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『世界歴史㉓』

『世界歴史㉓』

「大加速」時代の諸相

科学技術イノベーションと大量消費社会

世界は前と同じでないことを私たちは悟った。笑う
人もいた。泣く人もいた。大部分の人はおし黙っていた。

マンハッタン計画を主導した物理学者ロバート・オッペンハイマーが、一九四五年七月一六日午前五時二九分、ニューメキシコ州アラモゴード射爆場で実施したトリニティ核実験で、プルトニウム型原子爆弾による人類史上初めての核爆発を目撃したときの様子を、のちに回想して語った言葉である。プルトニウム同位体が人新世のGSSPを定めるシグナル候補とされているという点でも、二〇世紀後半世界史の点描は、この瞬間から始められなければならないだろう。

それはまた、二〇世紀科学技術イノベーションの最も劇的な到達点であっただけでなく、科学技術が歴史を駆動する時代の幕開けを告げる出来事でもあった。一般的な世界史・各国史の通史や教科書において、科学的発明・発見や技術革新、それらの推進力となった企業や組織の歴史は、政治経済史の後段で副次的・補論的に、あるいは個別のジャンルとして扱われがちである。しかし、たとえば核開発と冷戦のように、科学技術と歴史の因果と機序が絡み合う二〇世紀の、とりわけ後半においては、歴史叙述についても再考が必要である。科学技術イノベーションの歴史的衝撃に着目するとき、「長い二〇世紀」とその後半「大加速」の時代はどのように映るだろうか。

第二次産業革命の時代を起点とする「長い二〇世紀」論は、科学技術イノベーションの歴史においても有用である。アメリカでトーマス・エジソンが研究開発の事業化を目指してニュージャージー州メンロ・パークに研究所を開設したのは一八七六年のことだった。同研究所による白熱電球の開発成功を起爆剤として事業化されていった電気をはじめとして、第二次産業革命の時代には、とりわけアメリカとドイツにおいて今日の社会を支える多くの画期的な発見・発明が相次いだ。

具体例として、「大加速」グラフ群に採用された三指標――電話回線の契約数(通信手段の発達と普及)、自動車台数(モータリゼーション)、同:海外旅行入国者数(その前提となる航空の発達)、――に注目してみよう。それらの実用化・事業化・標準化の歴史的起点もまた、一八七六年のグラハム・ベルによる電話機の特許取得、一八七〇年代から八〇年代にかけてのゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツらによるガソリンエンジンや自動車の開発、一九〇三年のライト兄弟による初の有人飛行に到るまでの航空技術の開発競争など、おおむね第二次産業革命の時代に遡る。

二〇世紀前半には、これらの技術革新に対する積極的な資本投入による事業化が進み、イノベーションと需要(軍民需)が相互を牽引しつつ、先進工業国を中心に三指標ともに成長を続けた。そして、テイラー・システム(科学的管理手法)、フォード・システム(大量生産方式)、フレキシブル大量生産・マーケティング・会計手法など現代企業経営の基礎を確立したスローン主義など、生産方式・経営ノウハウの発達との好循環が働いて、ドイツのシーメンス、BASFやアメリカのGE、フォード、デュポン、GMなど、二〇世紀を代表する大企業群が次々と成長した。

二〇世紀後半には、三指標をめぐる消費の大衆化・高度化・グローバル化がいよいよ加速して、地球規模における成長の「対数期」を迎えた。本巻原山論文は、多品目にわたる耐久消費財の普及について、日本と中国をそれぞれ農家・非農家に分けて比較している(一九六頁)。その分析からも、異なる「対数期」の総和が地球規模での消費の「大加速」をもたらしてきたことが窺われる。そして「大加速データ・コレクション」によれば、二〇一〇年時点においても、他の「社会経済トレンド」の多くと同様に、これら三指標もまた「大加速」が継続しているのである。

ここで例示した科学技術イノベーションとその社会実装・普及のプロセスは、市場経済の競争的環境のもとであれ、指令経済や戦時体制の非競争的環境のもとであれ、人間社会や国家の様々な欲望を実現する方向に向けてイノベーションがシステム化されてきた二〇世紀「物質文明」のあり方を反映している。もちろん、失敗・偶然・試行錯誤に満ちた発明や発見は、二〇世紀の科学技術史において欠かせない役割を果たし続けた。例えば、

