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図書館の棚のデジタル表現

デジタルアーカイブ

 地上化で、デジタルアーカイブが出来そうです。この発想は開発担当部署にはありません。押し込みます。

 個人的には、OCRした本の履歴と内容をFBのタイムラインに乗せれば、デジタルアーカイブになります。いつ、何を読んだのか、履歴と内容。それをどう生かすのか。ブログとかツイッターでイメージ化できません。

図書館の棚のデジタル表現

 図書館の物理的なものを実際に見ていくと大変です。本の題名とコードはコンピュータにあります。背表紙のイメージをそのまま並べればいい。当然、幅のコントロールすれば、実際の棚に近いものになります。

 アマゾンのデジタル図書館クラウドから機能を提供してもらえればいいです。これは本屋でも使えます。

 図書館と本屋との違いは、貸している本の場所を開けるかどうかです。それができれば、物理的な棚を超えます。図書館の良さは該当の本の周辺の本も見えるということです。ということは、借りられている本も含めて、見えないと困るでしょう。

中国の発展

 中国は大いに発展した。GNPで25倍ぐらいになった。その原動力は民主主義の手法で、皆の力を使い始めたから。共産主義は全体のコントロールしながら、格差をなくすことだけど、現代中国に関しては、「先に行けるものは先に行け」ということで、格差を使って、発展させた。

 生活はよくなったけど、将来の資産を先取りしている。資源も環境も悪化している。取りあえず、13億人を生かしているけど、その先がどうなるか。

 二つの流れが出てきている。本来の共産主義ということで、毛沢東主義の流れがある。もう一つは民主化です。格差をなくすことをなくす手段です。格差という、凸凹を下のラインで合わせるか、上のラインに合わせるかの違いです。凸凹をなくすことは活力が無くなります。

国民国家となった日本の場合

 同じように、国民国家になった時に、日本も変わっていった。そして、朝鮮・満州・中国に拡張していった。そして、300万人が無くなって、狭い日本に戻ってきた。

 10万人の損失を埋めるために、20万人がなくなり、そして、300万人がなくなった。中国が拡張したら、アジアの未来はない。世界の歴史に答えはあるのか。
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コミュニティ・ネットワーク

『シビックスペース・サイバースペース』より 公共図書館

公共図書館の世界におけるレトリック、そして特定の図書館の実践において見られる最近の動向は、多様な地域社会のニーズを満たすために、地元地域社会に存在する諸組織、諸機関と協力関係を結び、とくに電子的な情報システムを利用し、図書館の資源と能力を高めて、地域社会における図書館の有用性と位置づけを強化することである。

また、本書でも先に言及した通り、このアプローチは、共同体主義的な思考の普及と新しいコミュニティ・ネットワークの成長を反映するもので、いくつかの報告書に記されているように、公共図書館に関心を寄せる財団や諸団体の姿勢をうかがわせるものである。

ペントン財団(BebtonFoundation)の報告書『建物、図書、および電子情報:デジタル時代における図書館と地域社会』(Buildings, Books,皿d Bvtes: Libraries 皿dCommunities加訥丿:')igital Age)は、今後も存続してゆくためには、公共図書館ぱつなぎ目のないコミュニティ情報網’のなかで「コミュニティ教育と情報ネットワークを市民みんなに開かれ、利用可能なものにするために、他の公共サービス情報提供機関と共同して」、‘新しい生活様式’の創造に関与しなければならない、と結論付けている。

‘図書館の未来に向けて' (Libraries for the Future)とベントン財団によって1997年に作成された『住民が集まる地元の場所、地球規模に広がる交流:デジタル時代における図書館』(Local Places、Global Connections:r.ihraries in theDigital Age)は,安定した物理的な場所と地域社会の情報ニーズに関する知識を備えた図書館は「コミュニティ・ネットワークにとっての適切なパートナーとなる」もので、そのような協力関係は「両方の機関が直面している財政的な窮状に対する対応策のひとつともなり得るものであろう」と記している。ケロッグ財団が支援する図書館資源に関する評議会(Kellogg-fiinded Council on Library Resources)が行った12のモデルとなる革新的公共図書館を対象とするケース・スタディを取り扱った報告書には、「検討したそれぞれの事例の中心的な問題は、(さまざまなやり方はあろうが,)公共図書館の地域社会のニーズに応える能力を拡大、向上するために技術を利用することである」と述べられている。地元の状況とリーダーシップに大きく依存するが、いくつかの公共図書館は、コミュニティ情報を提供するために、コミュニティ・ネットワークとの協力、およびいくつかの事例ではコミュニティ・ネットワークの管理運営をも含めて、積極的に様々な形でコミュニティ・ネットワークと提携関係を結んできた。その他の図書館の大部分は、独自に地域社会志向の諸目標を追求する傾向にある。図書館資源に関する評議会の調査研究が指摘したように、必ずしもすべてのものがすべてのところでうまく機能しているわけではなく、「必ずしもあらゆる図書館がその将来を地元のコミュニティ・ネットワークあるいはフリー・ネットの運命に結び付けて考えているわけではない。」

公共図書館は、本質的に、コミュニティ情報ないしはその他のあらゆる情報を社会に普及させる存在をはるかに超えるものである。図書館は、文化的および教育的センターとして、すなわち知識機関として、地域社会に対してサービスを提供しており、そして市民も図書館に対してぜひとも永続的にそうあり続けてほしいと期待しているように思われる。(もっとも高く評価されている図書館システムのひとつで、地元の多くの行政機関や企業が協力協定を結んでいることでも良く知られているフロリダ州のブラワード郡図書館は、論理的に検討し、古い伝統的な公共図書館を学生たちのための学習の場として整備するとの結論を得ている。その図書館を第一義的にはフロリダ大西洋大学とフロリダ国際大学のフォートローダーデール・キャンパスのための図書館と考えたのである。)公共図書館は、ボルチモア郡公共図書館が掲げているスローガンを言い直し、やはりみずからを多面的な‘世界への窓’と呼ばれるものであることを認識すべきであり、そしてシカゴ公共図書館のように、市民に対して、‘読書しなさい、学習しなさい、発見しましょう’と熱心に働きかけなければならない。公共図書館の使命に関する宣言では、より大きな目標を目指して技術の利用に言及される。図書館利用の多くはいまだに図書や視聴覚資料の貸出である(住民が多くの時間を車の中で過ごさなければならない地域では、それらに加えて録音テープや録音されたディスクが非常に重要なものとなる)。

