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『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

フォルクスゲマインシャフト―共同体と排除

国家権力は、ナチ党が思い描いた再生ドイツの実現にとって必要な条件でしたが、これだけでは不充分でした。第4章で見てきたように、ナチ党の政治理論とプロパガンダに用いられた決まり文句のひとつに、国家はそれ自体が目的ではなく、目的を達成するための手段であるというものがありました。その目的とはドイツ民族の歴史的運命の実現でした。ナチ指導のもと、統一された国民・人種の共同体、つまりフォルクスゲマインシャフトを築くというのです。フォルクスゲマインシャフトという言葉自体はドイツの政治論ではごく一般的なものでしたが、ナチ・ドイツでそれが具体的になにを意味したのかについては歴史家のあいだでかなりの論争になってきました。論争を呼んだのは、ドイツ人の信念と考え方を支配したナチ・イデオロギーの力について、そしてドイツ人のためという名目で実施された暴力による政治的・社会的実験に国民がどの程度同意していたのかについての、根本的な問いと密接に関係しているからです。

フォルクスゲマインシャフトを理解する

国民国家の時代には、国民や民族を、それを構成する個人を超えて、より崇高な目的へと向かわせる集合体と見なすことがよくあります。ナチ党の思い描いたフォルクスゲマインシャフトは、このなじみのある魅力的な枠組みのなかにありました。当時、第一次世界大戦後のドイツは、軍事的敗北、社会不安、経済危機によって国が分断され、将来どこへ向かえばいいのかを見失っていました。しかしナチ党は、一貫性はないにしても、フォルクスゲマインシャフトに新たに何層かの意味をつけ加えました。権利、交換、選択を重視する、社会的統合による現代的な大量消費主義の市場モデルが国際的に勢力を拡大していましたが、ナチ党はそれに代わるものとして、人種選択的で闘志にあふれ、経済的な自給自足を目指す国民連帯のモデルを提案したのです。“ドイツ人の「血と土」(ブル・ト・ボーデン)”というナチ党の古めかしい言い方にもかかわらず、そのモデルはおそらく反近代的な構想というよりむしろもうひとつの現在を提案したものであり、人種の純粋性と人口の拡大のためのナチ独自の似非科学に基礎を置いていました。

とはいえ、ナチ政権がドイツ国民に受け入れられたのはイデオロギーに説得力があったおかげではありませんでした。むしろ、前向きで新しいなにかを創造したという、一九三三年以降ナチ政権がとりわけ声高に繰り返し宣伝した自慢のひとつが国民の心をつかんだのです。そのなにかとは、有機的でありながら競争のある共同体(ライストゥングスゲマインシャフト)であり、成果に応じた報酬を与える能力主義を採用し、過去の抑圧的な社会階層を消し去ったと宣伝されました。フォルクスゲマインシャフトの一員になるための新たな人種的・社会的な基準に一致し、応分の負担を果たした人びとは、この特権的な民族共同体の貴重な一員として満足のいく自己像を得ることができました。疑い深い人びとでさえ、独立独歩の新生ドイツで、政権が共同体と責任分担について主張した魅力的な公約に心惹かれました。公約には、完全雇用の実現と生活・福祉の水準向上、社会的な規律と家族の安定、男女間の秩序ある関係の確立、富と地位という不平等ではなく能力と努力の競争による人生の可能性の獲得などが謳われていました。

