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『地図で見るアフリカハンドブック』

新版『地図で見るアフリカハンドブック』

はじめに

グローバル化でのアフリカの軌道を問いただす

グローバル化による世界の再編成の現状を分析すると、アジアが新興しているのに対し、ヨーロッパとアメリカが相対的に衰退していることは明らかなのだが、アフリカの占める地位はどうもはっきりとしない。はたしてアフリカは、これからも紛争と環境破壊、破綻した公衆衛生の犠牲になり、貧しくて不安定な大陸のまま、世界の中心からはずれていくのだろうか?それとも、豊かな自然資源[鉱物資源、生物資源、景観など]や人口の伸び、都市化、デジタル活用の急激な出現が、ほかに類を見ない成長の担保となって変化をとげ、世界的な資本主義の最後のフロンティアになるのだろうか?

ほかと同じ大陸か?

アフリカについて問いただすとは、つまり「アフリカ悲観論」や「アフリカ楽観論」といった型にはまった考えから完全に離れ、その多様性をとりいれて考えることである。2つの偏見から透けて見えるのは、この大陸を世界のほかの大陸とは違うと見ているのは明らかで、それではカメルーン人の歴史家で哲学者のアキーユ・ンベンベが強調するように、現実のアフリカを反映することにはならない。

アフリカ大陸の面積は3030万平方キロメートル――中国とインド、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国を合わせた面積に相当で、そこに2022年現在、14億5000万人が住んでいる。ひと塊となった大陸部周囲につらなる大小の列島は、1億6000年前にあったとされる巨大なゴンドワナ大陸が分裂した結果である。しかし、アフリカが細分化されているのはなにより政治的な要因によるもので、大半が熱帯である大陸の多様な地形や、何千という言語を話す民族のことは忘れられている。そんなアフリカの国々に共通しているのは、少数の例外(リベリア、エチオピア)をのぞき、19世紀の終わりからヨーロッパの大国の植民地となり、1960年代に多くが独立してからは、開発途上国に埋没したまま抜けだせていないことである。アフリカには現在、54の国家がある。国境の制定は外的な要因だったとしても、いかんせんその影響力は決定的だ。各国はあたえられた領土の枠組で、平和的にしろ、悲劇的にしろ、それぞれ特異な歴史をきざむことになったのである。

アフリカ情勢についての西欧の分析の多くは、単純化されるきらいがある。フランスの農学者でエコロジスト、ルネ・デュモンが『アフリカはハンディを背負ってスタートした』(1962年)で述べた意見は、1960年代においては異端で、当時支配的だったのは、「アフリカはヨ―ロッパからの開発の遅れを猛スピードでとりもどしている」という見方だった。続く1980-1990年の10年間は、災害大陸(干ばつ飢饉、戦争)として、世界体制の周辺に追いこまれることが多くなる。2000年代に入ってからはもっと複雑だ。多くは、元世界銀行副総裁のジャン=ミシェル・セヴェリーノと彼の特別補佐官オリヴィエ・レイの意見と歩調を合わせ、2人の共著書のタイトルのように『アフリカの新時代』(2010年)が来たとみなしている。その要因としては、新興各国との新しいパートナーシップ、人口増加と都市化による国内市場の拡大、教育とインフラの向上、独裁政権の減少と民主化の要求、国連で2015年までに達成する目標として合意された「ミレニアム開発目標」(MDGs)に象徴される開発政策の新たな高まり、などがあげられ、アフリカは新興地域に仲間入りしたようでもある(大陸内の重要な市場に支えられた堅調な経済で、グローバル化のなかで力をつけていることが確認される)。しかしそのいっぽうで、さまざまな危機(内戦、テロ、感染病など)によって、「アフリカ悲観論」が根強く残っている面もある。たとえば、開発問題の専門家セルジュ・ミハイロフは、著書『アフリカニスタン[アフガニスタンの過ちとアフリカを引っかけた造語]、アフリカの危機はわれわれの近くにもおよぶのか?』(2015年)で、地中海からそう遠くないサヘル地域[サハラ砂漠南縁部]で、貧困と暴力にあえぎながらも人口が爆発的に増えていることが、ヨーロッパにとって事実上の「爆弾」になっていると訴えている。

