の一部に海水が流入して形成されたのが紅海であり、これによりアラビア半島はアフリカ大陸から分離された。それは世界最大の半島であり、その大半をサハラ砂漠に次ぐ世界第2位の面積を持つアラビア砂漠が覆っている。大地溝帯は今もその裂け目を広げ、半島全体は年2ミリの速度で東へ移動している。推定1000万年後にはホルムズ海峡がふさがって、ペルシャ湾は湖になるといわれている。
このアラビア半島で、アラブは生まれた。「アラブ」という言葉は、紀元前9世紀のアッシリア碑文に初めて登場する。アッシリア王の戦勝記録に「軍へのラクダ提供者」として記されているため、アラブとはシリアからアラビア半島北部にかけての「砂漠の遊牧民(ベドウィン)」という意味になる。その後、古代のギリシャ語文献などでは、ベドウィンに限らない「アラビア半島の住民」に対する総称となる。当初はこのような他称であったが、やがてアラブは半島住民の自称となっていく。
これを背景に、アラブとはまず「遊牧民」であるとされる。遊牧民はアラビア語でバドゥ(ベドウィンの単数形)であり、これと対照をなす言葉に都市住民を意味するハダルがある。ハダルもまた後述するようにアラブであるのだが、ハダルにとってバドゥはアンビヴァレントな関係にある。バドゥが「純粋なアラブ」「アラブのなかのアラブ」という積極的な意味で用いられるとき、それはハダルにとっても憧れや誇りの存在となる。だが、逆にハダルが「文明化されたアラブ」とされる場合バドゥはハダルにとって「野蛮」な存在となる。
アラブにかかわるもうひとつの対照語に、アジャムがある。アジャムとは「非アラブ人」を指す言葉だが、そこには「アラビア語ではない言葉を話す者」という意味がある。アラブ人に限らず民族の定義は押しなべて困難であるが、アラブとアジャムという対照関係からすれば、アラブとは「アラビア語を話す者」という意味となり、上記のバドゥもハダルもこれに含まれる。「アラビア語」という言葉が、アラブ人の自己規定にとって最も重要な要因であることは疑いない。
しかし、古代のアラビア半島ではアラム語やサバ語など、多くのセム系諸言語が用いられており、アラビア語はそのひとつに過ぎなかった。これらさまざまなセム系諸言語のなかで、アラビア語が突出して優位に立ち半島の共通言語となるのは、7世紀におけるイスラームの成立を契機としている。周知のようにアラビア語は「コーランの言葉」であり、半島でのイスラームヘの改宗は、他のセム系諸言語を用いていた人々を急速に「アラビア語を話すアラブ」としていった。それゆえ、多くのアラブ人キリスト教徒などが存在するにしても、やはりイスラームはアラブの規定要因として大きな影響力を持つこととなる。
そして、このアラビア語化に伴うアラブの拡大はアラビア半島にとどまらない。同じ7世紀から始まる「アラブの大征服」は、現在の中東地域一帯のイスラーム化、アラブ化をもたらした。もちろん改宗とは異なり、アラビア語化には長い年月がかかる。たとえば、エジプトでアラビア語が日常的に用いられるようになったのは、11世紀ともいわれている。また、イランやクルド、ベルベルなど、イスラーム化のなかでアラビア語化か生じなかった地域ももちろんある。各地での経緯はさまざまであるにしても、アラビア語化した住民はアラブ人となって、現在の中東内外におけるアラブ人につながっていく。
さらに、アラブの規定要因としてはずすことのできないものに「系譜」がある。これは、旧約聖書に記された人類の歴史とアラブの祖先とが、結びつけられていることを意味する。中東では一般に、「方舟」で知られるノアの長男であるセムが、アラブ人とユダヤ人の祖先であると考えられている。セムの子孫であるカフターンは、南アラブ(カフターン・アラブ)の祖先。カフターンの兄弟の子孫にユダヤ教最初の預言者アブラハムがおり、その長男で追放されるイシュマエルの子孫であるアドナーンが、北アラブ(アドナーン・アラブ)の祖先。アブラハムの二男イサクが、ユダヤ人の祖先とされる。現在のアラビア語は、北アラブが用いていた北アラビア語であり、イスラームの預言者ム(ンマドが生まれたメッカやその一帯に分布していた。現在のイエメンを中心とする地域で南アラブが用いていた南アラビア語(既述したセム系諸言語の一部)は、イスラームの成立以降に消滅し、南北のアラブはひとつとなっていく。