歴史家は、こうした主張を人びとが生きた現実にほとんど即していないプロパガンダ的な煙幕として扱いがちでした。この見方では、階級のない新たな社会というナチ党の主張は、ドイツの労働者が新しい国民共同体に統一されておらず、労働者の政治団体および職場での自由を暴力で破壊することで彼らを脅して従わせていた事実を無視していました。フォルクスゲマインシャフトについて止めどなく発信しつづけたのは、階級区分の根深さを見えにくくし、新たな社会階層と経済格差が生み出されたことを否定するためでした。また、戦争による世界制覇というヒトラーの野望の隠れ蓑ともなったのです。その実現には頼りになる確かな銃後の守りが必要不可欠でした。強制的同質化―ドイツの機関や団体をナチ化された団結した統一体に組み込んで連携させることという詐欺的な策略の陰で、現実には、人びとは小集団に細分化され、停滞した不平等にはまり込んで抜け出せない状態にありました。富と財産は再分配されませんでした。実質の時間給はほんのわずかしか上がらず、住宅建設は再軍備のため断念されました。権力が新たな党エリート層に移譲されると同時に、大衆迎合的な主張とはうらはらに、旧体制の資本家階級と貴族階級は地位と権威の多くをもちつづけていました(そして自分たちの信念も保っており、上流階級のドイツ人ナショナリストは、自分たちが政権の座に就くのを後押しした粗野な指導者たちを見下して軽蔑を強めていた)。その一方で、この解釈によると、無力な大勢の国民は空約束で買収され、「治安」をテロ行為の別名とする警察国家で服従に追い込まれ、戦争が避けられない運命だった、ということになります。

この見方は政権自体の主張よりも現実に即したものでしょうか?一九三三年時点でのナチ政権の第一の目的は、左派を壊滅させ、力のある政治的反対勢力を抑え込むことだったのは明らかです。それと同様に、社会の主要な不平等はそっくりそのまま残しておいて、新たな不平等をつくり出しながら、国民の同意があったというイメージをでっちあげて押しつけようとしたこともまた明白でしょう。とはいえ、イデオロギーはプロパガンダがすべてだと単純化できるものではありません。「ナチ」を、「ドイツ人」という受け身の大衆に向けた指示と政策の立案者とし、ドイツ人には従うか抵抗するかのどちらかしか道はなかったと断定するのでは、単純化しすぎているのです。これは、それまで集団として共有していたアイデンティティと表現方法が突然否定されてしまった社会において、社会生活および私生活の実感と実体験が充分に考慮された見方とは言えません。かつて階級と抵抗の限界に集中していたナチ・ドイツの歴史研究が人種政治をより考慮するようになるにつれて、私たちの見方の角度も変わってきました。社会的カテゴリーと政治的忠誠によってではなく、新たな生政治的な区分によって定義された社会における、アイデンティティと帰属の問題に注目が高まりました。ナチ・ドイツの日常生活史をじっくり見てみると、国民社会主義を徐々に植えつけた入り組んだルートが浮き彫りになります。多様な政治的背景をもつ、あらゆる階級のドイツ人の生活とアイデンティティに、政党、イデオロギー、言語、政策として、国民社会主義を浸透させていったのです。国民社会主義のもとで失ってしまった自由と引き換えに、何百万もの人びとが選択的にイデオロギーを無視し、自分が手に入れのを数えるほうを選ぶことができました。拡大する経済で生まれた勤め口、民族的な権利を与えられた安心感、ヴェルサイユの「恥辱」を経験したのちのドイツの軍事力と国際的地位にいだいた愛国的誇りが得られたのです。それからほどなくして、同じドイツ人でありながら、自分たちに選択権がないと気づいた人びとが数十万いましたが、大多数はそうした人びとが払う代償は胸におさめてしまってかまわないと考えました。

境界線を引く

帰属意識で結ばれたこの共同体が第一の礎としたのは、一員として受け入れる価値がないと判断された全員を強制的に排除することでした。ナチ政権は前代未聞の抜本的な措置を講じる用意ができていました。ドイツ社会のモザイクのような多様性を力ずくで叩きつぶし、人口増加、人種闘争、領土拡大に向けた手段につくり変えるためです。能力不足や不要と見なされた人びとは、フォルクスゲマインシャフトから切り離され、物理的にも言葉のうえでも壁の向こうに閉じ込められることになりました。そして承認と共感というごく普通の感情はその壁を越えることができなくなったのです。