図書館はいまもなお多数にのぼる(印刷物とデジタルの両方の)読書案内リストや教育的および文化的イベント、展覧会や様々なサービスの通知を発行している。昔から行われてきた図書館の古典的な諸活動は放棄されることなく続けられている。しかし、利用できる諸資源が限られ、新しい技術の導入が不可避でしかも高価な場合、どこに力点をおくかが重要になってくる。『ライブラリー・ジャーナル』(Library Journal)誌のサンプル調査によれば、最近、図書館予算が全国的に増加していることについては、実際のところその割合はわからないし、資料コレクションの強化のための支出が増えているとの証拠が示されてはいるが、図書館予算の大部分は技術の導入・整備につぎ込まれたもののように思われる。このことは、財政的側面とイデオロギー的側面の両面において、バランスをどうとるかという問題を提起している。図書館システムのいたるところに通信ケーブルが敷設され、新たにコンピュータやモデムが設置されているのに、ライブラリアンたちはいまだに子どもたちのためのお話の時間を維持し、10代の児童生徒が宿題に取り組むのを助け、高齢者市民センターや介護施設を訪問し、視覚障害者の人たちに対して録音図書設備や拡大読書器を整備し、識字教育や第2外国語としての英語教室を開催したり、展示会や詩歌の朗読会、コンサート、演劇セミナー、および定期的な映画鑑賞会を計画したりするための支援を必要としている。

社会の動向分析と対応戦略

もちろん、新しい技術は、伝統的な諸活動を周知するために役立つばかりでなく、それらを実施するときにも大いに役立ち得るものである。たとえば、第2外国語としての英語教室や識字教育の受講生たちのためのコンピュータ学習カリキュラムがある。(ニューヨーク公共図書館のある分館では、他の言語を話す人たちを対象とするコンピュータ支援の英語教育のために、8週間の間で1,543時間のコンピュータ利用が記録されている。)18)児童生徒の宿題への取り組みを援助する場合には、インターネットやCD-ROMのレファレンス・トゥールで見つけだしたデータを利用することができる。 CD-ROMの図書リストには、大人と子どもの両方が拾い読みできるように図書の内容を記述し、また分類している。ビデオと電気通信設備は視覚障害者もしくは聴覚障害者の情報ニーズに応えるものである19)。そして、もちろんのことであるが,データベースとインターネットは、あらゆるレベルの調査研究を遂行する能力を大きく向上させることができる。

実際に、ライブラリアンたちは、これらのあらゆるメディアの利用の仕方を身につけようとしている。彼らが日常行っているほかのすべてのことに加えて、おそらくこのことに予想される関係業務は大変な量になろうが、彼らはまたそれを魅力的な仕事と考えている。1996年の調査によれば、公共図書館職員の59パーセントが、主として新しい技術が導入されたために、過去数年の間に、彼らの仕事が変化していると答えている。公共図書館に働くライブラリアンたちは、多くはインターネットに関する職員研修に参加し、一生懸命取り組んでいる20)。その多くは特にケロッグ財団からであるが、財団提供の資金によって、図書館現場における研修事業の費用負担の大きな部分かまかなわれてきた。そして, 1996年、ケロッグ財団はミシガン大学情報学部に資金を与え、同学部はそのカリキュラム作成のために500万ドル追加した強力な研修部門を擁するフリント・コミュニティ・ネットワーキング・イニシアティブの創設のために頑張った。都市図書館評議会は、ケロッグ財団の資金を受取り、一連のビデオを用いた職員の能力開発研修資料を作成し、また同評議会会員館のシステム職員のための技術研修に取り組んでいる。1980年代に休止期を迎え、大学が経費の節減と規模の縮小を追及したところから大学院図書館情報学研究科の数が減少をみた後、明らかにいわゆる情報社会の成長とそれに見合ったカリキュラムの改正に対応して、図書館情報学研究科の入学者数はいくぶん回復しているように思われる21)。

ライブラリアンたちは新しい技術に関する研修を経験すると同時に、かれらはどのように技術を彼らの人間性豊かなものの見方、考え方に調和させるかということについて検討しようとしている。歴史的に見ても、公共図書館に勤めるライブラリアンたちは、専門職としての技術的側面を志向しつつも,それに過度には関心を払ってこなかった人たちである。理論的には技術が究極的に目標とするところは市民にサービスを提供することではあっても、概して、図書館専門職は、伝統的にいわゆる技術者官僚と公共サービス労働者の両極に分裂してきた。今日、一般のライブラリアンたちのなかには、新しく素敵な技術の導入とその利用がもたらすマイナス面に不安を感じたり、そして新しい技術の利用に必要とされる力量、経費が図書の購入やプログラミングにつけられた予算を大きく上回るとともに、公共図書館の知的、文化的本質ばかりでなく、図書館利用者との人間的なふれあいをも損ないかねないことを懸念して、不安を感じている人たちがいる。

ライブラリアンたちは、慣行的に、地域社会内の個々人が積極的にみずからが目標とするところを実現しようとするのを支援する彼らライブラリアンの仕事のなかに、コミュニティ・サービスや地域社会における権利利益の付与が具体化されているものと考えてきた。地域社会は、情報に対する現実的および政治的ニーズばかりでなく、それぞれが特定の多様な文化的で知的な関心を持つ人びとから構成される集団と見ることができる。ロサンゼルス公共図書館の図書館の使命に関する宣言の言葉を借りれば、図書館は「膨大な思想と情報に無償で容易にアクセスできるようにし、それを推進することにより、また人びとを歓迎し受け入れる環境のなかで生涯学習を支援することによって、当該地域社会に居住するすべての個々人に対して、情報を提供し、豊かにし、そして生きる力を与えようと努力している。」多くの図書館は、人口構成やその他の地元社会の変化の動向を分析し、それらに対する図書館の対応を定めた戦略的計画をすでに公表しているか、現在その作成に取り組んでいる。ニューヨーク市の行政区のなかでも非常に多様な性格をもったところにあるクイーンズ区公共図書館は、現在、職員のなかにひとりの専門的な人口学研究者を抱えている。ワシントン州のキング郡のように、いくつかの図書館システムでは、図書館職員は継続的に詳細なコミュニティ分析や図書館に対するニーズ評価に取り組んでおり(キング郡においては、通常、毎年、同図書館システムを構成する図書館から4館を対象として調査を行っている)、そこでは館長以下の専門職ライブラリアンたちは地元地域社会に強く結びついている。多くの図書館の使命に関する宣言、戦略的計画、およびコミュニティに関する検討は、あらゆるレベルのライブラリアンたちによって表明された公式のコメントとともに、幅広い図書館サービスに対する考え方を明らかにしている。
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図書館とインターネット