ヤン・チョクラルスキーが、メモを取りながらの実験中にインク壺と間違えてスズを溶かした坩堝にペン先を入れなければ、のちの半導体デバイス開発に不可欠なシリコンウェ製造技術の基礎となる単結晶の作製方法(チョクラルスキー法、一九一六年)は発見されず、二〇世紀後半の半導体開発は大幅に遅れるか、あるいは全く異なった発展経路を辿っていたかもしれない(Tomaszewski2002:1-2)。

二〇世紀「物質文明」の発展は、その多くを物質や生命の様々な性質の発見に負っており、毎年繰り返されるノーベル賞受賞者たちの物語は、チョクラルスキーと同様の失敗・偶然・試行錯誤に満ちている。しかしそれら無数の試みから生まれる成功物語としての幸福な偶然(セレンディピティ)は、一個人・天才の営為である以上に、社会から企業・研究機関・国家などの組織に対して資本・人材・ノウハウを継続的に投入・調達する仕組みがあって初めて可能となった確率論的必然であり、発見・発明から事業化までが可能となる営みだった。チョクラルスキーの発見も、ベルリンでドイツ大手電機会社AEGの技術者として研究開発に取り組んでいる最中の出来事であった。

発見と同様に、あるいはそれ以上に、応用と進化はシステム化されたイノベーションにおいて不可欠の要素だった。チョクラルスキー法の発見から三〇年あまり後の一九四七年、アメリカでAT&Tベル研究所の三人の研究者が同法を応用して半導体デバイスおよびトランジスタの発見・発明に成功(一九五六年にはノーベル物理学賞を受賞)、エレクトロニクスの世界でやがて半導体が真空管に取って代わることになる。そして半導体集積度の対数的増加に関する「ムーアの法則」に象徴されるような連続的に進化するエレクトロニクスの「大加速」が世界を変貌させていく。映画・ラジオ・テレビなどの音声・映像メディア、家電、コンピューター、通信など、ほかにも「長い二〇世紀」を通じてイノベーションがもたらした常に進化し続けるモノ・製品とコト・消費体験は、大量生産・大量消費社会の不可欠の構成要素となって、世界や人々の暮らしを不断に変化させてきたのである。

このように、二〇世紀は、科学技術イノベーションと経済成長が相互を牽引するシステムが稼働して、絶え間ない技術革新が進み、社会と人間活動のあり方を大きく変化させた。その変化において重要なことは、技術革新そのものよりも、むしろ持続的な革新・改革・成長の追求--実現していく欲望、高度化していく消費体験を前提とする世界観が社会のうちに内面化されたことかもしれない。そして、二〇世紀後半とは、そのような不断の社会改造―さらに言えば人間改造のプロセスが、アメリカそして主要工業国から世界へと拡大しつつ「大加速」した時代として捉えることができるのではないかと思われるのである。

アラモゴードから

体制間競争の「勝者」・資本主義体制における中心国としてのアメリカの優位性は、「大加速」論および発展経路の複数性の観点からどのように理解すべきだろうか。いま一度、アラモゴードに舞台を戻して考えてみよう。

あの早朝のアラモゴードで原子時代の幕開けを見た[中略]私たちは、今や、人間は労を惜しまぬ意志さえあれば、ほとんどいかなることでも成し遂げられるということを知っているのです。(Groves1962:415)

陸軍軍人としてマンハッタン計画を統括したレズリー・グローヴス准将の回顧録結語からの引用である。その溢れる自信と自己肯定感は、このとき確かに事実によって裏付けられていた。アメリカの核兵器開発は、一九三九年に核分裂連鎖反応が実験で確認され、ドイツによる核開発を憂慮する物理学者たちを代表してアルバート・アインシュタインがフランクリン・ローズヴェルト大統領に書簡を送ってから六年、計画開始(一九四二年八月)からわずか三年で核兵器の実戦使用にまで到った。ドイツや日本でも同じ時期に核兵器開発が検討・試行されたも実を結ばなかったことはよく知られている。