このように、フォルクスゲマインシャフトの根本原則は、帰属するにふさわしい者とそうでない者のあいだに境界線を引き、取り締まることでした。「個人」や「市民」といったリベラルな概念は、Volksgenosse(民族同胞)という生物学的な分類に取って代わられました。これも一九三三年以降に公的な場で盛んに語られるようになった多くの言葉のひとつで、イデオロギーがたっぷり詰まっており、英語にはまったく同じ意味の言葉がありません。たとえば「ethniccomrade」など、不自然な直訳にしかならないのです。その中心となる意味は政治的権利や公民権ではなく、生物学的適応度という意味での「血」でした。ここで言う血とは、有機的共同体の生命と成長のための民族同胞の人種的・優生学的価値のことでした。民族同胞の範疇からはずれた人びとはすべて「その他の人びと」と位置づけられ、フォルクスゲマインシャフトは彼らから守られなければならない、彼らを追放しなければならないとされました。こうした人びとはartfremd(「[人種的な]異種」)やgemeinschaftsfremd(「共同体にとって異質」、つまり「反社会的」共同体異分子)、erbkrank(遺伝病)と指定されました。国は生物学的に健康な(かつ政治的に好ましい)ドイツ人が繁栄し、子孫をつくるのを奨励する一方で、文字どおりに言えば、こうした政治的身体〟である国民に害を及ぼしかねない欠陥があるとみなしたすべての人びとを排除していったのです。ナチが「人種衛生学」と呼ぶのを好んだ優生学の教義と実践は決してナチ・ドイツに限られたものではありませんでした。優生学は二〇世紀初めのヨーロッパとアメリカ合衆国では科学と社会政策に当たり前のように採り入れられており、ドイツでは一九三三年以前にすでにいくらか進歩していました。しかし批判的な発言が禁じられたナチ・ドイツでは、歯止めが効かない状態になり、強制的な計画を進めるための新たな急進的合意と推進力が形成されていきました。医学的な野心が正式に承認された人種イデオロギーと次第に一致し、不適応の問題を生政治上の集団的自己防衛という緊急課題として扱うようになりました。一九三四年にナチ党のある幹部がずばり言ったように、国民社会主義は「応用生物学」にすぎなかったのです。

「反社会的分子」と犯罪者

「反社会的分子」とは社会の基準から逸脱したり、反抗的だったりする個人や集団をひとまとめにした分類で、人種的には「アーリア人」でも、ハイドリヒが一九三八年に言ったように「犯罪に限らず、共同体にとって有害な行動をとおして共同体に順応するつもりのないことを明らかにする人びと」を指しました。危険なほど弾力性のある定義です。政敵の大量拘束がボリシェヴィズムの脅威から共同体を守るためだと公然と正当化されたのと同じように、嫌われ者で取るに足らない逸脱者集団の拘禁は、「犯罪との戦い」であるだけでなく、社会を蝕む危険から国民を守るための緊急措置とされました。

一九三六年、バイエルン政治警察が標的として列挙したのは、そのほとんとがすでに長いあいだ公的な嫌がらせを受けてきた人びとの寄せ集めでした。「物乞い、放浪者、ジプシー、路上生活者、労働忌避者、なまけ者、売春婦、不平家、常習的な大酒飲み、ごろつき、交通違反者、いわゆるサイコパスや精神病患者」だったのです。彼らは一斉に逮捕されて刑務所や労役場、強制収容所に入れられ、何万人もの危険とされた「常習的」あるいは「遺伝的」な犯罪者も、予防拘禁の新たな権限によって同じ運命にさらされました。まず、シンティとロマ(ジプシー))が路上生活者や労働忌避者として迫害されましたが、一九三八年にヒムラーが出した命令では、彼らが厄介者であるばかりではなく、異人種でもあると恐ろしげに説明されました。強制収容所はこうした人びとでいっぱいになり、一九三九年には二万一〇〇〇人の収容者のうち、政治犯は三分の一以下に減っていました。過酷な労働と厳しい規律によって「再教育」された収容者が共同体に復帰するというかすかな可能性も残されたものの、ほとんどの収容者にとってそれは幻想にすぎませんでした。

