未唯への手紙
未唯への手紙
『シリア・レバノンを知るための64章』
『シリア・レバノンを知るための64章』
ワイン源流の地
- レバノンワインを楽しもう★
レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、1975年の6月だった。この国が十七年戦争とも名づけた長い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。
しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルベッンの町に到着した。
バアルベックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。そもそもはフェニキア人(レバノン人の祖先)が自分たちの神バアルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。次に来たローマ人たちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。
西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ヶ所という。
私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。
ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカー高原に近い事実にも気がついた。
もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?
その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバーを再訪するようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。
一方で「ワイン源流の地・レバノン」説についての勉強は山形孝夫先生(宮城学院女子授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。
レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。
ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルクの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。
――紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっているが、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や楔形文字でびっしりと神話が記された粘土板など、大量の出土品があったという。
その楔形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る肥沃な土地であった。この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じくペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。
しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の儚い生命である。人間の関係もやがては滅びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉ならずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要とも言えよう。
バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。彼は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魃し、野山は枯れ果ててしまう。
ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つけると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであった。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトへの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。
モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。
ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸にして彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワトリー訪問の世話をしてくれたのだった。
シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッが移住し、この国にフランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワイン・ルネッサンスをもたらした名門であるという。
私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲していたのだが……
このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。このワイナリーの造るワインは多岐にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルツトラミナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴへのツアーも楽しいものだった。
2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤへ案内された。フランス人との共同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、主に赤(ムールヴェルドなど)を味わった。
新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、ゴスン氏の印象だったのか、興味深い体験だった。
さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した時のことだ。
最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべてホーシャル氏自信が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。
さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。
「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がなかった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれています」などの言葉が忘れられない。さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。
「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国になってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアヘックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。
今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。世界各地……日本でも盛んだ。
この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワインに深く親しみたいと思う。
世界に広がるレバノン・シリア移民
★際立つ存在感と深刻な頭脳流出★
「兄はドイツで医者、母方従妹はアメリカの大学で研究していて、父方の叔父はオーストラリアで貿易をやっている。曾祖父から分かれた別の親戚は3代にわたってブラジルで商売、はスーパーのチェーン店を経営している。」シリアでもそうだが特にレバノンで、こんな話を耳にすることが多い。かつて、日本の商社マンが高度成長期に世界各地に出かけて事業を展開したとき、あちこちで地元の手ごわい商業ネットワークと対峙したのだが、そこで「レバ・シリ商人」はインド・パキスタン系の「イン・パキ商人」や「ユダヤ人商人」「華僑」よりも商売上手だと話題になったという。
レバノン・シリア移民とその子孫はさまざまな分野で非常に目立っている。際立った人物を思いつくままに挙げてみよう。ビジネス界では、まず世界長者番付第1位のカルロス・スリーム。(資産690億ドル=6兆9000億円で、東京都の一般会計予算を超える!)1940年メキシコシティ生まれ、父親は南バノン山間部の出身で1902年メキシコに移民、母方祖父はベイルート近郊の出身でメキシコ初のアラビア語新聞社の創業者。カルロス氏自身はメキシコの電信会社経営から事業を拡大した。今やニューヨーク・タイムズ紙の大株主でもある。日本でおなじみのカルロス・ゴーン(アラビア語名ゴスン)日産CEOは、1954年ブラジル生まれのレバノン移民3世。小・中学校を中心に1年間をレバノンで過ごし、1971年に高等教育を受けるためフランスに移った。コピー印刷や製本で世界的なチェーンを展開するフェデックス・キンコーズ創業者のポール・オルファリーは、カリフォルニア生まれのレバノン移民2世。アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、アメリカで生後すぐに離別した実の父親がホムス出身の政治学者なので、シリア移民2世と言える。
政界では、アメリカ大統領選に二大政党以外からの候補として顔を出す消費者運動家のラルフ・ネーダー(ナーデル)はレバノン移民2世で、1989年から10年間アルゼンチン大統領を務めたカルロス・メネム(マヌアム)は両親がダマスクス近郊出身、2010年のトヨタ車リコール問題でその厳しい姿勢により有名になったアメリカ運輸長官レイ・ラフードはレバノン移民3世である。ブラジルには「レバノン系国会議員団」という40人ほどの組織がある。
