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「宇宙の旅人」で救われた

未唯空間は全域を定義

 未唯空間の特徴は全域に亘っていることです。

依存と組織

 依存という言葉から、何を想定するのか。組織での皆の対応です。ミーティングにもおとなしく出て、親睦会にもおとなしく出る。与えられた仕事をして、それで評価されていく。一番の評価されるのは、親睦会を企画する人間。これは完全な依存です。そして、夫婦での共依存。

 人間が社会的な動物として、依存関係が出てきたのはこの最近です。そんなものはダメです。共依存ではなく、共有の概念にどう持っていくかです。そのためには、一人ひとりが独立しないといけない。

 個人は、単に一つのことに囚われていてはダメです。広い範囲に持っていかないといけない。それが個人の分化です。

基本は孤立と孤独

 人の心は生まれてくる前に、何かを持っています。基本の孤立と孤独をハッキリさせます。私のなぜ、これが最初に出てきたのか。

 孤立については、社会通念では悪いことになっています。孤立に関しては、葬式の時に誰が来るのかぐらいしかない。来ないでさびしいでしょう、という脅しです。

 そんなことは生まれてきた理由に対しては、意味がない。ただ、目秋穂食うために依存するというのはあるけど、それは制度の不備です。従属と依存ではなく、共有のはずです。

 食料がなかったころ、役割がはっきりしなかった時にはありえたが、次の段階に行くためには、それは否定されるものです。現代は一人でできる方が多い。むしろ、一人でないとできない。人任せではろくなものができない。

 人に依存して、仕事をもらって、自己完結していればいいという前提は、全体が一つの生命体でないといけない。名古屋のように、自分の成果でないところでは、いかにやっているふりをするかどうかです。それを身内からばれないようにするために、共依存に持っていきます。自立して人が組織としての邪魔になってきます。

自分の役割を果たす

 研究開発部署で習ったのは、一人1テーマです。自分の役割を果たすことです。それを有機的につなげることで、有用なものを作り出してきた。それで初めて、技術がモノになります。

 そこから見ていた名古屋というのは、全然、機能していない。お客様とか社会に対して。商品の良さで、販売店が売っているだけです。このままでは、社会から受け入れられなくなると思い、名古屋に来た。

 名古屋は過去の成功体験とお客様の意識を変えないというマイナス戦略で持っているふりをしている。2006年から商品は売れなくなっています。その状態でどうしていくのかという問題提起に対して、無視されている。

 今、売れているからいいじゃないか、文句言うなというのが名古屋の言い分です。販売店経営者は今のことと先のことを心配している。そんなことを聞く耳はない。それって、答えですか。

宇宙の旅人で救われた

 当然、孤立というのは社会的には受け入れないでしょう。親との関係とか、組織の縛りがあるから。そんなことを表に出していいのかを悩んできた。

 それを解決してくれたのは、池田晶子さんの「宇宙の旅人」の概念です。親から生まれたのではなく、偶々、自分は宇宙を旅して、この地球に来たという概念です。何にも縛られない。

 そこでは、考えることが生きること、生きることが考えること。これは正解です。スッキリします。柵から脱却できて、地球も宇宙も私のためにあります。

 池田さんは親との関係がない。最初からそんなものがない。考えることで、人間は自由になれる。つまり、自我です。自分の自我を大切にして、生きていく。生きることは考えること。

 最後まで、池田さんは堂々としていた。社会にもアピールしていた。孤立と孤独の世界を貫いた。憧れます。

 その池田さんを受け入れる環境が社会にあった方が驚きです。その時点から、孤独と孤立を表に出すようにして、未唯空間で考え方を作ってきました。
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社会は存在するか

『政治的思考』より 社会 国家でも市場でもないのか

社会とは何なのでしょうか。まるで当たり前のように扱われがちのこの言葉ですが、実はよくわからない点が多い。にもかかわらず、それを当たり前のように論じることによって、特定の考え方を「密輸入」している場合が多いのです。