『シビックスペース・サイバースペース』より 公共図書館

公共図書館はインターネットだけでなく、その他の電子的情報資源も提供している。そして、公共図書館は、みずから主体的にインターネット空間に参加しつつある。 1,000を超えるアメリカの公共図書館と大学図書館を対象とした1996年の調査によれば、62パーセントの公共図書館がホームページを開設しており4)、また本稿執筆の時点では、たいていの主要な大規模公共図書館はすでにホームページを運営している。(1996会計年度において、ニューヨーク公共図書館が運営しているウェブサイトには360万回を超えるアクセスが記録された。また, 1996年12月3日から1997年6月3日までの半年の間に、デンバー公共図書館のホームページヘのアクセスはほぼ倍増し、80万回以上に到達し、同年10月末にはほぼ120万回に達するまでになった。

これらのウェブサイトのうえに、図書館は、細部は様々に異なるが、図書館サービスに関する情報、図書館建物の内部案内、開館時間、図書館利用に関する規則と手続き、イペント案内、図書館の使命、図書館の管理運営、図書館の財政状況、図書館の沿革、さらには様々な文書、データベース、およびオンライン所蔵目録やあらゆる種類の書誌情報、文章で表現された情報、ならびに画像情報へのリンク集を搭載している。図書館のなかには、ホームページを通じて、eメールによる参考質問や、オンラインで図書館資料の予約を受け付けたりしているところがある。(アメリカ合衆国の最大規模の公共図書館システムが運営しているものを含め)いくつかの公共図書館が管理運営しているウェブページを仔細に検討すると、古くから行われてきた伝統的な図書館の諸活動と同じように、図書館がたくさんの新しい電子的な情報とサービスを積極的に提供していることが理解できる。インターネットは、図書館資料の利用促進を実現するために、図書館に対して、以前には決して見られなかったくらいはるかに積極的にPRに取り組むことを可能にさせ、これまで以上に間口の広いサービス提供の窓口を与えており、どのような図書館資料が所蔵されているかを教え、そしてどのようにすればそれが利用できるかを示している。マイアミ・デイド公共図書館システムのホームページは、かなり模範的なものとして推奨できる。

そのホームページには多くのリンクが張られているが、そのなかには、地元の郡や地方自治体にかかわる事柄についての資料へのリンク、ビジネスや投資、フロリダ州に関する情報、多文化的な資源、古いマイアミをうつした写真、読み書き能力にかかわるリテラシー・サービス、そして耳が聞こえなかったり聴覚に障害をもつ人びと、視覚障害者、もしくは住居から外に出ることのできない人たちに対するサービスに関する情報に向けてリンクが伸ばされている。この地域のキューバ系アメリカ人の人口の大きさを反映した特徴は、スペイン語版のホームページの開設にあらわれている。いまひとつの模範的なウェブサイトは,ミズーリ州のカンザス・シティ公共図書館のホームページで、そこには求人情報, HIVとAIDSに関する情報資源、および郷土史情報資源や特別コレクション等ヘリンクが張られている。‘文化的モザイク:人間の多様性を祝福する情報資源集成’と銘打たれたリンクの先ぱアフリカ系アメリカ人,盲目・ 視覚障害をもつ人たち,ゲイ・レスビアン・両性愛者、ラテンアメリカ系の人たち、教会・神学校・宗教団体、女性’を対象とす名ウェブサイトに向けられている。

デジタル化することによって、インターネットを通じて、図書館が所蔵している貴重で珍しい資料の中身を画像と音声を付して広く市民に紹介することができる。1994年、アメリカ連邦議会図書館は、その国民に対する役割を広く知ってもらい、周知させようとするひとつの努力として、全国デジタル図書館(National Digital Library)をはじめた。その目標は, 2000年までに、その多くが文章というよりは画像として数百万点の歴史的文書の原物を、学校、図書館、および家庭にいる学生、教師、そして研究者が利用できるように、デジタル化することにある。現在では、この事業にその他の図書館、各地の歴史協会、ならびに文書館が加わっている。そのような参加を可能とするために、電話持株会社であるアメリテク社は、公共図書館を含めて、アメリカ史に関する一次的な原資料を所蔵する諸機関を対象に公募し、選抜する補助金提供事業を後援するために、議会図書館に対して, 200万ドルの寄付を与えた。1997年に発表された第1回の補助金授与機関として合計10機関が選ばれたが、そのなかにはふたつの公共図書館が含まれていた。1860年から1920年に至るアメリカ西部の歴史を描いた画像コレクションをテーマとするデンバー公共図書館と、‘アメリカの街角:1850年から1910年の期間を対象とするデニス・コレクションを素材とする3次元画像’をテーマとするニューヨーク公共図書館である。純粋に地元地域社会主導で行われた事業のひとつとして、たとえば、連邦政府からの補助金の支援を得て、ピッツバーグにおける教育工学関係の連合組織と共同開発された、ピッツバーグの近隣住区をうつした写真画像を蓄積したマルチメディアのオンライン・データベースである、ピッツバーグ・カーネギー図書館の‘都市景観を結ぶ橋’がある。
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コミュニティ通貨の一般的な特徴

『地域通貨』より 自分たちの通貨でコミュニティを創る

コミュニティ通貨は従来の貨幣とは対照的に、その発行源は私たちの身近にある。コミュニティ通貨にはさまざまな種類が存在するが、その基本的な原理は単純であり普遍的である。コミュニティ通貨は、交換を目的として結びつくことを選択するあらゆる団体によって創造されるという意味でオープンである。つまり、言論が自由である、もしくは、自由であるべきだという意味で、それは自由なものである。従来の貨幣は、中央銀行により個別に規制されている銀行という、私だちから遠い存在である供給者によって人工的に希少にされ続けている商品であるけれども、コミュニテイ通貨は交換に参加する人びとの意思だけで供給が制限される交換手段なのである。このようにして人びとが普段おこなっている売買の範囲が、通常の現金取引によって課せられている制限なしに広げられる。