文化・芸能・(医)学界・ファッション界など数え始めるときりがないが、こうした著名人を別にしても、世界各地のレバノン系・シリア系の人々は、概ね経済的に豊かな生活を確立しているように見える。中には失敗して表に出ない人々もいるだろう。しかしこの目立ち方は尋常ではない。もちろん傑出した人たちは、その才覚・努力や育った環境が重要なのであって、人種的に優れているという話では毛頭ない。ただ、レバノンとシリアの国内人口それぞれ400万人、2300万人を考慮すれば、実に注目すべき現象なのである。
もう一つ在外人口の動きを象徴する例を挙げよう。2006年7~8月イスラエル軍は対レバノン戦争で真っ先にベイルート空港の滑走路を爆撃したため、外国人の避難が大問題になった。欧米諸国は艦船を送って自国民の救出に努めたのだが、そこでわかったのは、当時レバノンにはカナダ人が5万人、オーストラリア人とアメリカ人が各2万5000人、イギリス人とフランス人が各2万人余りいたことである。大半はそれらの国のパスポートを所持して夏休みに帰省していたレバノン移民とその子孫だった。(なお、外国人労働者としてスリランカ人8万人、フィリピン人3万人がいた。)
それでは現在、世界のレバノン・シリア移民(とその子孫)の人口はどれほどなのか。正確な統計的データはどこにもなく、雲をつかむような話になるが、レバノンについてのある推計によれば、中南米に858万人(うちブラジル580万人)、北米に257万人(うち合衆国230万人)、西欧、オセアニアにそれぞれ4万人、湾岸アラブ諸国に35万人、西アフリカに7万人で、全世界に1200万人という数字が現れる。ブラジルでは、そこだけで1000万と言われていて、いかにも誇大な推計に見える。一方で、レバノン国内人口がざっと400万人なので、世界全体でもせいぜいその程度だろうという推測もある。この推計のバラつき自体が政治性を帯びているのだが、これほど混乱する理由はいくつかある。これまでの移民の歴史をざっと眺めながら考えてみよう。
レバノン・シリアから本格的な移民が始まったのは19世紀末で、その後第一次世界大戦までが第一波の時期で、東・南欧からアメリカ大陸への大量移民の時期と同じである。移民の大半は、レバノン中北部の山間部とシリア中部のキリスト教徒の農民で、南北アメリカを中心に、西アフリカ、オセアニアからフィリピンまで、当初からグローバルな移住が進んだ。当時レバノンもシリアも国としては存在せずオスマン帝国領だったので、各地で「トルコ人」と記録された。このためレバノン系移民を語りながらシリア系移民も含めたり、その逆が起こったりする。
また移住先では名前が変わることがしばしばだった。「ユースフ・ファフリー」が「ジョセフ・フェアリー」になると、名前からの追跡は難しくなる。運よく移住先の移民管理局の記録が残っていても、ほとんど役に立たないのである。ギリシア正教の移民は移住先でロシア正教会に、マロン派はローマ・カトリック教会に吸収されて独自の教会を持たないケースもあったので、教区資料もない。さらに南北アメリカで顕著だが、他のエスニックグループとの結婚が進むと、世代を経るにつれて「レバノン人」なり「シリア人」なりのアイデンティティは急速に薄らいでゆく。
この移民第一波の時期、大金を稼いで帰還する者もいたが、は家族を呼び寄せて永住し、結果的に一族もろとも移住して、出身村の人口が激減することが多かった。長い船旅の末、移住先にたどり着いた農民は、ほとんどの場合、まず行商から身を起こし、徐々に資金を築いて(世代を経て)都市中心部の商店街に卸や小売りの商店を持ち、各地で社会上昇を遂げた。
移民第二波は、レバノン、シリアとも独立して20年ほど経った1960年代で、主にオイルブームに沸く湾岸産油国に向かうものだった。ムスリムの比重が高く、社会インフラが立ち後れた湾岸諸国で、石油産業の管理運営や技術部門、教職や行政職、商業に従事した。出稼ぎの感が強く、距離的な近さから頻繁に一時帰国する例も多かった。またイスラエル建国前後からユダヤ教徒の移住が続いていたが、1967年の第3次中東戦争は決定的なプッシュ要因となった。この時期、宗教を問わず南北アメリカへの移民も続いていた。
第三波は1975年から1990年までのレバノン内戦期、そしてそれ以降の政治的不安定期である。レバノンでは高水準のフランス語・英語教育が行われてきたため、若者が単身で、あるいは家族と一緒に主に西欧・北米・オーストラリアに流出することとなった。ムスリム・キリスト教徒を問わず、おそらく人口の4割が、間断ない戦闘による閉鎖の合間を縫ってベイルートの空港から、あるいは陸路でシリアやヨルダン、海路でキプロスに向かい、そこの空港から、あるいはレバノン沿岸港からの密航船で、続々と戦火を逃れた。内戦後に戻る者も多かったが、欧米で活躍の場を見つけた者はそこで永住する方向だ。また内戦後も移民は依然ハイペースで続いており、おそらく50万人近くがレバノンを離れたとの推定がある。シリアからも高等教育を受けた若者の留学と移民が相次ぎ、頭脳流出は今日まで深刻な問題である。
