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 『ヒトラーはなぜ戦争を始めることができたのか』

『ヒトラーはなぜ戦争を始めることができたのか』

銃口を突きつけられて

民主主義の苦難

ラジオを聴いていると、天気予報に続いてアナウンスがあった。「それでは、みなさまをニューヨークのダウンタウンにあるパーク・プラザ・ホテルのメリディアン・ルームにご案内いたします。ラモン・ラケロ楽団の演奏をお楽しみください」。

スペイン風のダンス音楽がしばらく流れた。ところがすぐに、「インターコンチネンタル・ラジオニュース」の臨時ニュースが始まる。ある天文台から報告があり、火星の表面で奇妙なガス爆発が起きたらしい。そして、再びラモン・ラケロ楽団の演奏が流れたが、また中断され、「プリンストン天文台」の「著名な天文学者、リチャード・ピアソン教授」のインタビューに切り替わった。ピアソンはインタビュアー――カール・フィリップスという名の果敢なリポータ・に、爆発については何もわからないと答えた。

番組はその後も中断され、臨時ニュースが入った。ニューヨークの「ナショナルストリー博物館」からは、プリンストン付近で「地震と同程度の」衝撃があったと報告が届いた。「巨大な、炎に包まれた物体」が、ニュージャージー州のグローヴァーズ・ミル近郊に落下したという報告も複数あった。カール・フィリップスは驚くべき早さでプリンストンから現場へ向かい、「目の前に広がる不思議な光景をみなさんのために言葉で描こう」と試みた。彼が見たのは隕石ではなく、巨大な金属の円筒だった。その物体が自分の農場に落下するところを目撃したという農場主に話を聞く。ただならぬ気配が濃くなる。奇怪な生物が円筒から這い出してきた。フィリップスの描写によると、その生き物は火炎放射器のようなものを使って、取り囲む警官や見物人を殺しているらしい。ついに、フィリップスのマイクが地面に落ちる鈍い音がした。そして、何も聞こえなくなった。

そこから危機は急速に拡大した。ニュージャージー州に戒厳令が発令されて軍隊が出動したが、謎の生物に虐殺される。「内務長官」がワシントンから演説する氏名は明らかにされなかったが、声はローズヴェルト大統領に酷似していた。彼は国民に向かって、深刻な脅威ではあるが、「地球における人類の覇権を維持するために、勇敢かつ穢れのない国民がひとつになれば」アメリカはこの脅威を封じ込められる、と保証した。だが、大砲や爆撃では異星人を阻止できないらしい。攻撃者は熱と毒ガスを使っている。やがて攻撃者はニューヨーク市に到達し、逃げようとする数百万の市民が、ロングアイランドやウェストチェスターに流れ出ていく。全国から火星人襲来の知らせが入り始める。

アメリカ全土で起きたパニック・-ラジオ放送のなかのパニックではなく、本物のパニック――は驚異的だった。六〇〇万人ほどの聴取者が、コロムビア放送が電波に乗せた数々の報告を聴いていた。だが、一〇〇万人以上は、これから始まるのは若きオーソン・ウェルズが担当する『マーキュリー放送劇場』の作品だという冒頭の紹介に気づかなかったか、あるいはそれを聞いていなかった。彼らは、名前や記述のちょっとした違いは、あまり気にかけなかった――「ダウンタウン」にある「パーク・プラザ・ホテル」、「インターコンチネンタル・ラジオニュース」、「ナショナル・ヒストリー博物館」などだ。四五分足らずの間に、地球までやって来てニュージャージー州に着陸し、軍の部隊をいくつも壊滅させ、ニューヨーク市を破壊させる火星人の能力にも、疑いを持たなかったらしい。人々は家の外に飛び出し、自動車を持つ者は急いで街を離れ、子がいる者は慌てて探し回った。

一九三八年一〇月三〇日のことだ。

世界中が神経をとがらせていた時期で、アメリカも例外ではなかった。ミュンヘン会談で戦争の危機が回避されてから、さほど時間はたっていない。緊張状態にあった九月、アメリカの国民は、スポーツ中継やダンス音楽の放送が臨時ニュースで中断されるのに慣れてしまっていた。危機が去ってからも、多くの人が戦争について、ドイツ人について、考えずにはいられなかった。「戦争の話題であまりにも不安になりまして」と、ある人は(本物の)プリンストン大学教授、ハドリー・キャントリルに述べている。キャントリルはこの放送の後、何週間にもわたって人々の反応を調査していた。「チェンバレンがヒトラーに会いに行って以来、状況はとても不安定です」。航空技術が大きく発展しているのを知る人もいた。「新しい装備を積んだ飛行機で、外国の軍隊が私たちの国に攻め込んで来る可能性もあると思います。ヨーロッパの危機の最中は、あ送を聴きましたので」とキャントリルのインタビューを受けた人は述べている。「隕石は偽装ではないかと思いました」と話した人もいる。「あれは隕石のように見えて、実はツェッペリンのような航空機で、ドイツ人が毒ガス爆弾で攻撃しくるのだと思いました」。ナチ党による迫害の犠牲者について考えた人もいた。「ユダヤ人がとてもひどい扱いを受けている地域が世界にはあるので」と、ある人はキャントリルに述べた。「この国にいるユダヤ人を殺すために、何かがやって来たのに違いないと思いました」。