コミュニティ通貨は、資本王義とその自然な拡張を根本的に転換することを目的にしている。現存の経済形態と利害関係を補完するものとしてコミュニティ通貨を認識することは可能であり、必要でさえある。コミュニティ通貨は現在、小規模で運営されており現状に対して脅威をほとんど与えるものではない。それはまるで、地下室で多くのねずみたちが駆け回っているかのような現象である。企業や商店は、コミュニティ通貨と国家通貨をそういうものとして一緒に受け取ってくれるかもしれない。このような交換の輪に参加している人たちは、しばしば取引に対する税金のようなもの[訳注一運営者に対して支払う手数料のことを支払っている。そして、小さいながらも人間の幸福が生み出される。そうした交換の輪は現代資本主義と同様の契約法に最終的には基づいている市場なのである。しかし、それに関連する貨幣の形式には明確な違いがある。私たちが親しんでおり、少なくとも四〇〇〇年にわたって精通している貨幣は発行量を規制し希少性を保とうとする遠く離れた機関によって創造されている。それゆえ、そうした貨幣はそれがもっている交換手段という機能から独立した価値をもつ商品である。それは利子という対価を求めて貸出され保蔵されている。

の貨幣によって生み出される市場はあらゆる場所で増殖し、その市場の参加者に無力感が増大している。他方で、コミュニティ通貨は特定の団体に集まってくる人びとによって発行される。コミュニティ通貨の供給に内在する固有の制限はまったく存在しない。人びとは取引相手を発見することにより貨幣を創造するのである。その貨幣は流出することなく、将来の交換の源泉として交換の輪のなかにとどまり続ける。コミュニティ通貨は独立した価値をもたない価値尺度なのであって。資本に転化されることはない。コミュニティ通貨は中央官僚の言葉ではなく、個人であろうと、商店であろうと、組織であろうと、各参加者の言葉を表しているのである。とくに従来の貨幣がもつ社会的な特徴が反社会的な力としてしばしば現れてくるのに対し、コミュニティ通貨の活動原理は社会における協同なのである。

現代では、コミュニティ通貨の支払システムをインターネットや電子商取引という新しい経済に結びつけるための技術的可能性が急速に高まりつつある。いま出現しつつある経済はグローバルで高度に関連しあったものであり、有形物よりも無形物やアイデアを優先するものである。そして、最も強力な技術が、柔軟な関係性と分権化された統治形態を促進している。ある所与のネットワークにメンバーを追加する点では収穫逓増があるが、そのネットワークにとって個人が失われることはほとんど問題にならない。ネットワークの価値は、個々の単位を合計した価値を上回る{9茫巨に8})。インターネットの世界では希少性は豊饒性に席を譲ることになり、共有や贈与という精神を通じて共有された富が最も迅速に成長するのである。価格は無料へと下落していく傾向にある。不安定な世界はイノペーションに報酬を与えるだけでなく、イノペーションに参加できない人びとや参加しても負けてしまう人びとを排除してしまう。だが、コミュニティ通貨は今もそうであるようにゆるぎない社会原則に基づいているので、毎日の経済生活と新しい経済で生じるさまざまな機会との間の橋渡しをおこなう能力がある。

コミュニティ通貨の一般的な目的は、通常の市場経済で購買力がとくに不足している場合に取引や交換を可能にしていくことにある。しかし明らかにそのような形式は、多様で幅広い社会的かつエコロジー的な目的に役立つのであって、その原理はそうした意味で狭く経済的なものでなくてもよいのである。補完通貨システム「訳注ご」れはコミュニティ通貨とほぼ同じ意味で使われている]にはさまざまな点で異なる多くの種類がある。そのなかで最も重要なことは、それが国民経済に統合されている度合いであるが、他にも次のようなものがある。貨幣単位の違い(たとえば、それは国民通貨もしくは労働時間に基づいている)、無償労働、有償労働、政府からの補助金のうちどれに組織が依存するのかという違い、支払いを電子的に記録するのか何か紙などの具体的なものへ記録するのかという違い、企業や商店を含めるのか個人間だけでサービスを交換するのかという違い、特定の地域を対象にしたローカルなものなのかそれとも仮想世界を対象にしたバーチャルなものであるのかという違い、統治と参加形態に関する違いなどがある。自分たちの自治権が侵害されるとして団結するのを嫌がる団体がたくさんある。そのような団体はビクトリア朝的な博愛主義の特徴をいまだに備えていて、貧困層のみを対象にし、会議や委員会を何度も開き、部外者に対しては孤立的で偏狭的な特徴を守ろうとする。それらは通常、時間を浪費し独善的でありビジネスを毛嫌いし、公衆の寄付には賛成するという傾向がある。そうした団体の主な動機は通常の経済活動から離れ、小規模であろうとも自分自身の隔離された世界へと逃げ込もうとすることにあるようだ。
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文書化 10.7 歴史を変える

10.7.1 歴史の到達点

 過去をコード化
  人の数と時間の速度は相対性です。137億年で密度は圧縮している。2050年に歴史は到達点に達して、次の多重宇宙へ向かう。
  いよいよ、この世界に選ばれた意味を未唯宇宙で明確にする時です。2050年までコード化の歴史も整理する。

 2050年の到達点
  137億年に一つの区切りをつけます。2030年から2050年までのプロセスで、環境社会に人間が順応できるかで判断。
  コンパクト化により、新しい社会が作れるかどうか。人間のバランスが崩れえば、自然現象も変化する。

 次の一歩
  2050年以降、何から始まるかは当然、不明です。2030年以降、さまざまな方向から考えていく。まず、ジャンルの見直し。
  民主主義形態としては、超国家への道がどうなっているかです。対応するコミュニティは、完全に分解する道を選ぶのか。

 新ビッグバン
  宇宙空間創生・崩壊にアナロジーを取り、137億年の歴史を記述する。収縮していく世界なのに、爆発しているらしいが。
  世界の人口は1800年頃に10億人、2011年に70億人と拡大。日本は2050年に25%減。高齢者を支えられない。この先はどうなる。

10.7.2 変えるとは

 変わらない時
  環境社会への対応として、エネルギー問題、人口問題、食糧問題で人類の行方は見えない。日本は先行して、崩壊に向かう。
  今の生活を維持しながら、技術に頼って、自然エネルギーのインフラに国民資産を枯渇するという、崩壊へのシナリオ。

 勝手に変わる
  世界の情勢では、北欧の保証制度、トルコの地方主体社会などで、歴史は変わっていく。日本はクライシスでも変わらない。
  国を信頼せずに、地域でのコミュニティで、行政との協働作業を前提に、個人の活発な行動を発生する。