旧約聖書に民族の起源を求めることの背景には、アラブ諸部族の系譜が大きく関係している。部族はその紐帯を成員間の共通の祖先に求めているが、アラブの諸部族はその祖先をカフターンやアドナーンまでつなげ始める。その作業は「アラブの系譜学」としてイスラームの成立以降の学問ともなり、アッバース朝中期(9世紀)にはその基本的な体系が完成された。その後も各地で系譜学の作業は続き、征服後にアラブ化した諸部族も含めて、彼らの系譜はセムまで連なるより壮大な伝説的系譜に収斂された。
以上の「遊牧民」「アラビア語」「イスラーム」「系譜」は、いわばアラブにかかわる説明の最大公約数的なものである。しかし、これらだけでは「現代アラブ」の説明にはならない。なぜならば、現代のアラブは近代に入って初めて現れた、「国家の構成主体としての民族」と位置づけられているからである。それは、ナショナリズムや近代的なアイデンティティそのものであり、新たな「アラブ人」の出現であった。
アラビア半島は、不思議なところである。およそ2500万年前、アフリカ東部からョルダン渓谷(死海)にかけてアフリカ大地溝帯が生じた。この地球の大きな裂け目の一部に海水が流入して形成されたのが紅海であり、これによりアラビア半島はアフリカ大陸から分離された。それは世界最大の半島であり、その大半をサハラ砂漠に次ぐ世界第2位の面積を持つアラビア砂漠が覆っている。大地溝帯は今もその裂け目を広げ、半島全体は年2ミリの速度で東へ移動している。推定1000万年後にはホルムズ海峡がふさがって、ペルシャ湾は湖になるといわれている。
このアラビア半島で、アラブは生まれた。「アラブ」という言葉は、紀元前9世紀のアッシリア碑文に初めて登場する。アッシリア王の戦勝記録に「軍へのラクダ提供者」として記されているため、アラブとはシリアからアラビア半島北部にかけての「砂漠の遊牧民(ベドウィン)」という意味になる。その後、古代のギリシャ語文献などでは、ベドウィンに限らない「アラビア半島の住民」に対する総称となる。当初はこのような他称であったが、やがてアラブは半島住民の自称となっていく。
これを背景に、アラブとはまず「遊牧民」であるとされる。遊牧民はアラビア語でバドゥ(ベドウィンの単数形)であり、これと対照をなす言葉に都市住民を意味するハダルがある。ハダルもまた後述するようにアラブであるのだが、ハダルにとってバドゥはアンビヴァレントな関係にある。バドゥが「純粋なアラブ」「アラブのなかのアラブ」という積極的な意味で用いられるとき、それはハダルにとっても憧れや誇りの存在となる。だが、逆にハダルが「文明化されたアラブ」とされる場合バドゥはハダルにとって「野蛮」な存在となる。
アラブにかかわるもうひとつの対照語に、アジャムがある。アジャムとは「非アラブ人」を指す言葉だが、そこには「アラビア語ではない言葉を話す者」という意味がある。アラブ人に限らず民族の定義は押しなべて困難であるが、アラブとアジャムという対照関係からすれば、アラブとは「アラビア語を話す者」という意味となり、上記のバドゥもハダルもこれに含まれる。「アラビア語」という言葉が、アラブ人の自己規定にとって最も重要な要因であることは疑いない。
しかし、古代のアラビア半島ではアラム語やサバ語など、多くのセム系諸言語が用いられており、アラビア語はそのひとつに過ぎなかった。これらさまざまなセム系諸言語のなかで、アラビア語が突出して優位に立ち半島の共通言語となるのは、7世紀におけるイスラームの成立を契機としている。周知のようにアラビア語は「コーランの言葉」であり、半島でのイスラームヘの改宗は、他のセム系諸言語を用いていた人々を急速に「アラビア語を話すアラブ」としていった。それゆえ、多くのアラブ人キリスト教徒などが存在するにしても、やはりイスラームはアラブの規定要因として大きな影響力を持つこととなる。
そして、このアラビア語化に伴うアラブの拡大はアラビア半島にとどまらない。同じ7世紀から始まる「アラブの大征服」は、現在の中東地域一帯のイスラーム化、アラブ化をもたらした。もちろん改宗とは異なり、アラビア語化には長い年月がかかる。たとえば、エジプトでアラビア語が日常的に用いられるようになったのは、11世紀ともいわれている。また、イランやクルド、ベルベルなど、イスラーム化のなかでアラビア語化か生じなかった地域ももちろんある。各地での経緯はさまざまであるにしても、アラビア語化した住民はアラブ人となって、現在の中東内外におけるアラブ人につながっていく。
