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総力戦におけるアメリカの軍事戦略

『総力戦の時代』より

「アメリカ流の戦争方法」は、ラッセル・ウェイグリーによって一九七三年に生み出された論題であり、アメリカが南北戦争以来、殲滅もしくは消耗によって敵を打ち負かすための圧倒的な経済的、軍事的優位を達成するために、工業生産力と技術力を用いてきたと主張するものである。これはまた、いかなる交渉や妥協の余地をも排除し、敵の完全なる打倒を目指したものである。

ウェイグリーはベトナム戦争の最中にこの本を書いたのであったが、アメリ力流の戦争方法の将来的な有効性については、当時、イラクやアフガニスタンでの二度の経験を経た今日の我々と同様に悲観的であった。

しかしながら、一九四一年から四五年までは、日本に対して、このようなアメリカの自己不信が立ち入る余地はなかった。そこでは我々は、活力、暴力、驚くほどの技術革新とともに、アメリカ流の戦争方法が押しすすめられるのを目撃したのであった。かつていかなる強国も、第二次世界大戦の太平洋戦域ほどの巨大な規模の、複雑な「大洋戦」を戦ったことはなく、手強い相手に対してのそこでのアメリカの完勝は、当時として驚くべきものであったのと同時に、今日から振りかえってみても、驚くべきものである。

ヨーロッパと太平洋におけるアメリカの作戦行動を可能にした「生産の奇跡」については、広く言及されているので、ここでは要約するだけにとどめたい。戦時におけるアメリカの工業生産高がその頂点に達した一九三九年から四四年にかけて、アメリカのGDPは五五パーセント上昇し、GDPに対して軍事部門が占める割合は、一九三九年には一・四パーセントであったものが、四四年には四五パーセントにまで上昇した。兵器を製造するため、民生品部門-自動車や他の現代の便利な品々--は、戦時中抑制されていた。それにもかかわらず、戦争中経済の窮乏を耐え忍んでいた日本とは対照的に、なんとアメリカ人の生活水準は実際に上昇したのであった。

アメリカの第二次世界大戦中の支出の総計は二八八○億ドルである。この数字は現在の貨幣価値に換算すると三兆六〇〇〇億ドルである。インフレ率を調整した数字で見ると、この数字はニューディール政策の経費の八倍、朝鮮戦争の経費の九倍、ペトナム戦争の経費の五倍である。第二次世界大戦の間、アメリカは日本の一一倍の石炭、二二二倍の石油を産出し、一三倍の鋼鉄、四〇倍の砲弾を生産したのであった。

戦争の最初の年、アメリカは主力艦の四〇パーセントを失い、日本は三〇パーセントを失った。アメリカはその損失を素早く埋め、その後は拡充させた。日本は、戦争が続く間、最初の損失を埋め合わせることさえなかった。一九四〇年のアメリカ海軍の建艦割当だけで、日本海軍の過去一〇年分の建艦予算を上回るものであった。一九四三年に日本のドックで建造中の空母はわずか三隻であったが、アメリカでは二二隻が建造されていた。日本の航空機生産はアメリカの二〇パーセントにすぎなかった。一九四二年中、アメリカは四万九〇〇〇機の航空機を作ったが、日本はたったの九〇〇〇機であった。戦争の全期間に、アメリカは三二万五〇〇〇機の戦闘機を製造したが、日本は七万六〇〇〇機だけであった。

早くも一九四三年には、アメリカは、太平洋での戦争にその資源のわずか一五パーセントを費やすだけで、後に見るように、日本との戦争の形勢を逆転させることができた。統計上の数値だけでも、両国の経済力の甚だしい差を示している。この文脈において、戦前の日本海軍が「条約派」と「艦隊派」に分裂していたことを思い起こしてみると良い。「艦隊派」は一九二〇年代と三〇年代に、ワシントン会議での五カ国条約とロンドン海軍軍縮条約を破って、それ以上に建艦することを主張していた。「条約派」は、日本に認められた六〇パーセントの建艦比率を遵守することを主張していた。建艦比率を遵守することが、日本のような相対的に弱い国にとって、アメリカに対して何らかの競争力を維持する最善の道-唯一の道-であり、一度アメリカが圧倒的に優位な産業基盤を解き放ち、海軍の大規模な拡張に着手したならば、日本を易々と破綻させるであろう、と主張したのであった。

それでも、経済的、物質的優越が戦争の結果を左右したのではなかった。困難な闘いが雌雄を決したのである。山本五十六は、「米国海軍及米国民をして救う可からざる程度にその士気を胆喪せしむること是なり」として真珠湾攻撃を強く迫ったのであった。山本は、日本は戦場で勝つ必要はない、と主張したのだ。日本が目指す勝利は「ワシントンのホワイト(ウスでの降伏である。(中略)彼の国の今日の政治家たちは犠牲を払う覚悟ができていない」としていたのだ。日本人は、日本がアメリカに打ち勝つことは決してないであろうと想定したのと同時に、アメリカ--一九〇五年のロシアと同様に、アメリカはヨーロッパでの戦いと、太平洋を越えての長い進軍によって疲弊していた--が日本を打ち負かすことはなく、その代わりに、単に妥協するであろうと想定していたのであった。第二次世界大戦における枢軸国の多くの戦略上の誤算のなかでも、これは最悪の誤算であった。
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かんがえる

『発達心理学事典』より

「かんがえる」ということは、どういうことであろうか。この問いの答えを出そうとすること自体が「かんがえる」ことである。まず、フランスの古典哲学思想などから、「かんがえる」ということの意味をかんがえてみよう。

「我思う、ゆえに我あり」(ラテン語でCogito ergo sum)は、哲学者デカルトが「方法序説」などで述べたことばとされる。「私」というものの存在は、「かんがえる」ということと切り離してはありえないということを端的に示した力強いフレーズである。

