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コミュニケーションから社会を支えるネットワーキングヘ

『災害に強い情報社会』より 

Twitterなどのソーシャルメディアと一括りにいっても、そのサービス形態は様々である。だが、サービスに何らかの形で「外部性」を活用する仕掛けが組み込まれているという点は、ほぼすべてに共通する。概して、ソーシャルメディアでは利用者相互のコミュニケーションがコンテンツの蓄積や場の活性化などにつながる。そしてそのことが、新たな利用者を獲得する情報メディアとしての魅力につながる。このような形で外部性が働いている。

通信インフラが損壊してしまわない程度の被害であることが前提となるが、平常時の社会システムであるソーシャルメディアが震災に際して利用されたということは、外部性の仕掛けで作り出された人間関係やコンテンツが非常時にも有益な資源として機能したと考えられる。ソーシャルメディアの利用率の変化(東北・関東全域)を、震災発生以前から約1ヵ月後まで時系列で確認した。その結果、震災以前に利用されていたソーシャルメディアのトップは「Youtube」で22・7%であった。それが前述した関東地方の結果と同様、震災当日は「Youtube」が4・8%と大きく利用率を落とした。約1ヵ月後には盛り返した「Youtube」の11・9%に僅差で抜かれている。

Twitter以外に利用率があまり低下しなかったのは、「Wether News」で震災発生以前に6・7%であったものが、震災当日に4・5%、約1ヵ月後には5・5%となっている。天気予報は災害時にも需要のあるコンテンツだからであろう。また、マスメディアで話題となった「Facebook」は、震災前後のタイミングではまだ大きなシェアを占めるに至っていない。震災発生以前には3・7%で、約1ヵ月後にもまだ2・3%という利用率であった。

帰宅者問題の分析でも顕著であったが、やはりTwitterの利用状況は他のソーシャルメディアと一線を画しており、災害時にも利用が継続していた。一般に、インターネット上の言説は、信頼性に問題のあるものが多いといわれている。Twitterでは、個人が有する社会的立場や人間関係を公開しているアカウントもしばしば見受けられ、仮に匿名であっても行動に則したツイートが重ねられることで全人格的に信頼が形成されている。また、場合によってはフォロー先次第でマスメディアより先に専門家の見解を知ることができるという時間的優位性もある。

なお、津波被災地域においてケータイは使えなかったがTwitterは使えたという趣旨の発言をたびたび耳にしたが、これには誤解があるTwitterのサービスを利用するにはアクセス回線が必要であり、現在その多くはケータイ(主にスマートフォン)が使われている。インターネットに接続したパソコンからも利用できるが、いずれにせよアクセス回線がなければパソコンやスマートフォンを持っていたとしてもTwitterだけが利用できることはない。ただし、アクセス回線が1本でも確保できれば、非常に安価な災害関連情報の伝達手段が開設できる。万全を期すための手段にはなり得ないが、自治体や企業・団体が用意する手段としてはコストパフォーマンスに優れた情報メディアである。

次に、震災対策のために開設されたソーシャルメディアについても確認しておきたい。震災対策の特設ソーシャルメディアは、いわば非常時の社会システムに位置づけられるわけだが、非常に重要な役割を果たした。その代表格である「Yahoo! Japan災害情報・復興支援」は、震災関連情報のポータルサイトとしての役割を果たすとともに、Webサイト運営の枠組みを超えてボランティアの斡旋や被災地復興につながる商品販売などを手がけていった。震災当日の利用率は9・2%であったが、その1ヵ月後には13・9%まで上昇している。この値は、日本最大のSNSサイトである「ョE」の平常時利用率12・8%をも上回る。

またGoogleは、震災関連情報のポータルサイトとなる「Google  Crisis Response東日本大震災)と、Webサイト上で安否情報の確認ができる「Google Person Finder(消息情報)」を立ち上げた。Google Person Finderは携帯電話事業者各社が提供する災害用伝言板ともデータ連係し、行方不明者を捜す重要な手段となった。これらのサービスも1ヵ月後にはそれぞれ、4・8%と3・9%まで利用率が上昇している。特にGoogle Person Finderは利用者が限られているため、人気上位のWebサイトと比べて利用率が高いとは言い難いが、それでもこの値は「アメーバ・ブログ」の平常時利用率や、「Facebook」の平常時利用率3・7%に相当する。

このように、期間限定で開設されたサービスではあるが、主要なソーシャルメディアに匹敵するほどに利用され、人々はこれらソーシャルメディアを介して被災地の復旧・復興支援に関与してきたのである。

なぜ人々は、ソーシャルメディアを介して被災地の復旧・復興に携わろうと考えるのか。そのモチベーションの原点となるインターネット上での情報発信の目的について調べてみた。その結果、東北・関東全域では、「経験や知識を共有したい」が15・4%、「(人々を)安心させたい」が12・6%と、利他的な目的から情報発信していることがわかった。このような美徳ともいえる意識が、幾分か復旧に携わる人々の助けになったのではないだろうか。

また、震度6弱以上の強い地震を経験した人々は、東北・関東全域とは異なる傾向を示す。「感謝したい」8・3%や「支援を受けたい」7・4%、「後世に伝えたい」5・1%という回答が多く、特に「感謝したい」は東北・関東全域の回答3・4%と比べて2・4倍の値を示した。被災者のこのような「感謝したい」という声を、ソーシャルメディア上に展開することができれば、一方通行になりがちな支援にレスポンスが生まれ、それをきっかけに被災者と支援者の双方向コミュニケーションが連鎖するようになるのではないか。これは、今後も被災地への関与が続けられていくための手がかりになると考えられる。