 意図して変える
  歴史を変える意図での活動主体が見えない。政治の世界では発生しないから、本からの提案で、格差是正の行動から発生。
  個人および組織の意識が変わっても、社会を変える程度です。歴史を変えるには、アラブのように国を超えた活動を意識。

 分かるメジャー
  国力の衰退の意識がキッカケになる。日本は人口問題、財政問題で衰退する。幸わせ度のようなメジャーには変えられない。
  国力衰退しながらも、海外との連携で生き延びるためには、国家間の連合です。その時には、日本人が移住していく状態。

10.7.3 個人の役割

 宗教家
  歴史を変えた個人の事例から考える。ムハンマドの戒律はアラブの世界を変えた。キリストはローマ時代の支配の力。
  日本の場合は、法然の南無阿弥陀仏とか、日蓮がいるが、現代は葬式だけ。秦の始皇帝の中華思想を毛沢東が受け継いだ。

 カリスマ
  時代が生んだカリスマが歴史を変える。ヒトラーの全体主義は偶然から結果を生んだ。スターリンは祖国戦争で生き返った。
  毛沢東は戦争とは無関係だった農民を革命に引きずり込んだ。ナポレオンの国民国家が欧州の力関係を組み替えた。

 革命家
  革命家の意識が歴史に影響を及ぼす。チェは南米の状態からキューバ革命に参画。ルソーの宗教改革でフランス革命が発生。
  ソクラテスは個人相手の問答から、プラトンを通じて、哲学になった。デカルトは自分を見ることで二元主義を確立した。

 意思の力
  私に意志の力があれば、私に必要なものを見せてくれる。宗教の拡大のロジックを使って、カリスマをカリスマで抑える。
  どんな自然現象でも意志の力が働いている。本一冊とっても、偶然への意味付けで、社会の変革、歴史の変革に結び付ける。

10.7.4 変えるモノ

 われわれの概念
  民主主義の根底を変える。歴史を見ると、われわれは、国民国家に参加させられ、軍隊支配の共和制度に巻き込まれた。
  自由民主主義になり、代表でないものを選ぶ、民主制度での選挙を強制された。われわれが生きるための民主主義をめざす。

 ツール
  国民が持つ武器は変わってきた。ヒッタイトの鉄で、戦争に武器が持ち込まれた。種子島の鉄砲は一向一揆に抑え込んだ。
  クラウゼビッツの戦略は国の趨勢を決めた。そして、市民レベルの革命のために、ジョブスのITツールが拡がった。

 数学
  数学は歴史に先立ち、考え方を変えてきた。ユークリッド空間で抽象化し、デカルト平面で座標系へのマッピングで問題解決。
  トポロジーの空間認識で部分(近傍系)と全体に分け、関係主体の世界に入った。進化形でLL=GGの究極な空間に向かう。

 先人の思い
  グーテンベルグの印刷技術はルソーを生み、宗教革命を起こした。同様に、地域でのエネルギー革命が可能になった。
  グローバルの役割は、ローカルの動きから全体を動かすことです。ソーシャルウェブなどで、ローカルがつながる。
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文書化 10.6 全てを知りたい

10.6.1 知るということ

 偶然が全て
  生まれてきたこと自体が偶然です。知ることも偶然が全てです。まずは、この時代の持つ意味を知ることです。
  137億年の歴史の中で、人類が増えて、減っていく分岐点にいます。その認識で、数学の知識を含めて、先を見ていけます。

 無知を知る
  知ったことを忘れることにしています。自分の空間に期待します。全てのために、本などにつながるキッカケを求めてきた。
  知ることで人間は限界を知った。知ることは決して、有意義ではない。そういう自分の確認のために、空間を作り出す

 知る対象
  知る対象は、私が知らないすべてです。偶然が示唆するものをすべて対象とする。哲学を含めた思考に行き着く気がします。
  知った上で、新しい数学的空間にまとめて、自分の判断にします。それを社会全般に分かるようにする努力はしていく。

 知ってどうする
  生まれてきたからには、生まれてきた理由を知りたい。そして、先を知りたい。知れば、その先が見えてきます。
  知ることで、力を得ることは確かです。知識の時代です。営利ではなく、あくまでも自分のため、皆のためです。

10.6.2 新しい考え方

 新しい数学体系
  私の思考はトポロジーという考えでできています。空間論が故に、サファイア循環の理論化にもなっています。
  トポロジーの先を考えてできた数学体系がLL=GGという究極の空間です。数学なら、ベースは変えると空間が変わります。

 シェアの法則
  社会は人のつながりとして、情報共有が拡大している。多くの人が生きていくためには、人も組織も分化する。
  人と組織の分化を促進して、社会の根幹になるのが、社会コミュニティです。新しい公共意識の体現し、民主主義を再構築。

 未唯空間
  未唯空間は多重宇宙での偶然性からの感想です。無限次元空間の中で、時空間のコード化から2050年を歴史の分岐点と規定。
  その空間を近傍系から構築すると同時に、社会にトポロジー構造を入れ込んだ。存在と無で考えると、空間が見えてくる。

 サファイア循環
  社会は一方通行にあふれている。持続可能性のためには、循環であることが必要。ローカル発想の循環をサファイアと命名。
  サファイア循環で社会構造の枠を作り、知ったことを配置。社会を変えるのは、コミュニティでの意識と知識の活用。

10.6.3 未唯宇宙を創る

 未唯空間が骨格
  知ったことを配置するのが未唯空間です。数学・歴史の拡張すると同時に、2050年までの社会変革のシナリオを示す。
  未唯が生まれた時に、未唯への手紙で、未唯への思いを託そうとした。そのために、自分の存在を掛けて、ここまで来た。

 全てを埋める
  未唯空間の項目に、ブログからの反映をしている。ブログには、本から考えたこと、仕事での気づき、社会の変化を書いている。
  社会の変化では、パートナーから気づかされた部分が多い。自分に関して、存在と無からの思考、生活での葛藤で埋めている。

 分化を示す
  組織の論理を超えて、次の世界に行くには、個人の分化を情報共有、シェアの世界で成し遂げる。コミュニティでの集約。
  未唯空間では、LL=GG、個人と企画がつながる世界を描いている。そこでは、組織の分化で、全体をカバーします。