ウェルズの放送のために脚本を書いたのは、若き脚本家ハワード・コッチだ。後年コッチは、ウェルズがどれほど真剣にこのプロジェクトに取り組んでいたかについて語っている――芝居とその効果によって、ウェルズがもはや猶予がならないと考えていた問題が明確になった。コッチ自身も、脚本のせりふの裏にメッセージをしのばせるのを得意としていた。数年後、彼は永遠の名作映画『カサブランカ』の脚本家のひとりとなる。ハンフリー・ボガート演じるリック・ブレインに、エチオピアに味方して銃を密輸し、スペイン内戦では共和国人民戦線政府側について戦ったという経歴を与えたのはコッチだった。映画のなかでは、誰もリックの政治的立場を説明しない。だが一九三〇年代のアメリカでは、そのような経歴があるのは共産主義者と決まっていた。

オーソン・ウェルズは、ラジオという新しい媒体について考え抜いていた。どのように情報を伝達できるのか――そして、どのように人を欺けるのか。彼が着想を得たのは、数年前にイギリスで起きたあるできごとだ。一九二六年、労働者の緊張が高まって今にもゼネラル・ストライキが起こりそうなとき、BBCは、群衆が国会議事堂を破壊しようと迫撃砲をビッグ・ベンに向け、ひとりの閣僚を縛り首にして、ついにはBBCのスタジオを占拠したという「報道」を放送した臨時ニュースの合間には、サヴォイ・ホテルで演奏されているダンス音楽を中継した。当時も、多人々が報道を信じ込んだ。ウェルズは、自身の放送の進行とともに、何が起きつつあるのかを明確に理解していた。CBS放送の職員が来て、「あなたのせいで、みんなが死ぬほど怖がっている、どうか中断してこれはただの芝居だと伝えてほしい」と言った。しかし、ウェルズは挑戦的に応じた。「怖がっている?結構だ、怖がっているなら予定通りだ。さあ、終わるまで邪魔しないでください」。

放送から数日後、当時の先駆的なジャーナリスト、ドロシー・トンプソンが明確に指摘した。「今日の集団ヒステリー、集団妄想の最大のしかけ人は」、と彼女は書いている。「ラジオを使ってテロを扇動し、憎悪をあおり、大衆をたきつけ、大衆から政策の支持を集め、心酔する人々を生み出し、理性を破壊して自分たちの権力を維持しようとする国家である」。トンプソンは、ウェルズは「ヒトラー主義、ムッソリーニ主義、スターリン主義、反ユダヤ主義、さらに現代の他のすべてのテロリズムを理解するうえで、過去に記されたどんな言葉よりも大きな貢献をした」と考えた。この指摘は、彼女自身が思った以上に大きな影響をもたらした。このパニック事件を研究し、よく理解していたハドリー・キャントリルは、ローズヴェルト政権やイギリス情報部と協力して、アメリカ国民の世論を開戦賛成へと誘導した-しかも極秘で。

一九三八年九月三〇日、金曜日、ネヴィル・チェンバレンとエドゥアール・ダラディエは、群衆の大きな歓呼に迎えられた。だが、ミュンヘン会談がもたらす余波は、後悔、不名誉、悲しみ――そして恐怖だけであるように思えた。ダラディエは側近に「錯覚してはならん。一時的な猶予にすぎないのだから。この猶予を正しく使わなければ、われわれはみ撃たれる」と話した。

チャーノ伯爵の記録によれば、駐独フランス大使アンドレ・フランソワ=ポンセは、文書に署名する間も顔を赤らめ、「これが、フランスにずっと忠実であったただひとつの同盟国〔チェコスロヴァキア〕に対する、フランスのやり方なのだ!」と叫んだ。チェンバレンでさえも、ミュンヘンの一日は、「長すぎた悪夢」だったと書いている。ダラディエと同じように、歓声を上げる群衆の間をハリファックス外相と同乗の車で進みながら、彼は陰気につぶやいた。「こういうことは、三ヵ月もたてばすべておしまいです」。ロンドンに戻ったチェンバレンは疲れ切っていて、週末に首相別邸「チェッカーズ」で休養した。「神経をやられてしまいそうだ、これまで生きてきたなかで一番ひどい」、と妹宛に書いている。しかし、「議会で新たな試練をくぐり抜けるために」、立ち直らねばならないのはわかっていた。ミュンヘン協定に関する庶民院の論議が、月曜日から始まる。

ミュンヘン会談は、戦争へ向かう道筋の大きなできごとだった。会談にかかわったドイツ、タリア、フランス、イギリスにとって-また、直接はかかわっていない主要国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国にとっても政治や軍事の指導者が何をすべきか、どこに向かうべきかを考えるうえで根本的な変化が起きる、決定的な転換点となった。そして、ここにもまた矛盾が存在していた。ミュンヘン会談は、主としてチェンバレンによる、平和維持のための超人的な努力の結果だった。しかし同時に、多くの人が戦争回避の可能性を感じた最後の機会であった。ミュンヘン会談以降はすべてが加速し、戦争へと転がり落ちる道はますます急勾配に、一直線になっていく。

ヨーロッパの小国、特に中欧や東欧の脆弱な諸国にとって、ミュンヘン会談は大惨事となった。

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