マンハッタン計画では、テネシー州オークリッジにウラン濃縮施設等、ワシントン州ハンフォードに本格的なプルトニウム生産炉等をもつ巨大な工場群が、ニューメキシコ州に核兵器開発を主導するロスアラモス研究所がそれぞれ建設され、常時一〇万人を超える人員が施設の建設、工場稼働、研究開発、運営管理の動員・雇用された。このような巨大プロジェクトを短期間のうちに設計・実行できたのは、「生産技術、製品・製法技術、流通システム、経営管理ノウハウ」など、あらゆる側面にわたり優れた分厚い技術蓄積がアメリカに存在していたからだった(橋本一九九八b)。

グローヴスは、同じ結語で「マンハッタン計画を成功させた五つの要因」として、①目的の明瞭さ、②タスク・デリゲーションに基づく効率的な分業システム、③目的の共有、④既存組織の活用、⑤政府による無制限の支援を、経営管理の教科書風に列挙している。実際のところ、オッペンハイマーとグローヴスが二人三脚で成功に導いたマンハッタン計画は、経営管理の教科書的な成功事例として二一世紀の今日も繰り返し参照されている「語り草」である。グローヴスは退役後、ジャイロスコープの製造から出発して軍需によって大きく成長した機械・電気メーカーで、コンピューター生産にも乗り出していくスペリー社の副社長に就任した。第二次世界大戦は、軍民を跨いだ経営人材育成の場でもあった。

しかし、アラモゴードや第二次世界大戦の成功体験だけでは、アメリカの優位性を説明できない。ソ連もまた総力戦でドイツに勝利し、さらにアメリカに遅れることわずか四年後の一九四九年八月、核実験に成功したからだ。一四四年にはサイクロトロンを組み上げるなど基礎研究が進んでいたソ連は、アメリカの原爆開発・使用の衝撃を受けて、スターリンの号令のもと国家最優先のプロジェクトとして大規模・急速に資源・人員を動員して独自に核開発を進めたのである。オッペハイマーとグローヴスの役割をソ連で担ったのは、核物理学者のイーゴリ・クルチャートフと、軍人で軍需工業指導者のボリス・ヴァンニュフだった(市川二〇二二:二六一四八頁)。宇宙開発でもソ連はアメリカをリードして、一九五七年一〇月四日には世界初の人工衛星スプートニク一号の軌道投入に成功、アメリカ・西側諸国を「スプートニクショック」が襲った。一九六一年にはユーリイ・ガガーリンが世界最初の宇宙飛行に成功、六三年にはワレンチナ・テレシコワが女性初の宇宙飛行に成功した。ソ連の指令経済・中央集権体制は、目標が明確で市場性が問われない軍需や宇宙開発では、少なくとも一九五〇年代から一九六〇年代にかけてアメリカに伍する科学技術力・巨大プロジェクトの遂行能力を示したのである。

軍需の民生転用では、資本主義体制における軍産複合体の方が社会主義体制と比較して優っていたとは言えるだろ冷戦による準戦時体制の恒久化は、世界最大の軍事大国となったアメリカの軍産複合体に莫大な利益をもたらし、ボーイング社、ロッキード社などの航空機産業などに代表されるように民需・軍需の双方を取り込んだ多くの大企業が成長するとともに、軍需で開発された技術は、重化学工業、トランジスタ、集積回路(IC)などのエレクトロニクス技術、NC工作機械などへ転用され普及した。

しかし、軍産複合体だけでは、体制間競争における資本主義の優位も、資本主義体制におけるアメリカの中心性も十分には説明できない。大量消費社会との関係では、むしろアメリカの軍産複合体も、競争の不在による生産性の低さという弱みを抱えていた点でソ連の国営企業と同類であったからだ。トランジスタ、IC、NC工作機械なども、開発したのはアメリカだったが、トランジスタ・ラジオやテレビなど民需での利用が拡がるにつれて、軍需の政府調達に依存しがちな米企業に対して民需を競う日本企業等の方がコスト削減や品質改善で優位に立った。一九七〇年代までアメリカが七割近いシェアをもっていたICも、一九八六年には日米のシェアが逆転するなど、アメリカは各分野で大きくシェアを日欧企業に(藤田二〇一八:三一頁)。一九七〇年代から八〇年代にかけて製造業を中心にアメリカ衰退論が囁かれたときには、中核産業として軍産複合体を抱える超大国であることは、むしろ製造業の競争力低下の要因でさえあったのである。