 未唯宇宙
  未唯宇宙は無限次元の住処で、すべてのものを入れ込みます。それで、この選ばれた多重宇宙を描きます。
  未唯宇宙から意味あるサブ空間を抜き出して、コンパクト化する。その分野で、一つずつ、課題を明確にする。

10.6.4 分かったのか

 知ってどうする
  2050年の歴史の分岐点は、私がいない世界です。内なる世界ではできている。外なる世界はどうでもいい。これが本音です。
  要するに、自己満足として、その世界とそこでの人類がみたいだけです。生まれてきたことの意味を表現したい。

 全てに応える
  知ったことを、皆に説くことはしません。自分からは言わない。問われれば、すべてを含む自分の考えを分かり易く述べる。
  意識のある人間に対して、きっかけにつける。その対話を通じて、真理につなげていく。ソクラテスに憧れます。

 次の頂き
  知ることで、次の頂きが見えてくる。そこに向かうために、全てを捨てる。多重空間のように、新しい考えを作る。
  7つのカテゴリー(自分、数学、社会、歴史、仕事、本・図書館、生活)は再構成する。存在と無、未唯への思いは変わらない。

 山を下りる
  未唯宇宙を作りながら、仕事面では販売店システムでの情報共有空間に関与している。あくまでも、超人としての行動に限定。
  行動として、現場で起こっていることを理念としていく。つまり、哲学にしていく。それで、自由自在に動ける。
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哲学の意志

『歴史と哲学の対話』より

本郷--哲学でいうと、多くの一般の人が常に哲学というものを意識しながら生きているわけではありませんね。

西--全然ないですね。

本郷--その中で西さんが哲学をもって働きかけるときに、実は他者というものをどう意識していらっしやるのかという話になるのではないかと思っています。本を書くとかいろいろな形での言説というのは常に、なるべくなら相手に受け入れてもらいたいということになるわけですから。

西--そうですね。できれば一般の人たちに届いてほしい、という想いはいつもありますね。ときに専門的な書き方になってしまう場合もありますが、基本的には、普通の人がきちんと自分の生きているありさまを考えれば必ず納得できるはず、というところに落とし込もうとするのが、現象学の戦略です。

先はどの、客観的世界と事実の話でも、「よく考えてみてくださいね、どんな人だって自分の経験することの中で、全く共有されない、自分の頭だけで思っているものと、ほかの人とも当然に共有できると思っているものがあるでしょう、その区別ってちやんとあるじやないですか、ではどういう基準で区別していると思いますか?」という言い方になるわけです。

このように現象学は、〈どのように我々が物事を経験しているか、ということを反省してみると、だれにでも共通する構造を取り出すことができる。それが正しいかどうかは各人が自分でもって確かめることができる〉ということを基盤にしているんですね。特別な人でないと確かめられない・わからない、ということだと独断論になりますから、それを避けるために工夫された方法なんです。哲学はソクラテスの時代から、「だれもが確かめて納得できること」を議論しながら育てていこうとする営みとして始まったものなのですが、それを本気でやろうとするところに現象学の方法がつくられた、というのが僕の理解です。

ですが、歴史学の場合は、一つは学界のレベルと一般民衆のレベルの間に違いがあるので難しいですね。さらに、研究者のレペルのなかでも、それこそ天皇からすべて流れ出てくる説明の仕方があったりもする。そういう人たちのことは何というのですか?

本郷--いや、説はありますけれども、そういう感受性の人たちは何か、テンノリアンとかいうべきでしょうか(苦笑)。まあ、そういうことは言わないですね。

西--テンノリアンというのはおもしろい(笑)。この点は、天皇ですべて説明するというやり方に対して、本郷さんが、武力というものをきちんと見るべきだ、という説を押し出しておられるわけですが、「こちらのほうがより説得力のある歴史像が組み立てられるよ」ということを、どんな仕方で主張されるかにかかってくると思います。たとえばそこには、テンノリアンの人たちがなかなかやらないような、独自な史料の使い方があるかもしれない。そして史料をこのように見ていくと、清盛の出世の早さや清盛という存在がこんなに力を持っていたということを理解する上で、より説得力のある説明ができる、というふうに打ち出していくことになるのかもしれません。最終的にその説が勝つかどうかは後世にゆだねられてしまいますけれども。

本郷--現象学でも、やはり後世にゆだねるということになるんですか。

西--後世にゆだねる、というのは正確な言い方ではないですね。史料と史実を踏まえたより説得力のある史像かつくられるか、ということで決まる、というのがより正確です。でももしそういうものがつくられると、何か権力的な力が働かないかぎり、だんだんに認められて広がっていくと思うのですね。ですから「後世に」と言ったのですが。

たとえば、今の清盛皇胤説ですが、この説に関しては、共通の信憑が成立する土俵はできないのではないでしょうか。そもそもが、事実としては確定することができないですよね。

本郷--たしかに、史実としては確定できないものがありますね。

西--そう、まったくの思い描きですね。史実としては確定できない。

本郷―-事実として確定できないことを基盤にして史像を組み立てるのは、現象学的にはOKなんですか。そこが歴史の難しいところかな、と思いますので、お尋ねしますが。

西--そうですね。かなり無理な推論をしていると言えるかもしれません。

しかしやはり、相手の説を打ち砕くためには、「武からする説明」のほうがより首尾一貫し、より歴史のダイナミックな動きを説明し得るということを、打ち出していかないといけないのではないでしょうかね。

本郷--清盛皇胤説は、事実としてはどうしても確認しようのないことだから、今一つ弱いですよね。

西---その点は弱いです、明らかに弱い。

本郷--だからこれで説明できる清盛の出世の早さよりも、違うファクターで説明したほうが、より説得力があるとは言えないでしょうか。皇胤説を立てる人は、それが事実かどうかわからないけれども、これなら出世の早さなどを合理的に説明できると言うわけですよね。とすれば、こちらのほうがさらにいっそう合理的に説明できるという理論を立てられれば、そちらのほうが強いということになりますよね。

西--なります。そうだと思います。

本郷-―仮説というのは、そういうことではありませんか。要するに、理論の上での話ですから。

西--そうです、仮説の話ですね。

本郷--もう一つお尋ねしますと、利害はどうなるでしょう。下世話な話で申し訳ないですが、現象学においては、損するとか得する、みたいなものは、どういう扱いになりますでしょうか。

