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スペイン--内戦から市民社会へ

『流動化する民主主義』より スペイン--内戦から市民社会へ

西側の自由社会はポスト全体主義の時代にあり、グローバル化と(部分的な)規制緩和、民営化に特徴づけられた市場経済、そして今までのところ繁栄の巨大な波のなかで生きることを学習している。福祉改革や管理され、国家とコーポラティズム的諸制度に強く影響されたある種の資本主義の崩壊はこの学習過程の一部であると言える。多くの国の国民が福祉国家と「管理された資本主義」における共同協定を第二次大戦後の繁栄および安定と結びつけて考えてきた。これらなしで生きることを学ぶとしても、それらの欠落による不安の感情から逃れることはできない。理解できることだが、この不安に動揺した人々は成り行きを劇的に表現し、社会構造が四分五裂し、過去の社会的妥協が見直されるのを目のあたりにするなかで社会的結合が縮小していると考える傾向にある。これらの妥協をつくり出した政党や労働組合、その他の職業組織、そして教会がそれらを維持する意思と能力を失ってしまったのは何故かと問うとき、そしてこれらの公式的な結社に対する人々の無関心がその理由の一つとして指摘されるとき、人々は「社会関係資本の縮小」といったフレーズの中にその不安の適切な表明を見出すのである。

しかしながら、この不安を相対的に同質的な全ヨーロッパ規模、そして全世界規模の社会経済秩序へ向けた長い移行の生みの苦しみであると考え、したがってより肯定的な態度をとるもうひとつの見方が存在する。もし、我々が新たな結社の形に着目し、もしくは古い結社に新たな装いを与えることによって、いかに適応するかを学び、また、もし我々が連帯を再定義するための機会であるととらえるならば、市場経済の拡大を(それに伴う疎外とフェティシズムヘの否定的な含意を伴った)世界の商品化の圧倒的なプロセスと見る代わりに、我々はそれを自由の秩序へ向けた一歩であり、それに伴う社会的結合のかたちであると考えることができるかもしれない。

そのような実際の適応の過程は国ごとに、そして固有の伝統のなかで発生しているド例えば西ヨーロッパでは、過去百年にわたるリベラル〈アングロ・サクソン)、社会民主主義(スカンジナビア)そしてキリスト教民主主義(大陸)のそれぞれの福祉システムの伝統のなかで起こっているのである。フリッツ・シャルプが示唆するように、様々な国の政策の遺産やローカルな制度的(そして文化的)制約によって、ヨーロッパの福祉システムを国際的な生産および資本市場(ときには労働市場を付け加えることができるかもしれない)に適合させるという問題には多様な解決の仕方がある。しかしながら、同時に、それぞれの国は他の国の経験から学ぶことができ、他の国で成功したように見えたものを試してみたり、いくつかの伝統の要素を組み合わせてみたり、複合型の制度と起こるであろうことに対する複雑な正当化に終わることもあるであろう。したがって一度ある解決策がある国で見つけられると、文化的な拡散によって他の国に伝わり、ローカルな道徳言説に翻訳され、ローカルな状況に合わせて調整される。そのような多様性の結果は種類の収斂と両立するものであろう。

この過程は、多様な形態の連帯と関連して、異なったタイプの社会関係資本を明確に区別する、そして現代社会における社会的統合という古典的な問題とのこの理論の関連をも検討する、社会関係資本の理論の発展と結びついている。このことが、市民的な社会関係資本と非市民的な社会関係資本との間の区別を強調すること、さらにその作業を市民社会の理論を参照しつつ行うことによって、この章で試みようとしていることである。

筆者はある社会がいくつかの歴史的ステージを経るなかで、各種の社会関係資本がその正反対のものへと変容していく過程に関心を抱いている。スペインは、とりわけ内戦時代から、権威主義体験ののち自由民主主義へといたっている。私はとりわけパットナムの規範と協力のネットワークと信頼感への着目がスペインの事例において有用であると感じている。しかし、私は社会関係資本(および狭義の意昧での市民社会)に関する文献のなかでネットワークを公式的な結社の社会的組織に還元するような、またアンケートへの回答における(人間関係および組織間における)信頼もしくはその欠如の表明を社会関係資本の道徳的次元の評価とするような一般的傾向には不満を持っている。対照的に、ネットワークという語の幅広いコンセプトは筆者が呼ぶところのゆるやかな形の社会性(家族や家族を中心としたネットワーク、仲間集団、祝祭)を包括するものであろう。同様に、態度や価値観、規範などの潜在的な表現の具体化として実際の行動に筆者は関心を抱いている。同時に、いくつかのタイプの社会関係資本に付随する正当化の言説(道徳的理由づけや説明)を検討することが不可欠であると私は感じている。最後に、私はこの展開に経済や政治が果たす役割が注目されるべきであると考えている。
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電子書籍の本来の意味

パートナーの資料

 パートナーの資料はもっと、生かさないといけない。そこで分かったことをどのように展開していくのか。考え方をどう述べるのか。

電子書籍の本来の意味

 読み方が変わってくる。共同で読むことができる。その後のアクションに向けて、電子書籍を使ったいく。

 読んで、それで終わるのではなく、共通のデータベースになります。それと行動をつなげていけばいい。

 本、そのモノを単に個人の範囲だけではなく、行動のための対象にしてしまう。

 当然、テッド・ネルソンが考えたことを実現していけます。本の参照関係から、誰がどのように言って、それがどのように使われてきたのか、どう変わってきたのか。

 そうなると、本がある意味が違ってきます。新しい世界をどう開くのか。グーテンベルク以来考えたことが電子書籍でつながってきます。

 図書館だけでなく、本が公共のものになってきます。そうなってくると、シェアを先取りしている図書館の意味が出てきます。

 自分に関係しているか、関係していないかで本を選んでいるけど、関係していると言えば、全てが関係しているし、関係していないと言えば、全てが関係していないという状態では、小さなきっかけで新しい方にもってくればいい。そのための道具です。

 本だけでなく、その後背地まで含めて変わってきます。
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