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『獅子と呼ばれた男』

302.27アン『獅子と呼ばれた男』

アフガニスタンからの至急報

暗殺者たち

アハマド・シャー マスードは痩身の強靭な男で、鷲鼻と、頬と眼のまわりの深い皺が特徴の面 長の美男子だった。顎の線に沿ってまばらなひげを生やしていた。いつもパクールと うてっぺん が平らなやわらかいウールの帽子を被っていて、それは彼や彼のムジャヒディンが、アレクサンダ 大王の軍の子孫であると主張する部族、ヌリスタン人から取り入れていた。昨年の秋、マスード は四十九歳で、 こめかみの上の黒い髪に印象的な白い筋が現れていた。

マスードはほかの反共産主義イスラム教徒の学生数人とムハ ・ド・ダウド政権の前哨地に一連 の不手際な攻撃を加えた一九七五年以来、ほとんど休むことなく ってきた。二〇〇一年の秋、彼 は五年以上もタリバンと戦っていて、彼の前線はすでにパンジシール渓谷とカブールのあいだに約 二九〇キロにわたって広がるシャマリ平原の端から、タジキスタンとの国境まで伸びていた。その 国境に近いホジャ・バウディンという小さな密輸業者の町に司令部があった。

その夏、マスードは、その数一万六千にものぼるタリバンとアルカイダの戦士が最北の前線沿い に集結していて、そのなかにはアラブ人、パキスタン人、中国人、ウズベク人、タジク人が多数い るという情報を受けるようになった。その数は途方もなく増えているようで、彼は情報を無視した。 九月初め、彼と数人の司令官はヘリコプターで前線を越えた。 マスードは双眼鏡を手に操縦室にす わった。危険な飛行だった、と同行した一人が最近語ってくれた。「しかし、私たちはアラーがお 助けくださると知っていたし、アムール・サヒブ」―――だいたい「ビッグ・ボス」といった意味の 言葉で、マスードの部下たちは彼をこう呼んだ ――「が、一緒だった。」 彼らは地域の写真を撮り、 マスードが、部下をどこに配置すべきかを司令官たちに指示した。

マスードは九月九日の午前三時まで数人の同僚と起きていて、ペルシアの詩を朗読した。彼が寝 入って数分後、彼の秘書――ジャムシドという若者で彼の甥であり義弟――は北部同盟の指令官、 ビスミラ・ハーンから、タリバンがシャマリ前線を攻撃したとの電話を受けた。ジャムシドはマス ―ドを起こし、マスードとビスミラ・ハーンは夜明けまで電話で話した。 それからマスードはベッ ドに戻った。七時半ごろ、ジャムシドはタリバンが退却しているのを知り、伯父を九時まで寝かせ ておいた。

朝食後、マスードは偵察に行こうとしていたとき、九日前にパンジシール渓谷からホジャ・バウ ディンへやってきて、彼にインタビューするのを待っている二人のアラブ人ジャーナリストと会う ことにした。彼らはその日、ホジャ・バウディンを離れなければならないと通告していた。アラブ 人たちはロンドンのイスラム監視センターという組織の指導者からの紹介状を持ってきた。ジャム シドによれば、アフガン・イスラム運動創始者の一人で、現在は千人余の反タリバン戦士をパンジ シールの拠点から指揮するアブドゥル・ラスル・サヤフのもとにいる男から連絡を受けたという。 ジャムシドは、アラブ人はサヤフの友だちだと言われた。

私はジャムシドに、そのアラブ人たちに何か異常なところはなかったかと尋ねた。当時アフガニ スタンにいるアラブ人がアルカイダと結びついていたからだ。

「それはなかった」と彼は言った。そして彼の伯父は彼らが役に立つと思った。伯父は彼らを通 して、イスラム社会に『われわれは異教徒ではない。イスラム教徒だし、ここでロシア人やイラン 人を戦わせない』と言いたかったのだ。」マスードは敬虔な人だった。正式なやり方で一日に五回祈りを捧げ、妻はブルカを着ていた。しかし彼は、ほかのイスラム教スンニ派――タリバン――と 戦うイスラム教スンニ派で、彼らは公正で清廉潔白であると公言し、一方彼はイランのシーア派と 複数の非イスラム政府から支援を受けていた。