社会など存在しない、という言い方をする人びともいますが、その場合には、何か他のものがあることを前提としています。たとえば、「個人」はあるとされます。個人は確固としたものとしてもともとそこにあり、疑う余地はないとされる。しかし、その個人というものはどうやって形成されたのか。人は生まれてきた状態のままで、人として暮らしていくことができるのでしょうか。

社会が契約によってつくられたとする社会契約論の理論家たちは、そうした個人がいるだけの状態を「自然状態」としてまず想定しました。社会以前の状態から社会にどう移るかを描こうとしたわけです。それでも、彼らの議論で、本当に素のままの人間のあり方について論じることができたかについては、さまざまな疑問が浮かびます。

何よりもまず、自然状態では、人びとは言葉を通じて関係をもっているとされる。いくら人が狼に喩えられ、暴力が容赦なく用いられることが強調されようとも、他方で人びとが言葉によって結びつくことはそこで前提とされています。だからこそ、社会の設立について、契約で合意することもできるわけです。しかし、共通の言語をもつためには、あらかじめ、ある範囲の人びとの間で長期にわたって深い交流がなければならないのではないでしょうか。

これに関連して、自然状態では、人びとは契約というものについて同じ考え方をもち、しかも契約は守られなければならないという強い意識をもっていることが前提とされています。これは、かなり高度な内容を含む合意です。単に口から出ただけの言葉によって縛られるという考え方は、決して自然なものではないからです。

その上、自然状態で、人びとは自分たちにかかわりのある人間の範囲がどこまでなのかを、すでに知っているようです。だからこそ、契約なるものが可能になると想定できるのでしょう。ある範囲の人びとが契約に参加することで、はじめて社会契約は成立したものと見なされるはずです。しかし、その範囲がいつどのようにして決まったのかは、不明のままです。誰と誰が契約の当事者なのか、そして、なぜその人びとなのか、ということは明らかにされず、まるで当たり前のように話が進みます。しかし、もしもある一定の範囲の人びとが、そして彼らだけが、ともに社会契約をすべき人びととして特定できるとすれば、そこにはすでにある一つの「群れ」があるはずです。この「群れ」はいったい何なのでしょうか。それは契約に先立って、場合によっては戦争や征服などの結果として成立した単位なのではないでしょうか。

このように、社会が存在しない状態について考えることもとても難しいのです。にもかかわらず、社会などない、個人だけが存在するという言い方をする人がいるとすれば、それはやはり、何らかの意図にもとづくものです。人びとの間のつながりを弱いものと見なし、人がみな、個人として当然に自立できると考え、福祉国家など必要ないと主張するといったことです。しかし、人は思った以上に、他の人びととの複雑な関係の中で暮らしているのではないでしょうか。そうしたいろいろな関係の中で、「社会」と呼ばれるものは、どこまで独自のものと言えるのか、考えてみたいと思います。
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自由対権力

『政治的思考』より 自由 権力をなくせばいいのか

自由とは何か。これはずっと昔から論じられてきて、答えが出ないテーマですが、すぐに思い浮かぶ定義は、「自由とは何ものにも縛られないことである」というものでしょう。しかし、何ものにも縛られないということが本当にあるでしょうか。私たちは社会の中で何らかの位置を占めている。誰かと家族をつくっていたり、ある宗教を信じていたりするし、それぞれの経済的な立場があり、ある人びとと強いつながりをもっていたり、ある性的な指向性があったりと、社会の中でさまざまな位置を占めている。それは「縛り」ともいえるのではないでしょうか。縛りというのは、つながりでもあります。社会的な関係性の中で人間が生きざるをえない以上、こうした縛りから逃れられないのではないか。だとすれば、ますます「自由」とは何かがよくわからなくなってしまいます。

ところが、政治をめぐる議論のなかでは、自由は自明なものとして扱われることが多いのです。すでにふれたように、権力と自由を対立させるという考え方が一般的だからです。権力とは、私たちに意に反して何かをさせるものであり、自由の反対にあるものだとしばしば定義されます。そうした前提に立つと、人が自由になるには権力がなくなれぱいいということになる。