アップルへ

衰退論を裏切ってアメリカ経済が再生の方向に向かい、冷戦に「勝利」し、一九九〇年代には「ニューエコノミー」とさえ呼ばれた長期の好況を実現して、冷戦後の資本主義世界体制と高度化した進化し続ける大量消費社会のなかで競争力と中心性を維持できた最大の要因は、ICT(情報通信技術)分野での圧倒的な先行・優位にあった。半導体(一九四七年)に始まり、IC(一九五八年)、中央処理装置・CPU(一九七一年)の開発などを背景とする大型コンピュ―ターの小型化(一九六〇年代)、パーソナル・コンピューター(PC)(一九八〇年代)、インターネット(一九九〇年代)、モバイル通信(二〇〇〇年代)の爆発的普及に到る展開は、「大加速」時代の核心をなす産業革命・ICT革命であり、一九六〇年代から現在まで長期にわたって社会を連続的に改造してきた。それは資本主義世界のなかでグローバルに展開したとはいえ、右に示した開発事例の全てを含めて、その圧倒的中心はアメリカだった。他方、ICT革命を起こすことができず、またその模倣・複写にも限界があったことは、のちに検討するサハロフらの書簡(本稿四二頁)が危惧したように、ソ連・社会主義圏に体制転換をもたらす一因となっていく。

ローニング

ここで注目すべきことは、ICT革命を主導したのが、多くの場合、既存の大企業ではなく、既存組織を離職した、あるいは企業・組織への就業経験を持たないことさえあり得るような、わずか数名の仲間が集まって起業するスタートアップから成功をつかんだ新興企業群だった点である。それぞれ技術者仲間で設立した、一九五七年創業のDEC社は大型コンピューター市場を独占するIBMに対して小型コンピューター市場で大成功し、一九六八年に創業したインテル社は半導体開発で既存企業を淘汰して急成長した。さらに一九七六年、二〇代の青年スティーヴ・ジョブズとスティーヴン・ウォズニが、いわゆるガレージ・カンパニーとして創業したアップル・コンピューター社は、その前年にビル・ゲイツとポール・アレンが創業したマイクロソフト社などと並んで、PCの世界で先陣を切って巨大な成功を収め、その後もビッグ・テック企業としてⅠCT革命を主導して今日に到る、間違いなく「大加速」時代の主役企業のひとつとなった。

DECやアップルのような成功を生み出していくためには、くのスタートアップ企業群に投資し、ほんの一握りの投資先の成功から莫大な利益を獲得することを目指す投資方法を事業化したベンチャーキャピタルの存在が大きな役割を果たした。このような資金調達システムや、それを支える文化・風土におけるアメリカの優位性には、リスク投資が必要だった一九世紀ニューイングランドの遠洋捕鯨ビジネスにおけるファイナンスなどに遡る歴史があることが指摘されている(ニコラス二〇二二:二七―六二頁)。より現代的な起源としては、第二次世界大戦復員兵たちによる起業を支援する目的で一九四六年に設立されたARD(AmericanResearchandDevelopmentCorporation)が知られている。同社が体系的にスタートアップ企業群に投資してDEC社への投資から莫大な利益を収めたことは、ベンチャーキャピタル事業の出発点となった。一九七八年、創業直後のアップル社に五〇万ドルを投資したベンチャーキャピタル法人のベンロックは、三年半後には一億一六六〇万ドルの利益を獲得した(同:二四〇頁)。こうしたスタートアップ企業やベンチャー投資の成功譚は、ICT革命が体制間競争の行方や「大加速」に与えた影響を考えれば、経営大学院の教材(ケース)として以上の意味を汲み取る必要があるだろう。