現在カブールで多言語新聞の編集者をしている痩身の若者、ファヒム・ダシュティも九月九日、 ホジャ・バウディンにいた。ダシュティは子供のころからマスードを知っていた。一九九六年の秋、 タリバンがカブールを占拠したとき、ダシュティはパンジシール渓谷に退却するマスードに同行し た。彼は北部同盟領にとどまり、マスードの司令官の一人と共に小さな映画会社、アリアナをつく った。彼らはタリバンとマスード軍の戦いのドキュメンタリーを制作した。ダシュティは二ヵ月間 のパリ滞在から戻ったばかりで、パリでは「国境なき記者団」というグループが出資した映画編集 のワークショップに参加していた。彼は二人のアラブ人と同じゲストハウスに滞在した。彼の記憶 では、北部同盟領でアラブ人を見るのは奇妙だったが、 その二人は怪しく見えなかった。 「彼らは 難民キャンプへ行き、捕虜を訪ねた。 どれもジャーナリストがすることだ」と彼は言った。一人は 片言のフランス語と英語を話し、もう一人はアラビア語だけだった。

数週間前、私はアリアナのマスードに関する最新の未編集フィルムを見せられた。 二人のアラブ 人はいくつかのシーンに映っている。 八月に撮影したフィルムでは、彼らはブルハヌティン・ラバ ニにインタビューしている。噂の記者は白い肌で、筋骨たくましく、三十代半ばに見える。きれい にひげを剃って、 ルーカット。 西側の服茶色いシャツとスラックスに眼鏡。額には円い 傷痕のような、奇妙な茶色っぽい痣が二つある。 カメラマンはこのシーンには映っていないが、後半のフィルムの中に、ゲストハウスの戸口に立つ彼の静止場面がある。彼は背が高くて、浅黒い肌。 黒いシャツを着て、憎悪と恐怖の両方が容易に想像できる表情で、カメラをにらみつけている。

アリアナ・チームはいつもマスードのインタビューを撮影していて、九月九日の正午ごろ、ファ ヒム・ダシュティと二人のアラブ人と通訳は、車でマスードの司令部にやってきた。マスードとジ ャムシドは警備隊長と一緒にいて、警備隊長のオフィスがインタビューに使われていたし、北部同 盟のインド駐在大使、マスード・ハリリも同席した。アハマド・シャー・マスードはソファにすわ り、背中の慢性の痛みを和らげてくれる整形外科用のクッションを使っていた。彼はアラブ人たち に挨拶した。「彼は出身地を尋ねた」とダシュティは言った。 「一人は、二人ともベルギー人だが生ま れはモロッコで、パキスタンからカブールへ来て、そこからホジャ・バウディンへ来た、と言った」 ハリリ大使の記憶では、マスードがインタビューを行うアラブ人に、先に質問のリストを聞きた いと言い、男が英語でそれを読みあげはじめたという。ハリリがマスードのためにペルシア語に訳 した。彼は、質問がほとんどオサマ・ビンラディンについてであることにかなり驚いたと言った。 たとえば、「もし権力を握ったら、オサマ・ビンラディンをどうするつもりか」とか「なぜ彼を原 理主義者と呼ぶのか」とか。大使は質問が偏っているのに気づいて、何という新聞に書くのかアラ ブ人に尋ねた。「私はジャーナリストではない」と男は答えた。「イスラム監視センターから来た。 ロンドンやパリなど全世界にオフィスを持っている。」 ハリリはマスードのほうを向いて囁いた。

「司令官、彼らはあの連中の手先です。」 アルカイダのことだ。マスードはうなずいてそっけなく言 った。 「とにかく片づけてしまおう」

アラブ人たちはマスードと自分たちのカメラのあいだにあったテーブルと数脚の椅子を動かした。 そのカメラは三脚の一番低い高さに設置されていた。彼らのカメラの後ろに自分のカメラを据えて いたダシュティが逆光を調整していたとき、部屋が爆発した。 ハリリ大使は、自分のほうへ向かっ てくる太く青い炎を見たと言った。