軌道と分岐点

本書では、データにもとづいた地図で、グローバル化のなかでの現在のアフリカの立ち位置を明確にしたいと思っている。現在の活力に満ちた状況は、アフリカ大陸のさまざまなレベル(国家、地方、大都市)で、軌道を多様化させるのには絶好だ。ちなみに、一部の国は新興国(南アフリカ、モロッコ)に組み入れられているのに対し、貧困と政治的な無秩序の負のスパイラルにおちいっている国(中央アフリカ共和国、ソマリア)もある。経済と人口、環境の動向が複雑にシンクロしているのである。

アフリカ経済の歩みはいたって遅い。人口の動向は、アフリカを専門とするイギリス人歴史家、ジョン・イリフェが強調するように(2009年)、鍵となるパラ―メーターの1つである。広大な空間を移動しながら暮らす、多いとはいえない人口に税を課すのが非常にむずかしいことから、アフリカの指導者は遠方との貿易を管理することで権力を築くことが多かった。それはたとえば、フランス人地理学者のロランプルティエが指摘するように、18世紀から19世紀に最盛期を迎えていた奴隷貿易である。これが先例となって、未加工の原材料(農業、鉱業、林業)の輸出に頼る資源依存型経済に踏襲され、19世紀終わりから、植民地時代をへて独立してからも実施されている。こうして、経済が原材料の世界相場に左右される脆弱な国家が生まれることになる。このようなやり方は、現在までのところ、多様な工程で経済全般を押し上げることができず、結果、より多くの人々の生活が持続的に向上する意味での発展からは見放されている。

1960年代の至福の時代(原材料の相場が高騰)のあとは、相場の下落で経済成長が失墜(1970-1980年)あした。つづく冷戦の終了(1990年)と、関連する支援の打ち切りなどで、アフリカの国々は貧困と政治危機のスパイラルにおちいり、各国は構造的な修正計画をよぎなく

された。次いで2000年から2014年にかけて、新たな好機が訪れる。中国の成長が世界の原材料相場を支えたのである。債務の帳消しと、新自由主義経済の改革(ゆるい税制と、法的な安全性)に引きつけられた対外投資が、とくに新興国(中国がいちばん目立つが、一国だけではない)から競ってつぎこまれた。くわえて、国外移住者からの送金や、グローバル化された金融が、合法違法にかかわらず流れてくる。この間、経済は成長して資金が流通、各国はふたたび開発計画をスタートさせた。しかし2014年以降は、景気循環の周期が短くなり、読みとりにくくなっている。Covid-19[新型コロナウイルス感染症]の影響で、とくに経済が打撃を受け、アフリカの成長は抑止され、政治の不安定化が助長されている。2022年初頭現在、ロシア・ウクライナ危機で世界に新たな衝撃をあたえていることもあり、その中期的な結果を判断するのはいっそうむずかしくなっている。

ところでアフリカの人口は、奴隷貿易や植民地時代の武力衝突などで減少していたのだが、第2次世界大戦以降、猛烈な勢いでとりもどしている。世界の人口転移の最新版では、アフリカ人は1900年には1億人だったのが、2000年には10億人になり、2050年には24億5000万人に達し、2100年に32億人から44億人のあいだで安定すると予想されている。都市化率も上昇している(人口に占める都市住民の割合は、1950年には14パーセントだったのが、2020年には43.5パーセント)。これらの変化は、かつてない規模とペースで起きており、好機をもたらすと同時に挑戦にもなっている。好機といえるのは、新興国を目ざすにはけた違いの消費とインフラ整備が欠かせないのだが、その点、都市化で経済力をつけた中流階級には相当の消費が期待できるからだ。そうなると、外部依存型経済[巻末用語]で貧困におちいってきた長い歴史とも決別し、大陸内部で生産性のある多様な分野に活路を提供する可能性も見えてくる総人口のなかで非労働力人口(15歳以下と、65歳以上)の割合が減少すれば、アフリカにもついに「人口ボーナス」期――労働力人口が増加して、消費や投資への購買力が高まり、経済成長が促進されること――が訪れることになる。そのいい例が、経済で急成長している中国だ。このシナリオでは、毎年、労働市場に参入する若い世代に見あう雇用が生まれることが想定されるのだが、そのいっぽうで、政治・社会が急激に不安定になるリスクもはらんでいる。これらをふまえたうえで、別の新たな開発軌道として考えられるのは、世界の投資をアジアからアフリカへ移動させ、安価な労働市場としては最後の鉱脈を発掘することで、産業に舵を切ってスタートすることだろう。この過程をふむと、都市部の新たなサービス業と、農村経済の多様化につながり、アフリカの農業と都市部市場の関係もより密接になるはずだ。