そして2011年以来、動乱のシリアからトルコやヨルダン、レバノンに、そのレバノンからさらに欧米に向けて、新たな難民・移民の人口流出が始まっており、これが第四波となるであろう。
在外レバノン系・シリア系の人々は、送金や投資などを通じてその経済的支援が本国で期待されるだけでなく、レバ人有権者の帰国投票行動(そのために湾岸諸国から莫大なカネが流れて無料航空券が世界各地で配布される)やシリア反体制派の運動など、双方向的にさまざまな力が交錯する空間を作り出している。
一方、長期的な観点からすると、移民はこの地域のキリスト教徒とユダヤ教徒の人口比率を著しく低下させ、宗教的多様性が失われてゆく過程にある。同時に誰がレバノン・シリア人なのか、という問題が世界的に拡散しているのである。
スンナ派とシーア派
★国が変れば立場も変わる★
世界のイスラーム教徒の大多数を占めるスンナ派と、1から2割を占めると言われるシーア派との間の教義の違いやそれぞれの成立の歴史については、事典類の解説に譲り、本章では主にシリア・レバノンにおける両宗派の位置と今日の問題について扱う。ドルーズ派やアラウィー派、イスマーイール派など、シーア派からの分派とされる宗派については、それぞれの章をご覧いただきたい。
預言者ムハンマドの没後3年目の635年、初代正統カリフのアブーバクルの時代にムスリム軍がダマスクスを占領し、それまでビザンツ帝国領だったこの地域のイスラーム化が始まった。661年からダマスクスに都をおいたウマイヤ朝は、現在の国で言えば東はパキスタンから西はスペイン、ポルトガルとモロッコに至るまでの大帝国を築いた。歴史地図帳を見ると、圧倒的な軍事力による「大征服」で、この広大な領域の住民が一気にイスラーム化したかのような印象を受けるかもしれないが、この時期、まだムスリムは少数派で、多数の異教徒を支配する形だった。一方、この段階ですでにウマイヤ家の支配の正統性を否定する一派が、今日私たちが「シーア派」と呼ぶ宗派として出現していた。
ウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に取って代わられるまでの約90年間、「歴史的シリア」の中心都市ダマスクスを都として繁栄したのであるが、この歴史的事実はシリアの(特にスンナ派の)ムスリムたちにとって誇らしい、重要なよりどころとなる意識を植え付けたと言える。イスラームの共同体は、アラビア半島という生態的に厳しい環境に生まれ、世界中に拡大することになったが、最初に「歴史的シリア」という肥沃な農業地帯に多くの人口を擁する地域に政治的中心を移し、一挙に版図を広げたのである。
この当時からメッカへの巡礼路には、イラン・イラク方面からアラビア半島の沙漠を縦断するルートや、エジプト方面から紅海を渡り沿岸を進むルートなどいろいろあったが、都のダマスクスから陸路南下してメッカに向かうルートが一番主要なものだった。これは時代が下ってオスマン帝国の時代になっても変わらなかった。都のイスタンブルをはじめアナトリア方面からメッカ巡礼する際、ダマスクスは陸上ルートの最後の拠点都市として位置づけられた。毎年巡礼月が近づくと、何千人もの巡礼者が各地から集まり、町は1ヵ月以上にわたり祝祭的な雰囲気に包まれた。出発の日には華々しく飾り立てられた千頭単位のラクダがキャラバンをなし、楽器が多数鳴らされるなか、ダマスクス総督が先頭に立ち、護衛の軍勢を従えて、長い列をなす巡礼団が賑々しく南に向かった。メッカまで4日弱の行程だった。
ダマスクスとアレッポという主要都市の中心の大モスクが、ウマイヤ朝期に建立された「ウマイヤ・モスク」であることは、以後今日に至るまで14世紀間にわたりイスラームが絶えることなく生活に根付いてきたことを、常に思い起こさせる。ユダヤ教やキリスト教に比べれば新しい伝統ではあるものの、世界中のムスリム社会を眺望すると、シリア・レバノンのムスリム社会が最長の時間的伝統の上に成り立った地域の一つであることは明らかである。そして今日のシリアとレバノンの地域を総体で考えれば、ここで約8割の人口を占めているのがスンナ派であり、密度の差こそあれ、ほぼ全域に分布している。正統派の宗教として、地域全体に浸透・定着してきたことは疑いようがない。
ただし、この地域の地中海沿岸の山地に国境線を引いて、レバノンをシリアから切り離すと、そこではスンナ派がもはや多数派ではなく、あまたの宗派の合間に入って急にマイノリティになる。レバノン国内の分布は、ベールートやトリポリ、シドンといった沿岸都市部とベカー高原の一部にほぼ限定され、山間部の町村にはほとんどプレゼンスがない。このためスンナ派は、レバノンという国を「レバノン山地」(アラビア語で「ジャバル・ルブナーン」)を基盤とする社会と認識する立場――マロン派とドルーズ派を中心とする――に対して明確に異を唱える傾向がある。全世界のスンナ派ムスリムの巨大な海の中にいつでも一体化できるのであり、より近くのアラブ地域のスンナ派とはそもそも自他を分かつ必要性はあまりなかったのである。これは独立前後の時期から、レバノンのスンナ派の多くをアラブ民族主義に向かわせる原動力となった。