「私は自分が燃えているのを感じた」とダシュティは言った。外へ出ると、警備隊長と共に二、三 分早く部屋を出ていたジャムシドに会った。「私を病院へ連れていってくれと頼んだら、彼がマス ―ド氏はどこだと訊くので、中へ戻って彼を見た。彼は全身を、顔や両手、両脚もひどくやられ いた。」アフガン情報部員が最近私に語ったところによると、マスードは三十秒以内に亡くなって いたにちがいない。二つの金属片が彼の心臓に入っていた。 右手の指はほとんど吹き飛ばされてい た。私は彼の遺体の写真を見せられた。 彼の皮膚は二、三センチおきに傷口が開いていた。 白いガ ―ゼが眼窩に詰めてあった。

カメラマンのバッテリー・ベルトには爆薬が詰まっていた。マスードがすわっていたソファは黒 焦げで、背もたれに穴が一つ開いていた。アリアナのフィルムにはストレッチャーに乗せられたカ メラマンの遺体が映し出されている。 両脚は焦げて血まみれ、上半身はばらばらに吹き飛ばされて いるようだ。 アフガンの通訳も死んだ。

二人の護衛がマスードを車に運んだ。ひどい火傷を負ったダシュティが同乗して、ヘリコプター 離着陸場に向かった。ハリリ大使もまた火傷を負い、爆発で重傷を負っていたので、別の車であと につづいた。彼らはみなタジキスタンの国境を越えて病院に空輸されて、そこにまもなくマスードの副司令官ファヒム将軍が到着した。ファヒムはほかの北部同盟幹部たちと協議して、暗殺はしば らく伏せておくことで合意した。

インタビューを行ったアラブ人は爆発を生きのびて、マスードの遺体がタジキスタンへ運ばれて いるあいだ、爆発が起きた近くの部屋に監禁されていた。彼は小窓から金網を破ってくぐり抜ける と、走って墓場を越え、二、三百メートル先の土手へ逃げた。地元の軍司令官のもとにいた男があ とを追って殺害した。

私はダシュティに、マスードは裏切られたと思うかと尋ねた。「そう思う」と彼は言った。「そう でなければ、不可能だった。どういうわけかアルカイダとわ れの仲間のあいだにつながりがあ るらしい」

九月十一日、アフガニスタン時間で午後八時ごろ、カンダハルにいたムラー・オマルはカブール のタリバンの外相に電話した。電話を傍受したアフガンの情報源によると、ムラー・オマルは言 た。「事態は予想以上に進んでいる。」それはニューヨーク時間で午前十一時三十分、アメリカン・ エアラインズ一一便がワールド・トレード センターのノース・タワーに激突して三時間足らず、 サウス・タワーが崩壊して一時間半後だった。ムラー・オマルは外相に、記者会見を開いて、タリ バンは攻撃に関与していないとの声明を出すように指示した。記者会見はカブールで午後九時半に 行われた。外相は記者たちに、アフガニスタンはアメリカを攻撃していないと断言し、オサマ・ビ ンラディンは関わっていないというムラー・オマルの声明文を読みあげた。「この種のテロリズムは一人の人物が起こすには大きすぎる」

その夜傍受された電話の中には、カブールからカンダハルにかけた通話がある。「シャイフはど こにいる?」と電話した者が尋ねた。シャイフとは古参のタリバン幹部たちがオサマ・ビンラディ ンに使う暗号名だった。再びアフガンの情報源によれば、ムラー・オマルの家にいた何者かが、電 話してきた者に、ビンラディンがここにいると言った。「そのあと」と情報部員は私に言った。「カ ンダハルとカブールのあいだで電話のやりとりが混乱した」