しかも、こうしたときの権力という言葉は、政治とほとんど同義語として語られます。政治とは権力の現象であり、権力が作用しているときに政治はあるという考え方です。そしてそこでの権力とは、意に反して何かをさせるものと考えられがちですから、命令や暴力というものとどうしても結びつく。政治とは、人に何かを命じる、押し付けがましい「命令言語」の世界にあるということになります。

こうした発想が一般化したのは、二〇世紀という時代における経験があまりにも大きかったからでしょう。まずは総力戦の経験です。職業軍人だけが戦場で戦うのでなくて、ふつうの人びとが広く戦争に動員される。兵士として徴兵されることもあるし、生活や経済活動全体が戦争に投入される。さらに、非戦闘員も戦争の被害を受ける。こうした総力戦の経験が、政治と権力と暴力とを同列に並べてとらえる政治観を強めたのだろうと思います。社会主義を目指す党派が、従わない人びとに「命令言語」を浴びせたこともひびきました。

そこから、政治乙罹力―暴力を小さくすればするほど、人びとはより自由になるというテーマにも表れています。政治の世界、そこは、よこしまな動機にあふれていて、人を何かに駆り立てたり、大変な目にあわせたりして、自由を奪い人生を狂わせてしまう。そうしたどろどろとした政治の世界に対して、文学は人間の本来の世界に迫るものである。こうした対立項を立てて、政治以外のところに価値を見出すやり方は、「政治と文化」「政治と芸術」という対照にもみられます。

しかし、実際に文学を読めば、そこに政治がないはずはありません。さまざまな社会制度が登場人物に影響を及ぼしていますし、国際情勢が色濃く影を落としていたりする。さらにいえば、登場人物たちが互いに対立したり、その対立を乗り越えて話をつけたりするその過程を、政治と呼ぶこともできるはずです。にもかかわらず、政治とは別のところに文学を見出そうとするのは、それだけ政治に痛めつけられた経験が大きいからでしょうが、二つを分ける難しさも意識しなければなりません。

権力と自由とを対立的に見る発想は憲法学にもあります。憲法学では、権利や自由と権力とを対立させる考え方が一般的です。権力は人びとの権利や自由を妨害したり侵害したりするので、人びとの権利や自由を守るために、権力を制限しなくてはならない、これこそが憲法の役割なのだという考え方です。憲法についてのこうした考え方を立憲主義と呼んだりしています。憲法によって守られる自由=権利と、政治=権力とを対立させて考える見方にほかなりません。

前章でも述べたように、自由と権力が対立するという見方を、私は広く自由主義(リベラリズム)と呼んでいます。自由主義はもちろん重要なのですが、こうした立場からのみ政治を見ることには限界があるとも思います。

確かに言論の自由、宗教の自由、身体の自由など、一般に自由権と呼ばれるものは、政府が何も「悪さ」をしなければ、実現することができるでしょう。こうした自由は政府の不作為を求めるわけです。放っておかれれば自由なのです。しかしその一方で、まずは暮らしていくことができなければ、他の自由も実現できない。すでに見たように、そこから最低限度の生活を保障することを求める生存権など、社会権と呼ばれる権利への要求が、とりわけ二〇世紀以降に出てきました。こうした権利は憲法で宣言されさえすれば、そのまま実現できるというものではない。人びとの生活を保障するために政府が何らかの制度をつくり、そこに財政を投入しないと、生存権は達成できません。つまりこの場合、自由権とは異なって、権力の積極的なはたらきを必要とする。自由対権力、自由対政治という構図ではなく、自由のための権力、自由のための政治という構図になるということです。
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決定 決めることは捨てること

『政治的思考』より

まず、決めることについて考えてみましょう。何も決めないときにはあらゆる可能性が開かれています。たとえば、結婚相手が決まっていない段階では、未婚のすべての人と結婚する可能性が論理的にはあります。あくまでも論理的には、ですが。いったん結婚相手を決めると、他の人とは(しばらくの間は)結婚できなくなります。一人を選ぶということは、他の選択肢を閉ざしてしまうことです。

決めるということは捨てることを意味するのです。私たちの人生はそうした選択の連続であり、選択は必要なわけですが、同時に恐ろしいことのようにも感じます。決定にはある種、残酷な面があります。私たちは日々、いろいろな選択をしますが、選んだものは意識する半面、捨て去ったものをふり返ろうとはしません。

