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『人類の歴史を変えた8つのできごとⅡ』

民主主義・報道機関・産業革命・原子爆弾編

戦争技術の進化と原爆投下(1945年)

投下された原爆

第二次世界大戦の終結直前。一九四五年八月六日、広島。同九日、長崎。

アメリカ軍の投下した原子力爆弾が炸裂し、街が一瞬にして廃墟と化しました。

広島では、同じ年の一二月までに約一四万人ともいわれる人命が失われ、その後も多くの人が重い火傷や放射線障害に苦しみます。都市は破壊しつくされ、生活基盤を失った多数の人々は、日々の暮らしをつづけることにも困難をきたすようになりました。長崎も同様です。この様子を見た世界は、驚愕します。たった一発の原爆がひとつの都市を壊滅させることができるなら、原爆をたくさん持った国は、それらを使うだけで敵国を簡単に滅ぼせるではないか、と。ここにおいて、戦争に対する人々の見方が大きく変わっていったのです。

アメリカやソ連といった超大国も、危機感を持ったことではいっしょです。

第二次世界大戦が終わり、資本主義陣営と社会主義陣営の対立が表面化するようになると、両者はお互いを敵視するようになり、軍備競争が始まりました。

その中では、原爆の製造や、原爆を相手国に落とすための爆撃機やミサイル、敵国の近海で息を潜め、必要があれば相手国に核ミサイルを発射する潜水艦、といった兵器の開発にも拍車がかかります。さらに、核分裂を利用した原爆だけでなく、核融合を利用した水素爆弾という、より破壊力の大きな新型爆弾も開発されました。

そして最盛期には、米ソとも数万発ずつという大量の核戦力を持つまでになっています。二〇〇九年の数字で見ても、アメリカは五一一三発の、ソ連の核兵力を引き継いだロシアは三九〇九発の核弾頭を保有しています。

それだけではありません。アメリカをはじめとする大国は、今も巨額の国家予算を注ぎ込み、新たな兵器の開発に余念がないのです。そこではつねに、発明されたばかりの科学技術が投入され、より強力で、より効果の高い兵器が次々に生み出されています。

人類は、自らを滅ぼし尽くせるほどの核兵器を保有するだけでは飽きたらず、休むことなく最新兵器の開発をつづけているのです。

先史時代の戦争

核兵器をめぐる問題点などについては、本章の終盤でふたたび説明します。そこにいたる777前に、まずは人類の歴史をさかのぼり、戦争手法の変遷などについて見ていきましょう。

人類と戦争とは、その歴史の黎明期からすでに不可分の関係にありました。

たとえば、スペインにあるモレリヤ・ラ・ビリャ遺跡と呼ばれる、約一万二〇〇〇年前のものとされる先史時代の遺跡からは、戦争の情景を描いたと見られる壁画が発見されています。そこには、弓矢を持った三四人の兵士たちの戦う様子が描かれています。

第四章で、紀元前二万年くらいの時点で弓矢が登場していたことを紹介しました(一一五ページ参照)。当初、この弓矢は、狩猟用に使われていましたが、しだいに人間に対しても向けられるようになっていったのです。

さらに、戦争の被害を物語る遺物も発見されています。

スウェーデン南部にあるスケートホルム遺跡という紀元前五五〇〇年頃の遺跡で見つかった人骨が、その例です。そこでは、発見された人骨のうち、約五分の一に大きな損傷が発見されています。さらに、見つかった人骨の多くが男性のもので、とくにその頭部や腕の左側に激しい損傷があることもわかりました。おそらく彼らは、戦いの最中に、敵が右手でつかんだ棍棒などでたたかれ、命を失ったのでしょう(「気候文明史」)。

人類は、弓矢以外の兵器も、かなり早い時点から開発をしています。

たとえばそのひとつが、「アトラトゥル」と呼ばれる道具です。これは、矢や槍の後ろの部分をひっかける鉤状の突起をつけた、長さ七、八〇センチメートル程度の棒にすぎません。しかし、これを使って矢(この場合のものは通常の矢の二倍ほどの長さがありました)や槍を投げると、発射速度が大幅に増すので、狩猟の際にはとても強力な武器になりました。