九日のマスード暗殺と二日後のワールド ド ・トレ センター攻撃とは、九月初旬の日々には、 明らかに何らかの関係があるのは明白だと思われたが、正確には、彼らがどのように関与し、また 何者が参加してかということはあくまでも推測の域を出ない。マスードが殺されたとき、ロンドン のアフガン大使館で代理大使をしていた、マスードの弟、ワリは現在カブールにいて、マスード党、 アフガニスタン国民運動を率いるよう指名された。 彼は兄の暗殺がさらに大きな計画の第一歩であ り、九月十一 この攻撃が第二歩だと信じている。「論理的に見れば」と彼は言う。「彼らは十一 に 好きなようにやりたかったが、 マスードがいないということが条件だった。」 マスードを殺害した 者たちは、彼の死が北部同盟を崩壊させ、もし米軍がワールド・トレード・ センター攻撃に報復す るとしても、地上にアフガンの支持者はいない、と思った。 晩夏から初秋にかけて、前線に軍を増 強したのは、つまり、マスード暗殺の準備だったのだ。 「彼らは何かを待っていた」とアフガン情 報部の幹部は言った。 士気を挫かれた北部同盟を壊滅させようと準備をしていた外国の軍隊が中央 アジアに侵攻してきたようだ。そのあとにつづく混乱の中で、オサマ・ビンラディンとタリバンに対する報復は困難だろう。しかし、公式発表は当初、マスードだけが負傷したが、北部同盟は領土 を死守しているというものだった。そしてもちろん、ムラー・オマルの電話の会話からわかるよう に、アメリカに対する攻撃があれほど劇的になるとは予期していなかった。「彼らは報復を予測し ていた」と情報部の幹部は言った。「しかし、クリントンのような反応だと思った。ここで起きた ような報復は予想しなかった」

「テロリスト」とはアフガン人が一般にアルカイダを指して使う言葉で、彼らがマスードを殺した い理由は戦術的と同じく戦略的なものだった。 彼らの最も勇敢な敵は国外で支持を集めはじめてい た。二〇〇一年四月、マスードはストラスブールで開かれた欧州議会に招待されて演説することに なった。彼はパリで記者会見して、パリやブリュッセルでヨーロッパの高官に会った。「彼は指導 的な政治家のようにふるまい、すぐれた政治家として受け入れられた」とワリは言う。「メディア は彼に興味を示した。ただしアメリカのメディアを除いて。私はこれが重要な転機だったと思う。 彼はアルカイダがアフガニスタンだけでなく世界にとって危険だと国際社会に警告した。」七月、 ロンドンでワリは亡命中のアフガン知識人会議を開催した。彼らはマスードを支持し、民主主義、 人権、女性の権利を支援するさまざまな動きを是認する決議をした。「このことが彼の敵を刺激し た」とワリは言った。「一方には『われ がイスラム教徒を代表する』と言うオサマ いて、他 方にはマスードが穏健なイスラム教徒を代表している。 あのヨーロッパ訪問で自分の考えを明確に したため彼は命を失った」

ワリをはじめ私が話したアフガン人は、パキスタンもまたマスード殺害に関与していると主張した。マスードは、多くのアフガンのイスラム教 キスタンに亡命した七〇年代から八〇年代に も、パキスタン人と強い絆を結ばなかった。(彼はアフガニスタンの戦場にいたので、戦士として はいくぶん伝説的だった。) パキスタンの治安機関ISIは早くからタリバンを支持していたので、 タリバンの残党やアルカイダはまだパキスタンから援助を得ていると疑う人が多い。マスードと親 しかった情報部員は、九月九日の夜、パキスタンの大統領ペルヴェズ・ムシャラフが暗殺を祝うパ ―ティを開いた、と語った。彼はこの情報の出所が、ハミド・カルザイ率いるアフガニスタン暫定 政府の現国防相、ファヒム将軍だと言った。私がファヒムに、そのようなパーティがあったのかと 尋ねたところ、彼ははぐらかそうとした。 「たぶん」と彼は言った。しかし、彼はムシャラフがそ の夜、ISI本部にいて、アフガニスタン北部から戻ったばかりの元ISI長官、ハミド・グルと 会っていたことを確認した。私はファヒムに、カブールで最近ムシャラフに会ったとき、何を感じ たかと尋ねた。彼は手を振った。「ときにはより大きな利益のために」とファヒムは言った。「毒を 一杯飲まねばならない」