西--それは、歴史を語る者の利害ですか。

本郷--こちらの説を採る方が、僕もあなたも分かるよねと言ったときに、そこにある種の没利害性みたいなものがあってこそ共有できる、共感するということになると思います。ですが、Aに与しないでBの仲間になる方が利益になるぞということが仮にあったとすると、そこのところがうまくいかないんじやないかと思ったんです。

西--そうですね。学界での出世とか権力的なものもあるかもしれませんし……。哲学はその点でいうとちょっと特別な野望を持っていると思います。人間の物の見方には多様性があるわけですが、その多様な見方を持つ人間たちの、どの人も納得できるような理屈をつくりたいという、そういう願いがあるわけですよ。「不偏不党な立場」というものが別に中空にあるわけではないし、神の視点などどこにもありませんが、でも、さまざまな感度や視点を繰り込んだうえで、やはりこのことは認めざるを得ないよね、というところに議論を持ち込みたい。それは、哲学が始まったときからの理念ではあるんです。

なぜかというと、世の中には多様な考え方や感度を持つ人間たちがいるので、時には殺し合いになってしまうこともあるわけですが、互いの感度を理解しあったうえで玉のことは共有できるよね」というものがつくれれば、平和共存していくことができるからです。

ですから、どんな人間でも、いろいろな物の見方が多様であっても、ここは共有できるのではないかというところまで可能な限り%掘り下げていって〃考えようとする。そういう意志を「哲学の意志」と言ってもいいと思うんです。だから、さまざまな感度を繰り込もうとする努力をしないと、哲学としてはだめということになります。
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世界最大のイスラーム国のジェンダー規範

『現代インドネシアを知るための60章』より

インドネシアは人口の約88%がムスリムなのでイスラーム国ではあるが、イスラームは国教ではないためイスラーム国家ではない。ただしトルコのような世俗国家でもないため同国のイスラームの位置づけは微妙だ。同国では1974年の婚姻法で、婚姻は宗教にもとづくと定められたため、ムスリムの場合はイスラーム法に従っている。またポルノ禁止法(2008年制定)などにも、緩やかではあるがイスラーム教義が反映されている。ここでは世界最大のイスラーム国インドネシアのムスリムのジェンダー規範を中心に紹介する。

イスラーム国と聞くと、日本人は女性の社会進出が進んでいないのではと考えがちだが、インドネシア女性の社会進出は日本よりはるかに進んでいる。職場において、女性たちは十分に尊重されている印象を受ける。農作業の賃金に男女格差があったりはするものの、民間企業であっても、一般に女性だからという理由で差別的待遇を受けることはない。女性も男性と同様に昇進し、多くの女性が管理職に就いている。それを可能にしている要因のひとつはハウスメイドの存在だ。中産階層以上の家庭では、ハウスメイドを雇うのが一般的で、育児も、ベビーシッターを雇って任せきりにすることも珍しくない。職場で、男性が掃除やお茶くみ、アシスタント業務などをやるのもごくふつうの光景だ。家庭の事情で仕事を体まざるを得ない場合も、職場は寛大だ。同国の職場にはジェンダー問題など存在しないといっても過言ではない。ただし、組織のトップは男性が占めることが多い。

政治分野での女性の進出についても、2009年の国会議員選挙の結果、国会議員の女性比率が17」9%を占め、H・3%の日本に比べてはるかに高い。また地方議員の女性比率も、2004年には19」8%だったが、2009年には99一・7%に上昇している。またインドネシアはイスラーム世界初の女性大統領を出したことでも注目される。2000年に「ジェンダー主流化」(男女格差の解消を目指して、すべての政策にジェンダーの視点を入れること)を国家政策とする大統領令が発行されたこともあり、2003年から女性議員枠に関するクオータ制度が設けられ、2008年の総選挙法では、党中央執行部のメンバーの30%が女性でなければならないこと(第8条)、議員候補者名簿は、少なくとも30%の女性の代表権を満たしていること(第53条)、3人の候補者につき、うち1人は女性であること(第55条②)などが定められたほか、監視制度も設けられ、法整備が進められている。

教育についても、男女の進学率にほとんど差がない。2008年の高校の進学率は、男性が54・8%、女性が54・6%だった。高等教育機関への進学率についても、2003年のデータで男性が11・8%、女性が10・1%となっている。

このように女性の社会進出が進んだインドネシアだが、家庭内では多少様子が違う。「1974年婚姻法」には「夫は家長であり、妻は主婦である」と明記されていることもあり、妻は夫に従うものという意識が強い。ムスリムの場合、礼拝のあとなどに、妻が夫の手の甲にキスをして敬意を示す習慣があるが、夫が妻の手の甲にキスをすることは一般的でない。ムスリムの場合は、条件つきではあるが一夫多妻が認められているし、女性の相続権は男性の半分とされ、妻が夫の命令に背いた場合には、「不従順(ヌシュズ)」だとして離婚の理由にもされうるため、夫に対する妻の法的立場はかなり弱い。こうしたジェンダー不平等な婚姻・相続のありかたについては、ジェンダー平等の視点から女性NGOなども見直しを求めてきた。2004年には、宗教省のジェンダー主流化班が「イスラーム法集成」の内容を大幅に変更し、法案として公表したが、一夫多妻を原則禁止とするなど、あまりに革新的な内容であったために保守派から激しい非難を受け、同法案はお蔵入りとなってしまった。現在、「ジェンダーの公正と正義に関する法案」が準備されているが、近年、婚姻法の改正や同性愛者の人権などジェンダーにかかわる問題をめぐっては、保守派とリベラル派の対立が顕在化しているので、今後の行方が注目される。

インドネシアでは、女性の服装コードや男女間の戒律などは、中東のイスラーム諸国に比べるとはるかに緩やかだ。挨拶をする際には、相手が異性であってもふつうに握手をする。親しい友人とは、首都ジャカルタなどでは異性間でも左右の頬を合わせる「チピカーチピキ」と呼ばれる挨拶をすることも珍しくない。ただし、中東の保守的な思想の影響を受けている福祉正義党(PKS)の関係者らは、異性との握手を避け、身内以外の異性との接触を避けるために、結婚式の披露宴なども男女を別々の空間に分けておこなうのが一般的だ。