発見された中で最古のアトラトゥルは、動物の枝角を使った紀元前一万五五〇〇年前後のものですが、その何千年も前から使われていたと見られています。世界各地の遺跡から発見されているので、その有用性は高かったのでしょう。

このアトラトゥルは、人間同士の戦いでも使われています。たとえば、時代が下った一六世紀中米のアステカ帝国と南米のインカ帝国を攻撃したスペインの兵士たちが、アトラトルで投げた矢によって、甲冑もろとも串刺しにされたケースが報告されています。

紀元前一万年頃になると、「携帯用投石機」(投石ひも)も発明されます。

原理はとても単純で、長いひもの真ん中に石をくるむ部分があります。兵士はそこに石をくるみ、片手でひもの両端を持ちます。そして腕を振り回し、タイミングを見て、ひもの片方を離すのです。熟練者なら、この方法を使って、石を四〇〇メートル以上も飛ばせたといいます。弓矢同様、当初は獲物を倒すために使われた、と考えられていますが、その後、敵を倒すためにも用いられるようになりました。

ちなみに石は、とても大きな殺傷力を持っています。そのため、のちの時代になっても主要な武器のひとつとして活用されています。

たとえば日本の戦国時代の記録にも、兵士たちが、戦闘のはじめに大量の石つぶてを投げ、敵方に混乱を引き起こしていたことが書かれています。また歴史研究者の鈴木眞哉氏によれば、戦国時代の戦いにおける負傷者一五七八人について、その負傷の原因を調べたところ、弓や鉄砲、石つぶてなど、広い意味での「飛び道具」によるものが、全体の七二パーセント以上だったといいます。さらに鈴木氏は、石つぶてによる負傷者の方が、刀で負傷した人よりはるかに多かったこと、も述べています(『戦国15大合戦の真相』)。

戦国時代の戦争を描いた映画やテレビドラマでは、よく斬り合いの場面が登場します。しかし実際には、そうした戦い方をする場面は意外と少なかったのです。戦国時代の兵士たちにとっても、敵と相対して斬り合うような戦いには、やはりひるむものがあったのでしょう。

より大規模化する戦争

人類が、一か所に住み続ける「定住」を始めたのは、紀元前一万二〇〇〇年前後のことだとされています。その後、こうした集団の規模は拡大していきます。

それは戦争を通じてのこともあったでしょうし、経済的な利益を求めてということもあったでしょう。紀元前三五〇〇年前後には、メソポタミアのウルクに都市文明が誕生します。それを契機として、各地に都市国家が生まれていきました。この過程で、人類の集団間で、戦争という事態が引き起こされるようになったのです。

初期の戦争は、たいがい近隣の部族同士で散発的におこなわれていたものでした。多くの場合、その規模も数人から数十人程度のものです。しかし各地に都市国家が誕生すると、戦争の規模や性質も変わっていきます。王族や官僚、司祭といった階級の人間たちが生まれる一方で、戦争をするための「戦士階級」が誕生したからです。

そこから、戦争はより大規模なものとなり、その手法もしだいに、より巧妙でより効果的なものへと変わっていきます。

この過程で、自軍の被害をできるだけ少なくし、敵軍の被害をできるだけ大きくすることで、敵方の戦意をくじく方法も編み出されていきます。それが、戦争の大方針を決める「戦略」であり、各局面での戦い方を決定する「戦術」です。

そうした戦略・戦術は、古代の時点ですでにかなり進歩したものとなっていました。中国には、後漢末(西暦では二世紀末)以降の混乱期における戦いを描いた『三国志演義』という有名な物語があります。そこでは、張飛や関羽、趙雲といった猛将が縦横無尽の活躍をし、ときにひとりで大軍の中に切り込んで相手の大将を討ち取ったり、ときにひとりが橋のたもとに立ちはだかって敵の軍勢を追い返したり、といった様子が描かれています。