マスードの暗殺者たちはチュニジア人で、彼らが言っていたモロッコ人ではなかった。彼らはベ ルギーにいて、ベルギーのパスポートとイスラム監視センター指導者、ヤシル・アル=シリの署名 入り紹介状を持参していた。パスポートのスタンプは、アラブ人たちが七月二十五日にパキスタン のイスラマバードに到着し、そこでタリバンの大使館でヴィザを取得し、そこからカブールへ向か ったことを示していた。しかし、パスポートとヴィザは偽造だった。暗殺者は二人共ジャララバードに近いアルカイダ訓練キャンプで数ヶ月暮らした。

ジハード

暗殺者たちは北部同盟の指導者、アブドゥル・ラスル・サヤフの支援でパンジシール渓谷に入っ た。八月中旬にソビエト軍との聖戦で共に闘ったあるエジプト人から連絡を受けた、と彼は言う。 その男はボスニアから電話していると言った。(アフガンの情報部員は、じつはその電話はカンダ ハルからだと語ったけれども。) その男はサヤフに、彼やマスードやラバニ大統領にインタビュー を希望している二人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した。 エンジニア・ムハンマド・ア レフ 「エンジニア」とは、工学技術を研究した教養ある人を示す、アフガンのごく普通の敬称で ある)は、現在アフガン情報機関の責任者で、かつてはマスードの警備責任者だった。暗殺が行わ れたのは彼のオフィスである。アレフによれば、サヤフの許可があったので、アラブ人たちは通常 の警備手続きを免れた。「彼らはジャーナリストとしてではなく客としてやってきた」とアレフは 言う。「サヤフとビスミラ・ハーン」―――シャマリ前線の司令官――「が部下たちと、彼らを乗せ る車を送った。みんなに助けられて、彼らは多くの人に会った」

カルザイ暫定政府の副大臣、マウラナ・アター・ラハマン・サリムは人びとから尊敬を集めるム スリム学者であり聖職者である。彼は昨秋、ホジャ・バウディンにオフィスを持ち、暗殺の一週間 前にマスードと共にパンジシール渓谷へ行った。ラハマンは、マスードが殺されると直ちに報復の 声が聞かれたと言う。「誰もが言い出した。『なぜテロリストをもっと徹底的に捜さないのか? ぜもっとよく任務を果たさないのか?』非難は誰よりもサヤフに集まり、イランの新聞はそのいく つかの疑惑を活字にした」

サヤフはイスラム原理主義者で、八〇年代のアフガンの聖戦のあいだに養成された世界のテロリ ストたちと親密に結びついている。 彼とラバニはカイロのアル=アズハル大学で学び、そこでムス リム同胞団の影響を受け、共に七〇年代初頭にカブール大学でイスラム学科を教えた。彼らはソビ エトに抵抗する主力になったイスラム教運動の創始者の中にいた。サヤフはパシュトゥン人でアラ ビア語を流暢に話し、サウジアラビア人と親し らった。 サウジ王室のように彼は厳格なワッハー ブ派のメンバーで、七〇年代終わりに共産主義者がアフガニスタンを支配するようになると、サウ ジアラビアの国民がさまざまなアフガン抵抗運動に資金を提供しはじめたとき、サヤフはその豊富 な資金の巨額の分け前に預かった。一九八一年、 ・ティハーディ=イスラミ、イスラム連合とい

う政党を結成し、四年後、ペシャワル近郊のアフガン難民キャンプに大学を設立した。 マスードや ラバニと政治的に同盟を結んだが、タリバンとなったイスラム教徒とはさまざまの点でイデオロギ に共通するものがより多かった。