それにくわえて、人口の伸びで想定されるのは、環境との均衡を保ちつつ、増加した人口を養うために農業のパフォーマンスを向上させることである。そのためには、フランスの地理学者ジャン=ピエール・レゾン(1997年)や、農学者ミシェル・グリフォン(2006年)が強調するように、環境に配慮しつつ農作物の増産をはかる「緑の革命」が必要になるだろう。また一方で、アフリカ大陸の大半はいまだに農村部が貧困下にあることから、気候変動の影がよけいに重くのしかかっている。それによる結果はさまざま――その地域が乾燥化に向かうかどうかにより――であろうし、住民が気候変動に対応できるような設備にしても、いまだ確実なものはないのが現実だ。この不安を反映しているのが、2015年、国連の「ミレニアム開発目標」(MDGs)を受け継ぐ形で合意された「持続可能な開発目標」(SDGs)[2030年を目標]に、環境問題が統合されていることだろう。ちなみにこの重要問題は、2014年、「アフリカ連合」(AU-2001年に創設)に属する各国首脳が、前身「アフリカ統一機構OAU」の創設100周年を見越して合意した、長期的ヴィジョン「アジェンダ2063」にもしっかりと明記されている。

最後に、本書で使用した統計の出典についてひと言ふれておこう。強調したいのは、アフリカにかんする数字のデータでは信頼できるものがきわめて少ないことである。これは毎度のことなのだが、近年は状況が新しくなっている。実際に現在は、さまざまな組織が過剰なほどの統計的な情報を発信している。しかし、国連アフリカ経済委員会によると、アフリカで国際的基準に合致する統計を所有しているのはわずか12か国だけである。これでは情報は豊富でも、世界銀行チーフ・ディレクターのシャンタ・デバラジャンの表現を借りると、「アフリカの統「計学の悲劇」は防ぎようがないだろう。アフリカでは、統計にかける国家予算や調整能力不足、計算方法の変化などから、慎重に扱うべき統計がおろそかにされている事実がある。たとえば2013年、ナイジェリアではGDP国内生産が再計算されて89パーセント増となるなど2倍近くに上昇、一挙に南アフリカを抜いてアフリカ最大の経済国になったのだが、貧困度はいっこうに減少していないのだ。それでも、いまや豊富な情報があれば、それを地図にして、将来を展望し、アフリカのおもな動向を理解することは可能なのである。

人口動態――とりもどした人口と不確実性

人口転換の推移[死亡率と出生率の低下による少産少死型への移行]がもっとも遅れたアフリカ大陸では、20世紀後半以降、人口がめざましい勢いで増加している。なかでも若年層の伸びは、最近はややペースが落ちているとはいえ、大幅に増えつづけている。地域によってかたよりがあるのは、時代の変化に追いつけなかったことの反映だが、その問題はさておき、一部の状況で問われるのは、人口転換の普遍的モデルがはたして有効かどうかである。

歴史的なとりもどしと、人口増加による方向転換

1950年以降に観察される人口の伸びで、世界におけるアフリカの地位は変化した。1650年、アフリカ大陸の人口は1億人で、世界人口の20パーセント、インドや中国も同程度だった。1900年になっても、奴隷貿易による直接的、間接的な影響で、人口はいっこうに増加せず、植民地時代も武力衝突などで、人口は少ないままだった。1950年、アフリカの人口は世界人口の7パーセントだったのである。

死亡率が低下しはじめたのは、第2次世界大戦前の北アフリカと南部アフリカからで、ついでアフリカ全土で低下し、いった。おもな要因は、ワクチンが徐々に普及していったことである。いっぽう、世界でも突出して高い出生率の低下には、サハラ以南の国々では時間がかかっており、なかには中部アフリカのように上昇している地域もある。これは医療や社会的・経済的の進化のおかげである。

人口の平均増加率が最高に達したのは、1980年代のはじめ(年に3パーセント近くで、20年間で人口が倍増)以降はゆっくりと減少に転じ、2021年に2.6パーセントになって安定している。この上昇率はより多くの人口にかかわることから、まさに力強い人口増加といえるだろう。