しかし実際には、こうしたことはあり得ません。

『三国志演義』は、のちの時代になって、街角でおもしろおかしく話を聞かせる「講談」のために書かれた物語です。そこにはかなりの誇張があります。

実際にはその当時においても、戦争における戦闘法はかなり確立され、ひとりの兵士にできることはかぎられていました。どんなに勇猛な武将がいたとしても、ひとりで突撃すれば、弓矢、投げ槍、石つぶてなどを当てられ、敵に近づく前に倒されてしまったはずです。

ここからは、そうした戦争の手法について見ていきます。

具体的には、ヨーロッパ地域などを中心に、古代以降、少しずつ変化していった戦闘の仕方や兵器、戦略・戦術などについて紹介していきましょう。

勝敗が決まる状況

近世以前、戦場での勝ち負けが決まる状況は、ある面で似た要素がありました。それは、戦いの最中に戦場のどこかで、一方の側の兵士たちが劣勢となり、彼らが恐怖心に駆られて逃げ始めると、それが勝敗を分けるきっかけになる、ということです。

戦場の中のある場所で、一方の側の兵士たちが逃げ始めたとしましょう。すると、その近くにいた味方の兵士たちは、いっしょに戦っていた仲間が逃げ出し、自分たちの側面が無防備になったことに恐怖を感じます。そこでついには、彼らも逃げ出すことになるのです。

新たな援軍が来たり、別の場所で相手側が劣勢となったために目前の敵兵が逃げ出したり、といったことが起きないかぎり、この恐怖心は伝染し、ついには一方の側の全軍が逃げ始めます。そのとき、少しでも速く逃げなければ、敵に殺されてしまいますから、逃げる方は必死です。こうして一部が崩れ出した側は、瞬く間に全軍が崩れていくのです。

一方、追う側にとっては、敵が逃げているときほど戦果を上げやすいときはありません。相手が自分に背を向けて逃げていれば、これを倒すのは簡単です。

そのため、火砲が多く使われていなかった近世以前の戦争では、一方が逃げて隊列が崩れたときに、多くの犠牲者が出ることが一般的でした。逆に言えば、お互いが正面から互角に戦っているときには、そこまでの犠牲者は出ないのです。

いにしえの戦略家たちも、このことをきちんと理解していて、相手の弱点を見つけてそこをつき、相手軍の隊列を崩れさせるべく、戦い方を考えることが通常でした。

歩兵同士の戦い

古代における戦争の主役は、なんといっても歩兵です。

そこでは、敵と斬り合う白兵戦を演じる「急襲部隊」と、弓矢や投げ槍などを使って敵を倒す「投擲兵器部隊」がいました。

そして紀元前三〇〇〇年頃の段階では、メソポタミアの都市国家において、急襲部隊の兵士たちが、「ファランクス」と呼ばれる密集隊形を取りながら戦っていたこと、もわかっています。

彼らは、槍や盾を持ち、会戦においては、隣の兵士と文字通り肘や肩が触れるくらいの距離を保ちながら進みました。このとき隊列は、左右に広がるだけでなく、前後に何層もの厚みを持っています。そして、前方の兵士たちが「盾の壁」をつくりながら、ときには走り、ときにはゆっくり歩きながら、敵軍の部隊とぶつかったのです。

彼らは、盾の壁のすき間から槍や剣を突き出し、相手を攻撃します。

その際、相手の頭蓋骨をたたき割るために、斧が使われることもありました。急襲部隊の兵士たちは、初期の頃は青銅製の、後には鉄製の兜をかぶり、頭部を保護していました。彼らが、最初から鎧を着ていたかどうかはわかっていません。しかし、紀元前二五〇〇年前後の遺跡からは、青銅製の鎧が見つかっていますから、おそらくこの時期になると、鎧を着用する兵士も多くなっていたと思われます。