インテル(サンタクララ郡マウンテンビュー)、アップル(同郡クパティーノ)などIT革命を主導した企業の多くは、カリフォルニア州サンフランシスコ湾ベイエリア一帯の、いわゆるシリコンバレーで起業・成長した。なぜシリコンバレーだったのか。ニュラス(二〇二二)は明るい気候風土が生み出した開放的な文化を強調するとともに――UCバークスタンフォードをはじめとするベイエリアの大学・研究拠点が若く優秀な人材を引きつけたことに加えて、第二次世界大戦以来、テクノロジー・エレクトロニクス分野の軍需がカリフォルニア州とりわけシリコンバレーに集中したことを背景に、大学と軍部の投資が早くからスタートアップ企業を繁栄させてきたことを指摘する(二六一―二六九頁)。DEC創業者の二人は国防総省がMITと設立したリンカーン研究所の出身であり、初期半導体の開発は資金を国防総省に多く依存していた。よく知られているように、一九九〇年に開放されたインターネットは一九六九年にアメリカ国防高等研究計画局(ARPA)が軍事目的で開発したARPAネットに起源をもち、国防総省によるGPS開発は一九七三年に始まり、一九九三年、全球を二四のGPS衛星がカバーするシステムが完成した。ICT革命と軍需、アップルとアラモゴードは深い縁で結ばれてきたのである。

いまひとつ指摘したいのは、ICT革命を通じて称揚されてきた起業家精神と結びつく独立自尊の人間類型である。アップル創業者スティーヴ・ジョブズが、がんを宣告された後の二〇〇五年、スタンフォード大学卒業式で行った祝辞に残した言葉からはその一端を窺うことができる。

あなたの時間は限られているのだから、誰かの人生を生きることに浪費してはいけない。[中略]最も重要なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。それらは、あなたが本当になりたいものを、なぜかすでに知っているのだから。(StanfordNews2005)

死は避けられないのだから、限られた人生、あくまで自分の直感を信じて自己実現に向けて迷わずに歩めと若者を勇気づけるジョブズの感動的なスピーチは長く記憶され、スタンフォード大学YouTube公式チャンネルでの再生回数は二〇二三年現在で四一〇〇万回を超えている3(https://youtu.be/UF8uR6Z6KLc)。同じ個体の死の不可避性の認識から、利他的選択の可能性を語ったポラニーとは異なり、ジョブズは、新自由主義時代の美徳として極限の自由と個性の賛歌を力強く語った。「スティ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」の結語が示す、独創を貫くために成熟を拒否する人生観はまた、ソ連において称揚された超人的能力でノルマを超過達成したとして生産性向上運動の象徴となった炭鉱夫アレクセイ・スタハノフ、無着陸飛行の世界記録を樹立してスターリンが絶賛した飛行士ヴァレリI・チカロフ、さらに冷戦下で「豊かな精神性、道徳的純粋性、身体的完全性を調和」させた英雄として称えられた宇宙飛行士ガガーリンらに代表される「新しいソビエト人」(Gerovitch2007:135)の人間類型ともかけ離れていたのである。

台所論争

ロシアを対象とする「長期経済統計」研究によれば、一九一三一九〇年のロシア共和国一人当たりGDP成長率は欧米諸国の水準を大きく上回っており、スターリン時代の第一次高度成長期(一九二八一四〇年)は群を抜くなど、ソ連期ロシア共和国は相対的に安定した恒常的成長軌道を歩んできた。一九六〇年代以降、生産性低下の問題や停滞感が次第に強まったことは事実だとしても、一九七〇年代から八〇年代にかけても経済成長は継続しており、「GDPの「量的な問題」だけではソ連崩壊は説明できない(久保庭ほか二〇二〇一九九一二〇五頁)。また、「歴史の敗者」としてのイメージがついて回るソ連・社会主義圏については、とりわけ二〇世紀を知らない世代の間で、資本主義世界・自由主義と「両極端」に位置する価値観が支配していた社会であったと捉えられがちである。確かにスティーヴ・ジョブズと「新しいソビエト人」たちは水と油の関係にあるかれない。しかし、この「両極端」な世界像には訂正が必要である。

あなたはロシア人がこれら〔ユニット・キッチンなどのアメリカ製品〕を見て吃驚するだろうと思っているんだろうが、実際のところ新築のロシア住宅は今まさにこういう設備を備えていますよ。(Krushchev1959)