シーア派も国境線が引かれることでその勢力図がガラリと変わる。現在のシリア・レバノンの地域全体からすれば、あくまでも少数派である。ざっくり言って、2700万人のうちの6パーセントくらいであろう。それがレバノンに限っては、400万人のうちの130万人、この3割ほどで、個別の宗派としては最大勢力となる。
つまり(アラウィー派・イスマーイール派・ドルーズ派といった分派以外の十二イマーム派としての)シーア派は、シリアにはほとんどプレゼンスがない、といってよい。ただし、ダマスクスのウマイヤ・モスクの内部(東端の方)には、イラクのカルバラーでウマイヤ朝軍に殺されたフサイン(第4代カリフ、アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの間の息子)の首がここに運ばれて葬られたという廟があるし、ダマスクスの東部郊外、グータの森の中にはフサインの妹ザイナブの墓廟がある。いずれもイランやイラク、湾岸地域のシーア派の人々にとって、重要な参詣地となっている。
スンナ派国家たるオスマン帝国において、シーア派はしばしば弾圧の対象となることがあったが、レバノン山間部のシーア派も例外ではなかった。さらに加えて、シーア派の領主層はドルーズ派やマロン派の領主層と対立しながら、峡谷に散在する農村部の支配をめぐり、勢力争いを繰り広げていた。当初はレバノン山地の北部にも大きな縄張りを持っていたが、17世紀から18世紀を通じてだんだん押し込まれて、現在シーア派の本拠地として知られる南部レバノンとベカー高原に落ち着くことになった。南部レバノン、とりわけシドンとティールの間で地中海に流れ込むリタニ川の東部上流域とそこから南にかけての山地が「ジャバル・アーミル(アーミル山地)」と呼ばれていたが、ここはシーア派法学者を輩出したことで知られており、イランのサファヴィー朝(1世紀初めにシーア派を国教とした)にウラマーを多数送り出した。オスマン帝国とサファヴィー朝はしばしば戦火を交えたが、シーア派同士の人的交流を維持していたのである。
南部レバノンはレバノン内戦(1975~90年)の時期以来、度重なるイスラエル軍の侵略に苦しんだ。戦火を逃れて首都ベイ下に移り住んだ人々も多く、ダーヒヤと呼ばれる南部郊外地区は多宗派混住の田園都市から、シーア派一色の稠密住宅地へと変貌した。
2003年のイラク戦争以来、中東全域を覆い始めたスンナ派・シーア派間の亀裂は、レバノンにも及んで国内政治の主要な対立軸をなすに至っている。西べイル-の中南部地区は両派の住民が近接して居住しており、政治的緊張の高まりと共にしばしば衝突が伝えられるところである。しかしこうした両派の明確な対立状況が、レバノンでは21世紀的現象であることも忘れてはならない。(黒木英充)
曖昧なシリア・レバノン国境
★浸透性が国際的にも問題に★
レバノンは、シリア、イスラエル両国と計450キロの国境線を有しており、その内シリアとの国境線は370キロに及んでいる。フランス委任統治時代の1920年に、「歴史的シリア」地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ自治区に相当)から切り離された領域をベースに、レバノンは1943年に主権国家としての独立を達したが、シリアとの国境線には現在に至るまで画定されていない部分があり、帰属が不明確な地点が多数(36か所以上)存在している。
両国の国境線が曖昧な状態に置かれている背景には、シリアの歴代政権が基本的には同国の独立(1946年)以来、「二つの国家における一つの人民」という認識の下、レバノンの主権を尊重する姿勢を示してこなかったことがある。レバノン、シリア両国共に歴史的シリアに含まれる上に、首都ダマスクスから僅か20キロほど西に向かうだけで国境線に到達してしまう事実が、政権のこうした認識に影響を与えてきた。他方で、レバノンにおいてもアラブ世界との結びつきを重視するムスリムを中心に、シリアとの一体性に長らく重きを置いてきたことから、国境線の画定が両国間の政治的なイシューとなることは殆どなかった。また、レバノン北部の都市トリポリはシリア中部の都市ホムスと、レバノン東部ベカー高原一帯はホムスのみならずダマスクスと、とりわけ密な経済関係を有している。更に、レバノン北部や東部の国境地帯においては、両国間に分かれて家族が居住していることが珍しくないことから、相互の行き来は元より、買い物や学校、通院などに伴う越境が今もなお日常的に行われているのである。
このように、国境線が一部画定されていないことは、両国間での密輸が横行する原因になっており、その特徴が顕著に表れたのがレバノン内戦期(1975~90年)であった。戦闘状況の激化に伴い、レバノン中央政府による国内統制が緩む中、1980年代にはシリアの年間輸入量の七割ほどがレバノンからの密輸で占められる一方、シリアでは補助金を受けて低価格に抑えられているセメントやガソリン、砂糖などが数千トンも同国からレバノンへ密輸され、高価格で販売されているという事態が報告されるに至った。また、ベイルート内外における戦闘によって首都の機能が低下する中、相対的に平穏であったベカー地方の中心都市ザハレが、レバノン東部における商業活動の中心的地位を占めるようになるにつれて、多くのレバノン人やシリア人が同地を訪問するようになった。と同時に、日用品のみならず麻薬をも扱う密輸ネットワークが両国間で築かれることになり、ベカー高原に駐留していたシリア軍兵士もこうした非合法な経済活動に携われるようになっていった。さらに、大麻栽培や密輸業にはハーフィズ・アサド大統領の弟であるリファアトアサド副大統領や、同大統領の「側近」であったムスタフートゥラース国防大臣らを含む、国軍や治安機関に関係する多くのシリア政府高官が当時関わっていたとされており、「清貧な」同大統領は彼らの非合法的な手段による蓄財を内心快く思っていなかったものの、自らに対する忠誠心を維持するために基本的には黙認したと言われている。