性、ジェンダー、生殖

「反社会的分子」と犯罪者も、ドイツの人口とその質を高めるための別の優先度の高い計画の標的にされていました。一九三三年七月、「遺伝病」があると認定されたすべての人を強制的に断種する法律が制定されました。知的障碍からアルコール依存症、先天性の聾や盲目まで、広い範囲におよぶ身体・精神にかかわる障碍が遺伝病とされました。実施の際の基準はさらに弾力的に運用され、「反社会的分子」とされた人びとや数は少ないもののアフリカ系ドイツ人にも適用されました。アフリカ系ドイツ人のほとんどは、第一次世界大戦後のラインラントに駐留していた、フランスのアフリカ人部隊〔フランス植民地のアフリカから派遣されていた〕の兵士とドイツ人女性のあいだに生まれた人びとでした。

一九三九年までにおよそ三二万人のドイツ人女性と男性が断種されており、男性対象の処置が「ヒトラー切開」という皮肉な異名をとるほど、断種政策は人びとの意識に急速に浸透しました。

“不適格者”に子孫を残させないことは、第一次世界大戦以来低下していたドイツ人の出生率を回復させるための政策に緊密に結びつけられていました。出生率の低下はナチ党の目には人種的な自殺行為という悪夢に見えたのです。遺伝的に「健康な」男性と女性の断種は禁じられる一方、ドイツですでに違法だった妊娠中絶は取り締まりと刑罰がさらに強化され、避妊手段は利用しにくいものになりました。結婚は、一九三三年六月に始まった結婚奨励貸付金制度を皮切りに、国が課した人種・思想の基準によってますます規制されるようになりました。結婚の資格は人種によって制限されるとともに、結婚した女性は有給の仕事からの退職を義務づけられ、子をひとり出産するごとに貸付金の返済額が減免されました。一九三五年に制定されたいわゆるニュルンベルク法のもと、「ユダヤ人」と「ドイツ人ないし〝同種”(artverwandtes)の血をもつ国籍所有者」との結婚および性交渉が禁止されました。同年、生物学的に「望ましくない」と見なされた結婚も禁止されています。このように生殖活動に対して新たに規制が課せられたのは、一九二〇年代のフェミニズムの躍進を帳消しにする意図もありました。性差による役割分担という慣例的な思想に女性を従わせ、母親になることを共同体に対する義務として強制しようとしたのです。

ヒムラーが陣頭指揮を執った男性同性愛者への激しい迫害は、彼らが共同体に対する子づくりの義務を拒否しているという通俗的な思い込みも理由のひとつになっていました。女性は受け身の性とされていたため、女性同性愛者は守られました。子をつくれる可能性が完全に失われたわけではなかったからです。しかし彼女たちも、男性性と女性性しか存在しないとする、ヒムラーの厳格な道徳観による攻撃にさらされやすくなっていました。ドイツでは男性同士の性交渉が以前から長らく犯罪とされており、一九三五年になると、男性同士の性的親密さという定義が曖昧な状態も犯罪に含まれるよう刑法が拡大されました。大勢の男性同性愛者が裁判にかけられ投獄されましたが、一九三三年から四五年にかけては、約一万五〇〇〇人が強制収容所に送られ、親衛隊の看守からも同じ立場であるはずの囚人からも迫害を受けました。さらには人体実験の犠牲者となりました。