一方、投擲兵器部隊のほうは、より身軽な装備です。決戦の際に相手に打撃を与えるだけでなく、事前の偵察任務などもこなしていた、とされています。

彼らの戦いは、たとえば次のようなものです。

広い平原で、A国、B国、両国の急襲部隊が、前後左右に広がるファランクスの隊形を取りながら、少しずつ進んでいきます。

両国の投擲兵器部隊は、後方から、敵の急襲部隊に向けて大量の弓矢を浴びせかけます。しかしどちらのファランクスも、盾で壁をつくり、飛んでくる矢を跳ね返します。ときには矢に当たって倒れる兵士もいますが、ほかの兵士たちはそれを乗り越え、前進していきます。そしてついに、両軍の急襲部隊がぶつかります。しかし最初は、相互が入り乱れて戦う乱戦にはなりません。ファランクスの最前列の兵士同士が、盾をぶつけ合い、押し合いながら、盾のすき間から槍などを繰り出し、相手の兵士を倒そうとするからです。二列目以降の兵士たちも、槍を伸ばして攻撃に加わります。

その中で、戦況が一挙に動く事態が生じました。

A国の部隊の激しい攻撃によって、B国のファランクスの一部が崩れたのです。

そこでは、抵抗するB国の兵士の頭部をA国の兵士が斧で殴りつけたり、逃げようとするB国兵をA国兵が剣で刺したり、といった光景があちこちで繰り広げられています。

勢いに乗ったA国の部隊は、B国のファランクスが崩れた地点から、B国部隊の中へと殺到します。そうなると、B国の兵士たちの間に恐怖が広がります。「この戦いは負けるだろう」「早く逃げないと自分だけ置いていかれる」。そう感じたB国部隊の兵士たちは、つぎつぎに逃げ始めたのです。味方が逃げ始めたB国部隊では、隊列が急速に崩れていきます。すべての兵士がわれ先にと逃げ出すようになるまでに、長い時間はかかりませんでした。

そこからは、A国の兵士による「掃討戦」が始まります。戦意を失ったB国の兵士たちは、逃げる途中でつぎつぎに倒され、生きて戦場を離れられた者はわずかでした。

こうしたファランクスを活用した歩兵戦は、三〇〇〇年以上もの間、陸上における戦争の主要形態でした。紀元前四世紀に活躍したマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢も、その後、ヨーロッパ主要部を支配したローマ帝国の軍隊も、その例に漏れません。

使う武器は少しずつ改良され、個々の戦場における戦術は徐々に変わっていきましたが、ファランクスを基本とする急襲部隊を陸上戦力の中心としたこと、では変わりませんでした。ローマ帝国の軍隊が強かった背景には、さまざまな要素がありますが、そのひとつに、兵士たちがファランクスの隊列を乱さないよう、厳しい訓練を重ねたことが挙げられます。どんなに強力な敵軍が攻めてきても、けっして逃げ出さない。どんなときでも盾の壁を保ち、そのすき間から、槍を突き出して相手を刺したり、剣で敵の足を切り払ったりしつづける。そして敵軍が、耐えきれなくなって崩れ出すまで、同じ攻撃を継続する。

ローマ軍は、それを可能にするための技能と精神力を養うべく、日頃から兵士たちに厳しい訓練を課していたのです。

馬を戦場で使おう、という動きも早くから始まります。

記録によれば、その最初の形態は、馬に乗るのではなく、「戦車」を引かせるというものでした。紀元前二五〇〇年前後のシュメールの遺跡からは、この戦車を描いた絵が見つかっています。

当時の戦車は、現在のものとは違い、前面に敵の攻撃から身を守るための板を張った四輪または二輪の簡易な車両です。初期の戦車は、ウマ科のロバなどに引かせていました。

しかし紀元前二〇〇〇年以降、現在のトルコに当たる地域に野生の馬が戻ってくると、その飼育と活用が始まります。そして、戦車の引き手として、より調教しやすい馬が重用されるようになったのです。この時期の戦車は、二名の兵士が立って乗ることが一般的で、最高時速一五~二〇キロメートルほどで走ることができました。