シリア・レバノン国境における未画定領域は、1990年のレバノン内戦終了後もしばらくは、両国のみならず国際的にも大きな問題としては取り上げられなかった。しかしながら、2000年5月にイスラエル軍が南レバノンの大部分から撤退すると、未画定領域の問題がやにわに持ち上がった。と言うのも、イスラエル軍撤退をもたらした功労者であるシーア派組織「ヒズブッラー」のハサン・ナスルッラー書記長が撤退完了後直ぐに、「シャブア農場」を含む数箇所のレバノン領土が未だにイスラエル占領下にある、と発言したからである。ゴラン高原の北端に位置し、256平方キロメートルの中に14の農場を有しているシャブア農場は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争以来占領しているシリア領ゴラン高原の一部であると、国際的には見なされている。だが、シリア・レバノン両政府とヒズブッラーが、1951年に両国間で交わされたとされている「口頭合意」を根拠にして、シャブア農場がレバノン領に属するとの見解を取っていることは、同国領内における占領地を解放するために武装闘争を継続しなけれらない、とするヒズブッラーの主張に正当性を与える根拠になっている。また、シリアがヒズブッラーの武装闘争を引き続き、ゴラン高原解放に向けた対イスラエル戦略の一部として利用することも可能にさせているのである。
イスラエルによるレバノン占領が国際的には終了したと認定されているにもかかわらず、ヒズブッラーがシャブア農場解放を名目として、その武装闘争の維持が可能になったことは、レバノンにおけるシリア覇権が終わりを告げた2005年以降にレバノン国内で問題視されるようになった。こうした中で、ファード・シニオーラ内閣(同年7月樹立)は「反シリア」勢力基盤にしていたことから、対シリア国境の画定作業がシャブア農場の帰属問題を解決するのみならず、同国とヒズブッラーの拠点を結んでいる武器供給ルートの遮断や、引いてはその武装闘争の終焉につながると計算し、国際的な助力を求めた。その結果、2006年にはドイツからの支援を得て、シリア・レバノン間の国境線画定作業が着手されたが、シニオーラ内閣の反シリア姿勢などにより、シリアからの充分な協力を得ることができず、進捗しなかった。こうした中で国連は2007年6月に、その国境査定チームの報告書において、レバノン・シリア国境における武器密輸の取り締まりが不十分であると指摘した。その後2008年10月には、シリアが1946年に、レバノンが1943年にそれぞれフランスからの独立を達成して以降、両国間には外交関係樹立されず、また相互に大使館も設置されない状態が続いてきていた中で、国交樹立に関する共同宣言が調印されるに至ったことから、国境線の画定が進むとの見通しが生じた。だが、レバノンにおいて「反シリア」の内閣が続いたこと(2009年1月にサアド・ハリーリー内閣が樹立)や、シリアが対イスラエル戦略の観点から国境線画定に消極的であったことにより、進展はやはり見られなかった。
2011年3月以降にシリアで反体制運動が勃発すると、対レバノン国境が確定されていないことは、両国にさまざまな影響をもたらしている。シリアにおける戦闘が激化するに伴い、同国からの避難民がレバノン北部や東部の国境地帯に逃れてきている他、武器搬入や戦闘員の出入り、あるいは負傷者搬出のためのルートが、国境管理の曖昧さを衝く形で両国間に形成されてきている。シリア政府は反体制運動の発生間もない2011年4月に、同国との国境に近いベカー地方選出のレバノンの国会議員が、反政府勢力に武器や資金を提供しているとして非難したが、同国からシリアに向けた武器の需要は高まっており、ベイルートではカラシニコフ銃などの値段が倍増する現象が生じている。の後2012年4月には、シリアの反体制派に向けた武器を密輸していたとされている貨物船が、リポリに向けて航行中にレバノン国軍によって同国海域で拿捕されるという事件も発生した。
シリア国軍は他方で、同軍からの脱走兵が組織した「自由シリア軍」や、その他の反対勢力がレバノン領内に攻撃拠点を構えていることから、越境しての軍事作戦を頻繁に遂行している。このような状況は、レバノン民間人や取材を行っていたジャーナリストらが、シリア国軍の発砲によって負傷する事件を生じさせていることから、両国国境の現状は昨今、国際的な懸念や注目をより一層集めている。(小副川琢)
『ニュルンベルク裁判1945-46』でパウルスが証人として出廷していたことを知る
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