一九五九年七月、アメリカ副大統領としてソ連を訪問したリチャードニクソンとの「台所論争」で、ソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフが放った言葉である。論争の舞台となった「アメリカ博」は、本巻齋藤論文が検討する、ソ連の「文化攻勢」から始まった東西文化交流におけるアメリカの「反撃」の場とも言うべきもので、六週間の期間中三〇〇万人が訪れたモスクワの会場で市民の関心を集めたのは、芸術作品などの高級文化よりも「郊外に住む中流階級の平均的な暮らし」を紹介して家電品を「主婦」がデモンストレーションするモデルルームのような空間だった(鈴木二〇二四一頁)。この会場で通訳を介して交わされた論争は、テレビで録画放映もされ、冷戦を象徴する一コマとして長く記憶されてきた。

当時、ソ連の指導者が消費社会における市民の生活満足度を競い合うことを拒まなかった事実を示すこの出来事を「大加速」論の観点からふり返るとき、米ソ・東西体制間競争は、両極端・二項対立のイデオロギー闘争というよりは、同じ近代、同じ物質文明において、同じ欲望を実現することを目指した競争であったと捉えた方が有用ではないかと思われてくる。スターリン批判(一九五六年)後の「雪どけ」の明るさとともに、この時期のソ連は、スターリン時代に続く「第二次高度成長期」(一九五〇年代後半―六〇年代前半)を迎えていた。平和共存路線を唱え、軍事的対決ではなく体制間競争での勝利を「アメリカに追いつけ追い越せ」など様々なレを使いながら強調したフルシチョフは、少なくとも表面的には好調だったソ連経済を頼みにして、社会主義による近代化を大衆的規模で実現することをめざしていた。

なかでも喧伝されたのが、労働者への集合住宅の大量供給だった。スターリンの死の翌年(一九五四年)、フルシチョフはコンクリートの効用を説く三時間にわたる大演説を行い、まもなく統一規格の五階建てコンクリート・プレハブ集合住宅建設の大号令をかけた(Forty2019)。第六次(一九五六―六〇年)五ヵ年計画では第五次からほぼ倍増の一一三万戸分のフルシチョフカと呼ばれた-住宅団地が全ソ連に建設されていった。フルシチョフ失脚(一九六四年)後も集合住宅の供給はソ連・社会主義圏の看板政策であり続け、一九七〇年代にはエレベーター付き高層集合住宅が主流となり、年間二二〇万戸のペースで世界最大規模の住宅建設がソ連崩壊直前の一九八〇年代末まで続いた(大津一九九八:二八六頁)。

住宅の大量供給は住宅不足と表裏一体であるから、社会主義の成果として額面通りに受け取ることはできない。一九八九年の調査でも、複数家族で共用する「共同フラット」利用者が三五〇万家族にのぼっていた(外池一九九一:一二二二二頁)。それでも長い待ち時間「行列」を経てでも、入居後は無償に近い低廉な住宅に住み、質量ともに低レベルとはいえ消費生活と福祉を享受できたことは、社会主義体制下の統合の基礎となった。西側モデルとは比較にならない陳腐さは否めないものの、家電も量的には一定の普及が進み、一九六八年までにはテレビと洗濯機の普及率は五〇%を上回り、テレビ販売台数も一九五九年の一一三万余台から一九八五年には九三七万余台に達した(大津一九九八:二九〇一二九一頁)。チェコ「プラハの春」弾圧後の「正常化」体制を批判したヴァーツラフ・ハヴェルから見れば、このような状況は独裁と消費主義が結合した「ポスト全体主義」であった(本巻福田論文:一七三頁)。しかし、いったん消費社会の窓を開いてしまうと、完全な統制と情報の遮断をしない限り、競争的市場経済のなかで不断に高度化していく西側の大量消費社会の情報に接した人々の欲望を抑えつけることは難しい。西側の情報に晒される機会が増えるにつれて、「行列」に象徴される慢性的な消費財の不足や品質の低さは東側市民の不満を高めた。「長期経済統計」分析は、「消費財選択・営業・貿易・旅行・為替の自由化」がないままに「不足経済」を国民に強いたことによる「GDPと経済構造の内実の貧困」がソ連崩壊の最大の経済的要因だったとして、消費者不満が体制転換に向かう大きな要因だったという見方を示している(久保庭ほか二〇二〇二〇七頁)。