さらに、アラブの規定要因としてはずすことのできないものに「系譜」がある。これは、旧約聖書に記された人類の歴史とアラブの祖先とが、結びつけられていることを意味する。中東では一般に、「方舟」で知られるノアの長男であるセムが、アラブ人とユダヤ人の祖先であると考えられている。セムの子孫であるカフターンは、南アラブ(カフターン・アラブ)の祖先。カフターンの兄弟の子孫にユダヤ教最初の預言者アブラハムがおり、その長男で追放されるイシュマエルの子孫であるアドナーンが、北アラブ(アドナーン・アラブ)の祖先。アブラハムの二男イサクが、ユダヤ人の祖先とされる。現在のアラビア語は、北アラブが用いていた北アラビア語であり、イスラームの預言者ム(ンマドが生まれたメッカやその一帯に分布していた。現在のイエメンを中心とする地域で南アラブが用いていた南アラビア語(既述したセム系諸言語の一部)は、イスラームの成立以降に消滅し、南北のアラブはひとつとなっていく。
旧約聖書に民族の起源を求めることの背景には、アラブ諸部族の系譜が大きく関係している。部族はその紐帯を成員間の共通の祖先に求めているが、アラブの諸部族はその祖先をカフターンやアドナーンまでつなげ始める。その作業は「アラブの系譜学」としてイスラームの成立以降の学問ともなり、アッバース朝中期(9世紀)にはその基本的な体系が完成された。その後も各地で系譜学の作業は続き、征服後にアラブ化した諸部族も含めて、彼らの系譜はセムまで連なるより壮大な伝説的系譜に収斂された。
以上の「遊牧民」「アラビア語」「イスラーム」「系譜」は、いわばアラブにかかわる説明の最大公約数的なものである。しかし、これらだけでは「現代アラブ」の説明にはならない。なぜならば、現代のアラブは近代に入って初めて現れた、「国家の構成主体としての民族」と位置づけられているからである。それは、ナショナリズムや近代的なアイデンティティそのものであり、新たな「アラブ人」の出現であった。
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言葉にする
パートナーの相談
パートナーとは、4時半から6時半まで、相談にのっていた。といっても、考えとか、表現をまとめることのフィルターの役割をしていた。私には有意義な時間です。
パートナーの中では、ロジックが決まっているから、それを書くためのプロセスです。これこそは、自分の為です。本当は、すべての制約を外して書きたいけど、それは口頭で言うつもりです。苦労しますね。
相談に乗りながら、実は自分自身の内側の世界を作り出したというのが実体です。今までも、そういうカタチでやってきた。パートナーの発想は刺激的です。絶対的な存在である限りは、決して、否定はしません。
言葉にする
自分がどう思っていて、どうまとめたいのか。それを言葉にすることです。考え方さえまとまれば、覚悟を決めれば、答えは出ます。
そして、答えはいくつもあります。自分が役割を意識しているかどうかです。皆と問題意識を合わせることも必要になるから、組織と言うのは面倒ですね。
私の場合は、デカルトのように、自分一人で作ったものの美しさを追求したから、その悩みはなかった。数学者は皆、美しさを評価基準とします。他人の評価はどうでもいい。
問題解決は、2つ上ぐらいから見ないとダメです。そういう点で、問題解決できる人間がパートナーの近くに居ない。皆、一つ下ぐらいで、押し込みを掛けます。
パートナーとは、4時半から6時半まで、相談にのっていた。といっても、考えとか、表現をまとめることのフィルターの役割をしていた。私には有意義な時間です。
パートナーの中では、ロジックが決まっているから、それを書くためのプロセスです。これこそは、自分の為です。本当は、すべての制約を外して書きたいけど、それは口頭で言うつもりです。苦労しますね。
相談に乗りながら、実は自分自身の内側の世界を作り出したというのが実体です。今までも、そういうカタチでやってきた。パートナーの発想は刺激的です。絶対的な存在である限りは、決して、否定はしません。
言葉にする
自分がどう思っていて、どうまとめたいのか。それを言葉にすることです。考え方さえまとまれば、覚悟を決めれば、答えは出ます。
そして、答えはいくつもあります。自分が役割を意識しているかどうかです。皆と問題意識を合わせることも必要になるから、組織と言うのは面倒ですね。
私の場合は、デカルトのように、自分一人で作ったものの美しさを追求したから、その悩みはなかった。数学者は皆、美しさを評価基準とします。他人の評価はどうでもいい。
問題解決は、2つ上ぐらいから見ないとダメです。そういう点で、問題解決できる人間がパートナーの近くに居ない。皆、一つ下ぐらいで、押し込みを掛けます。
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