こうしてアフリカの人口は、2021年現在で14億人(世界人口78億人の17パ―セント)。将来的な展望では、2050年には24億5000万人(世界人口97億人の25パーセント)となり、うちナイジェリアが4億人(2021年は2億1100万人)で、人口では世界第4位。エチオピアとコンゴ民主共和国も世界の上位10か国に入ると予想されている。

かたよった、不明確な人口転換

アフリカの人口転換の推移(死亡率と出生率の低下の時期的な遅れ)は、大陸全体が同じ段階にあるわけではない。北アフリカと南部アフリカは、ほぼ終わった段階だろう。人口の増加が非常に力強かったのは、1950年代から1980年代にかけてで、以降は足ぶみ状態になっている。合計特殊出生率[女性1人が15-49歳までに産む子どもの平均数]も、現在は女性1人につき子ども3人以下が多く(教育と女性解放のパイオニアであるチュニジアは2.1人)、出生・死亡数の差(自然増加)もゆるやかになっている(年に1.2から1.8パーセントの増加)。現在進行中の人口の伸びがみられるのは、おもにサハラ以南アフリカだ。歴史的に人口が少なかった中部アフリカは、2050年に向かって北アフリカを超えるはずである。その地域では、とくにコンゴ民主共和国などが、非常に高い合計特殊出生率(6人以上)を維持している。いっぽう、それよりも合計特殊出生率が高いのはサヘル地域[サハラ砂漠南縁部]の国々で、この点で長く世界記録を保持しているのがニジェール(6.9人)だ。

世界のほかの地域と同じように、合計特殊出生率の低下は発展と都市化の反映でもある。死亡率の低下と女子教育による意識の高まり、それ以外に、都市生活のむずかしさが出生率を下げている(家賃や教育、健康にお金がかかる)。その傾向がよくあらわれているのが、中程度に発展している沿岸の国々(ガボン、コ―トジヴォワール、ガーナ、ケニア)で、人口転換がより進み、そのなかでも変化の波はまず都市住民や、教育のある富裕層におよんでいる。

しかし、こうした人口転換はつねに円滑に進むわけではない。サヘル地域のように、全体的に死亡率も合計特殊出生率も低下しているものの、それらが互いに拮抗しているところもある。これは乳児の死亡率が依然として高く、それに社会的、経済的不安がくわわって、子どもを多く育てたいという欲求が維持されている結果である。同様に、ガーナやケニアなどの一部の国では、長く継続して家族政策がとられているにもかかわらず、合計特殊出生率の低下は遅々としている。アルジェリアでは、2000-2005年以降、合計特殊出生率がわずかに上昇し(2.4パーセントから2020年には2.8パーセント)、世界的なモデルの逆をいっているように見える。

若い世代の挑戦

2021年現在、サハラ以南アフリカ(南アフリカをのぞく)の人口の42パーセントは15歳以下で、25歳以下は3分の2を占めている。アフリカ全体をみると、65歳以上の高齢者は4パーセントだ。人口転換のかかわり方におけるズレは、年齢のピラミッドにもあらわれている。北アフリカでは、ピラミッドの下はどちらかというと圧縮しており、中央部がふくらみ、頂上もそれなりにふくらんでいる。いっぽう、西アフリカと東アフリカの国々では、ピラミッドの底辺は幅広く、頂上がとがっている。このような人口構成には重い結果がつきまとう。2010年から2012年にかけて、北アフリカで発生した民主化運動「アラ「ブの春」は、とくに人口の増加がきわだつ年齢層の雇用のむずかしさを浮き彫りにしている。いっぽうサハラ以南アフリカでは、出生率が上昇に転じた影響で、労働力人口率(15歳から65歳までの割合)はいまも伸びつづけている。このままいくと、サハラ以南の国々もいわゆる「人口ボーナス」期(投資と消費のための人口が多くなる)を迎えることになり、中国モデルを追随できそうだ。しかし、それには毎年、労働市場に流れこむ多くの若者たちの雇用を創出することが前提だ。ちなみに2015年に労働市場に新しく参入した若者は2200万人、2030年には3200万人になると想定されている。このような問題に挑むには、大陸をむしばむ社会的・政治的な不安定さが増大するリスクをおかしても、経済的に新しいモデルを生みだすことがぜひとも必要なのである。

