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『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

独我論

論理空間を構成する対象について論じていた人が、あるいは真理操作の基底となる要素命題についてそれまで論じていた人が、ふいに「だから、独我論は正しいってわけだ」などと言い始めたならば、やはりとまどうだろう。「なぜいきなり独我論なんだ」と聞き返さずにはおれない。『論考』五・六一五・六四一がまさにそうなのである。それまで論理と命題の意味について論じていたウィトゲンシュタインが、突然こう切り出す。

五・六私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

ここまで『論考』は「私の言語」などという言い方をいっさいしてこなかった。なぜ「私の」言語なのか。そしてその少し後でこう述べる。

五・六二独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである。

この唐突な展開は、あたかも『論考』が別の話題を論じ始めたかのような印象を与える。しかし、そう思っていると、五・六四一が終わり、六に入って再び真理関数の一般形式についてのコメントが始まる。ふつうに読めば、五・六―五・六四一が前後から切断された飛び地のように見えてしまってもしかたがない。この違和感を取りのぞき、これらの諸節をその前後に自然に接続させるよう『論考』の独我論のありかを読み解くことが、この章の課題となる。

10-1『論考』の独我論は現象主義的独我論ではない

この違和感、五・六一五・六四一が分離してしまっているという感じは、ここでウィトゲンシュタインが「正しい」と共感している独我論をよくあるタイプの独我論、すなわち現象主義的な独我論と解することによって増幅される。あらかじめ述べておくならば、私は『論考』の独我論は現象主義的な独我論ではないと考えている。しかし、そうだとすると、ではそれはどういう独我論なのかという問いがただちに問われねばならない。順に検討していこう。まずは現象主義的独我論なるものを押さえておく。

現象主義は、すべてを私の意識への現れとして捉えようとする考え方である。たとえばいま私には机の姿が見え、その上に何冊かの本が重ねられているのが見え、窓の外では蝉の声が聞こえている。また、少し蒸し暑いと感じ、こめかみの奥に軽い頭痛を感じている。現象主義はこうした現れ=現象だけを受け取る。与えられたものはただそれだけでしかない。

こうして、ただ現れるものだけを厳格に禁欲的に受け取ることにおいて、現象主義は独我論へと踏み込んでいく。現象主義のもとでは、たとえば他人の頭痛などは意味を失う。他人の痛みは私には現れえない。もし私に現れたならば、それは私が痛いということであり、私の痛みでしかない。あるいはまた他人の知覚も私には現れえない。「他人の意識」あるいは「他の意識主体」、そう呼ばれうるようなものは現象主義の受け取る世界にはもはや何ひとつない。他我が消え去り、ただ自我のみが存在する。すなわち、独我論の世界が開ける。

さらに、他人の意識を抹消することによって、現象主義はその現れを「私の意識への現れ」と言うことさえできないことになる。現れはすべて私の意識への現れでしかありえず、それゆえむしろそれを「私の意識」と言い立てることにはポイントがなくなるのである。意識主体たる私は意識の内には現れえない。かりに意識された私がいたとして、それは意識主体たる私ではない。その場合にも、そこで意識された私自身を意識している私がいる。

意識主体たる私は意識への現れを受け取る主体であり、それはそうした現れを超越しているのでなければならない。そして他人の意識は現れえないのだから、私は現れを私への現れと他人への現れとに区別する必要もない。ただ、現れがある。これが現象主義の開く世界にほかならない。

こうした現象主義がその現れの世界を記述するとき、それはどうしたってある独特な言語にならざるをえないだろう。たとえば「彼女はひどい歯痛に悩まされている」という日常的な言い方は、それが痛みを感じる意識主体たる彼女を想定していることにおいて拒否されねばならない。あるいは、「私は少し頭が痛い」という言い方における「私」もまた、現れを受け取る主体としての自我それ自身は現れえないという理由で、消去されねばならない。

現象主義が採用するそのような言語を、ウィトゲンシュタインは『論考』以後の移行期の著作において「現象言語」と呼びもする。ただひたすら現れのみを記述する言語、ウィトゲンシュタインはそれを次のように説明している。

私、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(LW)が歯痛を感じている場合、このことは「歯痛がある(esgibtZahnschmerzen)」という命題によって表現される。しかし、「Aが歯痛を感じている」という命題で現在表現されていることに対しては、「Aは歯痛があるときのL・Wと同じようにふるまう」と言われる。これに類比的に「思考が生じている(esdenkt)」とか「Aは思考が生じているときのL・Wと同じようにふるまう」とも言われる。(『哲学的考察』、第五八節)

意識現象に対して、「私」とか「彼女」といった人称的主語を拒否し、ただ現れだけを記述する。ちょうど「雨が降っている」を英語で‘It’sraining.“と言い、あるいはドイツ語で‘esregnet.’と言うように、いわば非人称化する。それが、現象言語にほかならない。そしてウィトゲンシュタインはこのような言語への関与をかつての自分に認め、それを批判する。

現象言語――あるいは私のかつての言い方では「一次言語」は、いまの私には目標とは思えない。もはやいまの私はそれを必要とも思わない。(『哲学的考察』、第一節)

以前私は、通常われわれみんなが使っている日常言語と、われわれが現実に知っているものを表現する基本言語、すなわち現象を表現する言語とが存在すると考えていた。私はまた、前者の言語体系についても、後者の言語体系についても、語ってきた。私はここで、なぜ私がもはやこの考えに固執しないのかを述べよう。(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』、一九二九年一二月二二日「独我論」の項)

ここで批判されているかつての自分自身として、当然われわれはそれに直接先立つ著作である『論考』を思うだろう。では、『論考』のどこに、『論考』の言語が現象言語であることを示唆するものがあるだろうか。

ここまでわれわれが辿ってきた道筋を振り返ってもらえればそれでよい。私は『論考』の議論をほぼその順序にしたがって拾いあげてきた。よい機会だから、おさらいを兼ねて、『論考』の節番号に即して整理してみよう。

まず一番台で出発点となる現実世界について確認する。世界は事実から成り立つ。二・○番台で世界の可能性へと目が向けられ、それに伴って二・一番台で像に関して一般的に論じられる。

三・○番台で像としての思考について軽く触れたあと、三・一番台から像ということで中心的に考えられている命題についての検討に入る。以下三番台は主として命題の名への分析について論じられ、続く四〇番台で主として命題の意味について論じられる。この三・一から四・○番台までが、『論考』の理論的中心の前半を成す。名前をつけるならば、「要素命題論」と呼べる部分である。

ここで少しインターバルが入り、哲学についてのコメントが挿入される。そしてそのあと残りの四番台では要素命題と複合命題について論じられる。ここからが『論考』の理論的中心の後半になる。名前をつけるならば「真理操作論」と呼べる部分である。そして五番台は、真理操作という観点から論理について論じられる。それが五・五番台まで続く。そして、五・六番台である。
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