国家が新たに発令した人種衛生上の命令は、個人の選択や倫理観をまったく考慮せず、とりわけ女性を対象に、個人の性交歴や病歴、家系についてひどく立ち入った調査を認めました。人びとの価値観や職業上の規範、言語がゆるやかに変化していくにつれて、抵抗と疑念は徐々に弱まり、新しい現実に批判が及ばないようになっていきます。そして一九三九年以降にいっそう重大な医学的な倫理違反が起こる素地がつくられてしまうのです(第9章参照)。「われわれ対あいつら」という二項対立的な区別を強いることで、政権の政策は、汚名を着せた集団を通常の社会的交流から遠ざけ、抑圧や迫害に対して無防備な状態へと追い込みました。その一方で、彼らの反対側にいる人びとは優越感に浸ることができ、それによってさらにインサイダーとアウトサイダーの距離は広がっていったのです。おそらく、この感情がフォルクスゲマインシャフトを支える最も揺るぎない柱となったのでしょう。しかし、「アーリア人」のドイツ人が受ける資格のある保健福祉計画はコインの片面にすぎませんでした。その提供は、すべての個人をフォルクの単なる生物学的単位として扱う人種的・優生学的差別の原則にまさに左右されていたのでユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

あらゆる種類のユダヤ系ドイツ人が新たに過激な反ユダヤ主義にさらされることは、一九三三年には既定路線となっていました。はっきりしていなかったのは、それがどのようなかたちと方向性になるかだけだったのです。政権はまず、ほかのヨーロッパの国ぐにと同様にドイツにも広がっていた反ユダヤ主義に基づく偏見、とくに公職においてユダヤ人がもっていたとされる「不釣り合いなほどの影響力」に対する人びとの憤りを利用することができました。この有力とされた異人種集団の存在が、ナチ党がドイツのために完全に「解決」すると決定した「ユダヤ人問題」となったのです。その実現までに政権が意図したのは、平等と同化の道筋を閉じて国外移住を奨励し、普通の生活を営み、追い求めることからユダヤ人を除外することだけではありませんでした。「ユダヤ人」と「ドイツ人」のあいだに決してとおり抜けられない壁を打ち立てることも目指したのです。これは人種隔離国家をつくるという意味ではありません。存在するとされたユダヤ人的なちがいは、その構造からして、空間を隔ててふたつの共同体を無理に共存させるのには適しておらず、ユダヤ人の「いない」ドイツにするのがふさわしいとされたのです。とはいえ、その実現方法は、断固たる戦略によって生み出されたというより、ナチ・ドイツにおける権力行使の特徴となっていた競争力学と敵対意識によってもたらされたものでした。

それにしても、「ユダヤ人」とは実際には誰だったのでしょう?このきわめて重要な問いは、通俗的な偏見の問題だけにしておくわけにはいかず、ある種の適用可能な定義が必要になりました。レイシズムの例にもれず、ナチ党の反ユダヤ主義はイデオロギー、疑似科学、頑迷さの寄せ集めだったため、絶対的な正確さや科学的な確証はありませんでした。しかし決定的だったのは、ナチが不当に定義づけをおこない、ユダヤ人が自らのアイデンティティを主張する権利を奪ったことでした。一九三三年以降、「血」を基準にユダヤ人が決定されるようになりました。つまり、キリスト教へ改宗しても人種的にユダヤ人と見なされるのを防ぐことはできず、疑いの余地が残るケースの確定には乱暴な生理的基準が適用されました。ユダヤ人の意見はもはや考慮されなくなりました。一九三三年の初めての人種による公職追放では、「非アーリア人」の子孫かどうかは、両親と祖父母の宗教が根拠となりました。この「アーリア条項」はその後、広範囲に適用され、反ユダヤ主義に基づく差別と迫害が染みのようにドイツ社会に広がっていったのです。

自分の名前から結婚相手、教育を受けられる場所から職業選択、住む場所から余暇の過ごし方まで、なにからなにまで同じ原則で決められるようになりました。また、同じ原則によって、非ユダヤ系のすべてのドイツ人は祖先がユダヤ人の「血」で穢されていないと証明することが求められ、家系調査(Sippenforschung)という新たな巨大産業が生み出されました。