当たり前だと思われるかもしれません。けれども、政治において「決める」ことについて考えるときに、このことの意味が十分に考えられていないのではないかと思うのです。政治の世界では意思決定や政策決定の重要性が強調されますし、なかなか決断できない政治に対して、「決められる政治」を、という言い方もされます。政治とは決めるためにこそあるのだ、政治の本質は決定だ、という前提がそこにはある。しかし、そこから出発してしまうとき、見えなくなってしまっている大事なことがあるのではないか。

大きく二つのことをつねに意識する必要があります。一つは、政治的な決定は重大な線引きをすることになりますが、それによって、内側と外側とが切り離されるという点です。最も典型的なのは領土です。ある国の領土とされた土地は、他の国の領土とは考えられなくなります。国境線の設定は、多くの場合、たまたまそうなったということにすぎないのですが、にもかかわらず、いったん決まると、それを守ろうとする強い力がはたらく。それは、一度、国境線というものの流動化が始まると、それは他の国境線にも及び、秩序が不安定化しかねないからです。国境線を定めることで、国家の権力がどこまで及ぶかが決まり、物事の秩序が整理されます。権力による保護の対象となる人びとの範囲も決まりますが、それは、対象とならない人びとが外へ追い出されることでもあるのです。国境線以外にも、さまざまな線引きがあります。たとえば、公害病や放射線被害などについて、補償の対象となる人びととそうでない人びととの間に線を引くことで、本来、対象となってもおかしくない人びとが排除されることも多いのです。

こうした、範囲をめぐる切断に加えて、二つめに何かを決めた瞬間を起点にして、その前後で物事の性格が変わるという点もあります。決めることで、時間的にもある種の切断が起こる。体制の選択や革命、戦争の開始などは、重大な決断ですから、誰しも時間的な不連続性を意識するでしょう。私たちは、先の戦争の前後という区分が、今でも意味をもっていると感じています。フランス革命の前と後といった区分は、フランスだけでなく世界の人びとにとって、大きな意味をもち続けています。そうした大きな話に限らず、些細に見える決定であっても、それによって人びとの時間は変わります。たとえば、ある税制の導入や補助金の廃止など、何らかの制度変更によって、自分の仕事が大きな影響を受け、生活が一変するということもある。健康被害への補償の場合、対象となる期間が限定されることによって、排除される人びとも出るのです。

たしかに決定といっても、個人的な決定と集合的な決定とは異なりますが、個人的な決定にしても、完全にその人が自由に行えるわけではありません。なんでも好きなようにできるわけではなく、いろいろな事情や制約条件がある。そして、私たちにとっていつも納得がいく条件ではないのがふつうです。制約条件が私たちに押しつけられるわけで、そういう事情の中で個人の選択は行われる。だから自分自身の選択ではあっても、不本意な場合もありうるのです。

まして政治は、みなのことについて決める営みです。複数の人びとの間の集合的な決定にかかわるわけで、そのために、政治は個人的な決定とは別の水準の理不尽さをもたらすものとして、私たちに意識されることが多い。複数による決定ですから、自分の意のままにはいかないことも少なくないのです。全体を称する多数派の都合のために、自分が損をすることだってある。だからといっていつも従わなければ、決定すること自体が無意味になってしまいます。この世に自分一人だけで暮らしているわけではないですから、集合的な決定は避けられるものではありません。納得はいかないけれども受け容れないわけにもいかない。このあたりから、政治というものにはある種の不愉快さ、押しつけがましさがつきまとうことにもなるわけです。

政治における決定の意味について、「誰が」「何を」「いつ」「どのように」決めるかという具合に分けて考えてみます。
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文書化 8.5 ポータル 小項目

8.5.1 現行

 ポータル画面
  ポータルは、コミュニケーション、メッセージ、情報収集、ライブラリの4つの機能で構成される。
  コミュニケーションの基本は操作画面です。個人認証で的確な表示を行い、関連システムをシングルサインオンする。