教育は人口と開発の中心問題

アフリカの教育制度は、2000年代に大きく進化したにもかかわらず、そのパフォーマンスは低いままで、世界的レベルでも最低の位置を占めている。識字率がもっとも低いのはサハラ以南アフリカ(2019年度で、15歳以上の66パーセント)で、世界で読み書きができない若者(15歳から24歳)9900万人のうち、5000万人がこの地域である。若い世代の人口が増加しているアフリカでは、教育問題への挑戦が喫緊の課題になっている。

教育面でのかたよった進化

大人の識字率とその変化を見ると、対照的な状況が浮き彫りになる。この数十年で、アルジェリアは70から80パーセントに、ガーナは58から79パーセントに上昇したのに対し、その対極のギニアは40パーセントで頭打ち、ニジェールは35パーセントである。近代的な制度のなかで、アフリカの教育整備は相対的に最近のものである。この遅れは、同化とエリート主義を土台とした植民地時代の教育モデルでは教育の穴をうまく埋めあわせできなかったことで、現状の一部が説明できるだろう。教育現場での指導言語についての問題より実用的なヨ―ロッパ言語に対して、アフリカの言語を選択する正当性などが、定期的に議論になるのは別として、それでも、万人のための普遍的教育は20世紀のあいだにあらゆる地域で現実のものになっていた。

アフリカ諸国は、教育を支援する数々の計画を提示されたあとの2000年、ダカールで開催された「教育にかんする世界フォーラム」で、国連の「ミレニアム開発目標」をバッグボーンに、万人のための教育に沿った多くの目標[2015年まで]を目ざす取り組みに合意した。それでも、このアクションプランの結果はかんばしいものではなかった。サハラ以南アフリカは、初等教育の就学率ではもっとも高い数字をあげて進歩したのだが(1999年から2019年のあいだに59パーセントから85パーセントに)、しかし、都市と地方、富裕層と貧困層間のかたよりはいまも強く残っている。多くの国では、男子に比べて女子の就学率が低く、ニジェールやチャドでは、女子は初等教育の生徒数のそれぞれ46パーセントと44パーセントである。サハラ以南アフリカでは、男性の72パーセントが読み書きができるのに対し、女性はわずか60パーセントである。教育の質もまた問題で、アフリカ大陸の落第者率は記録的だ。初等教育のサイクルを終えた生徒の割合は、世界平均が83パーセントなのに対し、アフリカは60パーセント以下である。Covid-19[新型コロナウイルス感染症]のパンデミックは、就学に悪影響をあたえ、学校はほとんどの国で数か月、ウガンダでは2年近く閉鎖されている。

教育と養成は開発の中心問題

国家にとって教育制度への支出は、かぎられた予算や高い人口増加率からして、

質的にも量的にも、大きな挑戦である。1980-1990年の災害などによる10年間の危機のあと、アフリカへの貸付け投資はほかのどこよりも増加したのだが、予算全体をカバーするのはむずかしく、教育分野に投入された開発の公的援助の割合をみても、進展は見られない。

学校の建設と整備は問題を残したままである。生徒をとり囲む環境をみても、教員の養成はいきとどかず、報酬も少ないなど、同じく問題をはらんでいる。ちなみに、サハラ以南の国々では、教員1人に初等教育の生徒数は平均で42人、中等教育では25人(対して世界の平均は24人と17人)だ。このような状況を前に、宗教色のない、あるいは逆に宗教をうたう私立学校が増え(サハラ以南アフリカでは中等教育の生徒の20パーセント)、格差が広がるいっぽうの社会の上層階級や、差別化の要求にこたえている。

教育の発展にかんしては、高等教育や、専門職としての教員の早急な養成も問題として残っている。大学への入学者は急速に増えているものの、非常にかたよったままで、アルジェリアの若者の52.5パ―セントに対し、ブルキナファソの若者はわずか7.8パーセントである。いっぽう、学生数は増加していても、大学の施設は飽和状態で、ヨーロッパやアメリカの大学に匹敵するレベルにはなく(例外は南アフリカの大学)、アフリカの学生の20人に1人は欧米の大学に入学している。くわえて、失業は高等教育資格所有者にも重くのしかかり、一部は国外に移住しているのが現状だ。