一九三五年九月の毎年恒例のナチ党党大会で開かれた特別国会でニュルンベルク法が採択され、さらに複雑で広範囲な規制が生まれました。「ドイツ人の血と名誉を守る」法はユダヤ人と「ドイツ人ないし同種の血をもつ国籍「所有者」――非ユダヤ人に対して好まれた正式呼称との結婚と性交渉を禁じました。ユダヤ人への完全な市民権を制限する新しい法律とともに、こうした規制が法的にユダヤ人の地位を二級市民へと貶めました。法律の付則では、以前より厳格ではない「完全ユダヤ人」(Volljude)の定義が決められたばかりではなく、複雑な下位区分もつくられ、何万という部分的ユダヤ人、つまり「混血」(Mischlinge)をつくり出し、その混血という地位は引こうとしていた境界線を曖昧にしただけでした。「血」の科学のでたらめぶりが露見すると、分類は結局、正式な宗教的帰属に基づきおこなわれました。

一九三三年以降、ドイツ系ユダヤ人が経験したことは、民衆レベルのテロ行為と国家が認めた迫害が絡み合う予測不可能な力学によって決まりました。同胞のドイツ人が距離を取るにつれ、ユダヤ人の社会的孤立が深まったことも状況を悪化させました。ナチ活動家による剥き出しの暴力が一部の人びとの失望をさそったものの、ユダヤ人の法律違反者に首からプラカードをかけさせて引きまわしたり、明らかにユダヤ人経営とわかる商店をボイコットしたりするなど、儀式化された侮辱と辱めは、非ユダヤ人共同体の連帯を確認する大衆デモをおこなう機会になることもありました〈図版4〉。反ユダヤ主義を煽るプロパガンダは生活のすみずみまで溶け込み、「ドイツ人」と「ユ「ダヤ人」がお互いについて考えたり、人種の境界線を越えてコミュニケーションを取ったりすることができる言葉そのものをつくり変えました。案内板やお知らせで「ここはユダヤ人お断り」や「この町にユダヤ人はいない」とそっけなく告知されました。「ドイツ系ユダヤ人全国代表部」は「在ドイツ・ユダヤ人全国代表部」へと名称変更を余儀なくされ、報道機関も同様に「ドイツ系ユダヤ人」の存在をにおわせる言葉を避けるよう命じられました。

ユダヤ人は国勢調査や住民登録といった書類上で分離され、一九三八年一月からはユダヤ人とわかる身分証明書の所持が義務づけられ、ユダヤ人のパスポートには「J❲ユダヤ人を意味すJudeの頭文字❳」の文字が大きく押印されたのです。

こうした戦略の目的は、ドイツ系ユダヤ人を「ユダヤ人」としてだけ見えるようにし、ドイツ人が彼らを個人としてではなくユダヤ人として、文字どおり異人種として認識するよう促すことでした。ユダヤ人自身にとっては、ドイツ人としての主観的かつ疑問の余地のないアイデンティティをこのように破壊されるのはひどく侮辱的でつらいことでした。「政治でなにが起きようと、私は心のなかで決定的に変わった」と一九三八年一〇月、ドイツに同化したユダヤ人学者で勲章も授与された退役軍人のヴィクトーア・クレンペラーは書き記しています。「何人も私のドイツ人らしさを奪うことはできないが、私のナショナリズムと愛国心は永遠に失われてしまった」

一九三〇年代末になる頃にはすでに、ユダヤ系ドイツ人は学校や大学から追放されており、ユダヤ人が手がけた文化的作品は舞台やコンサートの演目や曲目、図書館、アートギャラリーから一掃されていました。「ユダヤ人」の歴史や人種的特徴についての、反ユダヤ主義の立場からの研究は学術的な地位を得ました。ユダヤ人は勤め先や専門的職業から締め出され、公職から追放されました。ユダヤ人の店や会社はボイコットされ、倒産に追い込まれました。財務当局はユダヤ人の財産を没収する強制的な「アーリア化」に加担し、ユダヤ人納税者から徹底的に搾り取り、そうして得た利益を再軍備活動へ回しました。ユダヤ系ドイツ人はかつての友人と同僚から避けられ、裏切られ、自由と自尊心に対して予想外の攻撃にさらされました。クラブなどの各種の団体から追い出され、映画館、公園水泳プールやそのほかの施設への立ち入りを禁じられました。ほとんどのユダヤ人はさらに密に団結することで、こうした戸惑うばかりの仕打ちに対処しました。地理的には、小さな共同体を捨てて大都市に匿名性の高い環境を求め、社会的には、家族やシナゴーグ、新たに結成された自助組織のなかに安全を求めたのです。