サヤフの大学はダワア・アル=ジハードと呼ばれ、「改宗者と闘争」を意味し、抜群の「テロリ ズム養成学校」として知られるようになった。一九九三年のワールド・トレード・センター爆撃を 指揮してコロラド州連邦刑務所で終身刑に服しているラムジ・アハマド・ユーセフは、ダワア・ア ル=ジハードに通い、サヤフのムジャヒディンと共に闘った。同じ刑務所にいる盲目のエジプト人 聖職者、シャイフ・オマル・アブデル=ラハマンは、ニューヨーク市の数々の歴史的建造物を爆破 する煽動謀議の罪で終身刑に服しているが(ワールド トレード センターの最初の爆撃にも関与 したと疑われるが無関係)、八〇年代半ば、ペシャワル周辺のいくつかのキャンプで講義した。 オサマ・ビンラディンは財政的にサヤフを援助し、アフガニスタンのサヤフの拠点を使用したアラブ 戦士団を指揮した。 ISIは軍事と情報の専門技術を提供した。 ソビエト軍が一九八九年にアフガ ニスタンから撤退し、多くの外国人聖戦士が去ると、イッティハーディのメンバーのグループー 生粋のフィリピン人やアラブ人もいる は、フィリピン共和国にテロ組織アブ・サヤフをつくった。 二〇〇一年十月、イスラム監視センターのヤシル・アル=シリが、二人のアラブ人暗殺者に紹介 状を用意した容疑で、ロンドンで逮捕された。二〇〇二年四月、ニューヨークで、スタテン島在住 のアメリカ郵政公社職員、アハマド・アブデル・サッ ルが逮捕され、シャイフ・オマル・アブデ ル=ラハマンの「代理」であるとして告発された。サ ルは九〇年代半ば、ニュ ・ヨークで謀議 審理のあいだ、弁護士補助員としてシャイフのもとで働いた。起訴状によると、サッタルはシャイ フのために「通信機器」の役目をしていた。つまり、刑務所から命令を伝えていた。サッタルの電 話は長期間傍受されていて、綿密に調べた通話の中には、彼とロンドンのヤシル・アル=シリとの やりとりが数回あった。五月、イギリスの判事はアル=シリに対する告訴を却下した。

アブドゥル・ラスル・サヤフは大柄の筋骨たくましい男で、色白の肌に灰色の顎ひげが濃い。身 長は約一九〇センチはあるにちがいないし、体重はおそらく一〇〇キロ以上あるだろう。たいてい 白い頭蓋帽か、大きなターバンに民族服のシャルワール・カミーズを着ている。 マスードは細身できれいにひげを剃っている。いつもスラックスにスポーツ・ジャケット姿。一方で分けた

黒い髪がしばしば少年のそれのように揺れる。四月二十八日、ムジャヒディンの市内入城とソビエトを後ろ盾にした 対する勝利の十周年を祝うパレードがカブールであったとき、ワリとサヤ フは、黄色い天蓋のついた細長くて低い薄黄色と緑の建物、エイド・モスクから通りを隔てた貴賓 席に一緒にすわっていた。

要人たちは完全に破壊されたダリ風のパノラマを見わたした。カブール南部は、崩壊しえぐられ た建物の荒涼とした広がりで、貴賓席にいる聖戦士の指導者の大多数が破壊に関わっいた。アハ マド・シャー・マスードが意気揚々とカブール入りした一九九二年四月と、マスード軍が北部へ退 却してタリバンが占領した一九九六年九月のあいだに起きた内戦で、何万人もが虐殺された。貴賓 席の人物たちはまた、 カブールの新政府に地位を得ようと画策中で、 それは六週間後に開かれる部 族会議、国民大会議で選ばれるはずであった。ロヤ・ジルガは国家元首としてハミド・カルザイを 選ぶだろうとみられていた。ワリが首相か副大統領になるということになれば、カルザイは満足か もしれない。この人事は三人のパンジシール出身者――ファヒム国防相、アブドゥラ・アブドゥラ 外相、ユニス・カヌーニ内相――の支持の継続を保証するからだ。この三人はパンジシール渓谷で 育ちマスードと親しかったし、タジク民族の旧北部同盟派を新しく構成する上で中心人物である。