「思う」と「考える」はあわせて「思考」という成語となっている。しかし、この二つは同義ではない。「わが子のことを思う」と、「わが子のことを考える」を比較すると、前者にはさまざまなめぐりゆく「行方定めぬ思考」が含まれるのに対して、後者は何らかの「結論を出す思考」という印象が強い。「この問題を考えなさい」は思考の結論(多くは正解)を求める表現として普通に使われるが、「この問題を思いなさい」は日本語の表現としてほとんど意味をなさないことからも、「思う」と「考える」の違いは理解できよう。

「人間は考える葦である」は、哲学者パスカルが遺稿集「パンセ」の中で用いた有名な表現である。実際のところ、「葦」という植物が現代の日本人にとってあまり身近ではないために、「考える葦」という表現にはさほど親しみが感じられないが、パスカルは「人間はひと茎の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と述べ、弱いけれども「考える」という強みをもった存在として人間を規定している。そして、人間の尊厳のすべては考えることにあり、よく考えることが道徳の根本原理であると言い切っている。

彫刻家ロダンが制作したブロンズ像『考える人』は、右ひじを左の太ももに置いて座る独特の姿勢とともに、日本人にも古くからよく知られている。東京・上野の国立西洋美術館の前庭にも置かれているこの像は、ロダンが装飾美術館の門を制作するとき、ダンテの『神曲』に着想を得て門を「地獄の門」と名づけ、当初はその門の頂上で詩想に耽っているダンテ自身を表そうとしたが、夢想が創造を生み出す力強い過程を表すように、より一般化されたものであるといわれている。

思考の発達過程を研究したスイスの思想家ピアジエは、このような「パンセ」を重視するフランス思想の伝統を受け継いでいるのである。

スイスのフランス語圏の地域で生まれたピアジエは、ヌーシャテル大学に学び、若くして軟体動物の研究で理学博士を取得した後、「発生的認識論」という壮大な理論体系を築こうとした。ピアジエの発生的認識論は、認識の系統発生を調べる科学史研究と、認識の個体発生を調べる認知発達研究の二本柱からなる。

認識の系統発生的研究の成果は、1950年に『発生的認識論序説』全3巻にまとめられ、第1巻「数学思想」、第2巻「物理学思想」、第3巻「生物学思想、心理学思想、および社会学思想」という構成である。認識の個体発生については、ビアジェらは、子どもとの問答的対話を通じて、言語・数・量・空間・論理性など幅広い広いテーマで数々の実証的研究を行い、思考の発達過程を明らかにした。

ピアジェの発生的認識論では、思考の発達は「シェマ」「同化」「調節」「均衡化」という概念を用いて説明される。シェマは認識の枠組みというような意味であり、生物はさまざまな活動を通じて外界から体内に物質・エネルギー・情報の取り入れ(同化)を行うと同時に、その取り入れ方のパターン(シェマ)を学習する。あるシェマで同化を繰り返していくうちに、シェマが有効でなくなるときがくると、シェマの修正やシェマの追加を行う必要が出てくる。このことを調節という。シェマの同化と調節は、絶えざる均衡化に向かう相互に補完的な活動である。
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メガネは読書に不要

やはり、メガネは不要

 今日散歩に出る時に、知らない間にメガネを掛けたまま、出掛けました。やはり、モノを読む時に不便です。いつものキンドル3台のバックだったので、取ったメガネを持って行き先がない。

多読

 読むことと、考えることとは違います。読むことは格闘技です。体力勝負です。考えるのは、想像力です。

 大量の意見を相手にする多読の仕方を整理させましょう。読書家に言わせると、多読は悪だと言われます。

 啓蒙家はたくさんの知識が必要なので、多くの本を読まねばならない。強靭な精神で、自分の思想体系に同化して、有機的に関連付けた全体を示す。増大する洞察の支配下に置くことができる。

 自分の頭で考える人は、建設的で、根源的なモノを取り扱うことになる。自分の考えを自らの表現にしていく。

数学の世界

 数学の世界では、私たちは、肉体的な精神であり、重さもなければ、困苦もなく、地上のいかなる幸福も美しく、実り豊かな精神が時を得て、自らのうちに見出す幸福には叶わない。

 考えが今、頭にあるということは、目の前に恋人が目の前に居るようなものだ。真に価値があるのは、自分自身のために考えたことだけである。存在を確認することは、すべてを知ること。何か、変な三角関係ですね。

丁度いい時に、丁度いいもの

 丁度いい時に、丁度いいものが提供される。今回もそうです。10㎝のところでの環境しかないところで、キンドルが現れた。200gだから、寝ながらでも持てます。

 マッキントッシュもそうでした。欲しい時に現れます。だから、この最近は逆に考えています。道具から、何を要求されているのか。

 人はなかなか、そうはいかないですね。パートナーの異動に関しても、それが何を意味しているのか。

欲望を抑える

 欲望を抑えることができれば、あくせく、しないですむ。女性に対しても。その時に、時間が経ってくることは、欲望ではどうにもならない。

 だけど、時間でしか解決できないことも多い。だから、時間を忘れることが重要かもしれない。

タブレットをどう使うか

 タブレットはやはり、知識と意識を保証する本です。

 本が作る世界がどうなるか。グーテンベルグ以来の世界です。最初の聖書は十何冊だったけど、その後に何万冊、何億冊になっている。それによって、全てが変わったわけではない。人間の考える能力は相変わらずです。だけど、伝播能力は上がってきた。

 今後はコミュニケーションが先にあって、人間が変わってくる。これが何をなしうるか。個人の捉え方が変わってきて、その伝播が変わってくれば、当然、人は変わってくる。新しい意味の国民国家のシナリオです。
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