ユダヤ人に対する国外移住への圧力は、ハイドリヒ率いる親衛隊保安部が陣頭指揮を執った政策であり、激しいものでした。ただし同時に、着々と進められていたユダヤ人の貧困化が計画の妨げになっていました。祖国を捨て、家族の絆を断ち切り、財産を国に明け渡し、どこかの知らない国で、おそらくは歓迎してもらえない国で人生をやり直すべきかどうか。ユダヤ系ドイツ人は身を切るような決断を迫られました。出国すると決めた場合でも、どこの国境も閉鎖されており、なかなか出国はできませんでした。一九三七年末までにユダヤ人人口のおよそ四分の一しか出国できす、政策立案者とナチ活動家は一様にいらだちを募らせます。ヒトラーは、一九三七年のニュルンベルク党大会で激しい反ユダヤ演説をおこない、この状況に怒りを爆発させました。これをきっかけに地元の活動家による新たな反ユダヤ暴動が起き、経済活動の隙間市場に残っていたユダヤ人を追い出すためのさらなる差別的な措置が実施されました。政権が戦争の準備を着実に進めるなか、ユダヤ人の

だいこれつ「第五列」をドイツ人社会から強制退去させることは喫緊の優先事項となります。併合されたオーストリアでは一九三八年三月以降、すさまじい暴力と急激に激しさを増した迫害が発生し、ドイツの大都市では反ユダヤ暴動が起きたため、国を脱出するユダヤ人の数は回復しましたが、それでもまだ政権にとっては少なすぎたのです。この行き詰まりによって、反ユダヤ政策は引き返せない地点から前のめりになっていきました。

一九三八年一一月七日、パリのドイツ大使館職員がユダヤ人少年ヘルシェル・グリュンシュパンによって狙撃されました。少年の両親は一〇月末にポーランドへ帰るよう国外退去命令がくだされた大勢のなかのふたりでした。折しも併合されたオーストリアでの急速な進展とは対照的にドイツ国内で遅々として進まない反ユダヤ対策に対して、草の根レベルのナチの不満が高まっていました。ゲッペルスはこの暗殺事件をその不満を利用する好機と捉えました。ヒトラーの承認を得たゲッベルスとナチ党幹部は、一一月九日夜から翌一〇日にかけてドイツ各地でポグロムを周到な準備のうえで展開する一方で、これをユダヤ人の犯罪に対する民衆の復讐心から自然に発生した行為だと公然と発表したのです。

凄惨な暴力がドイツのユダヤ人を呑み込みました。特別に招集された党員たちに扇動され、平服姿の突撃隊と親衛隊の隊員たちがそれを実行しました。

群衆は見守っていましたが、なかには暴力行為に加わる者もいました。警察はただ見ているだけでした。この「水晶の夜(クリスタルナハト)」はそれ以前のなにをも凌駕していました。暴力が恐ろしいほどエスカレートするなか、ドイツにあった一〇〇〇ヵ所ものシナゴーグが冒潰され、破壊され、何千というユダヤ人経営の商店や会社が滅茶苦茶に壊され、略奪され、住居は侵入され、家財が盗まれ、男性も女性も容赦なく攻撃されました。ヴァイマルでは、最後のユダヤ人経営の商店だった小さな文房具店が突撃隊と親衛隊に荒らされ、店主の高齢女性は乱暴な扱いを受けました。ドイツ全国で少なくとも九一人が殺害され、自ら死を選んだ人は何人いたのかわかっていません。ヴァイマルからの一二人を含む、およそ二万六〇〇〇人のユダヤ人男性が過密状態の強制収容所に入れられ、そこで間もなく数百人が亡くなりました。ブーヘンヴァルトのある収容者は彼らの到着をこう描写しています。「何十もの、車両いっぱいの、数百、数千ものユダヤ人。人生のあらゆる段階の人びと――けが人、病人、身体に障碍のある人、手足を骨折した人、眼を失った人、頭蓋骨を骨折した人、死にかけている人、死人」。生き残っても、有効な国外移住の書類を手に入れていたことを証明できた場合にしか釈放されませんでした。