カルザイはグレーの絹の襟なしシャツにグレーのチャパンという美しく編んだアフガンのローブ を着て、首脳陣の最前列中央にすわっていた。 ファヒム将軍はその右側で、勲章を飾り立てた軍服 にひさしのついた帽子を被ってきらびやかだった。ファヒム将軍は現在、正式にはファヒム陸軍元 で、前夜に突然の昇格を受諾した。 ファヒムに忠実な多数のムジャヒディン司令官も昇格した。 (二、三日後、私はカルザイ大統領のアフガン=アメリカ顧問の一人に、昇格はカルザイの意向だったのかと尋ねた。「彼らが無理やりそうさせたのだ」とその男は言った。「彼にはどうしようもな かった。」私たちは駐車場で話していた。顧問が私に説明したところによれば、彼をはじめカルザ イ政府のメンバー数人が住むインターコンチネ ノル・ホテルは盗聴されているからだ。「盗聴機 がカーテンの中にある」)

ワリ・マスードはカルザイとサヤフのあいだにすわり、ラバニ元大統領はサヤフの向こう側、聖 戦の生き残り数人のとなりだった。国家という舞台で行方不明となった中にマスードの大敵、 ブディン・ヘクマティアルがいた。彼は九〇年代初頭、情け容赦なく市を砲撃した。 ヘクマティア ルの消息は不明だが、パレードの二週間後、カブール近郊で、CIAがプレデター無人偵察機から 彼にミサイルを発射したという報告があった。 タリバンから国の北部を大部分解放したウズベク人 軍司令官ラシド・ドスタムは出席しなかった。ドスタムは聖戦のあいだ、ソビエト側として戦って いたから、出席するのは具合が悪かったのだ。一週間早くカブールに到着して以来、公式に姿を見 せていなかった元国王ザヒル・シャーは出席するとみられていたが、現れなかった。

愛国的な曲が拡声器から鳴り響くと、カルザイとファヒムは貴賓席を出て、幌のついた二台のロ シア軍ジーブに乗りこんだ。ジープはモスクの前の大広場に不動の姿勢で立つ兵士団の前を通り過 ぎた。 カルザイは兵士たちに手を振り、ファヒムは硬直したように敬礼し、大きすぎる元帥帽のつ ばに指先が触れそうだった。その間、進行係と詩人が交替でマイクをとった。 「アフガニスタンを 攻撃するものはすべてイギリスやロシアと同じく泣きをみるだろう」と司会者は言った。カルザイ とファヒムは貴賓席に戻り、ファヒムが、ムジャヒディンがソビエト軍やタリバンといかに戦って勝利したかについて演説した。 アメリカの空爆には触れなかった。山車が大通りをゆっくりと下っ てきて、それには、思いにふけって両腕を組んだ、白いサファリ服姿のマスードの巨大な写真が乗 せてあった。 カラシニコフを持ったムジャヒディンは不動の姿勢で立っていた。 マスードの顔が描 かれたTシャツを着る兵士もいた。 カルザイが、マスードは今後アフガニスタンの公式の「国家の 「英雄」であると発表した。

多数のロシア戦車と兵員輸送装甲車が額入りのマスードとカルザイの肖像を乗せてガラガラと通った。その後ろに青灰色の上着姿の負傷した聖戦の退役兵が松葉杖や車椅子でつづいた。退役兵 のあとから、マスードのパンジシールを先頭に、故郷の州ごとに組織されたムジャヒディンの隊列 が次々にやってきた。 落下傘兵がヘリコプターからモスクの前に降下しようと舞い降りてきたが、 目標を誤って遠くの廃墟に吹き流された。 十五分後、彼は小型オートバイの荷台に乗りパラシュー トを後ろにふくらませて現れた。落下傘で降下してきた二人目は女性で、広場を目指して、やはり 廃墟に消えたが、まもなく姿を現して拍手喝采に迎えられながら、マスードの肖像画で飾られた繊 を持ってきた。

パレードが終わって、私が貴賓席のすぐ前を通り過ぎると、 サヤフが身を乗り出してワリ・マス ―ドに何か言っている。ワリは椅子に緊張してすわっていた。彼はうなずいて、あいまいな微笑を 浮かべた。
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