本巻松井論文が検討する人権と民主主義を求めた異論派の役割、ソ連末期の改革(ペレストロイカ)、冷戦終結、資本主義・市場経済への転換を求める動き、豊かな消費生活への人々の期待などが、どのように組み合わさってソ連・社会主義圏の崩壊へと事態が展開したのかについては議論の尽きないところであり、本巻の各論文からも多様な示唆を得ることができる。ここでつけ加えたいのは、それら諸要素の絡みあいがソ連において強く認識されていたことである。台所論争から一〇年後、アンドレイ・サハロフ博士ら三名が共産党中央委員会に宛てた書簡(一九七〇年三月)からも、そのことが読み取れる。

最近の一〇年、わが国の経済には混乱と停滞の危険な兆候が現れるようになりました。[中略]第二次産業革命が始まり、七〇年代初めにわれわれは、アメリカに追いつかず、ますますアカから遅れを取っているのを見るのです。「略」民主化を行わない場合にわが国を待っているのは何でしょうか。第二次産業革命の資本主義諸国からの立ち遅れ、そして二流の地域国家への漸次的変化(歴史はその例を知っています)。経済苦境の増大。党=国家機関と知識人の関係の尖鋭化。左右決裂の危険。民族問題の尖鋭化。(歴史学研究会二〇一二三二〇一三二一頁)

この書簡はソ連人権運動史を代表する文章のひとつとして知られている。ここではあえて民主化に関する文章の前後を引用した。相手を意識して意図的に強調されたとしても、サハロフらが人権擁護と民主化が必要な根拠としてソ連の国力停滞・衰退への懸念を強調していたことは重要である。ここで書簡が「第二次産業革命」と呼んでいたのは、本巻「展望」が検討してきた一九世紀第4四半期に始まったそれではなく、「生産システムと文化総体の様相をラディカルに変えつつある最も重要な現象」としてのコンピューター化すなわちICT革命に他ならなかった。すでに米ソのコンピューター普及率には一〇〇対一の格差があり、ソフトウェアの格差は計測できないほど大きく、「私たちは別の時代に住んでいる」と、サハロフらは危機感を露わにしていた(Dallin&Lapidus1991:83)。

「現存した社会主義」を考究した塩川(一九九九)は、社会主義は「組織化による近代化」という趨勢を最も徹底して体現していたという意味で「二〇世紀」の最も極限的なモデルであったが、そのことが「社会主義の位置をある時期まで高いものにし、そして時代の反転とともに低下させた基底的な要因だったのではないか」と述べる(六二六頁)。「時代の反転」が指し示していた趨勢とは、資本主義体制に「第二次産業革命」すなわちICT革命をもたらした脱工業化・情報化・知識社会化であった。そして、コンピューター化による技術の高度化は、軍拡競争でアメリカと伍するためにも絶対に必要だった。もしそのためにも集権から分権へ、組織から個人へ、規律から自由への転回が、必ずしも目的としてなく手段としても必要だったとすれば、そしてが集権的な権威主義体制であるソ連には到底出来ない相談であったとすれば、冷戦・体制間競争の勝敗を分けたのは、やはり、アラモゴードではなく、アップルーを生み出すようなアメリカ資本主義体制の土壌とソ連におけるその不在―――だったことになる。

問題は、「第二次産業革命」を起こす要素の不だけではなかった。むしろ「組織化による近代化」そのものに「時代の反転」をもたらす要素が内在していた。近代化は、どこかで必ず共同性から「個人への転回」をもたらさざるを得ないからだ。フルシチョフの大号令で建設されていったアパートは、浴室・トイレに加えて、スターリン時代までの共同炊事場付きアパ―トには無かった個別専用台所をソ連のこうした集合住宅としては初めて備え、戸別にプライバシーが確保されたことが大きな意味をもった(鈴木二〇二二:三八三九頁)。社会主義の公共性が建前では強調されても、「共同フラット」を脱出して個別住宅で快適な私生活を送るために人々が長い待ち時間を耐えたのは「個人への転回」を意味していたし、住宅供給を喧伝した体制もその欲望に応えることの必要性を理解していたことになる。「時代の反転」は外から訪れただけでなく、ソ連・社会主義圏が自ら作り出したものでもあった。