キンシャサ――創造の熱気あふれるインフォーマルの中心都市

コンゴ民主共和国の地方都市かつ政治の首都キンシャサは、2018年度の人口は1300万人、世界のフランス語圏でもっとも人口密度の高い上位25都市の1つである。公的機関の管理が悪く、公共設備が不足しているにもかかわらず町が機能しているのは、もっぱらキンシャサ市民のおかげだ。多くは不安定な生活を送っているのだが、しかしエネルギーに満ちあふれ、それが首都の活力のもとになっている。

計画的な人種隔離から、制御不能の拡張へ

都市化された空間(2015年現在で約500平方キロメートル)は、当初マレボ湖[コンゴ川の中流に位置し、正確には川の広がった部分]に沿った広大な沖積平野に建設され、それから8から20パーセントの傾斜で標高700メートルまでだんだんと高くなる丘陵に広がった。

1881年、レオポルドヴィル[ベルギー王レオポルド2世の名から]という名で建設された町は、1923年、ボーマに代わってベルギー領コンゴの首都となり、1929年、首都機能が正式に移転された。当初は植民地の都市計画で、ヨーロッパ人の町と「原住民」の町は隔離され、あいだに管理設備のある中立地区があった。この人種隔離は、1950年代に新しい都市が建設されるとさらに強まった。

1960年6月30日の独立後は、中立地区での移動の管理は撤廃され、都市計画は名目だけになり、丘全体があっというまに長方形に分割された分譲地になった。このとき小区画を配分したのは「土地の長」[アフリカで雨乞いや豊作を天に祈る祈祷師]で、人口も都市空間も急増する状況のなか、恒久性のある住居(コンクリートブロック)が建てられた。こうしてキンシャサ(1966年に改名)の人口は、1960年には40万人だった(都市空間6.8平方キロメートル)のが、1975年には170万人(200平方キロメートル)、1984年には270万人(260平方キロメートル)、2005年には750万人(430平方キロメートル)になった。2030年には、2014年に計画されたキンシャサ都市戦略方針によると、人口がさらに密集して全体で1800万人(国連の予想では2200万人)、都市圏は860平方キロメートルになるとされている。

このような状況のなか、設備やインフラへの投資は、拡張しつづける都市に追いついていないのが実情だ。雨期になると丘陵や、洪水の多い地域に住む市民は浸食や泥流、洪水のリスクにおびやかされている。道路網は並以下で、アスファルト舗装は10パーセント、修繕もされておらず、鉄道の線路も機材も老朽化している。移動性はそこなわれ、市民の57パーセントは徒歩で往来、交通機関の不備が住民排除の要因になっている飲料水の生産も不十分(1人1日60リットル)なら、電線の引きこみ率も低く(40パーセント)、ゴミの収集場もめったにない。とくに、排水処理では下水道が1パーセントしかカバーしておらず、清潔でゴミ1つなかった1970年代、住民から「美しいキンシャサ」といわれていた町は、「ゴミ箱のキンシャサ」とさげすまれるようになった。それでも首都は、市民のエネルギーで活気に満ちているのである。

 映像を見ているとイスラエルが「乳と蜜の流れる」約束の地というのは本当にここなのか
「イスラエルを飢饉が襲い、ヤコブと息子たちはエジプトに逃れ、エジプトで宰相を務めていた11番目の息子ヨセフに救われた。しかし、ヨセフの死後、彼らの子孫は迫害されるようになり、400年にわたって奴隷にされた。そこで神は、アブラハムと交わした約束を、今度は、エジプトの砂漠にあるシナイ山でモーセに伝えた。神はモーセに、ユダヤの民は神が選んだ民であると告げ、「十戒」を与えた。これが、ユダヤ教の基礎となった。モーセは神の助けを得て、ユダヤの人々を奴隷の立場から救い出し、「乳と蜜の流れる」約束の地に移住させた。」

 神はどちらに約束の地を与えたのだろう。アラブ人なのだろうか、ユダヤ人なのだろうか。それとも、分かち合いの精神を学ばせるために、両方の民に与えたのだろうか。この土地の正当な所有者がどちらの民族なのかという問題は、人類史上、最も長く続く争いのもとになった。長期間にわたる宗教戦争や領土紛争にも発展し、争いは今日も続いている。 『137億年の物語』
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