今、被災地支援の活動は、復旧期の弱さを支えるという取り組みから、復興期の強さを引き出すという取り組みに大きく舵を切ろうとしている。だが、被災地の強さを引き出すことは一朝一夕にはできない。社会全体でそのあり方を模索しながら進むしかない。幸いにして私たちは距離を超えてつながり合うことができる文明の利器を持っている。現地に行かなければ復興に関わることができないというわけではない。ソーシャルメディア上の人間関係は、ソーシャルグラフと呼ばれる。これを単なるコミュニケーションのつながりに終わらせることなく、社会の活力を生み出すようなネットワーキングに昇華させていく挑戦は始まったばかりである。
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因果関係への問い 必然と偶然

『放射線問題に立ち向かう哲学』より

この放射能問題に関しては、もっとはるかに根源的なレペルでの不確実性が厳然と横たわっていることに思い至る。それは、「放射線被曝ががん死をもたらす」(この命題がすべての問題の根幹である)というときの「もたらす」という関係性、すなわち「因果関係」にまとわりつく不確実性である。これは、哲学上の大問題の一つであり、議論が錯綜していくことは必定だが、放射能問題を論じるときに決して避けて通ることはできない。というより、放射能問題を論じるに際して「因果関係」の問題を素通りしてしまうならば、どこかで欺膨的な断定を密かに導入している議論だと見なされても仕方ない、とさえ言えるだろう。

まず、問題となるべき因果関係を提示しておこう。

(A)「低線量放射線を長期に被曝したら、がん死する」

命題(A)を検討するには、最初に「被曝を長期にしたら、がん死する」というところの、「たら」ということの意味を吟味する必要がある。この点について、まずは一般的な視点からアプローチしていき、徐々に命題(A)へと立ち戻っていこう。

マッチの火をロウソクに近づけたら、炎がともった。二〇一一年三月一一日の夜、東日本の多くの家庭(私の家もそうだった)で生じた、この現象から議論を起こしてみよう。何が問題なのか。あの夜の恐怖感、心細さを別にするならば、マッチの火を近づけたらロウソクの炎がともったという、この現象は何の変哲もない。けれども、こうした変哲もないところから、まさしく「変」な「哲」学が始まるのである。「変」といっても、日常的に一見変に聞こえるというだけで、学問的には変どころか、人類の思考の核心にかかわる、きわめて根源的な反省の端緒がここに開かれるのである。議論を明確にするために、例となる文を明示しておく。

(a)マッチの火をロウソクに近づけたら、炎がともった。

ここでのポイントは、「ロウソクに近づけたら」の「たら」にある。このことは先の命題(A)と共通する。さてでは、これはどういう「たら」か。あることが生じた後で、別のことが生じた、という時間的な順序を意味する「たら」だろうか。次の例を考えてみよう。

(b)ぼくが電車に乗ったら、窓際の席に座っていた女性がくしゃみをした。

この(b)の状況での「たら」は、おそらく時間的な順番を示す「たら」だろう。つまり、「ぼくが電車に乗ること」と、「女性がくしゃみをすること」とが、たまたま時間的に連続して生じた、ということだけを示すように思われる。それに対して、(a)の状況での「たら」は、どうだろうか。どうも、(b)の場合とは違うように聞こえる。「たまたま」ではないだろう。では、何だろうか。言うまでもない。(a)の状況での「たら」は「因果関係」を示す「たら」なのである。そしてむろん、先の命題(A)での「たら」もまた、明らかに因果関係の「たら」として私たちの前に立ち現れ、そうであるからこそ不安の源となっているのである。

ということは、「因果関係」というものは、「たまたま」成り立つものではなく、もっと別の関係性なのだろうか。卑近な例で恐縮だが、すこし掘り下げて考えていこう。

もしロウソクが湿っていたなら、と想像してみよう。その場合、マッチの火を近づけても炎がともることはないだろう。(a)の状況は、ロウソクが湿っていなかったから成り立ったのである。では、ロウソクが湿っていなかったのは「たまたま」ではないのだろうか。むろん、いろんな場合がありうる。ロウソクを使うことを見越して、持ち主が乾燥した場所に意図的に保管していたならば、「たまたま」とは言い難い。あるいは、炎をともすことを目的として、マッチをする人が乾燥したロウソクを探して選んだという場合も、人の意図がかかわるので、「たまたま」とは言いにくい。そして、このように、ロウソクは乾燥している、ということをそもそも前提するならば(そのことに疑問を持つ必要がないと仮定するならば)、マッチの火を近づけることと、炎がともることとの間には、「たまたま」ではなく「必ず」という関係性が成立していると考えられる。すなわち、「必然性」である。

これに対して、(b)のような「たまたま」という関係性は「偶然性」と呼ばれてきた。ということは、(a)と(b)の違いは、(a)はマッチの火と炎との間に必然的な結びつきがあり、それゆえ因果関係であると言えるのに対して、(b)は単に「たまたま」時間的に連続して発生した偶然的な現象にすぎない、というコントラストにあると、そう言えそうである。

しかし、いま見てきたことからも明らかなように、(a)での「必然性」は、ロウソクは乾燥しているという前提のもとに成り立つ関係性にすぎない。こうした前提に疑いをはさむ余地がある場合には、話か違ってくるのではなかろうか。たとえば、火を付けようとしている人がいろいろな条件の下にあるロウソクから一つを無作為に取り出してくる場合、そのロウソクにマッチの火を近づけて炎がともったのは「たまたま」ではないか、と思えてくる。のみならず、なぜロウソクに火を付けようと思ったのか、なぜマッチを使おうと思ったのか、と問いを重ねていくならば、「必然性」の装いは徐々に薄れ、「偶然性」が支配しているのではないかという思いが前面に現れてくる。
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