 メッセージ
  システム毎にメッセージが存在している。ポータルに集約させる。その上で、メッセージから始まる循環をイメージする。
  お知らせ以外に、掲示板・iFlameなどで伝えている。それらの効果が不明。基幹系と同時表示ができない。

 ライブラリ
  本部の情報をストックする場として、Sa-ライブラリを開発して、メッセージと連携させた。
  ライブラリを必要としない販売店も多い。ライブラリの存在理由を明確化する。

 情報表示
  実績表の表示を一目で状況が分かるために、情報提供している。自社での加工レベルを上げる必要がある。
  アピール・アンケートは表形式のアンケートが主になっている。結果をアピールできるものが必要になる。

8.5.2 拡張

 ポータル改善
  ポータルの情報共有機能を前面に出していく。4つの機能を進化させる。ポイントは販売店での加工になる。
  最新のパッケージを用いて、操作の容易性を図る。並列的な表示とポップで即時性を持つことで、ポータルの独立を目指す。

 メッセージ
  システムを通さずに、権限で表示させる。お客様・メーカー・本社とのメッセージのスルー性を確保する。
  社内SNSの具体化をはかる。一つのテーマについて、スタッフがお客様を代表して発言する。その要望を吸い上げる仕組み。

 ライブラリ
  Sa-ライブラリについては、スタッフのコラボ結果を集約できるようにする。検索異能を含めて、知識と意識の集約をはかる。
  販売店からバラバラでアクセスしているメーカー情報、大容量データ、自社映像コンテンツなどをポータルからアクセス。

 情報収集
  ポータルのコンテンツ編集の機能を使って、基幹系・情報系の販売店でデータ外付けして、自社用の表示を可能にする。
  アピール・アンケートの結果なども、グラフなどで表示して、アピールする。自社サーバなしでの活用を可能にする。

8.5.3 企画

 スタッフ環境
  ポータルをスタッフ自身の武器にしていく。情報共有を徹底させて、店舗の活性化をめざす。販売店での加工を可能にする。
  ソーシャル・ウェブを活用して、社会システムとの親和性を図る。クルマを使うことへの認識をカタチにする。

 テータの外付け
  EAI機能を使って、基幹系データの差分を反映させる。自社で収集した、フロー情報と合わせて、プロファイルを作成。
  簡単な操作で、スタッフ単位での活用を可能にする。お客様接点で得られた情報を集約する。

 メーカーと直結
  メーカー情報を毎回、取りに行くから、関係する情報をプッシュさせる。サーバー情報とポータルの個人情報を関係づける。
  ライブラリの見える化として、利用状況・ランキングなどを提供。ソーシャルウェブで微分的から積分的なものに変わる。

 お客様と接続
  お客様ポータルは、おきゃ様任せです。お客様の声を吸い上げ、的確に対応するスタッフ側の意識は必要になる。
  最終的には、お客様のコミュニティとの接続して、メーカー企画との関係とつなげていく。メーカーの存在理由になる。

8.5.4 開発

 要件
  現行機能の確保が前提になっている。現行はポータルの最終形ではない。足りない部分をできなかった部分は補完する。
  ポータルでの拡張性としては、4つの機能で展開していく。販売店システム全体と先行きのイメージも提示していく。

 選択
  開発方式は3つが提案されている。Salesforce、SharePont、Liferayです。私はソーシャルウェブを選びます。
  SFDCのポイントは、アジャイル型開発手法、生産性、情報共有基盤の認識、全体への展開、機能改善の抑え込みです。

 構築
  現行機能を作り上げるのは、仕様書を元に、稼働状態を見ながらの開発。なるべく似たものを作るが、許容範囲は判定する。
  追加機能は、SNSはコラボ、モバイルはメッセージ表示、検索はライブラリで対応。アイデアボックス、データ抜出は既存に含む。

 展開
  10万人に対する展開ではなく、先行する販売店を優先する。事務局を構えて、販売店事例の横展開を行っていく。
  スタッフでの評価を優先して、自分たちのツールにしてもらい、意見を発してもらう。それを経営者に訴える。
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文書化 8.5 ポータル 小項目