ただしその程度では、全速力で走る人間にも及ばす、初期の戦車は小回りもききませんで

した。このため、その威力は限定的だったと考えられています。

その後、戦車は何度も改良を加えられ、軽量化と機動性の向上がはかられます。

戦車は、紀元前二〇〇〇年前後~同一〇〇〇年頃の時点で、ヨーロッパから中近東、北アフリカ、中央アジア、中国にいたる広い地域で使われるようになりました。

紀元前一〇〇〇年くらいになると、戦車部隊にかわって、より機動性の高い騎兵部隊が活躍するようになります。そこでは兵士たちが、馬に乗ったまま弓矢を放ったりすることで、敵に損害を与えるようになったのです。

これを見ると、人類は、戦争において馬を、乗る対象としてではなく戦車の引き手として、より早く使ったことがわかります。

それは当時、乗馬しながらの戦いがむずかしかったこと、が大きな理由です。

この時期、木の枠を使った鞍や、足をかけの鎧はまだ発明されていません。

鞍が発明されるのは紀元前二世紀から同一世紀くらいのこと。

鎧が発明されたのは、さらにあとのことです。ヨーロッパで、鐙が広く使われるようになったのは、中世に入ってからだといわれています。

それまでの時期、人は、裸馬か布を置いただけの馬の背に飛び乗らなければなりませんでした。さらに落馬しないよう、乗っている間中、馬の胴体を自分の太ももでぎゅっと締めつけつづける必要もあります。

この時期、乗馬に使われていた馬は、現在のサラブレッドなどとは比較にならないほど小さなものでした。しかしそれでも、馬上で戦うのはなかなかむずかしいことだったのです。

攻城兵器の開発

ヨーロッパや中国の古い都市を訪れたことのある人は、都市のまわりに堅固な城壁が築かれていることに気づくかもしれません。

ヨーロッパや中近東、中国などでは、伝統的に都市の周囲を高く頑丈な壁で囲んできました。人々は、頻繁に襲ってくる外敵から身を守るため、都市そのものに、城や要塞としての機能を持たせたのです。日本の戦国時代の城が、多くの場合、比較的狭い範囲だけを城壁で囲んでいたのとは対照的です。

都市をめぐる戦争では、攻撃側と守備側の間で、激しい攻防戦が繰り広げられました。

その中では、「攻城兵器」と呼ばれる当時の最新型の兵器も使われています。たとえば、紀元前一二世紀から同七世紀まで中近東を支配したアッシリア人たちは、「攻域塔」や「破城槌」といった攻城兵器を使っていたことが知られています。

前者は、下に車輪がついた可動式の高いやぐらで、上から弓矢を射かけたり、城壁を乗り越えたりするのに使われました。

後者は獣皮などで周囲を被った木製の台車に、先端を強化した太く長い木の棒の一端を固定したもので、木の棒を上から斜め下に打ち下ろすようにして、敵の城壁を壊しました。

さらに、てこの原理と綱などの弾力を利用することで、大きな石を遠方まで飛ばす仕掛け方式の「投石機」も、さまざまな種類のものが開発されています。こうした攻城兵器の多くは、古代のギリシャ・ローマ時代、その後の中世でもひきつづき使われました。

攻城塔や破城槌などの攻城兵器の開発は、現在の兵器開発競争とも重なって見えます。

古代以降の攻城兵器は、当時の最新技術を駆使してつくられました。

それと同様に、現代でも各国は、膨大な軍事予算を注ぎ込み、新兵器の開発に取り組んでいます。たとえば、第四章でも触れたとおり、コンピュータやGPS、インターネットなどは、アメリカの軍事研究から生まれた技術です。

人間はいつの時代も、自分たちの最新テクノロジーを注ぎ込んで兵器の開発を進めたがる生き物なのかもしれません。
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