インドネシアでは、一般に恋人ができると両親に紹介し、デートに誘うときは、女性の家に男性が迎えに行く。ちなみに人間は誘惑に弱いという前提で、男女が密室でふたりきりになることは、「3人目は悪魔」といわれるようにタブーとされている。婚外交渉は、ジナ(姦通)としてイスラーム法で禁止されているため、うっかり妊娠してしまった場合の社会の目は厳しい。そこで、都会でひとり暮らしをする若者たちのなかには、「宗教的に合法」なつき合いができるよう、両親には内緒で、役所に届け出をしない「ニカーシリ(秘密の結婚)」をおこなう者もいる。また「ニカーシリ」は、夫が「合法的」に不倫をする手段にもなっている。

インドネシアの男性の多くは女性に優しい。女性が重い荷物をもっていると、周囲の男性が気を利かせてもつのが常識だ。また家庭では母親は尊敬されるべき存在とされ、子どもたちは一般に幼いころから母親を大切にするよう躾けられる。学校に出かけるときなどに、とりわけムスリムの家庭では、子どもたちが年長者に対して手の甲にキス(実際には手を取って、自分の額を両親の手の甲に近づける仕草)をして敬意をあらわす習慣があるが、そうした行為は、当然のことながら母親に対してもおこなわれる。そしてこの習慣は、娘や息子が大人になってからも生涯つづけられる。

インドネシアのムスリムたちのあいだで、母親が尊敬すべき存在であることを教えるために、よく言及されるハディース(預言者ムハンマドの言行録)がふたつある。ひとつは、イスラームの預言者ムハンマドが、「この世のなかでもっとも尊敬すべき人物は誰か」という質問に「母親だ」と答えたというもので、もうひとつは、「天国は母親の足の裏にある」というものだ。こうしたイスラームの教えと現実社会の状況について、両者の因果関係を証明することなどもちろんできないが、「老いては子に従え」の儒教文化とは明らかに異なる文化がインドネシアにはある。
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全てを知りたいの意味

複雑性

 なぜ、ソーシャルの後が複雑性なのか。内側で考えるためなのか。複雑性のベースはキャッチボールです。一つの現象に対して、原因と結果が結びつくだけでなく、結果から原因につながります。

 今までの売ることを考えると、複雑性ではなかったけど、生活者から考えると複雑性です。複雑性は周縁から起こります。それで、中核を取り囲んで、変えさせます。そのプロセスを踏むから強いのです。原因と結果のキャッチボールからして、開けれた世界になっていきます。

 複雑性でのシミュレーションは非常に難しい。一つ変われば、すべてが変わる。論理が作りにくい。それが故に、内なる世界ですべてを網羅して、シミュレーションして、考えられる最終のカタチを見えるようにしていきます。外なる世界でそんなことをしたら、でたらめになります。

 未唯空間の10.3のテーマはLL=GGです。両極端がつながる世界です。その作業は複雑性におけるコラボレーションです。これが何を意図しているのか。三段階でのコラボレーションと同様に、チェーンでお客様と企画のように、両極端をつなげて、フィードバックさせます。

民主主義の変遷

 10.4.2は民主主義の変遷。ハッキリ言って、民主主義の説明だけです。自由主義と民主主義は別の概念なのに、自由民主と一緒にしたがるのか。なぜ、ここまで来たのか。どんな意味があるのか。生まれてきたことに理由と関係づくのか。

 まあ、サファイア革命との関係でしょう。あれを用いた以上は、そこまでのシナリオを作らないといけないということです。あくまでも勝手に。あくまでも、外なる世界です。だから、無責任に、降雨ところではないかの意見ですね。

 その意味ではサファイア循環で見ていくことにします。どうしたら、皆が幸せになれるかと。その皆と一番離れている私がおかしいけど、これも一つの因果でしょうね。

人類を存在させた理由

 なぜ、人類を存在させたのか。そうしないと、宇宙の存在を認識できないからです。お互いがあったのではなく、あることで全体が成り立つということでしょう。その中で、私の存在は何か。人類の認識を確認することでしょう。そこから、全存在が出てきます。つまり、私以外は何もない状態です。

全てを知りたいの意味

 全てを知りたいことの意味は、新たな知恵を得て、知恵を参照して、それまで知らなかった、新しい可能性を認識する、その中に定住して、思いつかなかった、新しい行為を行い、新しい体系を作り出すことを繰り返す。

 その結果、予想もし得なかった、新しい自己への進歩。発展していく。全存在と全認識である自分。

パートナーの違和感

 やっと、パートナーから声がかかりました。悩んでいるのは分かっていた。シンプルに考えているけど、情報系の連中から、シンプルに考えろと言われる。彼らのやり方には違和感を持ち続けている。相談に乗るというよりも、愚痴を聞きます。どっち道、答えは自分でもっているから。
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Kindleを使って、図書館の本を漁る

偶然で生きる

 偶然で生きようとしています。本もそうです。

Kindleを使って、図書館の本を漁る

 新刊書だけでなく、漁りました。ちょっと、漁ったら、9冊になってしまった。

 新刊書だけでなく、ちょっと、漁っていたら、9冊になってしまった。昨日の28冊と合わせると、豊田市図書館だけで37冊です。Kindleのシステムは使い物になります。ピンポイントで本をめざすと同時に、その周辺の2012年の本がターゲットです。最下段の本の場合は、座り込んでラベルを確認していた。

 自分で自分の首を引っ張っている。土日はすべて、本で埋まります。その上、日曜日には予約本3冊と合わせて、10冊借りてきます。それを日曜日に処理しないと。

数学とは

 全体と先と根源を知るのが数学です。

 何をしたのか、不明になっています。数学へ向かいます。拡げるのではなく、まとめることです。時間だけが過ぎていきます。スケジュール表が間に合いません、本にかまけています。

ひたすら考える

 頭が回っていません。ICレコーダーに言葉が出ません。ただ、ひたすら考えましょう。どんな小さいことに対しても、全存在を掛けて、考えましょう。それを表に出すことは問題ではない。考えてくることだけが、自分の全てです。60年間です。

本の処理

 土日はリラックスして、本の処理を行います。週日は考えます。これが私の仕事です。

ソーシャルとシェア

 ソーシャルとシェアがつながるとき。そこから、個人の分化が行われる。

 ソーシャル部分の資料は多い。売り方を変え、サービスを変える。この会社では動いていないけど、世の中では動いている。

 定型的なカタチではなく、フローのカタチでリアルにお客様の声を傾聴する。それが出発点です。単に聞くだけでなく、共有化していきます。

オープンサービス

 隠して儲けるのではなく、オープンにして儲ける。その意味では、サービスを渡す方と受ける方が対応になるということです。クルマのサービスは対等でないと成立しません。
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