現行
ポータル画面
ポータルは、コミュニケーション、メッセージ、情報収集、ライブラリの4つの機能で構成される。
コミュニケーションの基本は操作画面です。個人認証で的確な表示を行い、関連システムをシングルサインオンする。
メッセージ
システム毎にメッセージが存在している。ポータルに集約させる。その上で、メッセージから始まる循環をイメージする。
お知らせ以外に、掲示板・iFlameなどで伝えている。それらの効果が不明。基幹系と同時表示ができない。
ライブラリ
本部の情報をストックする場として、Sa-ライブラリを開発して、メッセージと連携させた。
ライブラリを必要としない販売店も多い。ライブラリの存在理由を明確化する。
情報表示
実績表の表示を一目で状況が分かるために、情報提供している。自社での加工レベルを上げる必要がある。
アピール・アンケートは表形式のアンケートが主になっている。結果をアピールできるものが必要になる。
8.5.2 拡張
ポータル改善
ポータルの情報共有機能を前面に出していく。4つの機能を進化させる。ポイントは販売店での加工になる。
最新のパッケージを用いて、操作の容易性を図る。並列的な表示とポップで即時性を持つことで、ポータルの独立を目指す。
メッセージ
システムを通さずに、権限で表示させる。お客様・メーカー・本社とのメッセージのスルー性を確保する。
社内SNSの具体化をはかる。一つのテーマについて、スタッフがお客様を代表して発言する。その要望を吸い上げる仕組み。
ライブラリ
Sa-ライブラリについては、スタッフのコラボ結果を集約できるようにする。検索異能を含めて、知識と意識の集約をはかる。
販売店からバラバラでアクセスしているメーカー情報、大容量データ、自社映像コンテンツなどをポータルからアクセス。
情報収集
ポータルのコンテンツ編集の機能を使って、基幹系・情報系の販売店でデータ外付けして、自社用の表示を可能にする。
アピール・アンケートの結果なども、グラフなどで表示して、アピールする。自社サーバなしでの活用を可能にする。
8.5.3 企画
スタッフ環境
ポータルをスタッフ自身の武器にしていく。情報共有を徹底させて、店舗の活性化をめざす。販売店での加工を可能にする。
ソーシャル・ウェブを活用して、社会システムとの親和性を図る。クルマを使うことへの認識をカタチにする。
テータの外付け
EAI機能を使って、基幹系データの差分を反映させる。自社で収集した、フロー情報と合わせて、プロファイルを作成。
簡単な操作で、スタッフ単位での活用を可能にする。お客様接点で得られた情報を集約する。
メーカーと直結
メーカー情報を毎回、取りに行くから、関係する情報をプッシュさせる。サーバー情報とポータルの個人情報を関係づける。
ライブラリの見える化として、利用状況・ランキングなどを提供。ソーシャルウェブで微分的から積分的なものに変わる。
お客様と接続
お客様ポータルは、おきゃ様任せです。お客様の声を吸い上げ、的確に対応するスタッフ側の意識は必要になる。
最終的には、お客様のコミュニティとの接続して、メーカー企画との関係とつなげていく。メーカーの存在理由になる。
8.5.4 開発
要件
現行機能の確保が前提になっている。現行はポータルの最終形ではない。足りない部分をできなかった部分は補完する。
ポータルでの拡張性としては、4つの機能で展開していく。販売店システム全体と先行きのイメージも提示していく。
選択
開発方式は3つが提案されている。Salesforce、SharePont、Liferayです。私はソーシャルウェブを選びます。
SFDCのポイントは、アジャイル型開発手法、生産性、情報共有基盤の認識、全体への展開、機能改善の抑え込みです。
構築
現行機能を作り上げるのは、仕様書を元に、稼働状態を見ながらの開発。なるべく似たものを作るが、許容範囲は判定する。
追加機能は、SNSはコラボ、モバイルはメッセージ表示、検索はライブラリで対応。アイデアボックス、データ抜出は既存に含む。
展開
10万人に対する展開ではなく、先行する販売店を優先する。事務局を構えて、販売店事例の横展開を行っていく。
スタッフでの評価を優先して、自分たちのツールにしてもらい、意見を発してもらう。それを経営者に訴える。
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