暴力行為に参加しなかった人びとの反応は静かなものでした。多くの非ユダヤ系ドイツ人が暴力の規模と財産の理不尽な破壊に受け、恥じてさえいたのですが、介入しようという人はほとんどいなかったのです。恐怖だけではなく、反ユダヤ感情の広がりとユダヤ人孤立化の成功を物語る反応と言えるでしょう。ナチ幹部のあいだでは、ゲッベルスの民衆を扇動する手法が完全に建設的とは見られていなかったものの、それによって政権内に反ユダヤ主義の活力が解き放たれると、迫害、財産没収、国外移住の各政策間の関係を体系化しようとする多くの過酷な措置が導入されました。今度は、混乱と破壊を厳しく批判していたゲーリングが政権内の反ユダヤ政策の調整をヒトラーから任されます。それでも根本的な矛盾が残りました。ゲーリングが責任者を務める経済計画「四ヵ年計画」のためにユダヤ人財産の没収を優先事項とすることは政権の統制が及ぶ範囲にありましたが、大量国外移住というハイドリヒの目標は、人数が著しく増加していたにもかかわらず、どうにもならなかったのです。ヒトラーやそのほかのナチ党の代表者たちは、いらだちまぎれであれ、外国政府を脅迫するつもりであれ、ドイツ国内にとどまるユダヤ人に対するいっそう露骨な脅しを口にするようになりました。それと同時に、プロパガンダでは、ドイツの破壊をもくろむ世界じゅうのユダヤ人から自国を守るのに不可欠な共同体として、フォルクスゲマインシャフトがますます盛んに喧伝されるようになったのです。

 金曜日 以来の図書館 また15冊借りてしまった本が重たくて うろうろ できない 新作のコーヒーフラペチーノ
 やっとうな丼にありつけた エプロンで中国産うなぎ 1匹 800円 そのままレンジで温めて添付のたれをつけて うな丼 ラーメンどんぶりに山盛り いっぱい 自分で料理することのメリットは味には文句をつけれない 自分で作って自分で食べるんだから これが本来、基本です
 vFlatで街の情報探索 単なる写真とは異なり 情報を損害 得られる デジタル化もできる

 歴史ほど面倒なものはない 詳細から概要に戻す 側面があまりにも多い 詳細に意味があるのかというところから始まっていく

 豊田市図書館の14冊
209『世界の歴史⑦』宋と中央ユーラシア
209『世界の歴史⑨』大モンゴルの時代
209『世界の歴史⑪』ビザンツとスラヴ
209『世界の歴史⑭』ムガル帝国から英領インドへ
209『世界の歴史⑯』ルネサンスと地中海
209『世界の歴史⑰』ヨーロッパ近世の開花
209『世界の歴史⑱』ラテンアメリカ文明の興亡
007.3『メタ産業革命』メタバース×デジタルツインでビジネスが変わる
516.71『新幹線全史』「政治」と「地形」で解き明かす
329.67『ニュルンベルク裁判1945-46』
236.9『リスボン大地震』世界を変えた巨大災害
302.34『ドイツの現状』
134.2『判断力批判(上)』
134.2『判断力批判(下)』
奥さんへの買い物依頼
お好み焼き   178
うすピーナ    128
カップラーメン 128
ソース焼きそば          168
リンゴ6個    598
スイートコーン            199
うなぎ          800
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