そして、「組織化による近代化」からの反転という時代の趨勢が押し寄せたのは、何もソ連ばかりではなかった。資本主義体制においても、生産性が低迷する製造業や肥大化した官民の諸組織のリストラ、国家資本主義・修正資本主義の産物である国営企業・公社の民営化、社会保障制度の見直しなど、要するに一九七〇年代以降の新自由主義政策・思潮が生まれていく。本巻小沢論文が新自由主義の世界体制化を論じるなかで、ソ連・社会主義圏解体の基底にあるものを「内発的新自由主義」(一三二頁)と呼んでいることを踏まえると、ソ連・社会主義圏の崩壊は、このような時代の趨勢のなかで、「大加速」時代における複数の発展経路のひとつが淘汰されていく過程であり、また「大加速」心向けで世界が、そして人間の挙動が最適化されていく過程であったと解釈することも可能だろう。

ポーランド社会主義時代の人工都市ノヴァ・フータをめぐるツアーやベルリンのDDR博物館など、消費者不満の記憶は、二一世紀に入ると皮肉と懐古の入り交じったレトロ消費の対象ともなった。その一方、九九〇年代の深刻な体制移行不況を経て、旧ソ連・東欧諸国では、「古きよき社会主義」を懐かしむ視線が強まった(菅原二〇一八)。究代ドイツでは、ナチスだけでなく東ドイツの過去をどう扱うかが問題とされる(本巻星乃コラム)。こうして、淘汰された過去を生きた記憶と新自由主義の現在を生きる意識は、旧ソ連・東欧諸国の二一世紀におけるポピュリズム・を与えていくのである。ナショナリズムの台頭に複雑な影響を与えていくのである。

「大加速」時代の日本とアジア

台所論争をせず、真っ向からアメリカ的生活様式を否定したという意味では、第二次世界大戦における日本は「持たざる国」としての必要に迫られたからとは言え、物質主義と対決して欠乏に耐える精神主義を掲げた点でソ連よりもよほど両極端で二項対立的なイデオロギー闘争をアメリカに挑んだと言える。しかし、日本の精神主義は、たとえば東南アジア占領において被占領者の住民にはほとんど理解不能であったし、またアメリカの物量に圧倒された悲惨な敗戦という事実をもって完膚なきまでに否定された(中野二〇一二)。何よりも戦後日本人が、戦時の精神主義の愚かさと欺瞞を否定し、またあっさりと忘却して、戦後世界でアメリカナイゼーションの優等生となった。これも「大加速」に向けて世界が最適化されていく過程で起きた一大事件だったと言えるだろう。

第二次世界大戦後になると、政治的な出来事を中心に叙述する世界史では日本の影が一挙に薄くなる。高度経済成長期(一九五五―七三年)も、世界史とつながらない内向きの成功体験として語られがちである。しかし、地球から見れは、「大加速」グラフ群二四項目のほぼ全てにわたり、日本は大活躍する立派な主役のひとりであった。別府湾が人新世GSSPの有力候補のひとつになったことも、決して偶然ではない(日本経済新聞「地球史に人類の爪痕環境激変の新年代「人新世」検討」二〇二三年二月一九日朝刊)。同湾海底堆積物からはプルトニウム同位体のグローバル・フォールアウトが一九五三年から急増した明瞭な痕跡とともに―――マイクロプラスチック、PCB、重金属、富栄養化、低酸素化、窒素同位体など人新世を示すさまざまなシグナルが検出される。化石燃料燃焼によるフライアッシュの球状炭化粒子(SCP)もまたそのひとつで、一九六四年から値が急上昇したことが検出される(Kuwaeetal.2022:26)

 奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   118
ビンチョウマグロ         255
家族の潤いアップル    88
冷凍肉まん   218
シャウエッセン           398
生ハンバーグ 158
ポテサラ       100
サランラップ  328
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